11 ストロー級・決勝戦 ~魔法少女と極悪バニー~
2025.1/2
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
試合開始のブザーが鳴らされると、灰原選手と鞠山選手は申し合わせたようにゆっくりとケージの中央に進み出た。
どちらも、ステップワークを使おうとしない。そうして一・五メートルほどの距離を置いて、両者は正面から向かい合うことになった。
一歩踏み込めば、蹴りの当たる中間距離である。
しっかりとガードを固めた両者は、食い入るように相手の姿を見据えている。その常ならぬ姿に、客席はいっそうわきたっていった。
「ふん……こらあどっちも、足を使うゆとりがあらへんようやねぇ」
「ああ。それなら、五分の勝負だ。花子だったら、負けないさ」
雅と兵藤アケミは、そんな風に言っていた。
灰原選手は左の内腿に打撲傷を負っているが、鞠山選手は右フックとスープレックスとパウンドしかくらっていないはずだ。それでステップを踏めないということは、頭にダメージが残されているか、あるいはスタミナに難があるのかもしれなかった。
(でも、ステップワークを得意にする二人がステップを踏めないなんて……余計にどう転ぶかわからなくなってきたぞ)
インファイトを得意にするのは、灰原選手である。灰原選手は天性の当て勘とパンチ力を有しており、それでKOの山を築いてきたのだ。ウサギのごときステップワークを習得したのはこの近年で、本来はインファイトこそが灰原選手の真骨頂であった。
いっぽう鞠山選手は生粋のグラップラーおよびアウトファイターであるため、そもそもインファイトに挑む姿など見せたこともない。ぴょこぴょことカエルのように跳ね回りながら豪快な打撃技を振るい、最後には寝技に引きずり込むというのが真骨頂であるのだ。
ただし、至近距離で打ち合えば、組み合いのチャンスも大きく広がる。鞠山選手は真っ当な組み合いも得手ではないが、強引に寝技に持ち込む手腕には長けているのだ。そうしていったんグラウンド戦に移行したならば、完全に鞠山選手の独壇場であった。
(おたがい、それがわかってるから、迂闊に動けない――)
瓜子がそのように考えかけたとき、鞠山選手がいきなり大きく踏み込んだ。
そうして繰り出されたのは、豪快な右ローだ。本当にスタミナに不安があるのかと疑いたくなるぐらい、力強い挙動であった。
灰原選手は左かかとを浮かせて衝撃をやわらげつつ、カウンターの右アッパーを射出する。
鞠山選手は頭を振ってそれを回避したが、それ以上接近することはできなかった。
鞠山選手が下がったため、また同じだけの距離が開く。
そして、再びのにらみ合いだ。
まるで、真剣の斬り合いである。その迫力に、いっそうの歓声が渦巻いた。
そんな中、鞠山選手と灰原選手はともに肩を上下させている。
今の一瞬の攻防で、またスタミナを使ったのだ。ただその眼光の鋭さに変わるところはなかった。
(二人とも、見た目以上にスタミナが厳しいんだ。これは……一瞬で勝負が決まるかもしれないぞ)
二人とも準決勝戦では苦戦していたが、それでも試合は一ラウンドで終了したので、そうまでスタミナを消耗しているというのは少々意外なところである。
ただしスタミナというのは、メンタル面とも直結している。不安や興奮で心拍数が上がれば、そのぶんスタミナも消耗するのである。
きっと二人の内に、不安などはないことだろう。
二人はかつてないほどに、昂揚しているのだ。三年以上にわたって懇意にしてきた相手と王座を懸けた戦いに挑むことに、とてつもなく胸を高鳴らせているのだろう。かつては瓜子もそういった心持ちで、この両名と雌雄を決することになったのだった。
(……二人とも、頑張ってください)
瓜子がそのように祈る中、今度は灰原選手が動いた。
大きく踏み込んでの、左のショートフックだ。きちんと脇がしまった、コンパクトで鋭い攻撃であった。
それを右腕でブロックした鞠山選手は、ぐっと前に出ようとする。
すると灰原選手は、機敏にバックステップを踏んだ。
また同じだけの距離をはさんで、両者は大きく息をつく。
二人は限られたスタミナで、死力を尽くした攻撃をぶつけあっているのである。最初に力尽きたほうが、そのまま敗北を喫する公算が高かった。
今度は鞠山選手が、じりじりと近づいていこうとする。
すると灰原選手は、同じテンポでアウトサイドに回り始めた。
二人はゆったりと大きく回りながら、少しずつ少しずつ近づいていく。いつどちらが瞬発力を爆発させるのかと、瓜子は固唾を呑む思いであった。
(裏をかくのが上手いのは、鞠山選手のほうだ。ここは灰原選手が先に動いたほうが……)
そのとき、灰原選手が再びバックステップを踏んだ。
鞠山選手が、タックルのモーションを見せたのだ。
しかしそれはフェイントで、鞠山選手の右腕が旋回する。豪快な、オーバーフックである。
しかし、両者には八センチの身長差がある上に、インファイトを得意にするのは灰原選手のほうである。灰原選手はバックステップを踏んでも重心を乱すことなく、的確な右ストレートのカウンターを返した。
鞠山選手はサイドに頭を振ろうとしたが、間に合わず、右の頬にクリーンヒットされる。
鞠山選手は右フックをスイングさせながら、その勢いに負けた様子でマットに突っ伏した。
鞠山選手の無防備な背中を前に、灰原選手が覆いかぶさろうという動きを見せる。
しかし、灰原選手はすぐさまそれを取りやめて、また後方に跳躍した。
その足もとを、鞠山選手の左手が走り抜けていく。鞠山選手はトラックに轢かれたヒキガエルのように突っ伏しながら、灰原選手の姿をにらみあげていた。
「ふん……ダメージ覚悟の引き込みも、不発やねぇ」
「なに? 今のはグラウンドに引きずり込むために、わざと攻撃をくらったってのかよ?」
「わざとくらったんちゃうくて、よける自信があらへんかったんやろ。それでもグラウンドに移行できりゃ上等いう考えやったんやろけど……何にせよ、不発やわ」
雅と兵藤アケミの言葉を聞きながら、瓜子は拳を握り込む。
雅の推察がどうあれ、ダメージを負ったのは鞠山選手のほうであるのだ。レフェリーに命じられて立ち上がった鞠山選手は、右頬が青く内出血してしまっていた。
「……これはなかなか、鬼気迫る戦いだね」
と、聞き覚えのある声が瓜子の背後から響きわたる。
瓜子がモニターを見つめたまま「押忍」と応じると、笑いを含んだ声が返ってきた。
「そのまま目を離さないほうがいいよ。もうきっと、長くは続かないでしょ」
それは、小笠原選手の声であった。右拳骨折の処置を終えて、救急病院から舞い戻ったのだ。であれば、付き添いの小柴選手も頬を火照らせながらモニターを凝視しているはずであった。
灰原選手と鞠山選手は、またケージの中央で向かい合っている。
ダメージを負ったのは鞠山選手であるが、よりスタミナをつかったのは灰原選手のほうだ。その肉感的な肢体はしとどに濡れて、肩も胸もとも大きく上下していた。
試合時間は、いまだ一分半しか過ぎていない。
しかしおそらく、決着はもう目の前だ。二人がすべての気力と体力をかき集めているのが、モニター越しでもひしひしと伝わってきた。
再び鞠山選手がじりじりと動き出したため、灰原選手もアウトサイドに回り始めている。
先刻と、まったく同じ挙動である。この時点で試合を動かしているのは鞠山選手のほうであるが、先刻は灰原選手が上手く対処した。次の一手で正しい道を選んだほうが、勝利に大きく近づくはずであった。
鞠山選手はじわじわと前進しながら、しきりに手の先を動かしている。
きっとその目も、灰原選手の足もとをちらちらと見やっていることだろう。組み技のプレッシャーを与えつつ、鞠山選手は相手を追い込もうとしているのだ。
しかし灰原選手の顔に、惑いの色は見られない。何が起きてもその場で的確に対処しようという、覚悟のあらわれであろう。それで先刻も、優勢に立つことができたのだ。
二人は限られた体力の中で、すべてをぶつけ合おうとしている。
これまでに培ってきた知識と経験、その身に刻みつけられた技と戦略を、一瞬の中に叩き込んでいるのだ。それが交錯するのも、次が最後なのだろうと思われた。
そうして、先に動いたのは――灰原選手である。
組み技のプレッシャーを跳ね返して、左のジャブを放ったのだ。
プレスマン道場で磨き抜いた灰原選手の左ジャブは、鞠山選手の顔面を正確に撃ち抜いた。
鞠山選手のぺちゃんこの鼻から、再び赤いものが弾け散る。
しかし、クリーンヒットしようとも、ジャブはジャブである。肝要なのは、次の一手であった。
鞠山選手は深刻なダメージを負った様子もなく、灰原選手の左拳を追いかけるようにして前進する。
そして灰原選手は左拳を引きながら、右拳を射出した。
次なる一手は、右フックである。
鞠山選手が前進すると見込んで、軌道の短い右フックを放っていたのだ。
しかし鞠山選手は前進しながら、すでに頭を沈めている。
灰原選手が右の拳を飛ばしてくることを想定した動きである。
そしてその手は、灰原選手の足もとにのばされていた。
両足タックルか、あるいはフェイントか――その答えを、瓜子たちが知ることはできなかった。鞠山選手の手がのびきる前に、灰原選手の左膝が振り上げられたのである。
カウンターの、膝蹴りであった。
最初から右フックをかわされることを想定していたのか、鞠山選手のアクションに合わせて咄嗟に対応したのか――何にせよ、これ以上もない会心のタイミングであった。
灰原選手の左膝が、鞠山選手の腹に深々とめり込む。
鞠山選手はくの字になりながら、大きな口からマウスピースを吐き出した。
これは、両者の先の戦いでも目にした光景である。
一年と少し前の試合で、鞠山選手は今日と同じように強烈な膝蹴りをくらって――そして執念で灰原選手を組み伏せて、一本勝ちを奪取したのだ。
その日を再現するように、鞠山選手は倒れかかりながら灰原選手の胴体を抱きすくめようとする。
しかし灰原選手は左手で鞠山選手の肩を突っ張りながら、右肘を振りかざした。
炎のような気迫とともに、灰原選手は右肘を旋回させる。
うなりをあげた右肘が、鞠山選手の左こめかみに突き刺さった。
空恐ろしくなるほどの、クリーンヒットである。
それでも、出血は見られない。つまりは、衝撃が余さず内側に浸透したということだ。
鞠山選手は、糸が切れた人形のようにくずおれる。
レフェリーも試合を止めるべく、両者の間に割って入ろうとした。
だが――
前のめりに倒れた鞠山選手は、左拳でマットを殴打した。
そして、ばね仕掛けの人形のように跳び上がり――灰原選手の下顎に、真下から右拳を叩きつけた。
カエル跳びの、アッパーカットである。
これは先の試合において、灰原選手に回避された技のひとつであった。
今度は灰原選手のほうが、すべての支えを失って背中から倒れ込む。
そして鞠山選手は鼻血をぽたぽたと垂らしながら、灰原選手の上にのしかかろうとしたが――レフェリーの手によって、抱きとめられた。
大の字にひっくり返った灰原選手は、ぴくりとも動かない。
大歓声の中、試合終了のブザーが鳴らされた。
『一ラウンド、二分八秒! 右アッパーにより、まじかる☆まりりん選手のKO勝利です!』
瓜子は脱力して、パイプ椅子にもたれかかった。
自分が試合をしていたかのように、心拍数が上がっている。握っていた拳を開くと、手の平が真っ赤になっていた。
「嫌やなぁ。門下生の前なんやから、もっとしゃっきりしてやぁ」
雅の咽喉にからんだ声に振り返ると、兵藤アケミが目もとを大きな手の平で覆いながら、声を殺して泣いていた。
いっぽう雅は、いつもの調子で妖艶に赤い唇を吊り上げている。ただその切れ長の目には、普段と異なる揺らめきがたたえられているように思えてならなかった。
二人のそんな姿を見届けてから、瓜子はモニターに向きなおる。
鞠山選手はレフェリーに右腕をあげられながら、コミッショナー氏の手でチャンピオンベルトを巻かれていた。
『《アトミック・ガールズ》ストロー級第六代王者は、まじかる☆まりりん選手に認定されました! 皆様、盛大な拍手でまりりん選手をお祝いください!』
言われるまでもなく、客席は歓声の坩堝であった。
そして、瓜子の胸も熱いもので満たされている。
《アトミック・ガールズ》を創成期から支えてきた鞠山選手が、ついに王座を手にしたのだ。
初代と二代目の王者は鞠山選手と同世代であり、すでに選手を引退している。
その後は、『クレイジー・ピエロ』たるイリア選手、サキ、瓜子と、若い世代に受け継がれてきたチャンピオンベルトであり――鞠山選手は十年余りも、ずっと中堅選手としての立場から見届けてきたのだ。
鼻血に濡れていた鞠山選手の顔は、セコンドのタオルによって綺麗に拭われている。
しかし鼻血が拭われても、その顔はすぐさま涙に濡らされた。
右の目尻に裂傷を負って、右目の下は青く腫らしながら、鞠山選手は滂沱たる涙を流している。
前回の大会でドミンゴ氏に黒帯を授与された際も、鞠山選手は幼子のように泣きじゃくっていた。
しかし今日の鞠山選手は滝のように涙をこぼしながら、眠たげなカエルのような顔でにんまりと笑っていた。
それがきっと、魔法少女の矜持であるのだろう。
瓜子はその笑顔にいっそう胸を熱くしながら、モニターの向こう側へと拍手を届けることになったのだった。




