04 ストロー級・準決勝戦(下)
「いやー、まいったまいった! まさかあいつが、あんな作戦でくるとはねー!」
控え室に戻ってくるなり、灰原選手は元気な声を響かせた。
が、多賀崎選手とトレーナーに左右から抱えられて、顔面に氷嚢を押しあてられた姿である。その肉感的な肢体も、汗でぐっしょり濡れそぼったままであった。
「無駄にスタミナを使うんじゃないよ。決勝戦を棄権するつもりなら、好きにすればいいけどさ」
「どーしてあたしが棄権しなきゃいけないのさ! さー、次の相手は魔法老女と
岩石女のどっちかなー!」
「試合は俺がチェックしておくから、お前さんは休んどけ。多賀崎、頼んだぞ」
苦笑を浮かべたサブトレーナーがモニターの前に居残り、他なる面々は控え室の奥に引っ込んでいく。それを尻目に、瓜子はサブトレーナーに呼びかけた。
「あの、灰原選手は大丈夫っすか? かなりパンチをもらってますよね」
「いちおうドクターからは、続行のオッケーをもらってるよ。どこまで動けるかは、あいつ次第だけどな」
サブトレーナーは不敵な面持ちで、肩をすくめた。
「ま、あいつだったら気合で何とかするだろ。気合と色気だけが、あいつの取り柄だからな」
四ッ谷ライオットの面々は、荒っぽい信頼関係で結ばれているのだ。友人とはいえ部外者の瓜子は、黙って見守るしかなかった。
そしてモニターでは、準決勝戦の第二試合が開始されようとしている。
まじかる☆まりりんこと鞠山選手に、アイアン・レスラーの異名を持つ亜藤選手の一戦だ。この試合の勝者が、決勝戦で灰原選手と雌雄を決するわけであった。
鞠山選手は百四十八センチ、亜藤選手は百五十五センチで、どちらも肉厚の体型をしている。鞠山選手は赤ん坊のようなずんぐりとした体型で、亜藤選手はごつごつとした岩のような体型だ。かたやストロー級で随一のグラップラー、かたや随一のレスラーという、準決勝戦に相応しいカードであった。
こちらの試合も、リベンジマッチ――というよりも、長い歴史の中で何度も対戦してきた間柄となる。そして、鞠山選手が二度か三度の敗北を喫したのち、近年になってリベンジを果たしたという立場であった。
(だから今回は、亜藤選手にとってのリベンジマッチになるわけだけど……前回の対戦は、去年の十一月大会だったっけ)
であれば一年も経っていないので、有利と見なされるのは鞠山選手のほうであろう。
ただし亜藤選手もこの一年足らずで三勝をあげて、波に乗っている。後藤田選手に武中選手、それにグラップリング・マッチで柔術の強豪選手を下して、実力のほどを見せていた。
しかしまた、その三名は鞠山選手とも対戦しており、全員が敗れている。両者はそれだけの実績を築いた上で、この舞台に立っているのだった。
(山垣選手だって、思わぬ作戦で灰原選手をあそこまで苦しめたんだからな。やっぱり、黄金世代はあなどれない。頑張ってくださいね、鞠山選手)
そのように念じる瓜子のかたわらでは、兵藤アケミや雅もいっそう真剣に見入っているようである。鞠山選手こそ、彼女たちにとっては同時代を生きた戦友であり――そして、最後に残された現役選手であったのだった。
「これは寝技の勝負になるのかにゃあ。期待の思いをかきたてられてならないユーリちゃんなのです」
と、隣のユーリはそんな囁きを瓜子の耳に注ぎ込んでくる。
そんな中、試合開始のブザーが鳴らされた。
鞠山選手はカエルのように、ぴょんぴょんとステップを踏む。
亜藤選手はケージの中央に陣取って、不動だ。もちろん周囲を回る鞠山選手に合わせて正対していたが、自分から近づこうという気配は皆無であった。
(まあ、亜藤選手はこれがセオリーだしな)
亜藤選手の突進力もかなりのものであるが、逃げ回る鞠山選手を捕まえるのはひと苦労であるのだ。であれば、鞠山選手が攻撃のために近づくのを待って、カウンターの打撃技や組み技を狙うのがセオリーであった。
鞠山選手は組み技に重きを置いておらず、亜藤選手は組み技をもっとも重視している。その差で、かつては亜藤選手が連勝していたのだ。すべては時間切れの判定勝利であったが、鞠山選手を相手に寝技にもつれこんでも勝負を譲らないレスリング力と粘り強さを有していた。
しかし鞠山選手の寝技は、齢を重ねるごとに練度が増しているように感じられる。
もとより寝技は、時間をかけただけ強くなると称されているのだ。おおよその技術は同じ側面を持っているはずなので、ことさら強調されるからにはその傾向が顕著であるということであった。
(亜藤選手が得意にしているのは、パウンドとポジションキープだけど……きっと鞠山選手なら、対処できるだろう。だからやっぱり、流れを決めるのは立ち技の攻防だな)
この立ち技の攻防で、どちらがどれだけのダメージを与えて、スタミナを奪えるか。それで、寝技の結果も変わってくるはずであった。
それがわかっているためか、鞠山選手のアクションも慎重である。
遠い位置から左フックのモーションを見せるばかりで、それも亜藤選手の腕に触れるか触れないかという牽制の攻撃だ。亜藤選手は踏み込みも鋭いので、いっそう警戒が必要であった。
そうして、客席の歓声に焦れたような響きが混じり始めた頃――ついに、亜藤選手のほうが動いた。
自ら下がって、背後のフェンスに近づいたのだ。
自分の動きが制限されないように、一メートルほどの距離を残したところで、亜藤選手は後退を止める。
もうこれで、背後に回られる恐れはない。また、左右の幅にも制限ができて、鞠山選手の行動範囲は半減したはずであった。
(普通はフェンスに押しつけられたくないから、あんな位置で迎撃しようとは考えない。組み技に自信を持ってる亜藤選手ならではの作戦だな)
鞠山選手は焦った様子もなく、ぴょこぴょことステップを踏んでいる。
そして――いきなり真っ直ぐ、相手に突っ込んだ。
さらに、接近の過程で跳躍して、短い右足をめいっぱい突き出す。
宇留間千花を思い出させる、アクション映画のごとき跳び蹴りである。
鞠山選手は幼児体型で、しかも魔法少女の姿であったため、いっそう芝居がかって見えた。
さすがに亜藤選手も虚を突かれたのか、咄嗟に身を丸めて防御に専念する。
頭部を守った両腕に、鞠山選手の右の足裏が激突した。
亜藤選手はさすがの体幹で、小揺るぎもしない。
そして、跳び蹴りをブロックされた鞠山選手は、そのまま後方に弾き飛ばされて――後ろ受け身のモーションとともに、背中からマットに落ちた。
そうしてマットに背中をつけた鞠山選手は、何事もなかったかのように両足を開く。
グラウンドで、相手を迎え撃つ体勢だ。それを強調するように、鞠山選手は指先で相手を差し招いた。
しかし、亜藤選手は動かない。
たとえ上のポジションを取れても、相手の両足に胴体をはさまれるガードポジションでは、決して有利とは言えないのだ。寝技巧者であるからこそ、亜藤選手はその事実を誰よりもわきまえているのだった。
「ふふん。やっぱりどんだけレスリングが得意でも、うかうかと花子ちゃんの庭場に飛び込む気にはなれへんやろねぇ」
「ああ。自分でタックルやスープレックスを成功させればリズムもつかみやすいけど、この状況じゃな。花子も最初から、このつもりであんな跳び蹴りを出したんだろう」
ジャグアルの両名は、そんな風に語っていた。
鞠山選手は万全の状態でマットに落ちたように見えたので、確かにその通りなのだろう。あの豪快な跳び蹴りは、見せ技に過ぎなかったのだった。
(それに、見せ技でも印象が強いし、相手の身体にしっかり届いてる。亜藤選手はまだ攻撃らしい攻撃も見せてないんだから、このままいけばポイントだって取れるはずだ)
考えれば考えるほど、鞠山選手の老獪さが際立っていく。
そんな中、亜藤選手が動かなかったため、スタンドで勝負が再開されることになった。
すると今度は、亜藤選手が前進を見せる。
鞠山選手はいっそうの勢いでステップを踏み、一定の距離を保った。
そうしてアウトサイドに回り込むと、この試合で初めての右ローを見せる。
相手が動けば、隙も生じるのだ。亜藤選手はかかとを浮かせて衝撃を逃がしたが、打撃を返すことも組み技に持ち込むこともできなかった。
「花子ちゃん相手に、無策やねぇ。前回の負けを教訓にでけへんかったんやろか」
「亜藤も前回の試合で、スープレックスっていう隠し玉を見せたからな。組みつけば勝機はあるって考えなんだろう。……最近の花子に組みつくのは、そう簡単な話じゃないけどな」
鞠山選手の優勢に、ジャグアルの両名はそれぞれ喜色をにじませている。
しかし瓜子は、また正体のわからない違和感を覚えていた。
(亜藤選手は執念深いし、かなり上昇志向も強い。そんな亜藤選手が、前回負けた相手に無策で突っ込むなんて……そんなのは、ありえない気がする)
しかしまた、瓜子ですらそのように思うのだから、鞠山選手にも油断が生じる恐れはないだろう。こと計算高さに関して、鞠山選手の右に並ぶ者はいないのだ。
そうしてじわじわと時間が過ぎても、鞠山選手の優勢は動かない。
亜藤選手も攻撃の手を出し始めたが、それはすべて空を切った。いっぽう鞠山選手はぴょこぴょこと動きながら、豪快な右フックや右ローをヒットさせている。その攻撃もすべてガードされていたが、これで完全にポイントは鞠山選手のものであった。
二分が過ぎ、三分が過ぎても、様相に変化はない。
まるで、二人のかつての熱戦が、そのままリプレイされているかのようだ。
そのように考えたとき、瓜子の背筋に冷たいものが走り抜けた。
二人の、かつての熱戦――それは、鞠山選手が連敗していた時代の記憶であったのである。あの時代、鞠山選手はこうして有利に試合を進めながら、終盤で打撃技やテイクダウンをくらい、そのまま塩漬けにされてポイントを奪われていたのだった。
(いや、今の鞠山選手だったら、そう簡単に劣勢になったりはしないだろうけど……)
瓜子はそのように考えたが、どうしても悪い予感が消え去らない。
そんな中、鞠山選手が何度目かの右ローを繰り出し――亜藤選手が、カウンターの左フックを繰り出した。
この一ラウンドだけでも、何度か繰り返された光景だ。
これまでは、鞠山選手が上手く回避して、自分の攻撃だけを当てていた。
しかし、今回の亜藤選手の左フックは、これまで以上の勢いで、しかも絶妙なタイミングであり――瓜子が息を呑むと同時に、亜藤選手の左拳が鞠山選手の右頬にクリーンヒットしていた。
右ローのさなかであった鞠山選手は、ぐらりとバランスを崩してしまう。
そのずんぐりとした胴体に、亜藤選手が組みついた。
亜藤選手が突進したため、鞠山選手はなすすべもなく背後のフェンスに叩きつけられる。
そして、その反動を利用して、亜藤選手が背中をのけぞらせた。
前回の試合で武中選手をKOした、フロントスープレックスである。
鞠山選手は両腕で自分の頭を抱え込み、なんとか墜落の衝撃を緩和させた。
しかしその間に、グラウンドで上を取られてしまう。亜藤選手はあえて鞠山選手の足の間に右足をねじこんでハーフガードのポジションを取り、まずは重心の安定に努めた。ハーフガードは上になった選手に行動の制限が生じるが、そのぶんポジションキープがもっとも安楽なのである。
思わぬ展開に、客席には歓声が、控え室にはどよめきがあげられている。
そんな中、重心を安定させた亜藤選手は、右腕で鞠山選手の首裏を抱え込みつつ、左拳でパウンドを落とし始めた。
これはまさしく、数年前の試合の再現である。
ただ一点、フロントスープレックスという新たな技が組み込まれた他は、瓜子が中学や高校の時代に見た両者の試合の再現であった。
「スープレックスの防御もしっかりできとったで、ダメージはないはずだろ! とっとと、上を取り返せ!」
これまでの冷静さをかなぐり捨てて、兵藤アケミがわめき散らした。
元来、彼女は熱情的な気質であるのだ。瓜子が初めて生身で対面した際、彼女は控え室でユーリを怒鳴りつけていたのだった。
「……いや、あらぁ相手が上手いで。あないにおもいきり拳を振りかぶりながら、重心はどっしり安定してるわ。あれじゃあ黒帯をゲットした花子ちゃんでも、そうそう動けへんやろなぁ」
どこか毒々しい気配を孕んだ声音で、雅がそのように言いたてた。
「だいたい、その前の右フックからして、勢いが違うたやろ? あのレスリング女は奇策を練るんちゃうくて、これまでの勝ちパターンを死ぬほど磨き込んできたみたいやねぇ」
「呑気に言ってる場合かよ! これじゃあ……また数年前に、逆戻りじゃねえか!」
「せやねぇ。せやさかい、花子ちゃんも数年分、年を食ってるんやで」
雅がそのように語る中、鞠山選手が怒涛のパウンドに対する防御を打ち捨てて、亜藤選手の分厚い胴体に両腕を回した。
それでも亜藤選手は岩のように動かず、ひたすら拳を振るい続ける。鞠山選手が密着したためにずいぶん窮屈になっていたが、それでも丸太のような腕を鋭角に曲げて、鞠山選手の無防備な顔面に拳を叩きつけた。
鞠山選手の目尻が切れて、ぺちゃんこの鼻からも出血が見られる。
鞠山選手は相手の胴体を抱きすくめたまま身をよじっているが、何の変化も見られない。このポジションキープの強さこそ、亜藤選手の最大のストロングポイントであるのだ。しかも彼女はその安定感をキープしたまま、パウンドの勢いだけが増していた。
レフェリーはマットに膝をついた体勢で、両腕を大きく開いている。
いつでもストップをかけられるようにという、予備動作だ。鞠山選手がガードを捨てたため、その刻限はいっそう早まったはずだった。
鞠山選手は両足を開いて、膝を曲げつつ、マットを踏みしめている。
いかにもポジションの逆転を狙っている挙動だが、亜藤選手はびくともしていないのだ。相手の重心を崩さない限り、如何なる返し技も無効になるはずであった。
しかしまた、鞠山選手がこの状況で無駄な動きをするとは思えない。
きっと何か瓜子のわからない領域で、静かな攻防が進行されているのだ。問題は、それがレフェリーストップの前に実を結ぶかどうかであった。
「……もう少し」と、ユーリが静かな声でつぶやく。
「……気張りぃや」と、雅は囁いた。
そうして亜藤選手が十何回目かの拳を振るおうとした瞬間――鞠山選手が、大きく腰を跳ね上げた。
何の変哲もない、ブリッジである。
しかしそれだけで、岩のように不動であった亜藤選手の身が跳ねあがり、横合いにねじ伏せられて、ポジションを逆転された。
そうして上になった瞬間、鞠山選手は相手の腰を乗り越えて、左腕をつかみ取り、横合いに倒れると同時に、その左腕を両足ではさみこんだ。
亜藤選手の逞しい左腕が、弓なりに反り返る。
きわめてシンプルな、腕ひしぎ十字固めである。
しかしこれほどのスピードで技が完成されるさまを目にしたのは、瓜子にとって初めてのことであった。
レフェリーがストップをかけるより早く、鞠山選手は技を解除して大の字になる。
亜藤選手もまた左腕を抱え込みつつ、ぐったりとマットに身をのばした。
『一ラウンド、四分三十三秒! 腕ひしぎ十字固めで、まじかる☆まりりん選手の一本勝ちです!』
そんなアナウンスとともに、大歓声が爆発する。
呆気に取られていた控え室の面々も、おっとり刀で拍手を贈ることになった。
「い、今のはどういう攻防だったんですか? まるで返せる気配もなかったのに、ブリッジの一発でひっくり返っちゃいました」
これまでつつましく口をつぐんでいた浅香選手が、おそるおそる問いかける。
それに対して、雅は「ふふん」と鼻を鳴らした。
「なんも特別な攻防はなかったやろ。相手はポジションキープに徹して、花子ちゃんが一瞬の隙を突いた。ただそれだけのこっちゃ」
「はあ……でも何か、鞠山さんはずっともぞもぞ動いてましたよね? あれが重心を崩す技術だったんですか?」
「技術もなんも、相手の重心をずらそうと苦心しとっただけやろ。それでパウンドを打つ瞬間に望み通りの結果になったさかい、ブリッジをかましただけや」
「ああ。何も特別なことはしちゃいない。ひたすら技の練度を上げてきた相手に対して、花子はそれ以上の練度で応じただけだ」
激情の消えた声で、兵藤アケミも会話に加わった。
「こういう試合を見せつけられると、やっぱり悔しいな。花子なんて、あたしより年を食ってるくせによ」
「年を食ったからこその、練度やろ。この調子で、最長老の威厳を見せつけてほしいとこやね」
そうして雅がくつくつと笑ったところで、運営のスタッフが控え室に駆け込んできた。
ずっと無言で試合を見守っていた四ッ谷ライオットのサブトレーナーが、「さて」と腰を上げる。
「灰原の希望通り、俺たちはお引越しだな。おたがいボロボロでハンデはないみたいだし、心置きなく殴り合ってもらうとするか」
同じ赤コーナー陣営の鞠山選手が勝利したため、若手の灰原選手が青コーナー陣営に移動するのだ。
瓜子の予想と希望の通りに、灰原選手と鞠山選手で決勝戦が行われるのである。
ただひとつ、瓜子の想像と違ったのは、両者がともに大きなダメージを負っていることであった。
ストロー級のチャンピオンベルトは、いったいどちらの腰に巻かれることになるのか――瓜子は心して見守るしかなかった。




