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アトミック・ガールズ!  作者: EDA
31th Bout ~Scorching Summer~
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07 次なる時節へ

『それでは、最後の曲でぇす!』


 ユーリの声が高らかと、黄昏刻の夏の空に響きわたった。

 ここは茨城県のひたちなか市で、野外フェスの真っただ中である。時節は八月の下旬であり、『トライ・アングル』にとってはこれがこの夏の最後の公演であった。


『ハダカノメガミ』のイントロが奏でられると、ユーリはピンク色のTシャツを脱ぎ捨てて、ピンク色のビキニ姿をあらわにする。そうして丸められたTシャツが客席に投じられると、いっそうの歓声がわきたった。


 瓜子は胸をいっぱいにしながら、ユーリたちの躍動を見守っている。このイベントでは一時間の持ち時間をいただけたので、そのぶん瓜子の情緒は乱されまくっていた。


 八月の空は、ゆっくりと暮れなずんでいく。

 瓜子は何だか、夏そのものの終わりを見届けているような心地であった。


 八月はまだあと一週間ばかりも残されていたが、瓜子たちにとっての夏らしいイベントというのは、これがクライマックスであったのだ。

《アトミック・ガールズ》の七月大会から始まって、《フィスト》の八月大会、『サマー・スピン・フェスティバル』、赤星道場の合宿稽古、ドッグ・ジムにおける五日間の出稽古――そして本日の野外フェスが、夏の締めくくりである。


 それ以外は時おり副業の仕事が入るぐらいで、ひたすら稽古の日々であった。

 それでもこういう野外フェスや合宿稽古があるおかげで、まだしも季節を感じることができるのだろう。他なる季節の移り変わりには頓着しない瓜子でも、夏の終わりにだけはしみじみとした感慨を噛みしめることがかなったのだった。


『どうもありがとうございましたぁ! また遊びに来てくださいねぇ!』


『ハダカノメガミ』が終了すると、すべてのメンバーがステージに立ち並び、手をつないで一礼する。瓜子も客席の人々とともに、拍手でユーリたちを祝福した。


 やがて汗だくのメンバーたちが、舞台袖に舞い戻ってくる。

 瓜子の最初の仕事は、あられもない姿をしたユーリの肩にビーチタオルを投げかけて、ドリンクボトルを差し出すことであった。


「お疲れ様でした。今日も最高のステージでしたよ」


「ありがとぉ。……これで夏も終わっちゃったねぇ」


 ユーリはゆるみきった笑顔で、そのように言った。

 ユーリも瓜子と同じような心境なのだろうか。そのように考えると、瓜子はむやみに嬉しくなってしまった。


「じゃ、打ち上げは次のステージを観てからな! 悪いけど、ちっとばっかり待っててくれよ!」


 タツヤたちは、笑顔でステップを駆け下りていく。このあと、別なるステージで、タツヤたちがひいきにしているバンドのライブが行われるそうであるのだ。観戦に来てくれた女子選手と合同の打ち上げは、その後に予定されていた。


 とりあえず、ユーリは楽屋に戻って着替えである。

 千駄ヶ谷と二人でユーリの身を守りながら、楽屋として設営されたプレハブの建物へと足を向ける。こちらは完全に屋外のステージであったので、『ジャパン・ロック・フェスティバル』を彷彿とさせる様式になっていた。


 他なる出演者たちも客席に向かったのか、楽屋は無人である。

 それでも用心をしてパーティションの裏で着替えたユーリは、あらためて「ふいー」と息をついた。


「今日も楽しかったにゃあ。そしてまんまと、ビキニ姿をお披露目してしまったのでぃす」


「はい。それが本心からの欲求によって施行されるため、客席の盛り上がりにも大きな影響を与えるのでしょう」


「むにゃあ。いつかショートパンツまで脱ぎ捨ててしまうのではないかと、不安を禁じ得ないユーリちゃんなのでぃす」


「そちらの下にも水着を着用していただいているのですから、ご随意に。ただし、それ以上の露出は控えていただきたく思います」


「むにゃにゃあ。人前ですっぽんぽんになるほど、ユーリは恥じらいを知らない人間ではないつもりなのですぅ」


 そんな和やかな会話を繰り広げたのち、千駄ヶ谷は瓜子に冷徹なる眼差しを向けてきた。


「では、私は今の内に運営陣にご挨拶をしてまいります。お二人は、ずっとこちらで身を休めるご予定でしょうか?」


「そうっすね。少なくとも、客席に出ることはないかと思います」


「では、携帯だけはいつでも出られるようにお願いいたします」


 そうして千駄ヶ谷が退室していくと、ユーリは自前のストローハットを純白の頭にかぶせた。


「ねえねえ。たまにはお外でくつろぎたいのだけれども、うり坊ちゃんにもお許しをいただけるかしらん?」


「珍しいっすね。でも、客席ではないっすよね?」


「うみゅ。うり坊ちゃんと二人きりで、夕涼みを満喫したい心地であるのでぃす」


 天使のような笑顔でそのように言われては、瓜子も従うしかなかった。

 ここはステージの裏手であるので、建物を出てもスタッフがちらほらと行き交っているばかりである。こちらのステージが次に使用されるのは一時間後であったため、まだ平和なものであった。


 その閑散とした空間で、さらに人気の少ない場所を探して散策する。

 やがて到着したのは、背の低い石垣だ。背後は樹木が立ち並び、その向こう側にはフェンスが張り巡らされていたので、不審者に近づかれる恐れも少なかった。


「とりあえず、座れればいいっすかね」


「うみゅ。ユーリはうり坊ちゃんさえいてくれたら、それだけで大満足なのでぃす」


 今日は早い時間から『トライ・アングル』のメンバーと合流して、二人きりになるのは朝方以来となる。それでユーリは、いささか甘えん坊モードなのかもしれなかった。


 しかしまた、ユーリに甘えられて困ることはない。瓜子に対する接触嫌悪症が解除されても、ここぞという場面を除いてはべたべたとひっつかれることもないのだ。そう考えると、ユーリのほうが灰原選手よりも理性的なのかもしれなかった。


 ユーリと二人で石垣に腰かけながら、瓜子は視線をさまよわせる。

 すでに午後の七時が近いため、夕空は紫色に染まりつつある。ここは海浜公園の敷地内であったので、うっすらと潮の香りがした。


 まだ八月であるために、この時刻でも気温は高い。

 だけどやっぱり、夏の盛りよりはずいぶん過ごしやすいだろう。そよそよと涼風も吹いていたので、熱中症の心配も不要であった。


「あらためて、夏も終わりっすね。あとは十月の試合まで、ひたすら稽古ざんまいっすか」


「うみゅ。最近は、いつでも稽古ざんまいだけどねぇ。ユーリは、幸せいっぱいの日々なのでぃす」


「そうっすね。撮影の仕事も、ずいぶんセーブしてもらってますし……むしろ試合が間遠になった分、のんびり過ごしてるような感覚っすよね」


「うみゅうみゅ。《ビギニング》より先に、アトミックの九月大会だものねぇ。試合のペースがのんびりなのが、唯一の寂しさであるのでぃす」


「年に四回の契約だから、だいたい三ヶ月にいっぺんのペースですもんね。そのぶん、試合の内容はハードになっていくんでしょうけど」


 自宅のマンションでも交わしているような、ごく何気ない会話である。

 しかしそれも夏の終わりの空の下だと、ずいぶん風情が加算されるようであった。


 ユーリはストローハットのつばの陰でわずかに目を細めながら、暮れなずむ夕空を見上げている。

 すっかり汗もひいて、つくりもののような美しさだ。いつも全身にみなぎっている生命力もステージで消費したためか、ユーリはとても穏やかな雰囲気であった。


「……今ごろグヴェンドリン選手たちは、稽古の真っ最中ですかね」


「そうなのかにゃあ。だとしたら、羨ましい限りなのでぃす」


「ステージの直後でもそんなことを言えるのが、ユーリさんのすごさっすよ。……またシンガポールで再会するのが楽しみっすね」


「うみゅ。シンガポールのみなさんはお強くて、ユーリもエツラクのイタリなのでぃす」


 そう言って、ユーリはいっそう目を細めた。

 睫毛までもが純白であるために、神秘的な美しさが加算される。そしていつしかユーリの横顔には、雪の精霊のごとき微笑みがたたえられていた。


「エイミー選手たちのおかげで、今年はいっそう楽しい夏だったねぇ。うり坊ちゃんと出会って以来、ユーリの幸せ気分は増大していくいっぽうなのです」


「それは自分も、同じことっすよ。……夏の終わりを実感して、しんみりしちゃったんすか?」


「そうなのかにゃあ。……前にも言ったかもだけど、ユーリはあんまり幸せすぎて……夢の中をぷかぷか漂っているような心地であるのです」


 ユーリの眼差しは、ずっと黄昏刻の空に向けられている。

 それが、何だか――瓜子の胸を、頼りなく震わせた。


「やっぱりユーリは今でも病院のベッドにいて、ただ幸せな夢を見ているだけなんじゃないかって……そんな風に思うときもあるんだよねぇ。試合が終わって、ねむねむになって、目をさましたらベッドの上で、ユーリはひょろひょろに痩せたままで……でも、おめめが覚めるとまだケージの中だから、ユーリはいつもあれあれって不思議に思っちゃうんだよねぇ」


「……ユーリさん、こっちを向いてもらえますか?」


 ユーリは同じ表情のまま、瓜子のほうに顔を向けた。

 純白の睫毛に縁取られた淡い色合いの瞳には、まさしく楽しい夢でも見ているような光が宿されている。瓜子は何だかたまらない気持ちになって、ユーリの手を握ることになった。


「これは夢なんかじゃありませんし、ユーリさんはしっかり回復したんすよ。もう退院してから一年以上も経ってるのに……まだそれが信じられないんすか?」


 ユーリはまぶたを閉ざしながら、静かな声音で「ごめんね」とつぶやいた。

 瓜子は泣きたいような気持ちで、ユーリの手を強く握りしめる。


「何を謝ってるんすか? さっぱりわけがわかんないっすよ」


「うん。今のは、うり坊ちゃんを心配させちゃったことに対するおわびの言葉なのです」


 そうしてユーリは、ゆっくりとまぶたを開き――星のような輝きを取り戻した瞳で、瓜子を見つめ返してきた。


「ユーリはあまりに幸せだから、これが現実だってことが信じられないだけなのだよ。それで……来年の夏もうり坊ちゃんと一緒に楽しく過ごせたらいいなぁって妄想してるだけなのです」


「来年も再来年も、十年後だって一緒っすよ。いつか格闘技を引退したら、一緒に道場のお手伝いでもさせてもらいましょうよ」


「にゃはは。そんな幸せな妄想の材料を追加されたら、ユーリはますます夢見心地になってしまうのですぅ」


「夢見心地でいいっすよ。いつでも自分が手を引っ張って、ユーリさんを呼び戻してみせますから」


 ユーリは瓜子の手をぎゅっと握り返しながら、「ありがとう」と言った。

 もういつも通りの、無邪気で子供のようなユーリである。それで瓜子も、ようやく騒いでいた胸を静めることがかなった。


 その間にも、八月の空はどんどん暗くなっていく。

 そうして瓜子たちは、例年以上に賑やかであった夏を乗り越えて――次なる時節に足を踏み入れることになったのだった。

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