02 開演
試合前の下準備を完了させて、開会セレモニーの時間が近づいたならば、瓜子と付き添いのサキはスタッフの案内で青コーナー陣営の入場口に導かれることになった。
そちらには、馴染みの薄い選手ばかりが居揃っている。唯一懇意にしているのは赤星道場の関係者だけで、それに次ぐのは深見塾という有り様であった。
それらの面々とはルールミーティングの前に挨拶をしていたので、ここでは会釈のみで済ませる。いちおう赤コーナー陣営の控え室に身を置いている瓜子が、この段階で青コーナー陣営の選手に干渉するのは不適切なのだろうと思われた。
本日はプレマッチが二試合に本選が十試合、さらにそれとは別にエキシビションマッチが組まれている。
しかしまた、トーナメント戦がふた組も存在するため、普段よりも二名少ない二十二名という人数だ。その半数が、今この場に集っていた。
プレマッチの片方には、ドッグ・ジムの照本菊花が出場する。
その後の本選は、第一試合からトーナメントの準決勝戦だ。
第一試合は、灰原選手と山垣選手。
第二試合は、鞠山選手と亜藤選手。
第三試合は、オリビア選手と青田ナナ。
第四試合は、小笠原選手とジジ選手。
そして、決勝戦までに休息の時間を与えるため、ここにリザーブマッチとエキシビションマッチとワンマッチがはさみ込まれる。
第五試合はリザーブマッチで、武中選手と宗田選手。
第六試合も同じく、高橋選手とサム・ウヌ選手。
準決勝戦で勝利した選手が負傷などで決勝戦を辞退する場合、リザーブマッチに勝利した選手が代わりに出場権を得るわけであった。
ここで十五分間のインターバルが入れられて、第七試合はユーリと瓜子のエキシビションマッチだ。
第八試合はワンマッチで、浅香選手と《フィスト》のアマチュア選手による査定試合となる。プロ昇格をかけた一戦とはいえ、アマチュア選手の査定試合がこのような終盤に組まれるというのは、なかなか異例の話であった。
第九試合もワンマッチで、香田選手と加藤選手。
そして、第十試合がストロー級の決勝戦、第十一試合がバンタム級の決勝戦であった。
(後半に浅香選手や香田選手の試合が組み込まれてるのが、ちょっと奇妙な気分だけど……まあそれも、若手の選手をないがしろにしたくないっていう意識のあらわれなんだろうな)
それに瓜子も浅香選手と香田選手の実力に関しては、夏の合宿稽古で思い知らされている。たとえ実績が乏しくても、彼女たちならば観客を失望させることはないはずであった。
「それでは、入場を開始します!」
スタッフによって、開会セレモニーの開始が告げられた。
まずはプレマッチに出場するアマチュア選手に、山垣選手や亜藤選手が続いていく。
その間に、サキが瓜子に囁きかけてきた。
「こっちの連中も、大物食いをしてやろうって気配がムンムンだなー。ずいぶん殺気だってやがるぜ」
「押忍。それは当然の話っすよね」
そしてやっぱり、殺気と無縁なのは瓜子のみである。
瓜子はユーリとの対戦に感慨を噛みしめつつ、客寄せパンダとしての本分を全うする所存であった。
青田ナナにジジ選手、宗田選手にサム・ウヌ選手と続いて、次が瓜子の出番である。
意味もなくサキに頭を小突かれてから、瓜子は花道に足を踏み出した。
客席からは、惜しみない拍手と歓声が降り注がれてくる。
前大会では王座返上セレモニー、今大会ではエキシビションと、公式試合に出場できなくなった瓜子が連続で試合場にしゃしゃり出ている。その申し訳なさを打ち捨てるには、やっぱり客寄せパンダとしての気概というものが必要であるのだった。
先に入場した八名に続いて、瓜子はケージの外側に立ち並ぶ。
その間にユーリの名がコールされて、会場にはいっそうの歓声がわきたった。
ピンクとホワイトの公式ウェアを纏ったユーリは笑顔でひらひらと手を振りながら入場して、やがて瓜子のもとに近づいてきた。瓜子は青コーナー陣営の列の端に配置されており、ユーリと隣り合うポジションであったのだ。二メートルほどの間隔を置いて立ったユーリは、瓜子に遠慮のない笑顔を向けてきた。
『以上の二十二名が、本日の出場選手となります! プレマッチを含めて、全十三試合! どうぞ熱戦をご期待ください!』
ケージの中央でそのように宣言してから、リングアナウンサーはすぐさまフェンスの扉へと足を向ける。そしてその扉は、瓜子とユーリの狭間に存在した。
『それでは! 本日のメインイベントは王座決定トーナメントの決勝戦となりますため、どの選手が勝ち上がるかはまだ不明となります! 選手代表の挨拶は、エキシビションマッチに出場する猪狩選手とユーリ選手にお願いいたします!』
そのために、瓜子とユーリはこの立ち位置となったのである。
客席からは、期待に満ちた歓声があふれかえった。
『まず、猪狩選手! 本日は、ついにストロー級とバンタム級の新たな王者が決定されます! かつてご自分が巻かれていたストロー級のチャンピオンベルトを巡って、四名の選手が死闘を繰り広げるのです! 猪狩選手は、どのような思いでありましょうか?』
『押忍。そんな大事な日にエキシビションマッチで出場するというのは気が引ける部分もあったんですが、自分は客寄せパンダに徹することにしました』
瓜子がそのように告げると、客席からは意外そうなどよめきがあげられた。
しかし瓜子は客前で実直に振る舞うしか能がなかったし、今の発言もその一環であるつもりであった。
『今日の自分とユーリさんは、まぎれもなく賑やかしの客寄せパンダだと思います。でも、動物園でもパンダだけを見て帰るお客さんはいないでしょう。動物園にはトラやライオン、キリンやゾウだっているんです。自分はパンダよりライオンのほうが好きですし、そういうお客さんは多いんじゃないかと思います』
話がいったいどこに着地するのかと、客席はずいぶんざわついている。レトロなマジシャンのような風体をしたリングアナウンサーも、いくぶん心配げな表情だ。そんな人々に向かって、瓜子は心からの真情を吐露した。
『でも、客寄せパンダには客寄せパンダの気概ってものが必要でしょう。パンダはごろごろ転がってるだけで可愛いですけど、自分が胸を張ってお見せできるのは試合だけです。同門選手の公開スパーリングでも客席のみなさんにご満足いただけるように、頑張ります。そうしてパンダの芸に満足したら、心置きなくトラやライオンの活躍を楽しんでください。自分も控え室のモニターで、しっかり楽しませていただくつもりです』
うろんげであったざわめきが、安心したような歓声に変転する。
瓜子は精一杯の思いを込めて、一礼してみせた。
『猪狩選手、ありがとうございました! 続いて、ユーリ選手! ひと言お願いします!』
『はぁい。うり坊ちゃんはごろごろ転がってるだけでかわゆらしさの極致ですけれども、試合をすると魅力も百倍増ですのでぇ。ユーリも負けずに頑張りたいと思いまぁす』
瓜子の珍妙な語りがお気に召したらしく、ユーリは楽しげに笑っている。
そして珍しくも、自ら言葉を追加した。
『それでもって、他のみなさんの試合もすっごく楽しみにしていまぁす。トーナメントに出場する方々もそうでない方々も、みなさん頑張ってくださいねぇ。ユーリもうり坊ちゃんと一緒に、こっそり応援していまぁす』
『ユーリ選手、ありがとうございました! わたしも職務を全うしながら、ひとりの格闘技ファンとしてすべての試合を見守らせていただきます! それでは、選手退場です!』
瓜子は名残惜しげに手を振るユーリに笑顔を返してから、反対側の花道へと足を向けた。
大歓声の中、入場口に舞い戻ると、案内役のスタッフとサキが待ちかまえている。そしてさっそく、サキに頭を小突かれることになった。
「ったく、わけのわかんねーことを長々としゃべりやがって。たかがエキシビションで、鼻息を荒くするんじゃねーよ」
「エキシビションにしか出場できない身として、自分なりに存在意義を考えたんすよ。それを客席のみなさんにもお伝えしたかったんです」
「タコの考え、何とやらだな。そら、とっとと控え室でくつろぐぞ」
そうして瓜子たちは他なる選手たちと逆の進路を取り、赤コーナー陣営の控え室を目指した。
そちらでは、トーナメントに出場する面々がウォームアップに励んでいる。第一試合の灰原選手はその合間に、瓜子の背中をばしばし叩いてきた。
「うり坊も、ずいぶん口が回るようになったじゃん! きっとあちこちでインタビューを受けてきた成果だねー!」
「そんな実感はないですけどね。とにかく灰原選手は、頑張ってください。みんなと一緒に応援してますからね」
「おーよ!」と答える灰原選手は、肉感的な肢体に熱情と気合をみなぎらせている。山垣選手には先年に勝利しているが、もちろん油断している気配は皆無であった。
サキは小笠原選手のウォームアップに加わり、瓜子とユーリは控え室の片隅でひっそりと身を寄せ合いつつ、モニターの様子をうかがう。
第一試合はアマチュア選手のプレマッチで、照本菊花の登場だ。犬飼京菜がセコンドについているためか、客席にはなかなかの歓声がわきおこっていた。
照本菊花は百六十五センチという長身で、キックをルーツにする有望なアマチュア選手である。その実力は、お盆の出稽古でしっかり発揮されていた。
(照本さんはのんびりしてるけど、いざという場面では思い切りがいいからな。ドッグ・ジムの人たちにあれだけしごかれていたら、成長するのが当然だし……もうプロでも十分にやっていける実力だろう)
瓜子はそのように考えていたし、小笠原選手や多賀崎選手なども同じような言葉を口にしていた。それぐらい、照本菊花は確かな成長を見せていたのだ。
その対戦相手となるのは、《フィスト》のアマチュア大会でそれなりの実績を築いたという、やはり有望な選手である。身長は百六十センチで、立ち技も組み技も寝技も一定の水準に達した、隙のないファイトスタイルであるとのことであった。
(照本さんはキックのキャリアがあるから、やっぱりストライカーなんだろうけど……でも、ドッグ・ジムの稽古で組み技や寝技も磨いてるからな。きっとどんな場面でも、いい勝負ができるはずだ)
瓜子がそんな思いを浮かべる中、試合開始のブザーが鳴らされた。
以前の試合では犬飼京菜さながらのロケットスタートを見せていた照本菊花であるが、今回は自重したようだ。ただその前進のステップは、きわめてのびやかで力強かった。
そうして相手に接近するなり、照本菊花は右ミドルを射出する。
相手はしっかりガードしたが、それでも上体が揺らぐぐらいの勢いであった。
照本菊花はさらに踏み込んで、今度は左ジャブを連発する。
五センチの身長差を活かした、いい攻撃だ。相手はガードを固めるばかりで、反撃することもままならなかった。
これではならじと判じたか、相手は勢いよくバックステップして後方に逃げる。
照本菊花は追撃せず、それを見送った。こういう部分は、のんびりした気性が反映されるのだ。彼女は相手の動きを見てから対応する手腕に長けており、今のところはそれが長所として発露していた。
距離を取った相手選手は、深いクラウチングの姿勢を取る。
組み技を狙うのかと思いきや、相手選手はその姿勢で突進して乱打戦を仕掛けた。
(懐に入れば、自分のほうが有利だっていう考えなのかな。確かに照本さんは、一見ではローペースのスタイルに感じられるからな)
以前のプレマッチにおいても、照本菊花は四分ばかりも相手の出方をうかがったのち、カウンターの膝蹴り一発で勝負を決めたのだ。ひょろりとした体型と相まって、機動力が不足しているようにも見えた。
しかしそれはあくまで印象の話であるし、彼女もこの数ヶ月間で大きく成長している。ドッグジムまで出稽古におもむいた面々は、その成長のさまをしっかりと見届けていた。
乱打戦を仕掛けられた照本菊花は、慌てず騒がずステップを踏んで、相手の攻撃を回避している。
相手選手の突進力に負けない、軽妙なステップワークだ。
そして、なかなか攻撃を当てられない相手選手が、仕切り直しとばかりにバックステップを踏み――それと同時に、照本菊花が後ろ足で踏み込んだ。
犬飼京菜や沙羅選手も得意にする、ダニー・リー直伝の踏み込みである。後ろ足で踏み込んだ照本菊花は、前足で槍のごときサイドキックを繰り出した。
後ろ足で踏み込んだ分、サイドキックは相手選手の腹に深く突き刺さる。
相手選手が苦しげに身を折ると、照本菊花は大きなスイングで右フックを振り下ろした。
ヘッドガードで守られた相手選手のこめかみに、照本菊花の右拳がクリーンヒットする。
相手選手が顔からマットに落ちたため、レフェリーはすぐさま試合をストップさせた。
一ラウンド一分二十五秒で、照本菊花のKO勝利である。
交流の深い選手たちはウォームアップのさなかであったため、「へえ」と声をあげたのは柔術道場ジャグアルの特別顧問、雅であった。
「相手もアマとしてはぼちぼちやったのに、百秒以内の秒殺かいな。わんころ娘も、なかなかの逸材を育てとるやないの」
「押忍。照本さんは、かなりの地力だと思いますよ。自分はプロでやっていける実力だと思いました」
「ああ、瓜子ちゃんらはドッグ・ジムまで出稽古に出向いたいう話やったな。……階級がかぶっとったら、うちらも舌なめずりしてたとこやねぇ」
妖艶なる微笑をたたえながら、雅はそう言った。そちらの新人選手である浅香選手と同階級であったならば、未来のライバルとして無視できないという意味であろう。幸い、照本菊花はひとつ下のフライ級であった。
「せやさかい、気張らなあかんのはあんたやね。あの娘っ子がのしあがってくる前に、あんたが王座を狙うんやで?」
そんな言葉を投げかけられた香田選手は、恐縮しきった様子で「はい」と応じる。照本菊花と同階級であるのは、彼女のほうであったのだ。かつてはトップファイターとして扱われていた香田選手であるが、今は階級を落として一歩ずつ地盤を築いているさなかであった。
(フライ級も、どんどん賑やかになっていきそうだな)
そんな思いを胸に、瓜子は雅に笑いかけた。
「何にせよ、有望な新人選手が出てくるのは心強い限りっすね。浅香選手がプロに昇格できるように祈ってますよ」
「ふふん。うちはエプロンサイドからにらみつけるだけの、気楽なお仕事や」
なかなか内心をさらさない雅は、くつくつと笑いながらそんな風に言っていた。
雅と兵藤アケミに二人がかりでしごかれていれば、浅香選手も香田選手もさらなる成長を余儀なくされることだろう。出番はまだまだ先の話であるが、照本菊花に負けない活躍を期待したいところであった。




