05 開会セレモニー
数十分に及ぶインターバルが明けた後、プレスマン陣営は開会セレモニーに臨むべく入場口まで移動した。
付き添いのセコンドはひとりずつで、当然のように立松とジョンである。そして、出向いた先にはエイミー選手とユニオンMMAのトレーナーが待ちかまえていた。
このような場で翻訳アプリを活用するのは気が引けるため、ジョンがトレーナーに応対する。エイミー選手も瓜子たちに目礼をした後は、厳しい表情で口をつぐんでいた。
メインカードに出場するのは五名で、残る二名はブラジルの選手である。その片方はアトム級のベアトゥリス選手、もう片方はフライ級の選手であった。
この両名は、どちらもブラジル大会で《ビギニング》の王者を下した。その結果を評価されて、すぐさまタイトルマッチに抜擢されたのだ。ここでも勝利をあげれば自動的に《ビギニング》と正式契約に至り、ブラジルの興行とは比較にならないファイトマネーを手にすることがかなうのだった。
(ファイトマネーがすべてじゃないけど、経済的にゆとりができれば稽古に集中できるもんな。誰だって、上を目指すのが当然の話なんだろう)
瓜子にあらためてそんな感慨をもたらしたのは、ベアトゥリス選手たちの燃えるような気迫である。彼女たちは前日計量でも凄まじい気迫をあらわにしていたが、本日はそれを上回る迫力であったのだ。
ブラジルの興行については詳細を存じあげないが、ブラジルの選手には貧困層が多く、そのハングリー精神が強さの要因になっているものと聞き及ぶ。それは瓜子が知る、タイのムエタイ選手にもあてはまる図式であった。
(けっきょくベアトゥリス選手には挨拶もできてないけど……まあ、もともと面識があるわけじゃないし、完全に敵対関係だったんだから、しかたないよな)
ベアトゥリス選手は《カノン A.G》における、チーム・フレアのスターティングメンバーであったのだ。秋代拓海、一色ルイ、オルガ選手――そしてこのベアトゥリス選手が、《アトミック・ガールズ》の既存の選手を叩き潰すために準備された最初の四人であったのだった。
アトム級である彼女に与えられた役割は、《カノン A.G》への協力を拒んでバイソンMMAウエストから離脱した雅の粛清である。
しかし雅は、見事に返り討ちにしてみせた。それでベアトゥリス選手は早々に姿を消して、それ以降は名前を聞く機会もなかったのだった。
きっと彼女は《カノン A.G》の運営陣に見切りをつけられて、すぐさまブラジルに送り返されることになったのだろう。
そして、《カノン A.G》に一部のトレーナー陣を引き抜かれて弱体化を余儀なくされたヴァーモス・ジムに舞い戻り、そこで稽古に明け暮れて――今日のチャンスをつかむに至ったのだ。
ベアトゥリス選手はブラジル大会において《ビギニング》の王者に花を持たせるための、格下の選手であった。しかし、その身の力で運営陣の思惑を打ち破り、タイトルマッチの挑戦権を手にしたのだ。この結果から鑑みるに、スチット氏も《ビギニング》の王者全員が簡単に勝てるとは考えていなかったのだろうと推察することができた。
(王者に楽をさせようなんて、あのスチットさんの信念には反することだろうからな。格下の相手をぶつけるのだって、きっとひとつの試練だったんだろう)
相手が格下ならばいっそう負けられないというプレッシャーが生まれるものであるし、そうでなくともブラジル大会はアウェイであったのだ。その環境で格下の選手に勝利をあげるというのが、スチット氏の準備した試練であったのだろう。それを乗り越えたのがイヴォンヌ選手とレベッカ選手であり、失敗したのがアトム級とフライ級の王者であったわけであった。
今回はホームのシンガポール大会で、しかもタイトルマッチだ。
王者の側にはいっそう負けられないというプレッシャーが、挑戦者の側にはアウェイという悪条件が課せられる。遠きブラジルから参じたベアトゥリス選手たちは、かつて王者たちが味わわされた丸一日のフライトと半日の時差という重荷を背負わされたのだった。
(これで勝ったほうが、真の王者に相応しいっていう寸法か。やっぱりスチットさんは、公平で容赦がないな)
瓜子がひとりそんな想念にふけっていると、立松が「おい」とおっかない声で呼びかけてきた。
何事かと思って顔を上げると、気迫のたちのぼる厳つい顔が眼前に迫っている。いつの間にか、ベアトゥリス選手が瓜子の目の前に立ちはだかっていたのだ。
ベアトゥリス選手はアトム級だが、背丈は瓜子とほとんど変わらず、体格などはひと回りも上回っている。きっと七、八キロはリカバリーしているのだろう。四角い顔でまぶたのはれぼったい、狛犬のような面相であった。
「……ワタシ、キラわれている。しかし、ハナしたい」
たどたどしい日本語で、ベアトゥリス選手はそう言った。
「……ワタシ、ニホンでアクヤク、シっている。でも、《カノン A.G》、ジャパニーズマフィア、カンケイ、シらなかった。……それだけ、シンじてほしい」
「はい。オルガ選手も、《カノン A.G》の運営陣については何も知らないようでしたよ。選手の中で運営陣と親しかったのは、ごく一部の人間だけだったんでしょうね」
どこまで日本語が通じるのだろうと危ぶみながら、瓜子はそのように答えた。
「それにオルガ選手は《カノン A.G》の運営陣に騙されて、ユーリさんを恨むことになったんです。運営陣は、海外の選手を道具のように使っていたんだと思います」
「……そう。ワタシ、ドウグだった。ニホンのカクトウギカイ、シゲキ、アタえるため、キョウリョク、コわれた。アクヤク、イヤだったけど、ヤクにタてる、ウレしかった」
表情はおっかないし試合に向ける気迫の炎にも変わりはないが、言葉の内容はつつましい。それで、立松も口を開くことになった。
「あの秋代ってのは、もともとヴァーモスの世話になってたんだろ? その期間で、性悪な中身は察せられなかったのかい?」
「ワタシ、タクミ・アキシロ、コウリュウ、なかった。カノジョ、ダンセイしかキョウミない。だから、ワタシ、キョウミない。おたがい、キョウミなかった」
「そんな時代から、色狂いだったのかよ。まったく、始末に負えねえな」
「……《カノン A.G》、マチがっていた。でも、《アトミック・ガールズ》、ルール、アラタめられた。そして、ウリコ・イカリ、ユーリ・モモゾノ、カツヤクした。それだけ、ウレしい、オモっている」
そんな風に言ってから、ベアトゥリス選手はふっと目を伏せた。
「あと……ミヤビ、インタイ、ザンネン。カノジョ、もうイチド、タタカいたかった」
思わぬ言葉を聞かされて、瓜子は思わず口ごもってしまう。
その間に、ベアトゥリス選手は身をひるがえした。
「それだけ、ツタえたかった。……シツレイ」
「あ、ベアトゥリス選手、わざわざありがとうございます。あなたのことは恨んだりしていませんので、今日の試合も頑張ってください」
瓜子が慌てて呼びかけると、ベアトゥリス選手は背中を向けたまま横顔だけを見せた。
瓜子は精一杯の思いを込めて、笑いかけてみせる。
「あと、日本語もお上手なんですね。自分は英語ができないんで、助かりました」
「……ワタシ、エイゴ、デキない。ニホン、イける、ウレしくて、ベンキョウした」
ベアトゥリス選手は、どこか気まずそうな面持ちでそう言った。
「……アナタ、ゲキレイ、ありがとう。アナタたち、ショウリ、ネガっている」
そうしてベアトゥリス選手が引き返すと、年配のトレーナーがその逞しい肩を小突いてから、こちらに目礼をしてきた。
「……つくづく《カノン A.G》の運営陣ってのは、害虫みたいな野郎どもだな。数年ぶりに、腹が煮えてきたぜ」
「あはは。そんなことより、目の前の試合っすよ」
瓜子はむしろ清々しい心地であったので、笑顔で立松をなだめることができた。
《カノン A.G》の運営陣が最低最悪であったことは自明の理であったので、ベアトゥリス選手が無関係であったことが嬉しかったのだ。同じ立場であったメイやオルガ選手とはとっくに和解していたのだから、最後のわだかまりが解消されたような心地であった。
「……それにしても、こういうときに存在感を消すユーリさんのスキルは、さすがっすね」
「うみゅ。出るときは出て逃げるときは逃げる、ユーリなりのヒットアンドアウェイなのでぃす」
瓜子の背後に隠れていたユーリは、ふにゃんとした笑顔を返してくる。まあベアトゥリス選手とはいっさい交流もなかったのだから、ユーリが打って出る必然性も薄いはずであった。
「それでは、セレモニーを開始します」と、運営のスタッフが英語と日本語で告げてくる。ベアトゥリス選手は英語がわからないと言っていたが、トレーナーは鷹揚にうなずいていた。
かくして、メインマッチの開会セレモニーである。
まず花道に足を踏み出したのは、ワンマッチに出場するエイミー選手であった。
その次がアトム級のベアトゥリス選手、その次がストロー級の瓜子だ。本日は、軽い階級からタイトルマッチが行われる予定になっていた。
そうして瓜子が扉をくぐると、怒涛の歓声が降り注がれる。
王座に挑む外国人選手に対して、ブーイングをあげるお客はいないようだ。ブラジル大会を経験した後だと、いっそうアウェイという感覚がしなかった。
(まあ、歓声でもブーイングでも、同じぐらい気合は入るしな)
それにしても、一万名規模の歓声というのは、やはり凄まじい。三ヶ月おきの興行だと、なかなかこの勢いに慣れるものではなかった。
瓜子の後にはイヴォンヌ選手が登場して、さらなる歓声が巻き起こる。
イヴォンヌ選手もタイの生まれであるそうだが、もうシンガポールに移住して数年は経つのであろうし、何より《ビギニング》の絶対王者であるのだ。その人気のほどがうかがえる大歓声であった。
その次はフライ級の両選手が入場して、いよいよユーリの入場である。
その際には、これまで以上の歓声が吹き荒れた。シンガポールにおけるユーリの人気も、やはり健在であるようだ。
新しいウェアでご機嫌のユーリは、いっそう嬉しそうな笑顔で手を振っている。これからタイトルマッチに挑む人間とは思えないほどの、朗らかさだ。もちろん瓜子は、それを心強く思うばかりであった。
最後にレベッカ選手が登場すると、同じだけの歓声が持続される。
レベッカ選手も人気はあるのだろうし、何より本日の一戦に期待がかけられているのだろう。戦闘マシーンと称されるレベッカ選手と核弾頭じみたユーリの対戦とあっては、期待をかきたてられて然りであった。
(まあ、きっとあたしだって似たような扱いなんだろうけどな)
瓜子は集中力の限界突破ともいうべき領域に到達すると、反応速度が飛躍的に高まる。大怪獣タイムのように身体能力が向上するわけではないのだが、まるで相手の行動を先読みしているようなタイミングで動くことができるため、スピードそのものが上がったような錯覚を見る人間に与えるのだ。それでもユーリのような怪物の同類と称されるのは恐れ多い限りであったが、何にせよ瓜子も自分の持ち味をぶつけてイヴォンヌ選手の牙城を突破するしかなかった。
ケージには再びスチット氏が現れて、英語で何か語り始める。
必要な話があれば、誰かが後で通訳してくれるだろう。また、たとえ何が語られていようとも、瓜子のなすべきことに変わりはなかった。
前日計量の場で対面したことで、イヴォンヌ選手の強さはいっそうまざまざと感じられた。
もう間もなく、あの力の塊のごとき存在とケージの中で相対することになるのだ。大歓声と熱気に包まれながら、瓜子の心はいよいよ研ぎ澄まされていったのだった。




