06 熱戦
瓜子たちが控え室に戻ると、すでに第一試合の入場が始められていた。
第一試合は、エイミー選手とロレッタ選手の一戦である。瓜子もウォームアップの締めくくりであるのできっちり見届けることはできなかったが、それでも完全に放置することはできなかった。
ロレッタ選手もまた、かつて『アクセル・ロード』に抜擢されたトップファイターのひとりである。
北米の実業家の娘であり、ずいぶん前に家族ともどもシンガポールに移住して、《ビギニング》に参戦したらしい。親の財力をフルに活用して専属のコーチや栄養士などを雇用して、フリーの立場で活躍している。セレブファイターの異名を持つ変わり種であった。
当時からイーハン選手やエイミー選手に次ぐ実力と称されており、現在もその評価は変わっていないらしい。『アクセル・ロード』の終了後、《ビギニング》の舞台ではレベッカ選手とエイミー選手に敗れて、他の選手には全勝している。今回は一年と少しぶりになる、エイミー選手へのリベンジマッチであった。
(状況的には、エイミー選手が有利だと見なされてるんだろうな。まあ、エイミー選手は油断するような人じゃないし、きっと大丈夫だ)
ロレッタ選手は『アクセル・ロード』において、多賀崎選手に敗北を喫した。実績的にも体格的にもロレッタ選手が圧倒的に有利と見なされながら、多賀崎選手が初お披露目したアウトファイトのスタイルに翻弄されて、判定負けとなったのだ。
ただあれは、多賀崎選手のファイトスタイルを研究し尽くしていたがために、裏をかかれて調子を乱したように見受けられる。彼女はわざわざ日本から《アトミック・ガールズ》の試合映像を取り寄せて、対戦相手の研究に励んでいたのだ。『アクセル・ロード』に参戦したシンガポール陣営の中でそのような真似に及んだのは、おそらく彼女だけなのだろうと思われた。
それもまた、有り余る財力があってのことであるのだろう。
貧しい人間がハングリー精神を武器とするように、資産家の娘である彼女はその立場を武器にしているのだ。運命の不公平さを感じずにはいられないが、それでも人間は与えられた環境でベストを尽くすしかないはずであった。
『ただしロレッタも、マコトとの試合で反省したようです。事前に集めたデータばかりに頼らず、臨機応変に対応するべきだという意識を高めたようです』
いつだったか、エイミー選手はそんな風に語っていた。ロレッタ選手は、しっかり敗戦を糧にできる人間であったようなのだ。復帰後の戦績はイーハン選手と似たり寄ったりであったものの、本日のマッチメイクにも運営陣の期待感というものが垣間見えていた。
(イーハン選手は格下のランズ選手、ロレッタ選手は格上のエイミー選手と試合を組まれて、しかもこっちはメインカードだもんな。少なくとも、イーハン選手よりは期待されてるんだろう)
しかしまた、スチット氏は期待をかけた選手だけを優遇するような人柄ではない。いかなるマッチメイクであろうとも、勝利したほうが大きな糧を得られる構図になっているはずであった。
(エイミー選手はユーリさんに負けた試合以外は、絶好調と言ってもいい。だからこれは、上り調子にある選手同士の対戦なんだ。きっと勝ったほうが、タイトルマッチに大きく近づくっていうことなんだろうな)
そんな想念をよぎらせながら、瓜子はウォームアップに打ち込む。
そして時おりモニターに目をやると、いつでも力強い攻防が繰り広げられていた。
エイミー選手もロレッタ選手もクセのないオールラウンダーで、ボクシング&レスリングを基本にしている。ロレッタ選手が雇っている専属コーチもけっきょく北米の人間が多いようなので、王道のスタイルが完成されているのだ。
(それならジークンドーとか古式ムエタイとかマニアックなコーチを招いたほうが、犬飼さんみたいに独自の強さを身につけられそうだけど……まずは基本を押さえたいって考えるのが普通なのかな)
しかし、MMAという競技はルールの幅が広いため、基本を押さえるだけでひと苦労である。そして、ボクシングもレスリングも一朝一夕で習得できるようなものではないため、けっきょく王道のスタイルで手一杯になってしまうのだろうか。
何にせよ、エイミー選手もロレッタ選手も持てる力を振り絞って、激闘を繰り広げているようである。
立ち技ばかりでなく、時には寝技にも移行している。ポジションキープとパウンドを主体にした、そちらも王道のスタイルだ。ウォームアップの片手間に拝見しているだけでは、どちらが優勢とも知れなかった。
そうしてけっきょく、勝負は判定にゆだねられて――結果は2対1で、エイミー選手の勝利である。票が割れたということは、やはり大接戦であったのだ。
「それでも、勝ちは勝ちだからな。ユニオン勢は、これで全勝だ」
瓜子と同じていどに試合を盗み見ていた立松は、そんな風に言っていた。
「ユニオンは全勝で、ギガントは全敗。ついでに言うと、日本とブラジルの選手は今のところ全敗だ。こっちは全勝して、シンガポールのでかい壁に風穴をあけてやらないとな」
「押忍。その前に、ベアトゥリス選手に先を越されるかもしれないっすけどね」
第二試合は、ベアトゥリス選手が挑むアトム級のタイトルマッチである。
瓜子もウォームアップの大詰めであるため、いよいよ観戦には余力を向けられない。ただ、開会セレモニー直前の一幕で、ベアトゥリス選手を応援する気持ちが格段に跳ね上がっていた。
「ふふん。なかなか善戦しているようだわね」
瓜子のウォームアップを手伝いながら、鞠山選手はにんまりと笑っている。
ベアトゥリス選手と交わした会話については、すぐさま鞠山選手に報告したのだ。雅の盟友たる鞠山選手は、実に満足そうに目を細めていたものであった。
ベアトゥリス選手はルタ・リーブリをルーツとするヴァーモス・ジムの所属であるが、柔術に対抗するために寝技もしっかり鍛えている。というよりも、柔術出身の選手にも勝てるように、柔術を学んでいるのだ。それはかつて柔術に辛酸をなめさせられた赤星道場などとも同じ構図であった。
そして相手の王者も王道のスタイルであるため、がっぷり四つの激戦が繰り広げられているようである。
ただ、王者はボクシング&レスリング、ベアトゥリス選手はムエタイ&柔術という図式であろうか。エイミー選手とロレッタ選手の一戦よりは、異なるスタイルのぶつかりあいという気配が匂いたっていた。
そして、その結果は――3対0のフルマークで、ベアトゥリス選手の判定勝利である。
《ビギニング》のチャンピオンベルトを巻かれたベアトゥリス選手は、天に両腕を突き上げて咆哮をあげていた。
遠きブラジルから馳せ参じたベアトゥリス選手が、《ビギニング》の王座を手にしたのだ。
その雄々しい姿は、さして交流のない瓜子の胸をも揺さぶってやまなかった。
「まんまと先を越されちまったな。ま、こっちはこっちで全力を尽くすだけだ」
「押忍。自分もベアトゥリス選手に続いてみせます」
ウォームアップを終えた瓜子は、満ち足りた思いで周囲を見回す。
すると、ユーリのセコンド陣が取り囲んできた。
「相手もバケモノの類いだろーが、ま、いつもの調子で暴れりゃどうにかなんだろ」
「猪狩だったら、絶対に勝てるよ。相手がどんなにすばしっこくても、動揺しないようにな」
「イヴォンヌはいいファイターだけど、ウリコはもっといいファイターだよー。クルしくなったら、サキとヤヨイコのことをオモいダしてねー」
「なんだよ、そりゃ」と、サキは珍しくジョンの尻を蹴っ飛ばす。
瓜子としては、ひとつの疑念を呈したいところであった。
「サキさんと弥生子さんは、自分にとって特別な対戦相手でしたけど……そこにメイさんは入らないんすか?」
「うん。メイは、これからだねー。……たぶん、ツギにメイとタイセンするときには、サキとヤヨイコとイヴォンヌのことをオモいダすんじゃないかなー」
なんだか、よくわからない話である。
しかし、わからないなりに、瓜子は納得した。メイも特別なひとりであるのなら異論はないし――イヴォンヌ選手もそこに含まれるとあっては、いっそうの気合がみなぎってやまなかった。
(ジョン先生の目から見ても、イヴォンヌ選手はそれだけの相手なんだ。サキさんや弥生子さんに匹敵するような強敵だなんて……震えが止まらないな)
そんな想念を楽しみながら、瓜子はユーリに向きなおる。
ユーリは天使のように微笑みながら、瓜子に右拳を差し出してきた。
「ユーリはいつも通り、うり坊ちゃんの勝利を祈って見守っているのです」
「押忍。死ぬ気で頑張ります」
瓜子も多くは語らず、おたがいにグローブをはめた拳を押し当てた。
すべての挨拶を終えて、いざ出陣である。
スタッフの案内で、明るい通路を踏み越えていく。後に続くのは、立松と鞠山選手と蝉川日和だ。そうして薄暗い入場口に到着したならば、今度はセコンド陣が瓜子を取り囲んできた。
「今さら言うことはない。これまで積み上げてきたものを全部ぶつければ、絶対に勝てるぞ」
「勝負に絶対はないだわけど、わたいが賭けに参加できるならあんたにベットするだわよ」
「あ、あたしは猪狩さんが勝つって信じてます! あんなつまんない相手に、猪狩さんは負けないッスよ!」
三者三様の、ありがたい激励である。
瓜子は満たされた思いで、「押忍」と一礼した。
「それでは、入場です」
スタッフが、扉を引き開ける。
くぐもって聞こえていた大歓声がクリアーになり、その狭間からうっすらと刺激的な演奏の音色が聴こえてくる。『ワンド・ペイジ』のメンバーも日本で見守ってくれているだろうかと考えると、瓜子の胸はいっそう熱いもので満たされた。
そうして山寺博人のしゃがれた歌声が響きわたったならば、花道へと足を踏み出す。
とたんに、開会セレモニーをも上回る熱気と大歓声が叩きつけられてきた。
先の試合ではベアトゥリス選手が勝利したのだから、次こそは《ビギニング》の王者に勝ってほしいと考える人間も少なくないことだろう。
だけどやっぱりブーイングの声などは聞こえてこないし、客席はひたすら熱狂している。彼らは試合の結果よりも、試合の内容に期待をかけているのかもしれなかった。
(相手のリズムを崩せずに、へろへろの状態で時間切れの判定負け……そんな結末だけは、絶対に回避してみせるさ)
瓜子は決して臆することなく、花道を踏み越えた。
ケージの手前まで到着したならば、新作のウェアを脱いで蝉川日和に手渡す。そして立松の手からマウスピースを受け取り、ボディチェック係の前に立った。
肉体も精神も、コンディションは万全である。
ここが異国であるという感覚も薄い。そして、ケージの舞台に上がってしまえば、国など何の関係もなかった。
ボディチェックを完了させて、顔にワセリンを塗られた瓜子は、一段ずつゆっくりとステップをのぼっていく。
スポットに照らされた八角形のマットに、黒いコーティングが施されたフェンス、神妙な面持ちでたたずむレフェリーとリングアナウンサー、テレビカメラを抱えた撮影クルーたち――いつも通りの光景が、瓜子の心に昂揚と沈静を同時にもたらした。
大歓声に包まれながら、瓜子は軽く拳を走らせる。
そんな中、イヴォンヌ選手の名前もコールされて、さらなる歓声がわきたった。
イヴォンヌ選手は、小走りで花道を進んでくる。
その丸い顔に浮かべられているのは、屈託のない笑みだ。
この試合が終わった後には、おたがいどんな顔で向かい合うことになるのだろう。
そんな想像にふけりながら、瓜子は試合が開始する瞬間を待ち受けることになった。