07 バンタム級・準決勝戦(下)
第一ラウンドが終了して、小笠原選手とジジ選手はそれぞれの陣営のフェンス際まで引き下がった。
椅子に座った小笠原選手に熱っぽくアドバイスを送っているのは、立松だ。その姿を見やりながら、柳原は「うーん」と悩ましげな声をあげた。
「ラッシュを仕掛けたのはあっちだけど有効打は一発もなかったし、小笠原さんはクリーンヒットさせたけど一発限りだったし……手数を取るか有効打を取るかで、ジャッジは別れそうなところだな」
「そうですねー。積極的に攻めた分、ジジのほうが印象はいいかもしれませんけど……その前は、トキコが攻めてましたもんねー」
「ああ。三分以上の時間をローペースで支配した小笠原さんか、三十秒だけ圧倒的な優勢に立ったジジかで、やっぱり評価は分かれるだろう。次のラウンドできっちりポイントを取らないと、どっちも安心できないだろうな」
そんな風に言ってから、柳原は小さく息をついた。
「それにしても……ジジの試合ってのは、いつも大味だよな。以前に比べれば、戦術の幅も広がったんだろうが……最後の頼みが突貫ラッシュだから、そういう印象になるのかな」
「そうですねー。同じラッシュでも、ウリコはもっとテクニカルですもんねー」
「いえいえ。ジジ選手は勢いが凄いですけど、決して勢いまかせではないと思います」
それが最近の瓜子の、正直な評価であった。ジジ選手のラッシュはあまりに猛烈な勢いであるために荒々しさが先に立つが、顔とボディの打ち分けは見事であるし、三十秒間も継続できるのは力まかせでない証拠であるし――そうだからこそ、小笠原選手も離れ際まで動くことができなかったのではないかと思われた。
(だから、未成熟なのはラッシュを仕掛けるまでの四分間だよな。そっちでもっときちんと手を出していたら、確実にポイントを取れたはずだ)
シンガポールのトップファイターの緻密なファイトスタイルを長きにわたって体感したためか、瓜子はそんな印象を抱いていた。
(《アクセル・ファイト》への参戦を希望してるジジ選手にオファーがかけられないのは、やっぱり単純に力が足りてないっていう評価なんだろう。それじゃあ、ジジ選手を乗り越えない限り、世界進出は難しいってことだ)
今のところ、ジジ選手は《アトミック・ガールズ》で三回しか負けていない。その相手は、ユーリと魅々香選手と鬼沢選手である。鬼沢選手は早々にリベンジされてしまったが、ユーリと魅々香選手がそろって『アクセル・ロード』に招聘されていたのは、いささか象徴的であった。
(ジジ選手はその前から、北米のローカルプロモーションにも参戦してたんだもんな。まあ、素行不良ですぐに契約を打ち切られたそうだけど……その頃から、《アクセル・ファイト》のスカウトマンにもチェックされていたんだろう)
ただしジジ選手は、この近年でスタイルチェンジに取り組んでいる。まだまだ粗い仕上がりであるが、彼女も着実に進化しているのだ。今のジジ選手は、ユーリや魅々香選手に敗北した時代よりも遥かに難敵であるはずであった。
(それでもきっと、シンガポールのトップファイターには届いてないだろうから……小笠原選手なら、きっと大丈夫だ)
そうして、第二ラウンドが開始されると――一転して、ジジ選手がフットワークを使ってきた。
ボクシングスタイルの、軽快なフットワークである。頭にくらったダメージもラッシュによるスタミナの消耗も感じさせない、軽やかな足取りであった。
もちろん小笠原選手もほとんどノーダメージでスタミナも十分であるが、いくぶんやりづらそうにしている。
怒涛のラッシュは的確に防御したものの、その腕にはジジ選手の持つ破壊力がしっかり刻みつけられただろう。それでは警戒心をかきたてられて然りであった。
(しかもジジ選手は、まだ組み技を一回も出してない。そっちにまで注意を向けると……小笠原選手は、いっそう動きにくいだろう)
なんだか、ジジ選手が手を隠すことによって、それがいつ繰り出されるのかというプレッシャーを生んでしまっている。
これは先刻の青田ナナとオリビア選手の一戦にも通ずる構図であった。
(でも、そこで縮こまるような小笠原選手じゃないぞ)
なおかつ小笠原選手の背後には、立松とサキが控えている。
そちらから指示が出されたのか、あるいは小笠原選手自身の考えであったのか――最初の一分が過ぎたところで、小笠原選手が攻勢に転じた。左のジャブとフックを振るいながら、積極的にジジ選手を追い始めたのだ。
それでもジジ選手は打ち合いに応じず、ステップワークで距離を取ろうとする。
すると小笠原選手はいっそう大胆に踏み込んで、上段の蹴りを狙い始めた。
百七十八センチの長身から繰り出される、鋭さと力強さを兼ね備えたハイキックである。ジジ選手がどれだけ足を使っても完全に逃げきることは難しく、腕でその蹴りをガードすることになった。
そうしてハイキックをガードしたならば、組みつきやインファイトのチャンスである。
しかしジジ選手はそのどちらも選択せず、ただ逃げていく。
おそらく、小笠原選手のハイキックは見せ技であると判じたのだろう。逃げる相手に大技を見せるのは、接近戦を誘う定石であった。
ただし、小笠原選手が接近戦を望んでいることは伝わったはずだ。
小笠原選手はジジ選手の乱打も組みつきも怖くはないと、無言のままに宣言したようなものなのである。ジジ選手はいまだに不敵な面持ちであったが、その顔に流れる汗が冷や汗であるように感じられた。
(今のは、いいプレッシャーになったみたいだ。ヤナさんは、大味な試合だなんて言ってたけど……小笠原選手は、しっかり自分らしさを貫いてるぞ)
さらに小笠原選手はぐいぐいと前進して、右のフックやミドルなどを繰り出していく。
挙動の大きな攻撃で、相手の接近を誘っているのだ。遠い距離を支配する技に長けた小笠原選手が、完全に接近戦にシフトチェンジしていた。
自分がもっとも得意にする乱打戦や隠し玉である組み技がまったく怖くないとアピールされるのは、ジジ選手にとって嫌なものであるだろう。
そして彼女は、メンタル面に脆いものを抱えている。どのような苦痛にもめげない精神力を持ちながら、ひとたび思い悩むと動きが鈍ってしまうのだ。最初の対戦で鬼沢選手に敗北したのも、そのメンタル面の脆さを突かれたようなものであった。
(そうして追い込まれた選手は、だいたい一番得意な方法で切り抜けようとする)
瓜子がそのように考えたとき、ジジ選手がやおら突進した。
不気味なタトゥーに埋め尽くされた両腕が、再び小笠原選手に襲いかかる。ジジ選手がもっとも得意とする、乱打戦である。
どれだけ精神的に追い込まれようと、この乱打の破壊力に変わりはない。小笠原選手もまた、再び防御に徹することになった。
小笠原選手がジジ選手の乱打を的確にさばけることは、先のラウンドでも証明されている。なおかつ小笠原選手は組み技に関しても入念に稽古を積んでいたので、何も恐れるものはないのだろう。だからこうして、接近戦を誘ったのだ。
ジジ選手の豪腕が、ガードを固めた小笠原選手の両腕にめり込んでいく。
普通であれば、それだけで腕を潰されてしまいそうなところであるが――小笠原選手とて、武魂会で鍛練している身であるのだ。オリビア選手ほどではないにせよ、並のMMAファイターよりは頑丈な肉体をしているはずであった。
そうしてまた三十秒ほどで、ジジ選手は引き下がろうとする。
それと同時に、小笠原選手が右拳を振りかざした。
第一ラウンドの攻防を再現するかのように、ジジ選手はダッキングでかわそうとする。しかし、かわしきれずにこめかみの上部を叩かれるのも、第一ラウンドの離れ際と同様であった。
しかし、同じ場所に攻撃をもらったら、ダメージが溜まるものである。
先刻は平気な顔で逃げていたジジ選手は、いくぶん足をもつらせながら後ずさることになった。
そこに、小笠原選手の前蹴りが飛ばされる。
ジジ選手の引き締まった腹部に、小笠原選手の中足が深々とめりこんだ。
ジジ選手は、鬼のような顔で笑い――そして再び、小笠原選手に躍りかかろうとした。
その顔面に、小笠原選手の右フックが突き刺さる。
三度目となる今回は、ついにこめかみにクリーンヒットだ。
自らの突進力もカウンターの破壊力に転じて、ジジ選手はがくりと膝をつく。
グラウンド戦を望まない小笠原選手はファイティングポーズを取ったまま、すぐさま後ずさった。
レフェリーは厳粛なる面持ちで、ジジ選手に『スタンド!』と呼びかける。
ジジ選手はマットを殴りつけるようにして拳をつき、それを支えに身を起こした。さすがジジ選手も頑丈で、まだ脳震盪などは起こしていないようだ。
引き攣った笑みがへばりついたその顔は、手負いの獣さながらである。
そしてジジ選手は、再び頭から突っ込んだ。
小笠原選手は冷静に、カウンターの膝蹴りを射出する。
しかしジジ選手の勢いが凄まじかったために打点がずれて、クリーンヒットとはならなかったようだ。浅く腹を蹴られたジジ選手は、そのまま小笠原選手の胴体に組みつこうとした。
この試合で初めて見せる、組み合いの攻防である。
この瞬間のために稽古を積んできた小笠原選手は、ジジ選手の頭部を首相撲でとらえて、左右に揺さぶり、レバーに膝蹴りを叩き込んだ。
それでジジ選手の動きが止まると、首相撲を解除して、右の肘打ちをこめかみに叩きつける。
つい先刻、右フックをクリーンヒットさせた箇所である。なおかつその前には二度にわたって、こめかみのすぐ上部を殴りつけてもいた。
結果――ジジ選手は再び膝をつき、今度は立つことができなかった。
大歓声の中、試合終了のブザーが鳴らされる。
『二ラウンド、三分八秒! 右エルボーにより、小笠原選手のKO勝利です!』
リングアナウンサーの宣言を聞きながら、控え室の内部もわきたった。
「終わってみれば、小笠原さんの貫禄勝ちだったな。やっぱり、シンガポールの人たちとの稽古も活きてるんだろう」
「そうですねー。ジジにKO勝ちできるなんて、すごいですよー」
柳原とオリビア選手も、和やかに言葉を交わしている。
そちらを振り返った瓜子は、ジョンが切なげな目つきをしていることに気づいた。
「どうしたんですか、ジョン先生? 何か、心配事でも?」
「……うん。やっぱりジジは、キョウテキだったんだとオモうよー」
言葉の意味がわからずに、瓜子はモニターのほうに向きなおる。
するとそちらでは、小笠原選手がリングドクターによって右のグローブを外されていた。
試合が終わればグローブを外すのも自由であるが、しかし小笠原選手は決勝戦を控えた身だ。そんな性急にグローブを外す理由はなかったし、ましてやリングドクターが手を出すいわれもない。つまりは何か、危急の事態が生じたのだった。
「……そういえば、小笠原選手は第一ラウンドでもちょっぴり右手が痛そうだったねぇ」
ユーリの心配そうな声が、瓜子の記憶を刺激する。
小笠原選手は合計で三回、ジジ選手の頭部に右フックをヒットさせており――最初の一回で、ぷらぷらと右手を振っていたのだった。
その後は、何事もなかったかのように選手が退場させられる。
しかし、小笠原選手のもとにはリングドクターが付き添っており、それらの姿がモニターから消え去っても、しばらくは控え室に戻ってくる様子はなかった。
そうして第五試合が始まる前に、小笠原選手が右拳の骨折で決勝戦を棄権する旨がアナウンスされたのだった。




