07 ガトリング・ガンとパーフェクト・マシーン
イヴォンヌ選手が入場したのちは、タイトルマッチにまつわる諸々の下準備が整えられることになった。
チャンピオンベルトの一時返還に、コミッショナーによるタイトルマッチ宣言、そして国歌の清聴だ。そういった段取りは、日本の興行とも大差はなかった。おそらくは、プロボクシングあたりから引き継がれてきた伝統であるのだ。
そうしてひさびさに耳にする国歌を堪能したならば、ついに選手紹介のアナウンスである。
瓜子のプロフィールが英語で紹介されても、やはりブーイングなどはあげられない。瓜子は客席とテレビカメラに向かって一礼して、軽く右腕をあげてみせた。
イヴォンヌ選手の順番になっても、歓声のほどに変化は見られない。やはり、選手個人よりも試合そのものに期待がかけられているような雰囲気だ。瓜子としては、満足のいく状況であった。
そうしてレフェリーに招かれて、ケージの中央に歩を進めると――肉の壁が、目の前に立ちはだかった。
瓜子が想定していた通り、イヴォンヌ選手のただでさえ大きな肉体がさらに膨張している。やはり彼女も、計量の後に大きくリカバリーしているのだ。
試合映像では見慣れた姿であるし、ブラジル大会では試合直前に顔をあわせている。ただあのときはウェアを纏っていたので、試合衣装のイヴォンヌ選手と真正面から相対するのは、これが初めての体験であった。
(やっぱり……すごい身体だよな)
イヴォンヌ選手の身長は百五十五センチで、瓜子とは三センチしか変わらない。そして前日までのウェイトは同一であるはずなのに、二階級上の選手と向かい合っているような心地であった。
昨日の計量でも感じた通り、起伏の少ない体型である。しぼった水分を取り戻して数キロばかりリカバリーしても、その印象に変わりはなかった。
首も胴体も腕も足も、真っ直ぐで太い。短めの丸太を寄せ集めたようなシルエットだ。それはやっぱり、宇留間千花の背丈を縮めたような印象をもたらした。
もしかしたら、イヴォンヌ選手も異国の血が入っているのだろうか。瓜子はキックの時代に何度か本場のムエタイ選手と接したことがあるし、タイの生まれの旧友もいるぐらいであるが、こんな体型をしたタイ人は他に見た覚えがなかった。
(まあ、日本人だって人それぞれなんだし、血筋なんて関係ないか。重要なのは、きっとこの独特の体型がとんでもないフィジカルを生み出すってことだ)
ぱんぱんに肉が張り詰めたイヴォンヌ選手の手足は、バンタム級のエイミー選手に負けないぐらい太い。そこからみなぎる力感も、バンタム級の選手に負けていなかった。
いっぽう、首から上は迫力の欠片もない。丸い顔に大きな目と、団子鼻に分厚い唇だ。うっすらと微笑むその顔は、愛嬌にあふれかえっていた。
おそらく精神的な部分は、ユーリやマリア選手に近いのだろう。きっと彼女は、純然と格闘技の試合を楽しんでいるのだ。格闘技を愛する瓜子に、それを忌避する理由はなかった。
やがて英語によるルール確認を終えたレフェリーが、グローブタッチをうながしてくる。
瓜子が両手の拳を差し出すと、イヴォンヌ選手はいっそうにこやかな面持ちで力強く拳を押し当ててきた。
その力感にいっそうの気合をかきたてられながら、瓜子はフェンス際に引き下がる。
すると、大歓声をかきわけるようにして、鞠山選手のよく通る声が聞こえてきた。
「最初っから、かっとばしていくんだわよ! 先手を取って、リズムをつかむんだわよ!」
本日も、鞠山選手が立松の代弁を担ってくれているのだろう。
瓜子はイヴォンヌ選手の姿を見据えたまま、右拳をあげて応じてみせた。
そうして大歓声と熱気が渦巻く中、試合開始のブザーが鳴らされる。
イヴォンヌ選手はすたすたと歩を進めると、ケージの中央で右腕をのばしてきた。彼女はいつも、この場面でもグローブタッチを求めてくるのだ。
瓜子はファイティングポーズを取りながら、右腕をのばして拳を触れさせる。
イヴォンヌ選手は満足そうにうなずき、ぴょんっと後方に跳びすさった。
そして――
次の瞬間、颶風のごとき右フックが瓜子に襲いかかってきた。
瓜子は総身に鳥肌をたてながら、なんとか左腕で頭部をガードする。
その左前腕に、バットで殴打されたような衝撃が走り抜けた。
イヴォンヌ選手はいったん間合いの外に出たはずであるのに、一瞬で瓜子の懐に飛び込んできたのだ。
瓜子がまだその驚きから脱せない内に、さらなる魔手が迫ってきた。
次の攻撃は、両足タックルである。
瓜子はバックステップを踏みながら、両腕でさらにガードを固めた。
今度は右前腕に、同じだけの衝撃が走り抜ける。今のは両足タックルをフェイントにした、左フックであったのだ。
瓜子は何とか体勢を整えるべく、アウトサイドに回っていく。
しかし、イヴォンヌ選手との距離および角度に変化は生じない。あちらも同じだけのスピードで、瓜子を追っているのだ。
ということは、まだ拳の届く間合いである。
自分から、積極的に攻め込むべし――そんな基本戦略のもとに、瓜子は左ジャブを繰り出した。
しかし、イヴォンヌ選手の丸っこい顔は横合いに逃げている。
そして、瓜子の左足に思わぬ圧力がかけられた。イヴォンヌ選手が身をひねりながら、足払い気味のローキックを繰り出してきたのだ。
(……まずい!)
一瞬の判断で、瓜子は右足でマットを蹴った。
左足を浮かされた状態で跳躍して、右膝蹴りを射出する。こんな序盤ではなかなかありえない、苦しまぎれの反撃であった。
しかし、強引な仕掛けであったのが功を奏したのか、イヴォンヌ選手の裏をかけた様子である。イヴォンヌ選手は潔く引き下がって、膝蹴りの射程圏外に逃げていた。
マットに着地した瓜子も後ずさり、ようやく息をつく。
会場は、もう大熱狂だ。試合開始の早々に、瓜子は死力を振り絞った心地であった。
(でもたぶん、イヴォンヌ選手は何も特別なことはしていない。これが、イヴォンヌ選手の平常のペースなんだ)
いきなりの右フックに、両足タックルをフェイントにした左フック、逃げる相手を追いかけつつ、左ジャブに対してカウンターのローキック――どれも決して、奇抜な行動ではない。ただその素早さと精密さが段違いであるだけであった。
(イヴォンヌ選手はグヴェンドリン選手よりもフィジカルに優れていて、あの男子選手よりも小回りがきく。それに、一瞬の判断も早い、だったっけ)
それらの言葉が、最初の数秒ですべて実感できた。今の動きが、イヴォンヌ選手の平常運転であったのだ。
(作戦通り、自分から仕掛ける。でも……目がなれるのに、時間が必要だろうな)
瓜子はめいっぱい集中して、足を踏み出そうとした。
その瞬間、激烈な衝撃が左上腕に走り抜ける。イヴォンヌ選手のほうが先に前進して、右ミドルを繰り出してきたのだ。
ムエタイあがりであるイヴォンヌ選手は、蹴りも強烈である。
短い丸太を思わせる右足が、瓜子の腕に尋常ならざる衝撃をもたらした。
(こんな蹴りを何発ももらってたら、腕が上がらなくなる。とにかく、先に攻撃を――)
瓜子はそのように考えたが、マシンガンのようなジャブの連打を繰り出されて後退を余儀なくされた。
イヴォンヌ選手は、ぐいぐいと前進してくる。そしてその大きな目が、ちらちらと瓜子の足もとをうかがっていた。
(くそ、組み技のプレッシャーまで掛けられてる。でも、たとえテイクダウンを取られても、こっちから攻撃を――)
そのとき、イヴォンヌ選手の頭部がくんっと下がった。
反射的に、瓜子は右の膝蹴りを射出する。
しかしそれが命中する前に、また右前腕に衝撃が走った。両足タックルをフェイントにした、左フックである。
そして、瓜子の腹にも衝撃が炸裂した。
左拳に続いて、イヴォンヌ選手の本体も突進してきたのだ。瓜子の腹にぶつかったのは彼女の右肩であり、それを認識した瞬間には内側から左足を刈られていた。
まだ膝蹴りを戻すさなかであった瓜子は、まんまと尻もちをつかされてしまう。
瓜子はすぐさま立ち上がろうとしたが、肉の壁がそれを阻んできた。
イヴォンヌ選手の分厚い胴体が、瓜子の上半身にのしかかってくる。
そしていつしか、左膝を抱え込まれていた。瓜子を立ち上がらせまいとする、的確な行動だ。
瓜子は全力でイヴォンヌ選手の重圧にあらがいつつ、両手をマットについて、なんとか後方にずっていった。
しかし、身体があまりにも重い。普通は相手の押す力も利用できるところであるが、イヴォンヌ選手は正確に重圧を真下に向けているのだろう。瓜子が移動するには、文字通りイヴォンヌ選手の重量をも背負わなくてはならなかった。
(それでも、とにかく立たないと――)
そのように考えた瓜子の思考が、右脇腹への痛撃で弾け散る。
イヴォンヌ選手は瓜子の上体にのしかかり、右腕で左膝を抱え込みながら、左の拳をレバーにぶつけてきたのだ。このように不自由な体勢でどうしてこれほど重い攻撃を出せるのかと、瓜子は歯噛みしたい気分であった。
(でも、ガードしていたら動けなくなる。今は、立つことを最優先にするんだ)
瓜子は両手を支えにして、なんとか後方にずっていく。
その間に、同じ痛撃が二度三度とレバーに叩き込まれた。この後のスタミナにも影響が出かねない、重い攻撃である。
しかし――やっぱりひとつひとつの行動は、決して奇抜ではないのだ。
きわめて王道の、MMAらしい攻め手である。しかし、たとえその対処法を学んでいても、スピードと精度でまさるイヴォンヌ選手の攻撃をしのぐのは並大抵の話ではなかった。
(本当に、なんて選手なんだろう)
レバーのダメージとイヴォンヌ選手の重量に耐えながら、瓜子はそんな思考をよぎらせた。
ムエタイ選手であった時代、イヴォンヌ選手はそれほど際立った存在ではなかったのだ。彼女はもともと《ビギニング》のムエタイ部門の所属であったので、そちらの試合模様もすべてアーカイブで視聴することがかなったのだった。
いちおうは、その時代からトップファイターであったのだろう。ただし試合は勝ったり負けたりで、そちらではレッカー選手にも敗北を喫していた。
イヴォンヌ選手は頑丈であるために、ダウンを取られることはなかった。負けた試合は、すべて判定負けだ。イヴォンヌ選手は決して背のあるほうではなかったので、いつもリーチ差に悩まされているようであった。
それからイヴォンヌ選手は、MMA部門に転向して――突如として、開眼した。相手の攻撃をまったく寄せつけず、自分のやりたいことだけを遂行して、判定勝利の山を築いていったのである。ムエタイのルールではまったくかなわなかったレッカー選手からも面白いぐらいにテイクダウンを奪いまくって、最初から最後まで優勢に試合を進めていた。
簡単に言えば、イヴォンヌ選手はMMAに向いていたのだろう。
では、何がそんなに向いていたかというと――おそらく、ルール上の攻め手の多さである。誰よりも敏捷に動くことのできるイヴォンヌ選手は、攻め手の種類が増えたことでそのフィジカルを十全に活用することがかなったようであるのだ。
打撃技の攻防だけでは、イヴォンヌ選手の攻め手も封じられることが多かった。遠い間合いではリーチ差で不利になってしまうし、敏捷性を活かして接近しても、クリンチされたら仕切り直しであるのだ。また、体積の大きいボクシンググローブは防御にも適しているため、彼女がどれだけ豪腕を振るっても致命的なダメージを与えることは難しかった。
それがMMAに転向して、組み技が解禁となり、グローブも体積の小さなオープンフィンガーグローブに変更されると、とたんに彼女の強みが爆発した。
彼女の打撃技はムエタイの時代よりも危険度が増したし、それをフェイントにして組み技を狙うという選択肢も増えたのだ。MMAに転向した彼女は、まさしく水を得た魚であった。
また、彼女のずんぐりとした体型は、どう見てもストライカーではなくレスラーおよびグラップラーめいている。きっと彼女は生まれながらにして、組み技と寝技の適性を持っていたのだ。タイの出身であるためにムエタイからファイター人生を開始していたが、柔道や柔術やレスリングのほうがより迅速に才能を開花できたのではないかと察せれた。
それに、あとは――おそらく、頭の回転力も関わっているのだろう。
彼女はとにかく、一瞬の判断が早い。それはルールの自由度が高まれば高まるほど、本領を発揮できるのではないかと思われた。
そうして、イヴォンヌ・デラクルスという希代のMMAファイターが完成されたのである。
彼女の異名は、『パーフェクト・マシーン』だ。すべての所作があまりに的確であるため、そんな異名が冠されたわけであった。
その名に恥じない力量を、瓜子はいま満身で味わわされている。
そうして汗だくになりながら、ようよう背後のフェンスまで辿り着くと、あらためてイヴォンヌ選手が瓜子の上体にのしかかってきた。
今まで真下に向けられていた重量が、今度は真横に向けられている。これまではマットに抑え込むベクトル、今度はフェンスに押し込むベクトルだ。瓜子はこのとてつもない力を押し返しながら、なんとか立ち上がらなければならないわけであった。
「一分半経過だわよ! 勝負はここからだわよ!」
大歓声の隙間から、そんな声が聞こえてくる。
まだ試合開始から、一分半しか経っていなかったのだ。瓜子はすでに、十五分間のフルラウンドをやりとげたかのようにスタミナを消耗してしまっていた。




