08 リザーブマッチ
「ジジってのは、石頭だね。たった三発で拳が壊れるとは思ってもみなかったよ」
やがて控え室に戻ってきた小笠原選手は、いつも通りの穏やかな笑顔でそのように告げてきた。
ただし、セコンドの小柴選手は目に涙を溜めてしまっているし、立松も無念の表情である。サキはひとりでクールなポーカーフェイスであったが、罪もない瓜子の頭を小突くことで内心をほのかに覗かせていた。
「まあ、最初の一発で違和感はあったんだけどさ。右を使わないままジジに勝つことはできなかっただろうから、しかたないね。今回はベルトに縁がなかったってことで、あきらめるよ」
「ふふん。えらい涼しいお顔やな。内心では、はらわた煮えくりかえってるんちゃうん?」
浅香選手のウォームアップから離れてまで、雅がそんな言葉を投げつける。
しかし、小笠原選手の笑顔に変わりはなかった。
「誰がベルトを巻いたって、アタシがすぐにぶんどってやるさ。優勝候補が優勝したって盛り上がりに欠けるだろうから、これはこれで結果オーライなんじゃない?」
「ああ。あんたがバンタム級のトップコンテンダーってことに変わりはないからね」
そのように語る兵藤アケミは、とても雄々しい笑顔だ。きっと小笠原選手の頼もしい言動を、嬉しく思っているのだろう。こちらの両名は、かつて無差別級でライバルの関係にあったのだった。
「こっちはいいから、さっさと病院に行ってきなよ。元気があったら、また祝勝会でね」
「その前に、試合場に戻ってくるつもりだよ。高橋と青田のどっちがベルトを巻くのか、この目で見届けたいからさ」
「ふうん。リザーブマッチはこれからだってのに、あんたは高橋の勝ちを疑ってないわけだ」
「そりゃそうさ。あたしは高橋ともサム・ウヌともやりあってるからね。……それじゃあみんなも、また後で」
そうして小笠原選手は笑顔のまま、控え室から立ち去っていった。
救急病院に付き添うのは小柴選手で、立松とサキは居残りだ。そしてサキは、瓜子のセコンドを務めてもらう約束になっていた。
「おめーも人外の骨密度とやらに感謝しておけよ、タコスケ。こんなチャチなグローブひとつじゃ、いつ拳が割れても不思議はねーんだからよ」
「押忍。小笠原選手もパンチ力がすごいから、拳のほうが追いつかなかったってことなんすかね。……せっかく勝てたのに決勝戦を棄権だなんて、気の毒です」
「本人がへらへらしてるんだから、おめーがしょぼくれたって始まらねーよ。そら、とっととウォームアップを再開しやがれ」
瓜子の出番までは、あと二試合なのである。
そしてモニターでは、すでに第五試合が始められていた。ストロー級のリザーブマッチで、武中選手と宗田選手の一戦である。
トーナメントの一回戦で敗れた四名の中でリザーバーに相応しいと見なされたのが、こちらの両名であったのだ。ただし、灰原選手と鞠山選手が負傷欠場する事態には至らなかったので、こちらはもはやトーナメントと関わりのないワンマッチであった。
しかしそれでも、試合の重要度に変わるところはない。武中選手も宗田選手もその事実を証明するかのように熱戦を繰り広げていた。
またこれは、黄金世代に敗れた者同士の対戦という側面も持っている。武中選手は亜藤選手に、宗田選手は山垣選手に敗れさったのだ。そうしてベテラン選手に道をふさがれた若手の選手同士で生き残りをかけた、サバイバルマッチであった。
(二人とも、あの日はすごく思い詰めてたもんな)
一回戦目が行われた日の打ち上げで、瓜子はこちらの両名に詰め寄られることになったのだ。武中選手も宗田選手も《アトミック・ガールズ》で数々のチャンスを与えられながら勝ち星を逃がしていたため、相当に思い悩んでいる様子であった。
(まあ、宗田選手はそれでもにこにこ笑ってたけど……より後がないのは、宗田選手のほうだよな)
宗田選手はMMAファイターとしてデビューして以来、四連敗を喫しているのだ。元・柔道の五輪強化選手という肩書きから話題性を集めているがゆえに、強敵とばかり対戦してきた結果であった。
しかし今回は、同じように伸び悩んでいる武中選手との対戦である。
武中選手もまた、トップファイターとの対戦では全敗を喫しているのだ。ここで敗北を喫した選手は、もはや中堅以下の存在と見なされるはずであった。
(本当に、容赦のないマッチメイクだな。駒形代表も、ただ気弱なだけの人じゃないってことだ)
しかしまた、これは伸び悩んでいる選手に対する救済措置でもあるのだろう。結局、選手は勝つことでしか挽回できないのだった。
現在のところ、両者の実力は伯仲しているようである。
名門ジムで正道のMMAを学んできた武中選手と、柔道出身でキックの戦績を築いた亜流の宗田選手という構図だ。ただし両名は絶対に負けられないという気迫をあらわに戦っており、今日の試合には正道と亜流の区別も感じられなかった。
そうしてけっきょく時間内では、決着がつかず――判定は、2対1で武中選手の勝利である。
武中選手はレフェリーに腕を上げられながら号泣しており、宗田選手はにこやかに笑いながら拍手を送っていた。
武中選手は何とか踏み止まり、宗田選手は五連敗である。
三連敗を喫してキックの舞台に殴り込んだ宗田選手が、また連敗を喫してしまったのだ。その笑顔の奥にはどのような感情が渦巻いているのか、瓜子には想像することも難しかった。
「さて。小笠原さんの分まで、俺が見届けてやるか」
と、パイプ椅子に陣取った立松は鋭い目つきでモニターを見据える。
第六試合はバンタム級のリザーブマッチで、高橋選手とサム・ウヌ選手の一戦だ。瓜子とユーリのエキシビションマッチはこの次であったが、間にインターバルをはさむために最後まで見届けることがかなった。
サム・ウヌ選手は《フィスト》から送られてきた強豪選手で、日本在住の韓国人選手である。百七十五センチの長身を有しているが、一回戦ではより長身である小笠原選手に敗れた身であった。
いっぽう高橋選手は、青田ナナに敗北を喫した。これでもしも高橋選手がサム・ウヌ選手に勝利したならば、その青田ナナとベルトをかけて再戦することになるのだ。本人的には、ずいぶん複雑な心境なのではないかと思われたが――ただし、ケージの中央でサム・ウヌ選手と相対した高橋選手の眼差しに、迷いの色は見えなかった。
(まあ、選手にとっては目の前の試合がすべてだもんな)
どのような思いを抱えていても、試合には全力を尽くすしかない。瓜子もまた、ややこしい話は抜きにして高橋選手を応援する所存であった。
「高橋さんは、小笠原さんともさんざんやりあってるからな。このていどの身長差でたじろぐことはないだろう」
立松は、そんな風に言っていた。
それは確かに、その通りだろう。このリザーブマッチの内容が決定されてからは高橋選手と小笠原選手もスパーを控えるようになっていたが、それまではさんざんプレスマン道場で手合わせしていた間柄であるのだ。また、高橋選手と小笠原選手は前回の王座決定トーナメントの決勝戦で対戦した間柄でもあったのだった。
高橋選手は躊躇なく、積極的に前進していく。
サム・ウヌ選手が長い手足を使って迎撃しても、まったく怯む様子はない。それもまた、小笠原選手にもっと強烈な攻撃をくらっていた恩恵なのだろうと思われた。
それに、高橋選手も百七十二センチという長身の持ち主であるのだ。わずか三センチの身長差など、高橋選手には何の苦にもならないようであった。
「よしよし。リズムをつかめてきたな」
立松も、満足そうなつぶやきをこぼしている。
サム・ウヌ選手はストライカーと称されているが、立ち技で優勢を取っているのは明らかに高橋選手であった。
するとサム・ウヌ選手が、思わぬ動きに出た。
いきなり高橋選手の肩口につかみかかると、マットから跳び上がって相手の腰に両足を巻きつけたのだ。
高橋選手は一瞬こらえたが、最後には相手の重量に負けて、前側に倒れ込む。突如として寝技の展開になだれこみ、客席からはどよめきがわきおこった。
サム・ウヌ選手はストライカーだが、柔術の稽古もやりこんでいるのだと聞き及んでいる。これは柔術出身の選手が時おり見せる強引な仕掛けで、自らマットに背中をつけてでもガードポジションを確保しようという動きであった。
「ふん、こうきたか。しかし、仕掛けた相手が悪かったな」
立松は、いよいよご満悦の様子である。
この強引な仕掛けは、かつて瓜子が対戦したエズメラルダ選手が得意にする動きであり、当時はさんざん対策を練っていたのだ。そして、エズメラルダ選手と身長が近い高橋選手にも、さんざんスパーリングパートナーをお願いしており――つまり、高橋選手もまたこの強引な仕掛けに対する対処を学ぶことになったのだった。
高橋選手はいったんグラウンドに引きずり込まれたものの、すぐさま頭で相手の顔面を圧迫しつつ、くの字の体勢で立ち上がる。相手の頭をマットに固定している限り、腰に巻かれた両足で悪さをされる恐れもなかった。
そしてその間に、高橋選手の腕を捕獲しようという相手の指先を振り払う。これでもう、相手は窮屈な姿勢で寝そべっているだけの状態だ。腕も取れず、両足を腰に巻きつけているだけの体勢では、身動きの取りようもないはずであった。
相手としてはまず頭部の圧迫を何とかしたいところであろうが、自分の足をおろさなければ動きようもない。
そうして相手が両足のロックを解除したならば、ガードポジションから逃げる好機である。高橋選手は相手の顔面に頭を乗せたまま右膝を乗り越えて、まずはハーフガードのポジションを確保した。
こうなれば、上の選手の優位である。
頭部への圧迫を解除して半身を起こした高橋選手は重心を安定させつつ、相手の顔面に右拳を振りかざした。
嫌がらせの軽い攻撃であるが、相手は防御せざるを得ない。すると、高橋選手がその左腕をとらえて、アームロックのプレッシャーをかけた。
ハーフガードのポジションでアームロックを完成させるのは難しいが、高橋選手も天覇館とプレスマン道場の両方で寝技を学んでいる。この際には、ユーリとの過酷なスパーも大きな糧になっているはずであった。
サム・ウヌ選手は身をよじり、なんとかアームロックのプレッシャーから逃れようとする。
そうして足もとがおろそかになったところで、高橋選手は左足をも乗り越えてマウントポジションを奪取した。
柔術を磨いているというサム・ウヌ選手を相手に、寝技でも高橋選手の優勢は動かない。そうして高橋選手が相手の腕を放り出して左右のパウンドをくらわせると、サム・ウヌ選手は狂ったように腰を跳ねあげた。
しかし高橋選手は重心を崩されることなく、さらに強烈なパウンドを浴びせる。
そうしてサム・ウヌ選手が横向きになると、今度は容赦なく肘を落として――それで、レフェリーストップと相成った。
立松は、「よし」と膝を叩く。
高橋選手の、圧勝である。相手の長所をすべて潰して、ノーダメージの完全勝利であった。
「オリビアさんとやりあったナナ坊は、それなりのダメージを溜め込んでるはずだが……ま、油断はできないわな。畜生め、俺が高橋さんのセコンドについてやりたいぐらいだぜ」
「余所の女に目の色を変えてんじゃねーよ。お次はお待ちかねの、同門対決だぜ?」
サキの皮肉っぽい言葉に、立松は苦笑をこぼした。
「そっちには、かける言葉もひとつしかねえよ。……いいか、絶対に怪我だけはするんじゃないぞ?」
「はぁい。愛しのうり坊ちゃんと、くんずほぐれつを満喫する所存ですぅ」
すっかり身体の温まったユーリは、天使のような笑顔でふざけた言葉を返す。浮かれるあまり、愛音のじっとりとした視線にも気づいていない様子だ。
ともあれ、十五分間のインターバルをはさんで、瓜子とユーリのエキシビションマッチである。
瓜子もまた、全身全霊で客寄せパンダの本分を全うする所存であった。




