10 ジャグアルの勇躍
『タイムアップで、試合終了です! エキシビションマッチであるため、勝敗はありません!』
リングアナウンサーのそんな宣言とともに、瓜子とユーリの腕がそれぞれレフェリーによって持ち上げられた。
しかし瓜子は、その腕に全体重を預けたいほどの疲労困憊である。深呼吸のおかげもあって途中で力尽きることにはならなかったが、瓜子は試合終了の時間まで延々とユーリの寝技から逃げ惑う事態に至ったのだった。
グラウンドの展開に至ったのは一分経過ののちであり、瓜子が集中力の限界突破に至ったのはさらに一分ていどが過ぎてからのことであろう。であれば、三分に及ぼうかという時間をおかしな領域の中で過ごしていたことになるのだ。瓜子にしてみても、これは初めての体験であった。
(でも、深呼吸をしてたせいか、本当の切羽詰まった状態までは到達しなかったってことなのかな)
でなければ、瓜子は途中で力尽きており、今も自分の足で立っていることもできなかったはずだ。
しかしそれでも、尋常ならざる疲労感である。瓜子は通常の十倍ぐらい緩慢な時の中で過ごしていたような心地であったので、三十分ばかりも休みなしでスパーリングに取り組んでいたような感覚であった。
その甲斐あってか、客席には凄まじい歓声が吹き荒れている。
そしてユーリも、とろけるような笑顔であった。けっきょく瓜子は逃げるばかりであったが、それでもタップする事態には至らなかったのだ。寝技の勝負でユーリから三分間も逃げられる人間など、鞠山選手と卯月選手の他にはそうそう存在しなかったのだった。
『それでは! エキシビションマッチとは思えない激闘を繰り広げた両選手に、お言葉を頂戴いたします! ユーリ選手、後半はずっとグラウンドの展開でしたが、ついに最後までタップを奪うことはできませんでしたね!』
『はぁい。寝技でこんなに手ごわいうり坊ちゃんは、初めてですぅ。ユーリは幸せなあまり、溶け崩れてしまいそうなのですぅ』
『なるほど! それでは、猪狩選手! あれはやはり、エキシビションでも妥協はできないという覚悟のあらわれだったのでしょうか?』
『いえ……身体が勝手に反応しちゃいました……もうユーリさんと試合するのは、こりごりっすよ……』
にこにこと笑っていたユーリが、「がーん!」と立ちすくむ。
瓜子はサキの肩を借りてようよう足を踏まえながら、そちらに笑いかけた。
『ごめんなさい、冗談です……ユーリさんのおかげで、公式試合と変わらないぐらい全力を出すことができました……どうもありがとうございます……』
そうして瓜子が右腕を差し伸べると、ユーリはその手の先を両手で包み込みながら、「本当に?」とばかりに瓜子の顔を見つめてきた。
瓜子が「本当です」という思いを込めて笑いかけると、ユーリはようやく安心した様子で瓜子の手の先を胸もとに押し抱く。すると客席からは、温かな拍手と歓声がわきたった。
『ユーリ選手、猪狩選手、ありがとうございました! それでは、選手退場です!』
熱量を増す拍手と歓声に見送られながら、瓜子はサキとともに青コーナー側の花道を踏み越えた。
そうして入場口の裏手に到着すると、さっそくサキがぐりぐりと拳でこめかみを圧迫してくる。
「だから、エキシビションで熱くなるんじゃねーって言ってんだろーがよ。敵に手の内をさらすような真似しやがってよー」
「敵……? って、なんのお話っすか……?」
「おめーがいざとなったら肉牛に対抗できるぐらいの寝技を持ってるって事実が、満天下にさらされただろーがよ? これでもう、誰もおめーに油断してくれねーぞ?」
「あはは……油断した相手に勝っても面白くないんで、別にかまわないんじゃないっすかね……」
瓜子がそのように答えると、サキはさらなる圧力でこめかみを蹂躙してきた。しかし、火照った頭をマッサージされているかのようで、瓜子は心地好いばかりである。
そうしてスタッフの案内で赤コーナー陣営の控え室に舞い戻ると、そちらには渋い顔をした立松が待ちかまえていた。
「あのなぁ、どうしてエキシビションで本気を出す必要があるんだよ? 敵に手の内をさらすような真似をしやがって」
「押忍……でも、アトミックの放映やDVDの発売は一ヶ月後ぐらいっすから……イヴォンヌ選手に観られることはないんじゃないっすかね……」
「お前さんは、もっと先を見据えなきゃならん立場だろうがよ。……ああ、もういい。とにかく、クールダウンだ。俺も手が空いてるから、手伝うぞ」
かくして、瓜子はサキと立松の二人がかりで全身を冷やされることになった。
ひと足先に戻っていたユーリは愛音の手伝いでクールダウンに励みつつ、瓜子にちらちらと視線を送ってくる。それで瓜子がこっそり笑顔を届けると、ユーリも心から嬉しそうに笑ってくれた。
なんだか親の目を盗んで、いけない遊びにでも耽ったかのような気分だ。
しかしそれでも瓜子とユーリは、客寄せパンダとしての責務をこれ以上もなく果たすことができたのではないかと思われた。
そんな中、モニターでは第八試合が始められようとしている。
浅香選手と《フィスト》のアマチュア選手による、査定試合だ。こちらの試合で実力を示した選手は、プロに昇格する道が開けるのだった。
ただしそれは、ただ勝てばいいという話ではない。まるでいいところのない判定勝利や、相手の不始末による勝利などでは、昇格の基準に達さないのだ。また、滅多にない話であるが、両者ともに実力を見せることができれば、勝敗に拘わらず二人同時に昇格することもありえるのだという話であった。
然して、その結果は――浅香選手のKO勝利である。
柔術茶帯のグラップラーたる浅香選手がグラウンド戦に移行するまでもなく、その豪快な打撃技でKO勝利を奪取したのだ。それは苛烈な打撃技を有する雅の薫陶の賜物であろうし、相手も決して動きは悪くなかったので、十分に評価されるべき内容であるはずであった。
「ま、結果はあとのお楽しみやね。これで昇格を渋るような低能は、コミッションにおらへんやろ」
控え室に戻ってきた雅はいつもの調子で妖艶に笑っており、浅香選手は思わぬKO勝利で頬を火照らせていた。
「それにしたかて、会場はどえらい熱気やったなぁ。覗き見するひまはあらへんかったけど、瓜子ちゃんはよっぽどの気合であの物体を潰そうとしたん?」
「いえ。寝技の勝負で、つい本気のスイッチが入っちゃったんです。それでも自分は、逃げるいっぽうでしたけどね」
普段よりも比較的すみやかに回復した瓜子がそのように答えると、雅はわけ知り顔で「ははん」と鼻を鳴らした。
「瓜子ちゃんが、本気モードになったんかいな? そらあ客席も盛り上がるやろなぁ。その勢いで、あの物体を叩き潰したったらおもろかったのに」
「あはは。これだけプレスマンのメンバーが居揃ってる中でそんな台詞を口にできるのは、雅さんぐらいでしょうね」
とはいえ、雅の口の悪さは周知されているため、立松も苦笑するばかりである。ひそかに憤然とした眼差しを見せているのは、愛音ぐらいのものであった。
「ま、何にせよお疲れさん。うちらも、ちょいお邪魔させてもらうで」
浅香選手の陣営も、モニターを観賞できる位置取りでクールダウンを開始した。次なるは、同じくジャグアルの香田選手の試合であったのだ。
これは通常のワンマッチで、対戦相手は中堅の加藤選手である。本年の三月に同じく中堅の選手を打ち破り、実力を示し始めた選手であった。
香田選手もかつてはトップファイターと称されていたが、バンタム級に転身してからは並み居る強豪に後れを取って、ついにフライ級にまで階級を落とすことになった。そういった来歴から、運営陣もまずは慎重に実力を見定めようとしているのだろう。それで、二戦連続中堅選手を当てられたのだろうと思われた。
(宗田選手のこともこれぐらい慎重に取り扱ってたら、もっといい結果になってたんじゃないかな)
しかしまた、香田選手は無差別級で結果を出したのち、バンタム級で苦渋をなめたからこそ、今があるのだ。香田選手の真の実力は如何なるものかと、よりシビアな目で検分されているのかもしれなかった。
そして、その結果は――やはり、KO勝利である。
香田選手も柔術は茶帯であるが、注目されているのは打撃技だ。鋭い踏み込みと豪腕による攻撃でもって、香田選手は期待通りの結果を残すことがかなったのだった。
かくして、ジャグアルの陣営は二連勝である。
なおかつ、浅香選手のプロ昇格はほぼ確実であり、香田選手もトップファイターに返り咲く芽が出てきた。控え室に戻ってきた兵藤アケミは、土佐犬を思わせる厳つい顔にこれまでで一番の笑みを浮かべていた。
「ああ、猪狩も戻ってたか。こっちはウォームアップの最中だったのに、つい目を奪われちまったよ。あの桃園の猛攻を最後までしのぎきるなんて、あんたは寝技でも大したもんだね」
「いえ、死力を振り絞ってあの結果ですから、何も自慢できません。……コーチのみなさんにも、お叱りを受けちゃいましたしね」
「ははは。まあ、大事な本番の前に死力を振り絞ってたら、アタシでも説教するかな。でも、内心ではあんたの成長を喜んでると思うよ」
と、後半の言葉は立松たちに聞かれないように、囁き声で伝えてくれた。兵藤アケミは直情的であると同時に、細やかな心づかいのできる御仁なのである。
ともあれ――第九試合も無事に終了した。
瓜子とユーリのエキシビションにKOの試合が二つ続いて、会場の盛り上がりも上々のようである。そこでリングアナウンサーが王座決定トーナメント決勝戦の開始を宣言すると、客席にはいっそうの歓声がふくれあがった。
最初の決勝戦はストロー級で、青コーナーからは灰原選手の入場だ。
灰原選手はいつも通りの不敵な面持ちで花道に姿を現したが、その顔には死闘の痕が残されており、左の内腿も青紫色に変色したままである。今は足取りに不安もなかったが、普段のようにステップを踏めるかどうかは、まったく判然としなかった。
そして赤コーナーからは、鞠山選手が入場する。
こちらもまた、首から上は痛々しい姿だ。だけどやっぱり弱みを見せることはなく、魔法のステッキでバトン芸を披露していた。
「……さあ、ついに大一番だね」
兵藤アケミも真剣な表情を取り戻して、モニターをにらみ据える。
浅香選手のクールダウンを終えた雅は、毒蛇のように微笑みながらパイプ椅子に座した。来栖舞は高橋選手のセコンドとして出陣した後であったが、気持ちは両名と同一であろう。彼女たちの長年の戦友である鞠山選手が、ついに王座決定の一戦に臨むのだった。
鞠山選手が王座に挑むのは、これが二度目となる。その一度目は、瓜子が王者として立ちはだかることになったのだ。
いっぽう灰原選手も、まったく同じ経歴を有している。灰原選手と鞠山選手は同じ時代に実力を上げて、同じ時代にトップファイターとして花開き――そして、同じ時代に瓜子に挑戦して、敗れ去ったのだった。
(でも、二人のどっちが強いかなんて……あたしにも、見当がつかないな)
瓜子が灰原選手と対戦したのは一年半前、鞠山選手はちょうど二年前であるのだ。それだけの歳月があれば、どちらも着実に成長しているはずであった。
なおかつ一年と少し前には当人同士で対戦しており、その際には鞠山選手が勝利していたが――それも、参考にはならないことだろう。ファイターにとっての一年というのは、それだけの重みを持っているのだ。
それに今回は、ベストコンディションによる対戦でもない。両名ともに、準決勝戦で小さからぬダメージを負っているのだ。
入場を果たした両名がケージの中央で向かい合うと、そのダメージのほどがありありとうかがえた。
灰原選手は左の目尻に裂傷を負っており、右の目の下が青紫色に変色している。
鞠山選手は右の目尻に裂傷を負っており、ぺちゃんこの鼻がまだ赤らんでいた。準決勝戦では強烈なパウンドを何発もくらって、鼻血を流すことになったのだ。
さらに灰原選手は左足にもダメージを負っているし、両名ともにそれなり以上のスタミナを使っているはずだ。どれだけ鍛えぬいた身であっても試合におけるスタミナの消耗というのは稽古の比ではなかったし、九十分ていどの猶予を置いたところで完全に回復するわけもなかった。
(どっちが勝っても、恨みっこなしだ。どっちも、頑張ってください)
灰原選手にも鞠山選手にも強い思い入れを抱く瓜子は、そんな風に念じるしかなかった。
そうして二人は荒っぽいグローブタッチを交わしてから、フェンス際まで引き退き――王座を決める試合開始のブザーが鳴らされたのだった。
2024.12/31
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