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アトミック・ガールズ!  作者: EDA
32th Bout ~Autumn of Change~
881/955

08 高い壁

 イヴォンヌ選手の圧力に耐えながら、瓜子はようよう立ち上がった。

 お次は、壁レスリングの開始である。すでにスタミナを著しく消耗している瓜子には、地獄の苦しみであった。


(でも、ここで妥協はできない。もしもこのまま、グラウンドに戻されたら……それこそ、試合が終わりかねないぞ)


 瓜子は視界がかすむのを自覚しながら、全力でイヴォンヌ選手の圧力にあらがった。

 イヴォンヌ選手の大きな頭が、瓜子の下顎をぐりぐりと圧迫してくる。その不快な痛みに耐えながら、瓜子は両足をぴったりとフェンスにつけて、テイクダウンの防御に勤しんだ。


 瓜子は両脇に腕を差された双差しの体勢で、フェンスに押しつけられている。イヴォンヌ選手の分厚い身体が邪魔で首から下の様子はまったくわからなかったが、膝蹴りを撃ち込む隙間などはありそうになかった。


「まずは、腕を差し返すんだわよ! 重心を落としながら、右腕を相手との間にねじこむんだわよ!」


 鞠山選手の言葉を信じて、瓜子は右腕を差し返そうとした。

 しかし、イヴォンヌ選手の身体はびくともしない。それに、重心を落とそうにも、イヴォンヌ選手の頭と両腕が邪魔をするのである。瓜子の背中は一秒ごとに、真っ直ぐのばされつつあった。


 ただし、イヴォンヌ選手もそれ以上の動きを見せようとはしない。

 足の甲を踏みつけたり、腿に膝蹴りを打ち込んだりという、嫌がらせの攻撃も皆無であるのだ。これは、イヴォンヌ選手がポジションキープに徹している証拠であった。


(……まあ、このまま時間が過ぎれば、イヴォンヌ選手に優勢ポイントが加点されるんだもんな)


 そうして勝ちに徹するのも、イヴォンヌ選手の揺るぎないスタイルである。イヴォンヌ選手が動かないために、瓜子もここから脱するすべが見つけられないのだった。


「二分経過! そのまま耐えれば、ブレイクだわよ!」


 鞠山選手のそんな声が響くと同時に、瓜子の左の内腿に衝撃が走り抜けた。突如として、イヴォンヌ選手が膝蹴りを打ち込んできたのだ。


(このままだとブレイクだから、その前に少しでも印象をよくしておこうっていう動きだな)


 イヴォンヌ選手の動きは、すべてポイントを奪うために計算し尽くされている。

 しかし、それを後から察しても、遅いのだ。それではみすみす、判定勝利を奪われるだけのことであった。


(でも、イヴォンヌ選手の軸はまったくぶれてない。あたしが下手にもがいても、脱出は不可能だろう。イヴォンヌ選手が次のアクションを見せるまで、スタミナを温存する。その前にブレイクがかけられたら、スタンドで仕切り直しだ)


 瓜子はそのように方針を固めたが、けっきょく一瞬も気を抜くことは許されない。瓜子が楽をしようとしたら、イヴォンヌ選手がテイクダウンを狙いに来るに決まっているのだ。今もなお、イヴォンヌ選手の両腕はじわじわと瓜子の上体をのばして、その隙をうかがっているのだった。


 そうして鞠山選手が二分半の経過を告げると同時に、「ブレイク!」という声がかけられる。

 イヴォンヌ選手は何事もなかったかのように身を離し、後ろ歩きでケージの中央に戻っていった。


 瓜子は全身が汗だくで、肩が上下してしまっている。

 いまだに一ラウンド目の半分しか終わっていないなどとは、信じ難いほどだ。瓜子の肉体は、酸素と水分と休息を渇望していた。


(……でもそれは、二分半後のお楽しみだ)


 レフェリーが「ファイト!」と試合再開の声をあげると同時に、瓜子は前進した。

 瓜子の肉体がどれだけ疲弊しようとも、最初の作戦に変わりはない。受け身になれば、いっそう苛烈に攻め込まれるだけであるのだ。今度こそ先手を取って、イヴォンヌ選手のペースを崩さなくてはならなかった。


(まずは、一発を当てる。あたしの攻撃の痛さを思い知らせるんだ)


 イヴォンヌ選手の分厚い身体が、ぐんぐんと目前に迫ってくる。

 それにつれて、周囲の光景が白く霞んでいった。


 イヴォンヌ選手の姿だけが、くっきりと鮮明になっていく。

 集中力の限界突破が近い証拠である。

 それを理解した瓜子は、意識的に深く呼吸をした。


(初回で体力を使い果たしたら、もっと不利になるだけだ。最終ラウンドに決着をつけるぐらいの覚悟でいくぞ)


 瓜子は最後の一歩で、アウトサイドに踏み込もうとした。

 しかし、それよりも早くイヴォンヌ選手が懐に飛び込んでくる。

 今回は、レバーブローを狙われていることが認識できた。やはり瓜子の集中力は、すでに限界近くまで研ぎ澄まされているのだ。


(これをまともにくらったら、試合が終わりかねない。防御しながら、反撃だ)


 瓜子はすでにパウンドでレバーにダメージをもらっており、それがスタミナの消耗を加速化しているのだ。万全の状態で振るわれるレバーブローをくらうなど、想像しただけで吐き気がしてしまった。


 瓜子は右腕で脇腹を守りつつ、左ジャブを射出する。

 しかしそれは、相手の右腕で防がれた。

 瓜子の右腕にも、重い衝撃が炸裂する。

 左ジャブとレバーブローでは、おたがいに防御してもダメージの差は歴然だ。その一撃で、瓜子のスタミナはまた少なからず削られてしまった。


(でも、初めてこっちの攻撃が届いたぞ。勝負は、ここから――)


 次の瞬間、瓜子は後方に跳びのいていた。

 理由は、その後に理解できた。イヴォンヌ選手が、そのまま瓜子に組みつこうとしていたのだ。


(頭より先に、身体が動いた。もう、あたしも瀬戸際なんだ)


 瓜子はさらに、深く呼吸を繰り返す。

 ユーリとエキシビションマッチに臨んだ際には、この状態で五分間を乗り切ることがかなったのだ。あの限界すれすれの集中を持続できれば、どこかに光明を見いだせるはずであった。


(とにかく、先に手を出す!)


 そんな風に考えながら、瓜子は手ではなく足を出した。ふくらはぎの下部を狙った、右のカーフキックだ。

 イヴォンヌ選手はひょいっと左足を持ち上げて、瓜子の蹴りに空を切らせる。カーフキックはヒットさせずに回避すると、一瞬で判断したのだろう。


 カーフキックをすかされた瓜子も、片足を上げて回避したイヴォンヌ選手も、おたがいに不十分な体勢だ。

 そこで先手を取るべく、瓜子は右ストレートを射出した。


 蹴り足が戻りきらない内の、不格好な攻撃である。

 しかしそれぐらい強引に仕掛けない限り、イヴォンヌ選手を出し抜くことはできそうになかった。


 イヴォンヌ選手は慌てず騒がず、首をねじって攻撃を回避する。

 やはり、素晴らしい動体視力だ。そしてその顔がまだにこやかな表情を保持していることも、瓜子の目にくっきりと映されていた。


(まだ終わらないぞ!)


 瓜子は蹴り足を前に下ろして、右腕を引きながら、左アッパーに繋げる。

 この攻撃なら、イヴォンヌ選手の組み技を牽制することもできるはずだ。


 その頃にはイヴォンヌ選手の左足もマットに戻されていたので、悠然と下がっていく。

 それを追いかけるべく、瓜子は左足を踏み出した。空手流の、スイッチだ。


 しかし、奥手となった右の攻撃は、きっと回避されるだろう。

 そうと察した瓜子は、アッパーを戻した左拳でジャブに繋いだ。

 これもまた、強引な仕掛けである。無茶な動きを強いられて、瓜子の左腕も悲鳴をあげていた。


 その甲斐あって、イヴォンヌ選手も意表を突かれたようである。頭を振ってかわすことはできず、右腕で顔面をガードした。

 しかし反対の左腕が、瓜子の足もとにのばされている。

 テイクダウンの仕掛け――あるいは、そのフェイントだ。この段階では、どちらとも判別はできなかった。


(どっちでもいい!)


 瓜子は、右膝を突き上げた。

 もしもフェイントであったならば、片足立ちの無防備な姿をさらすことになってしまうが――リスクも背負わずに、イヴォンヌ選手の牙城に迫ることはできなかった。


 果たして、瓜子の右膝は空を切る。

 やはりフェイントであったか、あるいは膝蹴りを察して動きを止めたのだ。イヴォンヌ選手の反応速度であれば、後者もありえた。


 しかし瓜子が無防備な体勢を見せれば、あらためてテイクダウンを仕掛けるかもしれない。

 それを見越して、瓜子はまた蹴り足を戻しきる前に次の攻撃を出した。

 今度の攻撃は、右の肘打ちだ。

 イヴォンヌ選手が接近すれば、それがカウンターとして炸裂するはずであった。


 だが――瓜子の攻撃は、また空を切った。

 イヴォンヌ選手は接近するどころか、後方に下がったのだ。それは瓜子が、もっとも可能性が低いと踏んでいた動きであった。


(まったく不利じゃないのに、インファイトを嫌がったのか? それとも、流れを変えたいのか?)


 瓜子の攻撃はことごとく不発に終わっているが、それでも手は出し続けている。序盤に比べれば、まだしも理想的な展開であったのだ。


 しかし、イヴォンヌ選手の本領は、相手の攻め手を潰して、自分のやりたいことを押し通すことである。

 そのために、攻め気の瓜子から距離を取ろうとしているのかもしれなかった。


(そうはさせないぞ。ここで一気にリズムをつかんで――)


 瓜子は、イヴォンヌ選手を追おうとした。

 その姿が、ふっと下方に沈み込む。そうして瓜子が息を呑むと同時に、イヴォンヌ選手の分厚い肩が腹に激突した。


 逃げると見せかけての、両足タックルだ。

 本当に――イヴォンヌ選手は、相手の嫌がる手を選ぶことに長けていた。


(……だからグヴェンドリン選手も、引退を考えるぐらい落ち込むことになっちゃったんだな)


 そんな想念をよぎらせながら、瓜子は両足を後方に跳ね上げた。

 瓜子もぎりぎり、反応できている。膝裏をつかまれる前に、バービーの動きで逃げたのだ。


 瓜子はそのままイヴォンヌ選手の背中にのしかかり、マットに押し潰そうと試みる。

 しかし、イヴォンヌ選手の広い背中からは力感がみなぎっていた。瓜子の重圧など簡単にはねのけそうな、力強さである。


(タックルの失敗も、想定済みか。それなら――)


 瓜子はイヴォンヌ選手の背中にのしかかりつつ、その太い首に左腕を巻こうとした。

 カウンターの、フロントチョークである。

 しかしイヴォンヌ選手であれば、みすみす掛かりはしないだろう。

 瓜子の想定通り、ぐっと力をたわめたイヴォンヌ選手は、前進の力を後退に切り替えた。


 瓜子はすぐさまイヴォンヌ選手の首を解放して、次なる攻撃のモーションに移る。

 この近い距離であれば、有効であるのは肘打ちだ。

 今はまだイヴォンヌ選手も顔を伏せているので、反応は一瞬遅れることだろう。その一瞬こそが、肝要であった。


 イヴォンヌ選手は下がりながら、上体を起こしていく。

 瓜子は前進しながら、右肘を繰り出した。


 その瞬間――白い光のようなものが走り抜ける。

 そしてそれは、瓜子の左拳からイヴォンヌ選手の下顎にまで続く軌跡であった。


 イヴォンヌ選手の黒い瞳は、真っ直ぐ瓜子の姿を見返している。

 そしてその両腕は、すでに頭部のガードを固めつつあった。瓜子が何らかの攻撃を仕掛けることは、想定していたのだ。


 瓜子の肘打ちは、その逞しい左腕にブロックされるだろう。

 しかし、下顎は空いている。肘打ちをブロックされると同時に左アッパーを繰り出せば、命中させることができるはずであった。


(やっと、イヴォンヌ選手を出し抜ける)


 瓜子はどこか安堵にも似た思いで、イヴォンヌ選手の左腕に右肘を叩きつけた。

 その接触面を支点にして、瓜子は左拳を振り上げる。


 瓜子の左アッパーは、イヴォンヌ選手の下顎を撃ち抜いた。

 だが――イヴォンヌ選手の身体は、小揺るぎもしない。

 イヴォンヌ選手はしっかりと下顎を引いて、左アッパーの痛撃に耐えていた。


(それでも、初めての有効打だ!)


 瓜子は間髪を入れず、右拳を振りかざした。

 しかし、目標たるイヴォンヌ選手の頭部が消え失せる。


 そして三たび、瓜子の腹に衝撃が走り抜け――両足タックルを仕掛けられた瓜子は、マットに押し倒されることに相成ったのだった。


 完全に虚を突かれた瓜子は、背中をべったりとマットにつけてしまう。

 イヴォンヌ選手は瓜子の上体にどっしりとのしかかり、右拳を振り上げた。


 瓜子がとっさに頭部を守ると、重い衝撃が右前腕に炸裂する。

 そして後は、パウンドの雨あられであった。


 まるで岩石の驟雨に耐えているような心地である。

 衝撃が腕ごしに頭を揺さぶって、思考がまとまらない。そして、時にはガードをすりぬけた拳がこめかみにまでヒットした。


(このままじゃ、負ける!)


 瓜子は猛烈な危機感にとらわれて、イヴォンヌ選手の分厚い胴体を抱きすくめた。

 すると、咽喉もとに太い前腕をねじこまれてくる。瓜子は地獄の苦しみであったが、今はそれに耐えるしか生き残るすべを見いだせなかった。


 そんな苦悶が、どれだけ続いたのか――ふいに、ブザーの音が鳴り響いた。

 大歓声の隙間から、レフェリーが「ブレイク!」と告げてくる。


 第一ラウンドが終了したのだ。

 精魂尽き果てた瓜子はイヴォンヌ選手の胴体を解放して、ぐったりとマットに横たわる。


 瓜子の試合が第二ラウンドまでもつれこんだのは、おそらく一昨年の大晦日、赤星弥生子との一戦以来であろう。

 しかし瓜子の肉体は、一ラウンドどころか十ラウンドを終えたぐらいに消耗し果てていた。


 そんな中、瓜子の腰にまたがっていたイヴォンヌ選手が悠然と身を起こす。

 イヴォンヌ選手も汗だくであったが、そのにこやかな表情に変わりはない。そして彼女はにこりと瓜子に笑いかけてから、跳ねるような足取りでコーナーに向かっていったのだった。

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