09 対峙
そうして日々は、あっという間に過ぎ去って――瓜子たちは、ついに試合の前日を迎えることになった。
試合の前日に為すべきは、計量である。
《ビギニング》本国大会において、前日計量はとある撮影スタジオで行われる。計量の模様はビデオカメラで撮影されて、全世界にライブ配信されるのだ。そして、メインカードに出場する一部の選手のみ、別室でインタビューが行われる手はずになっていた。
その会場には、豪華なリムジンバスで送迎される。同乗するのは同じホテルに滞在している四名の日本人選手とセコンド陣、計十六名だ。明日もこの顔ぶれで、試合会場に運ばれるはずであった。
「計量の現場ってマスコミがオミットされてるから、なんか味気ない雰囲気だよねぇ」
道中でそのように語っていたのは、横嶋選手である。もともと社交的な人物であるが、今回はいっそう瓜子に対して能動的であるように感じられた。
「それでもって、《ビギニング》の試合はギャンブルの対象だからさぁ。なんか、競馬場のパドックで品定めされてるような気分になっちゃうよねぇ」
「ええまあ、そんな気分もなくはないっすね。ギャンブルって言ってもネット上でオッズを拝見したことしかありませんから、自分にお金が賭けられてるっていう実感も薄いんですけど」
「瓜子ちゃんは、今回もなかなかの人気だねぇ。……おっと、試合の当日にこんな話をするのはまずかったかなぁ?」
「いえ。試合の直前に控え室でオッズを拝見したこともありますよ」
「あはは。そういう部分は、うちよりユルいんだぁ? それじゃあ、遠慮なくしゃべっちゃうけど……絶対王者との対戦なのに、瓜子ちゃんもユーリさんもやや不利ってていどのオッズだったよぉ。きっと海外の人たちなんかは、華のある瓜子ちゃんたちの勝利を願ってるんだろうねぇ」
横嶋選手の軽妙な語り口調はいつも通りであるが、その顔は減量のために鋭く引き締まっており、しなやかな体躯からも研ぎ澄まされた気配がたちのぼっている。計量直前ならではの、得も言われぬ緊迫した空気であった。
そんな中、ユーリだけはのほほんとした顔をさらしている。ユーリは瓜子よりも大きくウェイトを絞っているのに、筋肉が筋肉に見えない特異体質であるため、あまり外見に変化が生じないのだ。その白い面も、平常通りの美しさであった。
そうして計量の会場に到着したならば、案内役の女性スタッフとセキュリティの男性スタッフに囲まれながら、控え室に導かれる。
しかしホテルで準備を済ませているために、控え室では為すべきこともない。いちおう備えつけの体重計でウェイトを確認してみたが、ホテルで計測した数値と何ら変わっていなかった。
「この後は、いよいよ豪勢なランチの解禁だねぇ。試合直前の、至福のひとときなのですぅ」
外見ばかりでなく、中身のほうも平常通りのユーリである。そして、緊張と無縁である瓜子も、それは同じことであった。
計量では衣服も自由であったので、瓜子もユーリもオレンジ色をしたプレスマン道場のTシャツとウェアを着用している。以前は《アトミック・ガールズ》の公式ウェアを着用していたりしたものであるが、《ビギニング》と専属契約したからには身をつつしむべきであろう。その代わりに、全世界にプレスマン道場の存在をアピールできれば幸いであった。
「お待たせしました。間もなくメインカードの計量が開始されますので、待機スペースにご案内いたします」
さして待たされることもなく、一行は待機スペースとやらに案内された。
そこは広々としたホールであり、計量の現場はパーティションで区分けされている。そして、計量を終えたプレリミナルカードの選手たちが衣服を着込んでいるさなかであった。
横嶋選手、巾木選手、グヴェンドリン選手、ランズ選手――この二週間をともにしてきた選手のおおよそは、プレリミナルカードの同じ青コーナー陣営に割り振られている。唯一の例外は、タイトルマッチとは関係なくメインカードに抜擢されたエイミー選手であった。
「みなさん、お疲れ様です。こっちは敵陣営も含めて、全員パスしましたよ」
と、ギガント鹿児島の山岡氏がにこやかな面持ちで告げてくる。その隣で、巾木選手はぶすっとした顔をさらしていた。
「控え室か車で時間を潰していますので、もし見当たらないようでしたらケータイのほうに連絡をお願いします。では、ご武運を」
帰りも同じ車であるし、その後には合同でランチをいただくのだ。そしてその場に招待されているグヴェンドリン選手やランズ選手も、頬の削げた鋭い顔で目礼をしてから待機スペースを後にした。
後に残されたのは、メインカードに出場する青コーナー陣営の五名だ。
瓜子とユーリ、ブラジルのベアトゥリス選手とフライ級の選手、そしてエイミー選手である。瓜子たちはそれぞれの階級でタイトルマッチ、エイミー選手は前座にあたるワンマッチであった。
しかし本来の前座はプレリミナルカードのほうであり、エイミー選手の試合もペイパービューでは有料の放送となる。エイミー選手もメインカードに抜擢されたのはひさびさであるとのことで、重厚な雰囲気ながらも普段以上の気迫をあらわにしていた。
(まあ、普段は男子選手の試合と混合なんだもんな。その中でメインカードの座を勝ち取るのは、大変なことなんだろう)
然して今回は、女子選手のみの興行となる。なおかつ内容は、全階級の四大タイトルマッチだ。事前情報によると、会場のチケットも立見席以外は完売であり、ブックメーカーと呼ばれる賭場の盛り上がりも上々であるとのことであった。
四大タイトルマッチと聞くと、瓜子の胸には懐かしさがこみあげてくる。
かつては《アトミック・ガールズ》においても、同じイベントが開催されていたのだ。
あの日も、瓜子たちは挑戦者たる青コーナー陣営であった。まあ、瓜子はひとり暫定王座決定戦であったが、同門のユーリが挑戦者であったため同じ陣営に割り振られたのだ。
その日にユーリが対戦したのはジジ選手であり、瓜子はメイである。
あとは若手の金井選手が雅のアトム級王座に挑み――無差別級では、ベリーニャ選手と来栖舞の対戦が実現したのだった。
(あのときは、こんなイベントを開いて大丈夫なのかって、ちょっとした騒ぎになってたよな)
それは、アトム級を除く階級で外国人選手が全勝してしまうのではないかという不安から起きた騒ぎであった。
ベリーニャ選手は世界級のトップファイターであった上に、来栖舞はこの試合の前から引退を囁かれるほどに故障を重ねていた。ユーリの相手は当時の絶対王者であるジジ選手であり、瓜子の相手は亜藤選手と山垣選手を秒殺したメイであったのだ。これで日本人選手に勝算はあるのかと、一部の人間が不安視していたわけであった。
(しかも、ベリーニャ選手は期間限定の参戦だったし、メイさんとジジ選手はベリーニャ選手を目標にしていたから、勝ち逃げされる可能性もあったんだ)
しかし、瓜子とユーリは日本人選手の看板を守ってみせた。メイもジジ選手も強敵であったが、なんとか打倒することがかなったのだ。
では、このたびの四大タイトルマッチはどのような結果に終わるのか。
瓜子とユーリは全力で勝利をつかみとろうという覚悟であるし、もちろんブラジルから参じた両名もそれは同じことだろう。しかもブラジル大会においては、こちらの両名が王者に勝利していたのだ。今回は、王者の側が雪辱を目指すリベンジマッチであったのだった。
小柄だが厳つい容姿をしたベアトゥリス選手は、誰よりも苛烈な気迫をたちのぼらせている。
フライ級の選手も、それに次ぐ迫力だ。《ビギニング》の王座獲得は正式契約の締結と同義であるので、彼女たちにとっては二重の意味で大一番であるのだった。
(でも、これで外国人選手が全勝しても、スチットさんが慌てることはないんだろうな)
瓜子たちは《ビギニング》と専属契約を結ぶ場で、スチット氏の真情を拝聴していた。これですべての王座が外国人選手に奪われたならば、シンガポールの選手と観客は誰もが奮起するだろう――と、スチット氏はそのように語っていたのだ。
あらゆる相手に優しくて、厳しい。それが立松の、スチット氏に対する評価である。スチット氏は誰を優遇するでもなく、まんべんなくチャンスと試練を与えているのだ。その度量の大きさは、瓜子などには計り知れないほどであった。
(スチットさんなら、安心して運営をおまかせすることができる。あたしたちは……恥ずかしくない試合を見せるだけだ)
瓜子がそんな思いを新たにしたとき、エイミー選手とセコンド陣がスタッフに呼ばれてパーティションの向こうに移動していった。
客もマスコミもいないので、きわめて事務的な進行である。まあ、瓜子には好ましく思える質実さであった。
パーティションの向こうからは英語しか聞こえないので、計量の結果は不明である。
しかし、パーティションの向こうから戻ってきたエイミー選手のトレーナーは、笑顔でサムズアップを見せた。無事に計量をパスできたようだ。
その次はアトム級のベアトゥリス選手で、その次がストロー級である瓜子の出番となる。
ユーリに笑顔を届けたのち、瓜子は立松だけを引き連れて計量の現場に乗り込んだ。
向かいの壁際に体重計が設置されており、背面の壁には《ビギニング》のロゴで埋め尽くされたパネルが張られている。
しかし少しでも華々しいのは、ビデオカメラに映されるその一面だけだ。あとは各関係者がパイプ椅子に座しているだけで、なんとも閑散としていた。
そのパイプ椅子のひとつに、代表のスチット氏も座している。
スチット氏と対面するのはずいぶんひさびさであるが、もちろんこんな場所でなれなれしく振る舞うことは許されない。瓜子は心を込めて一礼したのち、すみやかに体重計の前まで進み出た。
司会進行の人物が、ビデオカメラの枠外で何かをアナウンスしている。ところどころで、『ジャパン、トーキョー、シンジュク・プレスマン・ドージョー』や『アトミック・ガールズ』や『フィスト』といった言葉がさしはさまれた。
瓜子は王座を返上した身であるが、もちろん《アトミック・ガールズ》や《フィスト》の元王者として紹介されているのだろう。
そのアナウンスの終了とともに指示を出されて、瓜子はオレンジ色のTシャツとジャージのボトム、そしてシューズを脱ぎ捨てた。
その下に着用しているのは、古い時代の試合衣装である。
ブラックとシルバーのカラーリングで、胸には道場のロゴマークがプリントされている。MMAのプロデビューから《カノン A.G》の騒乱が起きる直前まで使用していた、ハーフトップとキックトランクスだ。新調した試合衣装は試合の当日にお披露目するべしというユーリの言いつけに従って、こちらの試合衣装を持参した次第であった。
もしも見込み違いで数グラムでもウェイトを超過してしまった場合は、この試合衣装を脱ぐことになる。その下には、人目にさらしても支障のないスポーティーなアンダーウェアを着込んでいた。
だが、体重計のデジタル表示板には、リミットの枠内となる数値が示されていた。
司会進行の人物がにこやかな面持ちで「OK!」と言ってくれたので、瓜子はビデオカメラに向かって一礼してみせた。
そして瓜子はその格好のまま、画角の外で待機するように申しつけられる。
この後は王者たるイヴォンヌ選手の計量も見届けて、そののちに向かい合う姿をカメラに収められるのである。
瓜子と立松が静かに待ち受けていると、別のパーティションの裏側からイヴォンヌ選手が現れた。
実物と対面するのはブラジル大会ぶりだが、瓜子はこの三ヶ月ほどで何度となく彼女の試合映像を拝見している。今となっては、誰よりも見慣れた姿であった。
計量直前でもずんぐりとした体型であり、背丈は瓜子よりも三センチだけ大きい百五十五センチだ。
肌は褐色で、アーモンド型の大きな目をしており、鼻は丸っこい。黒い髪は無造作なショートヘアーで、顔立ちも表情も愛嬌があふれかえっていた。
司会進行の人物がプロフィールを紹介している間も、にこやかな表情でビデオカメラに手などを振っている。
しかし、いざ計量の場面となって、彼女がTシャツに手をかけたとき――瓜子は、息を呑むことになった。
彼女が身につけていたのは、黒いハーフトップとショートスパッツだ。
そして、その下の肉体は――ずんぐりとした体型でありながら、筋肉の塊であった。
香田選手のように、筋骨隆々という感じではない。むしろ凹凸は少ない感じで、全身にまんべんなく肉が張っていた。
何か、独特の体型である。
腕も足も胴体も、真っ直ぐな丸太のような形状であるのに、しっかり筋肉の線が浮いている。どれだけ隆起に乏しくても、やはり筋肉の塊であるのだ。灰原選手なども腕だけは凹凸がなくて真っ直ぐの形状であったが、イヴォンヌ選手はそれが全身に及んでいるようであった。
その独特のラインを描く肉体から、圧倒的なまでの力感があふれかえっている。
重要なのは、その点である。瓜子はかつて同じ階級の選手から、これほどの力感を感じ取った経験はなかった。
(グヴェンドリン選手だってあたしよりひと回り大きくて、平常体重は多賀崎選手と変わらないぐらいなのに……それよりも、力強い。背は低いけど、エイミー選手やランズ選手に匹敵するぐらいだ)
瓜子が息を詰める中、「OK!」という声が響きわたる。
計量をパスしたイヴォンヌ選手はにこやかな笑顔のまま、カメラに向かってマッスルポージングを取った。
そうして両腕を深く曲げても、極端な力こぶが盛り上がったりはしない。
ただその真っ直ぐな腕は、二階級上のエイミー選手に負けないぐらい太かった。
「……そら、出番だぞ」と、立松が囁きかけてくる。
瓜子が振り返ると、とても真剣な眼差しが待ち受けていた。
「呑まれるな。お前さんなら、絶対に勝てる」
瓜子は「押忍」と応じてから、イヴォンヌ選手の前に進み出た。
イヴォンヌ選手はにこにこと笑いながら、瓜子に向きなおってくる。
背丈は三センチしか変わらないのに、肉の壁と向かい合っているような心地だ。
同程度のサイズである亜藤選手を、さらにひと回り半ほども膨らませたような印象であった。
(そうだ……あたしはもうひとりだけ、こういう体格をした人間を知ってる)
それはかつてユーリの頭蓋骨を粉砕した、宇留間千花に他ならなかった。
彼女は電信柱のように長身であったが、手足も胴体も起伏が少なくて丸太の寄せ集めのような印象であったのだ。このイヴォンヌ選手は、その長さだけを切り詰めたような印象であったのだった。
(やっぱり……このイヴォンヌ選手も、化け物なんだろうな)
瓜子は右足を引いて、ファイティングポーズを取ってみせた。
イヴォンヌ選手もにこやかな面持ちで、同じ姿勢を取る。
明日はここから、拳を交わすことになるのだ。
それを想像しただけで、瓜子は身が震えるほどの昂揚を覚えてならなかったのだった。




