ACT.2 Singapore again 01 再訪
そうして、日々は流れ過ぎ――瓜子は再び、シンガポールの地に降り立つことに相成った。
《アトミック・ガールズ》の九月大会から六日後の、九月の第三土曜日である。今回も午前中から搭乗して、日が沈む頃合いでシンガポールの空港に到着したのだった。
八時間弱のフライトですっかり肩が凝ってしまったが、前回のブラジル遠征では二十四時間がかりであったのだ。それに比べれば心身への負担など軽微であったし、シンガポールは二度目の来訪であったので気分的にも気楽であった。
また、時差も一時間ていどであるし、気温に関しても心配していたほどではない。熱帯モンスーン気候に属するシンガポールは九月の終わりでも三十度前後の気温であったが、昨今は日本も残暑が厳しいため、さほどの差異ではないように感じられた。
「それにまあ、建物の外をうろつくのはジムへの行き来ぐらいだろうからな。しかし、油断だけはするんじゃないぞ」
大きなキャリーカートを引きながら、立松が勇ましい面持ちでそのように述べたてた。
今回、瓜子のセコンドを務めてくれるのは、立松、鞠山選手、蝉川日和、ユーリのほうは、ジョン、サキ、高橋選手という顔ぶれになる。つい六日前に激闘を経て新たな王者に認定された鞠山選手と高橋選手も、無事にこの役目を担ってくれたのだった。
「道子も、落ち着いたもんだわね。さては、海外旅行の経験があるんだわよ?」
「ええ。高校の卒業旅行で、タイまで出向いたんですよ。って言っても、本場のムエタイを楽しむための貧乏旅行でしたけどね。あっちのジムではふた回りも小さな連中にボコボコにされて、帰りの飛行機は地獄でしたよ」
大らかに笑いながら、高橋選手はそのように答えた。鞠山選手ともども、六日前の試合の傷痕がようよう癒えた頃合いである。このようにハードなスケジュールでセコンド役を引き受けてくれたことを、瓜子は心から感謝していた。
そうして八名で連れだって空港の出口を目指すと、見覚えのある女性が待ちかまえている。《ビギニング》の運営スタッフで、日本人選手の世話役を担っている女性だ。およそ半年ぶりの再会となる彼女は、今回も柔和な笑顔であった。
「みなさん、お待ちしておりました。さっそくホテルにご案内してよろしいでしょうか?」
「ああ、お願いするよ。……今回も、《パルテノン》の人らはお先に到着してるらしいな」
「ええ。そちらは三日ほど前にいらっしゃいました。今回も、ユニオンMMAでご一緒にトレーニングをお願いいたします」
《パルテノン》の王者である横嶋選手と巾木選手も、今回の十月大会に出場するのだ。それぞれ二勝一敗という戦績である彼女たちは、いまだ正式契約を目指して奮闘しているさなかであるはずであった。
「そいつらは、猪狩たちほどファイトマネーをもらってないんだろ? それでも二週間以上も前に現地入りするなんて、やっぱり気合が入ってるな」
高橋選手がこっそり囁きかけてきたので、瓜子も小声で「そうっすね」と応じる。
「自分も立松コーチには、目先の小銭を重んじるなって言い渡されてますしね。……まあ、小銭と呼ぶには恐れ多い金額っすけど」
「それでも猪狩たちは、相変わらずだよな。まあ、ファイトマネーの正式な額なんて知らないけど……男子選手では、露骨に羽振りがよくなるやつも少なくないみたいだよ」
「そうっすか。自分もパソコンを買ったり色んな配信サービスに登録したり、それなりに奮発してるつもりなんですけどね」
「それが奮発になるんだから、やっぱりつつましいよな」
そう言って、高橋選手はにこやかに笑った。高橋選手がこういう気性であるから、経済面の話題も生々しい感じにならずに済むのだろう。いきなり分不相応のファイトマネーをいただくことになった瓜子は、どこまで内情を明かしていいものかいつも判断に困っているのだった。
(まずは、それが分相応だって自信をつけるところがスタートなのかな)
そうして無理くり奮起の方向に舵を切りながら、瓜子は豪勢なリムジンバスに乗り込むことになった。
やがて到着したのは、以前もお世話になった全面ガラス張りの立派なホテルである。十九階建ての威容を見上げながら、高橋選手は「ひゃー」と声をあげた。
「噂には聞いてたけど、こりゃすごいね。あたしがタイに出向いたときなんて、壁中をヤモリが這い回る安宿だったのにさ」
「それはさすがに、落ち着かないでしょうね。でも、ちょっと見てみたい気もします」
瓜子が気安く応じると、しばらく静かであったユーリが「あにょう」と声をあげた。
「なんだか今日は、朝からお二人が親密な雰囲気なのでぃす。精神的な安定をはかるために、ユーリもお邪魔することを許されますでしょうか?」
「ああ、悪い悪い。やっぱりあたしも、ちょいと浮かれてるのかな。だけどまあ、猪狩はいつでも桃園のことを気にかけてるだろうから、そんな心配することないさ」
ユーリは「むにゃにゃあ」とうめきながら、瓜子のほうをじっとりとした目で見やってくる。瓜子はべつだんユーリをないがしろにした覚えもないのだが、高橋選手というのは懇意にさせていただている女子選手の中でも屈指の大らかな人柄であるのだ。それでついつい、話が弾んでしまうのだった。
(それでこういう少人数で長旅を経験すると、いっそう距離感が縮まるっていう面もあるんだろうな)
そうして瓜子が笑いかけると、ユーリは「だまされないぞよ」とばかりに、ふくよかな唇を尖らせたのだった。
その後はホテルマンの案内で客室に荷物を下ろし、ひと息ついたならば案内役のスタッフも交えてミーティングだ。今回も、この夜はゆっくり調子を見て、明日からみっちり調整期間の稽古に臨む予定であった。
「もうユニオンの人らとはすっかり懇意だから、前回に比べれば気楽なもんだな。しかし、調子に乗って失礼な真似をするんじゃないぞ?」
「押忍。でも、ユニオンのみなさんとお会いできるのは、楽しみっすね」
グヴェンドリン選手、エイミー選手、ランズ選手――夏の半月をご一緒した面々と、また合同稽古に取り組むことがかなうのである。別れを告げてからひと月余りしか経過していないとしても、瓜子の胸は期待にわきたっていた。
「それもすべては、マッチメイクの結果ですね。きっとユニオンのみなさんは打倒アディソン、打倒プログレスで盛り上がっているでしょうから、そういう意味でも心強いのではないでしょうか?」
スタッフの女性はやわらかな笑顔で、そのように述べていた。
今回、瓜子や巾木選手やランズ選手が対戦するのがプログレスMMA、ユーリや横嶋選手やグヴェンドリン選手が対戦するのがアディソンMMAの所属選手であったのだ。それで日本陣営は、まとめてユニオンMMAに面倒を見られることになったわけであった。
「あとはエイミーさんも出場するから、御三家の名門ジムはそれぞれ三名ずつ出場枠を勝ち取ったってこったな。さすが、大したもんだぜ」
「そうだわね。まあ、二名の選手を輩出してるプレスマン道場も、同じぐらい大したもんなんだわよ。いまやプレスマン道場は、日本を代表する名門ジムということだわね」
「ま、女子選手に限ってはな。サキはアトミックの王者で、メイさんは《アクセル・ファイト》との正式契約を勝ち取ったんだから、そこは自慢してもバチはあたらんだろう」
冗談めかして言いながら、立松は目もとに嬉しさをにじませている。それで瓜子も誇らしく思うと同時に、胸を温かくすることがかなった。
「そういえば、みなさんの滞在中に《アクセル・ファイト》のニューヨーク大会が開催されて、そちらにメイ・キャドバリー選手が出場されるそうですね」
さすが事情通の女性スタッフがそのように言い出して、瓜子の胸を高鳴らせた。
それに気づいた立松が、苦笑しながら目を向けてくる。
「さすがにメイさんの試合は速攻で見届けないと気がすまないだろうが、どんな結果でも動揺するんじゃないぞ?」
「押忍。でも、メイさんなら勝ってくれますよ。……もちろん、ベリーニャ選手もっすけど」
瓜子が水を向けると、ユーリはのほほんとした面持ちで「そうだねぇ」と応じた。
やはりどれだけ日々が過ぎても、ユーリはベリーニャ選手の存在に心を揺らすことがなくなった。ただその瞳に、見果てぬ何かを追い求めるような光がちらつくばかりである。
「ベリーニャ選手ですか。あちらは新鋭のガブリエラ選手と対戦するのですよね。ベリーニャ選手の王座を脅かすとしたらガブリエラ選手しかいないと、北米でもブラジルでも大きな話題を呼んでいるそうですね。ガブリエラ選手はデビュー以来、内容の充実した連勝記録を打ち立てていますので、大きな期待がかけられているようです」
「ああ。まだ粗い部分もあるようだが、それを帳消しにするような勢いが――というよりも、あれは粗いからこその強さなのかもな。ベリーニャ選手を倒せるのは、ああいう理屈じゃない強さを持った選手なのかもしれん」
「そうだわね。ベリーニャはどんどん達人の域に向かってるだわから、正攻法では勝ち目が薄いんだわよ。あの落ち着いた空気を粉砕するだけの勢いが必要だわね」
斯様にして、ベリーニャ選手の王座に挑戦するガブリエラ選手というのは、各所で高い評価を受けている様子である。
しかしやっぱり、ユーリが心を乱すことはない。ベリーニャ選手の勝利を信じているのか、勝敗だけに固執していないのか――その真情は、瓜子にも知れなかった。
(何にせよ、ユーリさんはベリーニャ選手と対戦したいだけなんだろうしな)
そうして話が脇道にそれかけたところで、女性スタッフが「それでは」と腰を上げた。
「わたしはそろそろ失礼いたします。明日は午前九時四十分の出発で間違いなかったでしょうか?」
「ああ。体調次第では午後からの開始に切り替えるつもりだが、今のところはそんな心配もなさそうだ。予定に変更が出そうだったら、すぐに連絡させていただくよ」
「承知いたしました。それではみなさん、よい夜を」
女性スタッフが立ち去って、残るはプレスマン陣営の八名である。この後はホテルのフードコートで食事をして、備え付けのトレーニングジムで腹ごなしの運動、そして就寝というスケジュールであった。
「さすが二回目ともなると、スケジュールの組み立ても楽になるな。ただし、油断するんじゃないぞ? 何かあったら、逐一報告だ。……特に初参加の高橋さんは、変に遠慮しないようにな」
「はい。これでみなさんの足を引っ張ったら、誰にも顔向けできませんからね。体調を崩したら、意地を張らずにすぐ報告します」
「よし。それじゃあ、腹ごしらえだ」
二度目の来訪ということで、やはり何もかもがスムーズである。だから立松も、油断のないようにと念を押しているのだろう。しかし瓜子も適度にくつろぎつつ、気を抜いているつもりは一切なかった。
(何せ今回は、タイトルマッチなんだからな。どんな試合でも大切なことに変わりはないけど、得るものの大きさは段違いなんだ)
《ビギニング》はアジアで随一という評価に留まらず、世界で屈指のMMA団体と称されているのだ。《アクセル・ファイト》を頂点とするならば、それに続く第二勢力の中に《ビギニング》の名も刻まれているのだという話であった。
(何せ、《アクセル・ファイト》の元王者が無敗のまま、《ビギニング》に移籍したりもしてるんだからな。それは、ファイトマネーが原因だったらしいけど……ファイトマネーが高いってことは選手に対して好待遇ってことなんだから、それで有望な選手を集めることができるわけだ)
その《ビギニング》で結果を出せば、正真正銘、世界クラスの選手を名乗ることが許されるだろう。
別なる道筋でその座を目指しているメイと、肩を並べられるように――瓜子の胸には、そんな思いも確かに存在した。
(それで、いつか……あたしも、メイさんと対戦するんだ)
しかしその前に、まずは二週間後の試合である。
《ビギニング》ストロー級の現王者、イヴォンヌ・デラクルス選手。それは名実ともに、瓜子にとって過去最強の対戦相手になりえるはずであった。




