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アトミック・ガールズ!  作者: EDA
32th Bout ~Autumn of Change~
866/955

02 練習開始

 翌日――シンガポール滞在の二日目である。

 予定通り午前八時半に起床したプレスマン道場の面々はホテルでのんびり朝食を楽しんだのち、意気揚々とユニオンMMAのジムを目指すことに相成った。


 初めてのシンガポールである高橋選手も体調は万全なようで、その大柄な体躯にはいつも通りの力強さがみなぎっている。瓜子もまた長旅の疲れや時差ボケを感じることなく、これから開始される過酷なトレーニングに意欲を燃やすことができた。


 ちなみに瓜子はキャップを深々とかぶっており、ユーリはニットのフライトキャップとサングラスで人相を隠している。シンガポールにおいても『トライ・アングル』の人気は日を追うごとに高まっているという話であったので、前回よりもいっそう用心することになったのだ。

 まあ、ユーリは首から下だけでもやたらと人目を集めてしまう危険な存在であったが、そこはプレスマン道場の男性陣と大柄な高橋選手が肉の壁となって、なんとかガードしてくれていた。


 そうして異国情緒にあふれかえった町の中を歩いていくと、瓜子の中に懐かしさがつのっていく。

 半年ほど前にも、瓜子たちは毎日この道を辿っていたのだ。愛音が高橋選手に入れ替わった他は、何もかもが以前のままであった。


 やがてユニオンMMAの立派なジムに到着したならば、さらなる懐かしさがこみあげてくる。

 そして、更衣室でグヴェンドリン選手たちと再会することで、瓜子の懐かしさは臨界点を突破したのだった。


「みなさん、どうもおひさしぶりです!」


 瓜子が性急に呼びかけると、ちょうどTシャツを脱いだところであったグヴェンドリン選手は下着姿で目をぱちくりとさせた。


「あー……ミナサン、ヒサシブリです。サイカイ、ウレしいです」


 グヴェンドリン選手はたどたどしい日本語でそのように答えてくれたが、まだいくぶん不明瞭な面持ちである。そして、エイミー選手やランズ選手も、きょとんとした顔でこちらを見やっていた。


「す、すみません。更衣室で騒いだら、まずいっすよね」


 瓜子が慌てて頭を下げると、グヴェンドリン選手もまた焦った顔になってロッカーの内側に手を差し込む。そして、携帯端末で翻訳アプリを起動させたのちに、思いも寄らない言葉を告げてきた。


『申し訳ありません。ウリコがあまりに魅力的な笑顔だったので、目を奪われてしまいました。そんなに喜んでもらえて、私も嬉しいです』


 そうしてグヴェンドリン選手は彼女らしい朗らかな笑みを浮かべると、下着姿のまま瓜子をハグしてきたのだった。

 エイミー選手やランズ選手もようやく我に返った様子で、他の面々と挨拶を交わし始める。それが一段落したのち、サキが瓜子の頭を小突いてきた。


「イノシシハーレム・シンガポール支部も、すっかり基盤ができあがったみてーだなー。稽古の前に、おさかんなこったぜ」


「そんなんじゃないっすよ。……ユーリさんも、すねないでくださいってば」


「すねてないですぅ。……でも何だか、昨日からうり坊ちゃんにないがしろにされてる気分なのですぅ」


 昨晩は同じベッドで眠っておいて、この言い草である。

 しかしまあ、ユーリにも楽しい気分で稽古に取り組んでほしかったので、瓜子は「そんなことないっすよ」と精一杯の笑顔を届けることにした。


 そんな一幕を経て、ついに稽古の開始である。

 シンガポール陣営の三名とともにトレーニングルームに向かうと、そちらではすでにギガント・ジムの面々がウォームアップを開始していた。


「どうもどうも。今日はホテルの外で朝食をとろうという話になって、そのままこちらに出向くことになったんです。帰りは、ディナーをご一緒しましょう」


 そんな風に呼びかけてきたのは、ギガント鹿児島の会長である山岡氏である。なかなか渋い面立ちで、すらりと引き締まった身体つきをした、壮年の男性だ。多少ながら閉鎖的に感じられるギガント・ジムの陣営の中で、もっとも社交的な人物であった。


 そちらの陣営も同じホテルに滞在しているため、前回の来訪時も二日目以降は行動をともにしていた。そしてプレスマン陣営が昨晩到着したことは伝達済であるはずであったが、今朝は顔をあわせることもないままにここで再会を果たしたのだった。


(まあ、他の人たちがそれほど余所との交流に熱心じゃないんだろうな)


 その最たるは、東京本部の会長と、鹿児島支部の出場選手である巾木選手だ。きっと本日もそちらの意向が尊重されて、さっさとホテルを出立したのだろうと思われた。


「向こうさんにしてみりゃあ、横から割り込んできた連中に先を越されたような気分なんだろうな。まあ、それでも陰湿な真似をするような連中ではないだろうから、適当に受け流しておけ」


 昨晩、立松はそんな風に言っていた。

 ギガント・ジムは《パルテノン》の主催者であり、《パルテノン》は昔日より《ビギニング》と親交が深かったのだ。それが昨年の大晦日、突如として《ビギニング》に抜擢された瓜子とユーリにメインカードの座を奪われて、ついには正式契約も先んじられてしまったというわけである。それで一部の関係者は、対抗心を募らせているのだろうという話であった。


 ただし、巾木選手が不愛想なのは最初からであったので、これは持って生まれた性格なのだろうと思われた。

 そして東京本部の所属選手である横嶋選手に至っては、ジムの意向と関係なく自由に行動しているように感じられる。今もウォームアップに励みながら、こっそり瓜子のほうに手を振っていた。


「プレスマン道場での出稽古も実に有意義だったと、エイミー選手たちからうかがいましたよ。ユニオンのトレーナー陣も彼女たちの成長っぷりにご満悦のようです。さすが、ジャパニーズ・チーム・プレスマンの異名は伊達ではありませんね」


「そいつは、選手同士の結束が生んだ結果だな。まあ、エイミーさんたちの合同稽古は、実りが大きかったよ」


「それは、羨ましい限りです。この二週間で、我々も恩恵にあずかりたいところですね」


 そのように語る山岡氏は社交的であるが、いくぶん内心が読みづらい。しかしまあ、これまでともに過ごしてきた時間を鑑みれば、悪人でないことは信じられるはずであった。


「そら、さっさとウォームアップに取りかかれ。ジョン、こっちは挨拶回りだ」


 立松の言いつけで、瓜子たちもウォームアップを開始する。そこから離脱した立松とジョンはユニオンMMAとギガント・ジムの関係者に挨拶をして回り、それを見届けたところで案内役の女性スタッフは立ち去っていった。


 そうして全員のウォームアップが完了したならば、すべてのトレーナー陣も集結する。

 三つの陣営が入り乱れて、三十名に及ぼうかという大人数だ。そして、前回の来訪時にはこちらに近づこうとしなかったユニオンMMAの会長も、気合の入った面持ちでたたずんでいた。


「今回は女子選手オンリーの大会だから、会長さんもつきっきりでエイミーさんたちの面倒を見てるんだそうだ。しかも今回はライバルジムとの対戦が多いから、いっそう燃えてるみたいだな」


 日本語の通じない気安さで、立松がそんな風に説明してくれた。

 前回の来訪時にはユニオンMMAの男子選手しか出場していなかったし、ブラジル大会では会長も同行していなかったのだ。この会長にとってはブラジル大会よりも本国大会が重要で、さらにはライバルジムに対する対抗心も旺盛であるようであった。


「イヴォンヌとレベッカについては、我々も日夜研究を進めてきた。日本のサムライ・ガールたちの健闘を祈って、その内容を伝えるのもやぶさかではない。……だそうだわよ」


 厳めしい顔立ちと表情をした会長の言葉を、鞠山選手が通訳してくれた。


「どうもあの会長は、あんたたちを当て馬にしてイヴォンヌたちの研究を進めようという意欲がむんむん匂いたってるだわね。どれだけ助言を与えても、あんたたちが勝つとは夢にも思ってないんだわよ」


「そうですか。それでも助言をいただけるなら、ありがたい限りですね」


「まったくもって、その通りなんだわよ。まあ、今後はあの会長も躍起になって、あんたとピンク頭の研究に励むことになるんだわよ」


 瓜子たちがこっそりそんな会話をしていると、今度は別なる男性が英語で発言した。ブラジル大会でグヴェンドリン選手たちに同行していた、トレーナーのひとりだ。その視線はプレスマン道場の陣営に向けられており、そして会長よりも遥かに好意的な眼差しであるように感じられた。


「ふふん。《アトミック・ガールズ》の王者を三名もセコンドにつけているとは、さすがの貫禄だ。これから二週間、三名の王者にもこちらの選手の指南をお願いしたい。……だそうだわよ」


「あはは。それは本当に、その通りっすよね。自分たちも、心強い限りです」


「エイミーたちの出稽古が成功したことで、トレーナー陣の《アトミック・ガールズ》を見る目もぐんと跳ね上がったようだわね。わたいは逆の可能性を心配してたんで、ひと安心だわよ」


「逆の可能性? どういうことっすか?」


「わたいはこれまで二回も遠征に同行してるんだわから、ユニオンのトレーナー陣もわたいの実力をとっくにわきまえてるんだわよ。それでわたいが王者になったら、わたいだけ実力が飛びぬけてると思われても不思議はないんだわよ」


 瓜子はなんと返事していいかもわからなかったので、ただ鞠山選手の眠たげな目を見つめ返した。

 鞠山選手はまったく頓着せず、滔々と語り続ける。


「それでも夏の出稽古で他のメンバーも実力を見せたから、それを伝え聞いたトレーナー陣も《アトミック・ガールズ》を見直すことになったというわけだわね。これはいよいよ、ギガントの連中が対抗心を燃やしそうなところだわよ」


 瓜子は「なるほど」と納得した。

 まあ、対抗心が高まれば、いっそうの切磋琢磨を望むこともできるだろう。瓜子たちは普段から、そうして競いながらおたがいを高め合っているつもりであった。


「それでだな、ちょっとおたがいにスパーリングパートナーの適性を見ようって話になったんだ。猪狩と高橋さんは、前に出てくれ」


 立松に指名されて、瓜子は高橋選手とともに進み出た。

 そしてシンガポール陣営からは、ランズ選手と見知らぬ男性が進み出る。その男性はまだ三十歳前後で、百六十センチ足らずの小兵であった。


「高橋さんはランズさんが対戦するイーハン選手の役、こっちのお人は猪狩が対戦するイヴォンヌ選手の役だ。組み技ありの立ち技スパーで、ちょっと腕前を拝見したい」


 高橋選手にはジョンが付き添い、ユニオンMMA側の意向を伝えている。

 そして瓜子は立松とともに、小柄な男性と向かい合うことになった。


「このお人は《ビギニング》のフライ級のランカーでな。イヴォンヌ選手に比べたらまだ大きすぎるぐらいだが、もともとファイトスタイルも似ているらしい。……グヴェンさんがいずれイヴォンヌ選手と再戦する機会があったら、このお人に協力をお願いする予定だったんだとよ」


 そのように語る立松は、いくぶん疑わしげな面持ちであった。

 まあ、フライ級なら一階級しか変わらないが、それでも男子選手である。また、試合を控えていない現在は、さらに体重が増していることだろう。背丈が百六十センチ足らずでも、そのずんぐりとした体躯は如何なる女子選手よりも肉厚で力感にあふれかえっていた。


「まあ、重要なのはリーチと小回りなんだわよ。イヴォンヌと同程度の背丈であんなパワーを持ってる女子選手はそうそういないんだわから、一番感触が近いのは小柄な男子選手という結論に落ち着くわけだわね」


 と、いつの間にか忍び寄っていた鞠山選手が横から口を出してきた。


「何にせよ、論より証拠なんだわよ。余所から預かった選手をスパーで潰したりしたらユニオンMMAの信用も地に落ちるんだわから、そうそう危険な真似はしないだろうだわよ」


「ああ。それでもパワーでゴリ押しされたりしたら、ちっとばっかり不安だがな」


 ともあれ、実際に手を合わさなければ、実情はうかがえない。瓜子はヘッドガードとニーパッドとレガースパッド、エルボーパッドと六オンスのオープンフィンガーグローブを装着して、その男子選手と相対することになった。


「様子見で、三分一ラウンドだ。スープレックスは禁止にさせてもらったから、強引なタックルには気をつけろよ」


 最後まで心配げな立松の号令で、スパーリングが開始される。

 それと同時に、男子選手が軽妙なるステップワークを見せた。

 そのずんぐりとした体型には不似合いなほどの、軽やかなステップだ。そしてそこには、あらゆる女子選手を凌駕する躍動感が秘められていた。


 鞠山選手や灰原選手、それにマリア選手をも上回る躍動感である。

 それだけで、瓜子の心はぎりぎりと引き締められていった。


(……こんなステップを持つ相手とは、どれぐらいの間合いを保つべきなんだ?)


 その背丈だけを参考にしていたら、目測を誤ってしまいそうである。まずは相手の踏み込みの鋭さを検分しなければならなかった。


 瓜子もステップを踏みながら、全身全霊で相手の挙動をうかがう。

 そして瓜子は、いきなり襟首をつかまれたような心地で、バックステップを踏むことになった。


 その鼻先を、鋭い風圧が駆け抜けていく。

 男子選手が一歩の踏み込みで、左ジャブを繰り出してきたのだ。

 瓜子が背筋を粟立てる中、周囲からはどよめきがあげられていた。


(あれだけの間合いを、一瞬で踏み越えられるのか。反射的に逃げてなかったら、クリーンヒットされてたぞ)


 それでも瓜子が、ぎりぎり回避できたのは――おそらく、メイと犬飼京菜のおかげであった。彼女たちはこの男子選手よりも小柄で、さらに俊敏であったのだ。


(でも、犬飼さんはパワーがないから、強引に接近すればイニシアチブを取れた。だからやっぱり、一番近いのは……メイさんだ)


 であれば――メイと対峙したときのように振る舞うしかない。

 メイと最後にスパーをしたのはもう九ヶ月も前の話であったが、その鮮烈な記憶は瓜子の心の奥深いところに刻みつけられていた。


(つまり……イヴォンヌ選手も、メイさんに負けないぐらい踏み込みが鋭いってことなんだな)


 そのように考えると、瓜子の心がふつふつとわきたっていく。

 見果てぬメイの面影が、瓜子の全身の細胞を活性化させたかのようであった。


 男子選手は涼しい顔で、軽やかにステップを踏んでいる。

 そのずんぐりとした体格には、いっそ不似合いなほどだ。おそらく数値的には香田選手あたりと同程度なのであろうが、骨格や筋肉量の関係でさらに大きく見えるのである。それでこれほどの俊敏性と機動力を兼ね備えているというのは、驚異的であった。


(それでリーチは、たとえ数センチでも向こうがまさっている。だったらこっちは、もっと鋭く動かなきゃいけないんだ)


 瓜子は可能な限りギアを上げて、ステップを踏んだ。

 周囲の景色がぼうっとかすんで、男子選手の姿だけが鮮明に浮かびあがっていく。もはや集中力の限界突破も目前という感覚だ。


 そんな中、男子選手の姿がかき消えた。

 瓜子は半ば本能で、インサイドに向きなおる。


 想像よりも低い位置から、右の拳が振るわれた。

 深く頭を屈めての、ボディアッパーである。瓜子が全力で身をよじると、Tシャツの生地とグローブの擦れる感触が腹のあたりに弾け散った。


 そこに、白い光が走るのを感じる。

 それに従って右拳を打ちおろすと、重い感触が炸裂した。

 ヘッドガードに守られた相手の左こめかみに、瓜子の右拳がクリーンヒットしたのだ。


 男子選手はぎょっとした様子で、瓜子のほうに向きなおってくる。

 重めのグローブとヘッドガードによって、パンチの威力も半減以下であったのだ。それを想定していた瓜子は、すでに間合いの外に逃げていた。


 たった二回の交錯で、瓜子はすでに汗だくである。

 そこに、「ブラボー!」という雄叫びが響きわたった。


 男子選手がファイティングポーズを解いたので、瓜子もほっと息をつく。

 すると、ひとりの男性が瓜子にのしのしと近づいてきた。厳めしい顔をした、ユニオンMMAの会長だ。中華系の顔立ちをした会長は黒い目をぎらぎらと輝かせながら、英語で何かまくしたてた。


「まさか、初めてのスパーで二回も攻撃をかわして反撃にまで及ぶとは、想像もしていなかった。君ならイヴォンヌといい勝負ができるかもしれない。……だそうだわよ」


「何にせよ、まだスパーの最中なんだがなぁ」


 立松が苦笑まじりの声をあげる中、会長はまだ何か熱中した様子で語り続けている。しかし、英会話のたしなみがない瓜子には、ちんぷんかんであった。


 鞠山選手がのちのち通訳してくれることを期待しつつ、瓜子はこっそり周囲を見回してみる。

 すると、ユーリやグヴェンドリン選手は満足そうに目を細めており――ギガント東京本部の会長は、食い入るように瓜子たちの姿を見据えていたのだった。

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