03 ストロー級・準決勝戦(上)
二試合目のプレマッチも無事に終了したならば、ついに王座決定トーナメントの開始である。
その初戦を飾るのは、灰原選手と山垣選手だ。KO決着の多い両選手の入場に、客席は大いにわきたっていた。
「これぞ、新旧KOファイターの対決ってやつだね。……ま、今と昔じゃルールが違うけどさ」
そんな言葉で評したのは、ジャグアルのトレーナーに就任した兵藤アケミである。トーナメントやリザーブマッチに出場する選手がウォームアップに励んでいるため、瓜子とユーリの周囲はすっかりジャグアルの面々に取り囲まれていた。
「べ、勉強不足で申し訳ありません。アトミックって、昔はずいぶんルールが違ってたんでしたっけ?」
そのように発言したのは、ジャグアルの期待の新人たる浅香選手である。彼女は瓜子より若い上に、もとは柔術の選手であったのだった。
「昔はキックやボクシングと同じように、ダウン制だったんだよ。相手の意識を奪えるぐらいのハードパンチャーじゃなくても、三回のダウンを奪えばKOできたってことさ」
「な、なるほどです。それじゃあハードパンチャーとしては、灰原さんのほうが上ってことですか?」
「山垣だって、ストロー級の女子選手としては指折りのハードパンチャーだろうけどね。ただ、灰原ってのはルールが変わる前も変わった後も、勝った試合は全部KOってキャリアだからさ。体重の軽さを考えたら、十分に化け物の類いだろうよ」
そんな風に答えてから、兵藤アケミは勇ましい笑顔を瓜子のほうに向けてきた。
「ま、こっちの猪狩もそれはおんなじことだし、世界の舞台でも記録更新してるんだから、ほんまもんの化け物だ」
「は、はい。猪狩さんは、灰原さんと山垣さんの両方にKO勝ちしてるんですもんね。本当に、すごいと思います」
「どっちも、ぎりぎりの勝負でしたけどね。山垣選手には、肘打ちで大流血させられてますし」
謙遜でも何でもなく、瓜子はそのように答えてみせた。灰原選手と山垣選手の強さは、対戦経験のある瓜子がもっともわきまえているつもりであるのだ。
そしてそれは、両選手にも言えることである。これは、およそ二年越しのリベンジマッチであったのだ。
当時は灰原選手のKO勝利で終わったが、それからの歳月で両名はさらなる成長を見せている。メイとの対戦で長期欠場した山垣選手は復帰以降、灰原選手にしか敗北していないのだ。あの頑丈そうな宗田選手をもKOで下してみせたのだから、ハードパンチャーの名に恥じない勇躍であった。
(リベンジマッチの場合、負けた選手のほうがより対戦相手の研究に励むっていう面もあるだろうからな。頑張ってください、灰原選手)
選手紹介のアナウンスを終えた両名は、ケージの中央でにらみ合っている。かたやバニーガールを模したレオタード姿で肉感的な肢体をした灰原選手、かたや厳つい顔立ちで筋肉質の体型をした山垣選手であったが、その顔に浮かぶのはどちらも不敵な笑みであった。
身長は、山垣選手のほうが四センチほどまさっている。スタイルがいいために上背があるように見える灰原選手であるが、実は瓜子より四センチ大きいだけであるのだ。まあ、ストロー級としては平均的な背丈であり、山垣選手が大柄であるという印象であった。
同じストライカーであっても、ファイトスタイルはまったく異なっている。灰原選手はインファイトとアウトファイトの二刀流で、山垣選手は頭から突っ込むラフファイターだ。どのような試合展開になるかは、おたがいの思惑で大きく変わってきそうなところであった。
「夏の合宿でも実感したけど、いまや武器が多いのは若い灰原のほうだろう。ベテランの山垣が、どこまでくらいつけるかだね」
「ふふん。得意な部分を押し通すか、年甲斐もなく裏をかくか、なかなかの見ものやねぇ」
兵藤アケミも雅も、この一戦には注目しているようである。《アトミック・ガールズ》の黎明期から近年まで支えてきた彼女たちは、第二世代たる山垣選手の活躍を長きにわたって見届けていたのだった。
ただおそらく、ジャグアルの面々は灰原選手の実年齢を知らないのだろう。灰原選手は若く見えるが、実年齢は山垣選手と一歳しか変わらないのだ。灰原選手は格闘技を始めるのが遅かったため、選手としてのキャリアには年齢差以上の開きが生じているわけであった。
(まあ、山垣選手がベテランで灰原選手が新参ってことに変わりはないんだから、実年齢はどうでもいいか)
そうしてモニターからは試合開始のブザーが鳴り響き、山垣選手が当然のように突進を見せた。
しかし瓜子は、(あれ?)と思う。山垣選手の挙動に、どこかこれまでと異なる気配を感じたのだ。
山垣選手は深いクラウチングの姿勢で、力強く前進している。数多くの試合で頭突きのアクシデントを招いた、がむしゃらな突進だ。
灰原選手はすぐさまウサギめいたステップワークでその突進を受け流したが――その足取りも、いつも以上の躍動感を見せている。普段よりも警戒して、大きく距離を取ろうとしているようだ。
「ふみゅ。山垣選手は、タックル狙いなのかにゃ?」
ユーリがそんなつぶやきをこぼすと、雅と兵藤アケミが同時に振り返る。
それに気づいたユーリは、たちまち「うにゃあ」と純白の頭を抱え込んだ。
「今のは、ひとりごとなのですぅ。みなさまの観戦をお邪魔してしまい、キョーシュクのイタリなのですぅ」
「いや、アタシもうっすらそんな風に思ったんだよね。モニター越しだと、ちょいとわかりにくいけど……視線や手の動きで、しきりにフェイントをかけてるんじゃないか?」
「年甲斐もなく、裏をかいてきたわけやねぇ。あの乱暴もんがタックルを成功させたことなんて、いっぺんもあらへんとちゃう?」
「成功どころか、タックルを仕掛けたところも見たことがないぐらいだね。それじゃあ寝技の腕にも期待できないけど……パウンドのことを考えると、警戒せざるを得ないだろうね」
兵藤アケミの言う通り、灰原選手は大股のステップで逃げ惑っている。
灰原選手は決勝戦で鞠山選手や亜藤選手にあたることを想定して、組み技の回避についても稽古を積んでいたが――山垣選手はそちらの両名と異なり、灰原選手よりも上背でまさっているのだ。背丈だけで言えば、多賀崎選手と同等であった。
(だから、多賀崎選手を相手にしてるときと同じ要領で、大きく距離を取ってるのか。でも、これは……ペースをつかむのが難しそうだぞ)
山垣選手は突進力が凄まじいし、意外にカウンターが上手い――というか、防御を捨てて自分の攻撃を当てようという、肉を切らせて骨を断つスタイルであるのだ。瓜子もかつては山垣選手の研究に励んだ身であるため、そこに組み技のフェイントまで織り込まれるのはきわめて厄介であるという実感を抱いた。
(それでもあたしはインファイターだから、近距離で活路を見出すしかない。でも、灰原選手はアウトスタイルも得意だから……選択肢が多い分、迷いが出ちゃうかもしれない)
灰原選手はアグレッシブな気性であるため、逃げるばかりではペースをつかめずストレスを溜めてしまうのだ。かといって、いきなり相手の庭場であるインファイトに持ち込むのは避けたいところであろうし――ラフファイトと組み技の二つを持ち出されては、余計にそういった思いがつのるはずだった。
「山垣もあんまり手を出さず、フェイントをかけながらの突進だ。これならカウンターも取られにくいし、判定でも有利な印象を与えるだろうね」
「つくづく、らしくない戦法やねぇ。年寄りが必死こく姿は、身につまされるわぁ」
「年寄りって言っても、まだぎりぎり三十前ぐらいだろ。スタイルチェンジに、遅すぎることはないさ」
口の悪い雅も実直な兵藤アケミも、どこか山垣選手に期待をかけている様子である。
まあ、灰原選手とは合宿稽古や打ち上げで顔をあわせるだけの関係であるし、加齢を理由に引退した人間としてはベテラン選手に思い入れを抱くものであるのかもしれない。瓜子は瓜子なりに、灰原選手を応援するしかなかった。
(セコンドには、多賀崎選手もついてる。きっと何か、有効なアドバイスを送ってくれるはずだ)
正直に言って、四ッ谷ライオットというのは戦略を得手にしているジムではない。それもあって、灰原選手や多賀崎選手は週の半分をプレスマン道場で過ごしているのだ。こういう際には、沈着な多賀崎選手がもっとも頼もしいのではないかと思われた。
果たして、フェンスの外から何かアドバイスが送られたのか――灰原選手がステップをゆるめて、左ジャブを繰り出した。
それで顔面を叩かれたが、山垣選手の突進は止まらない。そしてその逞しい両腕が、灰原選手の足もとを抱え込んだ。
フェイントではなく、本当の両足タックルである。
しかしやっぱりフォームもタイミングも今ひとつであったため、灰原選手は倒れない。しかし、突進の勢いに押されて、背中をフェンスにぶつけることになった。
山垣選手が身を起こして、壁レスリングの開始である。
名うてのストライカー同士の対戦で、このような展開を予測できた人間は少ないことだろう。鬼ごっこの展開だけですでに一分半が過ぎていたので、客席からはブーイングがあがり始めていた。
壁レスリングにおいても、山垣選手に洗練した技術は見られない。力まかせに灰原選手の身を押しやっていたが、すぐに右腕を差し返されて、がっぷり四ツの体勢になった。
灰原選手も、組み技の稽古を積んできたのだ。このように力まかせの壁レスリングで、そうそう劣勢になることはなかった。
しかし、押す力は山垣選手のほうがまさっているのだろう。灰原選手は四ツの状態に戻してもそれ以上は有利な状況を作ることができず、ひたすら山垣選手の圧力に耐えていた。
そのさなか、レフェリーが眉をひそめながら何か声をあげる。
どうやら、山垣選手に口頭注意を与えているようである。山垣選手の動きが荒っぽいために、その頭が灰原選手の下顎にごつごつと衝突しているようであった。
(これは……ストレスがつのるいっぽうだな。これで余計に、組みつかれたくないって意識が植えつけられちゃうかもしれないぞ)
灰原選手も過酷な稽古を積むことで、精神的な成長を果たしてきた。しかしやっぱり大きく分ければ、直情的な気性であるのだ。自分が優勢なときには凄まじい爆発力を発揮させるが、劣勢の際には焦って失敗をすることも少なくはなかった。
そしてモニターでは、山垣選手が新たな動きを見せている。
相手をフェンスに押しつけながらの、膝蹴りだ。灰原選手の肉感的な内腿に、山垣選手の頑丈そうな膝が何度となく叩きつけられた。
しかしそうしてアクションを起こせば、逃げる間隙も生じる。
灰原選手は相手の咽喉もとに左腕をねじこんで、なんとか圧力を押し返しながら、瞬発力でサイドに逃げることがかなった。
灰原選手の左の内腿は真っ赤になっていたが、今のところはステップに乱れも見られない。その顔も、意外に焦ってはいないようだ。
ただその豊満な肢体が、すっかり汗に濡れてしまっている。思わぬ壁レスリングの攻防で、スタミナを使ってしまったのだ。不利な状況で逃げ回っていた際にも、相応にスタミナを削られたはずであった。
「山垣は、長期戦を見据えた戦い方だね。まあ、この準決勝戦は二ラウンドまでだけどさ」
「せやさかい、判定で勝負がつかんかったら、延長ラウンドやろ? 決勝戦を考えたら、それは避けたいとこやろねぇ」
トーナメント戦には、そういった思惑まで生じてしまうのだ。
それは、劣勢の選手により大きなプレッシャーを与えるはずであった。
(でも、灰原選手はまだ冷静だ。きっと、乗り越えられるはず――)
瓜子がそのように考えたとき、山垣選手がこれまで以上の勢いで突進した。
一気に距離を潰された灰原選手は、カウンターのショートフックを繰り出す。
ステップで逃げようとしなかったのは、スタミナに不安があったためなのか、あるいは内腿にダメージがあるためなのか――何にせよ、最近の灰原選手のセオリーからは外れる所作であった。
灰原選手のショートフックをかいくぐった山垣選手は、胴体につかみかかる。今度は、胴タックルである。
灰原選手はたたらを踏んで、またフェンスに押しつけられてしまう。
再びの、壁レスリングだ。今度はさきほど以上の勢いで、ブーイングが吹き荒れた。
そしてレフェリーは、また山垣選手に注意を与えている。
おそらく強引な胴タックルで、頭がぶつかったのだろう。灰原選手も、痛そうに顔をそむけていた。
「ふふん……絵に描いたような泥試合やねぇ」
「ああ。だけど、一番重要なのは勝つことだからな。しかもこれは、ベルトをかけた戦いなんだからな」
兵藤アケミはそのように語っていたが、やっぱり瓜子にとっては意想外であった。山垣選手がこのような搦め手で攻めてくるというのが、あまりに腑に落ちなかったのだ。
(そりゃあ山垣選手だって、この大一番で戦略を練ることはあるだろうけど……でも、なんだかしっくりこない)
これは理屈ではなく、感性の問題である。
山垣選手の常ならぬ動きが、瓜子に違和感をもたらしたのだ。
(もしかしたら、拳を負傷してパンチを打てないとか……あるいは、もしかして……)
瓜子が思案を巡らせる中、試合は膠着状態と見なされて、ブレイクがかけられる。
灰原選手は、いっそう汗だくの姿だ。
口も大きく開いており、肩を上下させている。
劣勢に立たされた選手は心拍数があがって、余計にスタミナを消耗するのである。この三年余りでプロファイターとして恥ずかしくない持久力をつけた灰原選手も、相応に削られてしまっていた。
それに、左の内腿が赤を通り越して青紫色になってしまっている。
二度目の壁レスリングでも、存分に膝蹴りをくらってしまったのだ。ここまでダメージを負ったならば、ステップワークにも何らかの支障が生じるはずであった。
灰原選手の思わぬ苦境に、客席には大歓声とブーイングが同じ勢いで吹き荒れている。
そんな中、山垣選手が驚異的なスタミナで突進して――そして、右フックを繰り出した。
灰原選手はとっさにガードを固めたが、パンチの衝撃でよろめいてしまう。
そこに、左の拳も飛ばされた。レバーを狙った、強烈な一撃である。
灰原選手は腕を下げてその攻撃もガードしたが、やっぱり勢いに押されてしまう。スタミナの欠乏と足のダメージで、踏ん張ることができないのだ。
そうして山垣選手は、左右の拳を振り回した。
彼女本来の、荒っぽい乱打戦である。これまで別人のような動きを見せていた山垣選手が、突如として本来の姿を取り戻したのだ。
(やっぱり……最初から、これが狙いだったんだ)
山垣選手は、長期戦や判定勝負など考えていなかった。灰原選手のスタミナと機動力を奪えるだけ奪ったのちに、こうしてインファイトを仕掛ける作戦であったのだ。
おそらく山垣選手は、スタミナの残量を考慮していない。第一ラウンドの残りわずかな時間で、灰原選手を沈めようとしている。そうとしか思えないほど、暴虐なる乱打の嵐であった。
ブーイングは消え去って、すべてが大歓声に転じる。
その瞬間、灰原選手の右アッパーが山垣選手の下顎にめりこんだ。
灰原選手は逃げるのではなく、乱打戦に応じたのだ。
打たれ強い山垣選手は怯みもせず、さらなる拳を叩きつける。
すると灰原選手も、同じだけの攻撃を返した。防御を二の次にした、文字通りの乱打戦である。
勢いがあるのは山垣選手のほうであるが、正確性は灰原選手のほうがまさっている。
そして、灰原選手の右フックがクリーンヒットすると、山垣選手の目尻から血が飛散して――それで、山垣選手の勢いが増した。自分の血を見たことで、山垣選手のリミッターが外れたのだ。
もともと勢いで負けていた灰原選手は、じりじりと後方に押されていく。
その間も手は出し続けていたが、フェンスまで追い込まれたら万事休すである。自分は拳を振るうスペースを奪われて、殴られるいっぽうになってしまうはずであった。
残り時間は、四十秒ほどだ。
しかし、山垣選手の乱打は止まる気配もない。
灰原選手の目尻も割れて、赤いものが飛散した。
背後のフェンスまでは、もう一メートル足らずである。
それでも瓜子が灰原選手の底力を信じて、拳を握り込んだ瞬間――山垣選手の右フックをスウェーバックでかわした灰原選手が、いきなり後方に跳躍した。
山垣選手は勢い込んで、前のめりになりながら左拳を振りかざす。
しかし灰原選手はマットに着地せず、右足でフェンスを蹴りつけた。
そして、前手の左拳を真っ直ぐ繰り出す。
フェンスを蹴っての、スーパーマンパンチだ。
派手好きの灰原選手は、時おり稽古場でもそんな姿を披露していたが――試合の場でそんな無茶な動きを見せたのは初めてのことであった。
槍のように突き出された灰原選手の左拳が、山垣選手の顔面に突き刺さる。
さらにはおたがいの胴体が接触して、両者はもつれあいながらマットに倒れ伏した。
レフェリーは困惑の表情で、両者の横合いに回り込む。
そんな中、ぷるぷると身体を震わせながら立ち上がったのは――灰原選手のほうであった。
左の目尻からは血を流し、右目の下は青く腫れている。
そして全身はバケツで水をかぶったように汗だくで、肩を大きく上下させていたが――立ち上がったのは、灰原選手のほうであった。
後ろざまにひっくり返った山垣選手は、両腕で宙をかいている。
もしかしたら、無意識のままに拳を振るっているのだろうか。
その姿を確認したレフェリーが頭上で大きく手を振って、試合終了の合図を示した。
大歓声の中、灰原選手はよろめいてフェンスにもたれかかる。
一ラウンド四分四十八秒、灰原選手のKO勝利であった。




