08 波紋
ベリーニャ選手とガブリエラ選手の試合が終了したのちは、どこに出向いても侃々諤々の騒ぎであった。
ホテルの部屋を出れば立松たちが、その後にはギガント・ジムの面々が、そしてユニオンMMAでも各関係者が、驚きの思いをあらわにしていたのである。そしてそれはベリーニャ選手の完全勝利ではなく、《アクセル・ファイト》からの離脱を示すような行為に対しての反応であったのだった。
「試合だって物凄い内容だったのに、すっかり驚きの上書きをされちまったよ。……でも、桃園さんが冷静なのは、何よりだったな」
やがて稽古が始まる頃には立松も冷静さを取り戻して、そんな風に言っていた。
最初から落ち着いた面持ちであったユーリは、ウォームアップに励みながら「はぁい」と応じる。
「少なくともベル様が引退することはないでしょうから、ユーリは何も心配していないのですぅ」
「ああ。あれはおそらく、《アクセル・ファイト》から離脱するっていう意思表示だったんだろう。……こりゃあ北米は、大騒ぎだぞ」
「やっぱ、そうなんスかー?」と蝉川日和が呑気な声で反問すると、立松は「そりゃそうさ」と肩をすくめた。
「あれだけの強さを見せつけた選手が無敗のまま余所の団体に移籍なんて、《アクセル・ファイト》の面目が立たねえだろう。俗な言い方になっちまうが、ベリーニャ選手をあれだけのスター選手に仕上げたのは《アクセル・ファイト》なんだからな。そう簡単には、あきらめないはずだ」
「へーえ。でも、男子選手でも《アクセル・ファイト》から《ビギニング》に移籍した絶対王者ってお人がいませんでしたっけ?」
「あれはあくまで、ファイトマネーの問題だったんだよ。そもそも《アクセル・ファイト》では、男子フライ級ってのが不人気の階級だったんだ。それでファイトマネーや試合数を絞られちまったチャンピオンが、自分をもっと高く評価してくれる《ビギニング》に移籍したって寸法だな。金さえ積めば引き留めることはできたんだから、あれは《アクセル・ファイト》も納得ずくの移籍だよ」
「なるほどー。ベリーニャ選手なんかは、やっぱファイトマネーもガッポガッポだったんスかねー?」
蝉川日和は金銭欲が希薄であるために、そういった言葉をすんなり口にできるのだろう。立松もまた、何をはばかることなく「そりゃそうだろ」と答えた。
「前王者のアメリア選手だって、絶頂期には三百万ドルのファイトマネーとか言われてたんだからな。そいつを連続で返り討ちにしたベリーニャ選手が、それを下回る道理はねえさ」
「あはは。ケタが違いすぎて、ピンとこないッスねー。そんだけあったら一生遊んで暮らせるんだから、余計に未練もなくなりそうッスけど」
すると、ウォームアップに励みながら高橋選手が疑問を呈した。
「蝉川は、ずいぶんあっさりしてるね。蝉川はそれだけの金があったら、迷わず移籍しちまうのかい?」
「その団体に魅力がなくなったら、迷う必要ないんじゃないッスか? つまんない団体で痛い思いなんて、したくないッスからねー」
「そっか。やっぱり、蝉川は蝉川だな。安心したよ」
高橋選手が楽しそうに笑うと、蝉川日和もよくわかっていなそうな顔でにへらっと笑った。
そこで「でもさ」と声をあげたのは、いつの間にか接近していた横嶋選手である。
「それだけのファイトマネーを支払ってたってことは、運営陣はそれ以上の儲けを出してたってことなんだよ。だったらやっぱり、そう簡単にベリーニャを手放そうとはしないんじゃないかなぁ」
「そりゃあそうかもしれないけど、力ずくで引き留めることなんてできないでしょう? 《アクセル・ファイト》はクリーンな組織だっていう、もっぱらの評判ですからね」
高橋選手はしかつめらしい面持ちで、そのように答えた。
「あとはファイトマネーの上乗せぐらいしか思いつきませんけど、あのベリーニャが金で動くとは思えませんね。あたしはベリーニャと口をきいたこともありませんけど……きっとベリーニャは、生粋の武道家なんでしょうから」
「ああ、『女帝』と名高い来栖舞さんは、高橋さんの直属の先輩なんだっけ。そりゃあ尊敬する大先輩の引退試合を務めたベリーニャには、それなり以上の思い入れが生じるんだろうねぇ」
にこやかに微笑みながら、横嶋選手はそう言った。
「でも、ベリーニャが仁義を重んじるお人だったら、なおさら《アクセル・ファイト》をやめにくいと思うよぉ。何せ《アクセル・ファイト》とジルベルト柔術は、切っても切り離せない間柄なんだからさぁ」
「そりゃあまあ、ベリーニャの兄貴さんも《アクセル・ファイト》の絶対王者ですけど、それとこれとは話が別じゃないですか?」
「そういう話じゃないんだなぁ」と、横嶋選手はくすくす笑った。
「確かに今は、ジョアンとベリーニャぐらいしか《アクセル・ファイト》で活躍してる選手はいないけどさぁ。そもそも《アクセル・ファイト》が設立されたのは、ジルベルト柔術がきっかけなんだよぉ? まさか、それを知らないわけないよねぇ?」
「ええ。ベリーニャたちの叔父にあたる人が、《アクセル・ファイト》の最初の大会で優勝したんでしたっけ。それで世界規模の格闘技ブームが巻き起こったって話でしょう?」
「うん。それまではブラジリアン柔術なんて知る人ぞ知る存在だったのに、その興行をきっかけにして世界中に道場が建てられることになったわけだよぉ。言ってみれば、《アクセル・ファイト》とジルベルト柔術は持ちつ持たれつの運命共同体だったわけだねぇ。それから十年以上が過ぎた今でも、色んな部分で切り離せないしがらみが残されてるはずだよぉ」
「そうだわね。そのしがらみがなかったら、ジョアンだってとっくに《アクセル・ファイト》から離脱していたはずなんだわよ。話題作りのワンマッチのためだけに居残るなんて、まったくジョアンの流儀ではないはずなんだわよ」
ずっと静観していた鞠山選手もずんぐりとした身体でストレッチに励みながら、ついに発言した。
ミドル級で絶対王者となったジョアン選手はひとつ上のライトヘビー級に戦線を移すことを希望したが、ウェイトを増やす気が皆無であったため、運営陣に却下されたのだ。それで現在は、ひたすら特別試合のワンマッチでライトヘビー級の選手を相手取っているのだった。
「あれもジョアンの人気と、絶対王者のまま余所の団体に移籍されるのは体面が悪いという、二つの理由からの措置だわね。ベリーニャにも、その図式がすっぽり当てはまるわけだわよ」
「でしょう? だったら運営陣だけじゃなくて、親や家族も必死になって引き留めるでしょうからねぇ。血縁関係を重んじるジルベルト一族の人間だったら、それを振り切るのは大変なんじゃないかなぁ。セコンド陣の慌てっぷりからして、独断専行だったことは明らかですしねぇ」
そんな風に言ってから、横嶋選手はにんまりと笑った。
「でも、そんな状況でベリーニャがあんな真似をしたってのは、よっぽどのことだよねぇ。……ベリーニャって、そこまでユーリさんに執着してるのかなぁ?」
落ち着いた面持ちで黙々とウォームアップに取り組んでいたユーリは、「ほえ?」と小首を傾げた。
「いや、ほえじゃなくってさぁ。『アクセル・ロード』の時代から、ベリーニャってユーリさんのことを意識してたでしょう? それでブラジル大会ではユーリさんの相手選手のセコンドについたり、果てには打ち上げの場に乗り込んできたり……ユーリさんはベリーニャの大ファンだって公言してるけど、傍目にはあっちがユーリさんを追い回してるように見えちゃうんだよねぇ」
「はあ……ユーリがベル様に追い回されるだなんて、恐れ多いばかりですねぇ」
何を気負うこともなく、ユーリはふにゃんと笑った。
「まあ何にせよ、ベル様のお心はベル様にしかわからないのですぅ。ユーリはユーリで、自分にできることを一生懸命やりとげようという所存でありますぅ」
「もう、ユーリさんは手ごわいなぁ。生粋の天然さんって、タチが悪いよねぇ」
すると、他陣営のトレーナー陣と語らっていた立松が「こら」と声をあげた。
「お前ら、いつまでくっちゃべってるつもりだ? ウォームアップだけで、今日の稽古が終わっちまうぞ」
「へん。そっちだって、井戸端会議に夢中だったじゃねーか。偉そうな口を叩く前に、背中で模範を示しやがれってんだ」
恐れを知らないサキが、真正面から反論する。もちろん慣れっこの立松は眉を吊り上げることなく「うるせえよ」と言い捨てた。
「こっちは稽古のプランを練ってたんだよ。……ま、一部のトレーナー陣は気もそぞろのようだったがな。まったく、人騒がせな一幕だったぜ」
どうやら立松自身は、完全に気持ちを切り替えることができたようである。それはおそらく、トレーナーとしての使命感の賜物なのだろうと思われた。
「ウォームアップが終わったら、Bシフトに分かれてそれぞれのスパーリングだ。残り一週間、気合を入れて乗り切るぞ」
そうして本日も、過酷な稽古が開始された。
瓜子もベリーニャ選手の行動には驚かされたし、今後どのような事態に至るのかと胸を騒がせている。しかし、稽古中に雑念を持ち込むことはなかった。
だが――インターバルのふとした瞬間には、むくむくと疑念が頭をもたげてしまう。何せベリーニャ選手というのはユーリにとってもっとも特別な存在であり、ユーリというのは瓜子にとってもっとも特別な存在であったのだった。
(もしも本当にベリーニャ選手が《ビギニング》に移籍するんだったら、こっちとしては好都合だ。ユーリさんは《アクセル・ファイト》と契約できなかったんだから、二人が対戦するにはベリーニャ選手のほうから来てもらうしかない)
しかし、そう簡単にそんな話が実現するのだろうか。
瓜子の胸に渦巻くのは、そんな疑念であった。
ベリーニャ選手は、ユーリとの再戦を希望している。横嶋選手も詳細までは知らないだろうが、ベリーニャ選手はその真情を伝えるために打ち上げの場に乗り込んできたのだ。
なおかつ、ベリーニャ選手はユーリが《アクセル・ファイト》の運営陣から拒絶された一件もわきまえていた。試合の直後に不穏な状態に陥ってしまうユーリは健康上の不安が払拭できないため、《アクセル・ファイト》と契約はできないと言い渡されているのである。
(それで、ベリーニャ選手は……運営代表のアダムさんから、それを聞いたって言ってたんだ)
言うまでもなく、それはユーリの個人情報である。たとえ明確な守秘義務などがなくとも、格闘技団体の運営代表が選手の健康状態を外部の人間にもらすことなど、決して許されないだろう。
しかしアダム氏は、その事実をベリーニャ選手に打ち明けた。
それはベリーニャ選手が、事実を話さなければ《アクセル・ファイト》との契約を破棄すると申し出たためなのである。
ベリーニャ選手はそうまでして、ユーリが《アクセル・ファイト》と契約しなかった理由を探ろうとしたのだ。
そしてベリーニャ選手は、今日の行為に及んだ。脅迫まがいのやり口でユーリの秘密を突き止めながら、勝手に《アクセル・ファイト》を離脱しようと試みたのだ。
アダム氏にしてみれば、許されざるべき裏切り行為であろう。
そして瓜子は多賀崎選手から、アダム氏の評判というものを聞き及んでいる。普段は陽気かつ温厚であるが、怒ると鬼のように怖い――という話であったのだ。
それはユーリが『アクセル・ロード』において、番組のディレクターに不埒な真似をされた一件についての談話であった。
ユーリの寝込みを襲って返り討ちにされたその人物に対して、アダム氏は絶大なる怒りを向けていたのだと聞き及ぶ。そうしてその人物をテレビ業界から追放して、多額の賠償金をむしり取ったという話であったのだ。
瓜子はそれを、好意的に受け止めていた。きっちり警察沙汰にするべきではないかという思いもなくはなかったが、アダム氏は警察や裁判所よりも苛烈な罰を下したようであったので、納得する他なかったのだ。また、アダム氏は《アクセル・ファイト》のためだけではなく、ユーリのためにそれだけ怒ってくれたのだろうと、そんな風に考えていたのだ。
そんなアダム氏に対して、ベリーニャ選手は背中から切りつけるような真似をした。
ベリーニャ選手の肩を持ちたい瓜子でも、今回の一件に関してはベリーニャ選手を擁護できない心境であるのだ。瓜子はユーリとベリーニャ選手の再戦が実現するように心から願っていたが、それとこれとは話が別であった。
(これでアダムさんがどれだけ怒っても、あたしにはしかたないように思えちゃうんだ。だから……こんなに胸がざわつくんだろう)
しかし、それとは別に、瓜子は大きな感慨にも見舞われていた。
ベリーニャ選手はあれほど落ち着いた人柄であるように思えるのに、ユーリがからむと暴走してしまう節があるのだ。そういえば《カノン A.G》の騒乱が持ち上がった際にも、ベリーニャ選手の家族は見切りをつけて帰国するようにと言いつけていたのに、ベリーニャ選手は我を通して日本に居残っていたのだった。
ベリーニャ選手がそうまでユーリに執着していることを、瓜子は嬉しく思っている。
だから今回の一件に関しても、感情面においてはベリーニャ選手の行動を嬉しく思っていたのだった。
(だから何とか、《アクセル・ファイト》の人たちとも円満に終わるといいんだけど……こんな話は、篠江会長にも相談できないしなぁ)
それでも、もしも瓜子で何かの力になれる場面があれば、全力でフォローしよう。
そんな決意を胸にしたところでインターバルは終了して、瓜子はまた過酷な稽古に没頭することに相成ったのだった。




