act.5 夏の終わり 01 猛犬の根城
赤星道場主催の合宿稽古を終えて、二日後――八月の第二日曜日である。
前日の土曜日は通常通りプレスマン道場に通い、本日からはいよいよドッグ・ジムにおける出稽古であった。
今日は祝日で明日は振替休日、そしてその翌日からはお盆休みとなるため、プレスマン道場は五連休となるのだ。もともとこの期間は選手だけで自主トレーニングに励み、休み明けにプレスマン道場の稽古で締めくくり、シンガポール陣営は帰国する手はずになっている。その自主トレーニングの期間が、そのままドッグ・ジムにおける出稽古に切り替えられたわけであった。
「お盆休みまで出稽古とか、マジで練習中毒だよねー! どいつもこいつも、ドMなんだから!」
灰原選手はそのように言っていたが、都合がつく時間帯は彼女も参加する予定になっている。多くの女子選手が参加を表明していたため、休んだ人間はそれだけ後れを取るという構図であった。
「まあ、きっちり休むことも大切だけどさ。シンガポールの人らがいる間は、オフを入れるのも惜しくなっちゃうよね」
横浜駅で合流した小笠原選手はゆったりと力強く笑いながら、そう言った。
小笠原選手は東京本部道場に滞在している期間、指導員として働いているため、やはり日曜祭日が休日であるのだ。武魂会の大会があればもちろんそちらの手伝いに駆り出されるが、この五連休はまるまるオフという話であった。
その他に同行しているのはシンガポール陣営の三名と、瓜子、ユーリ、愛音、オリビア選手、高橋選手という顔ぶれになる。多賀崎選手は灰原選手に合わせて夕方からの参加、鞠山選手と小柴選手、蝉川日和と武中選手は明日からの参加、そして里帰りの予定がある鬼沢選手は出稽古を辞退していた。
『ユーリのライブの日と合宿の最終日は稽古を休んだので、体調的に無理はありません。本日の稽古も期待しています』
携帯端末の翻訳アプリを使ってそのように答えたのは、エイミー選手である。逆に言うと、彼女たちは日本に滞在する半月の期間でその二日間しかオフを入れていないのだった。
瓜子とユーリはぽつぽつ副業の関係で抜ける時間があったが、その間もシンガポール陣営の三名は絶え間なく稽古に励んでいたのだ。彼女たちも《ビギニング》十月大会のオファーを受けていたので、意欲を燃えさからせていたのだった。
「エイミーはロレッタ、ランズはイーハン、それでグヴェンドリンはレッカーだったっけ。そりゃあ、燃えるよね」
高橋選手の言葉に、今度はグヴェンドリン選手が「ハイ」と応じる。
『半年前にはウリコのサポートをするために、レッカーの対策を練ることになりました。今度は自分のために、その成果を活かせます』
「グヴェンにとっては、リベンジマッチだもんね。あたしもできる範囲で、サポートさせていただくよ」
高橋選手の大らかな笑顔に、グヴェンドリン選手は翻訳アプリを使わずに「アリガトウゴザイマス」と応じる。
すると、愛音がじっとりとした目つきで高橋選手をねめつけた。
「……なかなかセコンドのお手伝いができない学生の身分を、心から呪わしく思うのです。高橋選手には愛音の分まで、ユーリ様のお世話をお願いしたいのです」
「うん。めいっぱい頑張るから、その恨みがましい目つきは勘弁しておくれよ」
「……愛音が恨んでいるのは我が身の境遇ですので、高橋選手がお気になさる必要はないのです」
実はこのたび《ビギニング》十月大会のセコンド役に抜擢されたのは、鞠山選手と高橋選手であったのだ。高橋選手も普段は天覇館の仕事を手伝いつつアルバイトで生計を立てている身であったが、このために二週間にも及ぶ休みを取りつけてくれたのだった。
ただし両名は、シンガポールに出立する一週間前に《アトミック・ガールズ》で試合を行う立場となる。そちらで大きな負傷をしたならば、また別なる候補者にお願いするしかなかったが――どのみち大学の講義がある愛音は、候補に入っていなかった。
「あたしはあたしでなかなかの強敵とやりあうから、どう転ぶかもわからないけどね。あたしがくたばったら、第二候補は小柴だったっけ?」
「押忍。小柴選手は鞠山選手のお店で働いてますから、シフトの都合がつけやすいみたいです」
「なるほど。でも、小柴なんかは九月に試合もないんだから、そっちを第一候補にするべきだったんじゃない?」
「そこは、スパーリングパートナーとしての適性が関わってるみたいっすね。今回は、自分にとってもユーリさんにとっても、高橋選手の存在がありがたいんすよ」
瓜子とユーリの対戦相手は、どちらも名うてのオールラウンダーとなる。身近な女子選手でもっともスタイルが近く、なおかつ腕力に秀でているのは、この高橋選手であったのだった。
「そこまで言ってもらえたら、あたしもますます気合が入っちまうね。……だから、そんな目でにらむなってば」
「にらんでいないのです」
高橋選手と愛音のやりとりに、瓜子はついくすりと笑ってしまう。そして、隣を歩くユーリに耳打ちをした。
「なんか、弥生子さんがらみの話ですねるユーリさんを思い出しちゃいました」
「すねてないですぅ」と、ユーリは瓜子の頬をつついてくる。しかし、赤星弥生子が眼前にいるわけでもないので、ユーリの目も笑っていた。
そんなこんなで、ドッグ・ジムに到着する。
河川敷に存在する、工場エリアの一画だ。廃工場から転用されたドッグ・ジムを目の前に迎えて、小笠原選手は「へえ」と笑みくずれた。
「なんか、いかにも秘密のアジトって雰囲気だね。こいつは、気分が高まってきたよ」
「ええ。でも、トレーニングの設備は充実してますよ」
勝手知ったる瓜子が通用口のドアを開けて、一行をせまい通路に案内する。その最果てに存在する右側のドアが、稽古場への入り口であった。
そのドアの前まで歩を進めると、くぐもった衝撃音が聞こえてくる。誰かがサンドバッグでも叩いているのだろう。
そうして瓜子がそのドアをノックすると、稽古場には不似合いな可憐なる少女が出迎えてくれた。サキと一緒に先行していた、牧瀬理央である。
「どうも、おひさしぶりです。お元気でしたか、理央さん?」
理央は嬉しそうに微笑みながら、「あい」とうなずいた。まだいくぶん舌足らずな口調であるが、もはや松葉杖を使うことなく動くことができるようになっている。頭の怪我で車椅子の生活を送っていた理央も、この数年でここまで回復したのだった。
「おう、来たか。とりあえず、入ってくれや」
稽古場の奥のほうから、大和源五郎が気安く呼びかけてくる。
そして、その指導を受けていた子供たちがいっせいに「押忍!」という可愛らしい声をあげた。プレスマン道場のキッズコースに所属する、『あけぼの愛児園』の児童たちである。本日も、六名のフルメンバーが顔をそろえてお邪魔していた。
リングの上でダニー・リーを相手にスパーを行っていた犬飼京菜も、しかたなそうに下りてくる。そちらと一緒に参じたのはサキとマー・シーダムの両名で、大和源五郎のかたわらには榊山蔵人の大きな姿もあり――さらに、サンドバッグを蹴っていた最後の一名もこちらに近づいてきた。
「あ、どうも、あなたもいらっしゃったんですね」
「はい。面白そうなんで、お邪魔しちゃいましたぁ」
それはドッグ・ジムの新人門下生で、《アトミック・ガールズ》のプレマッチにも出場していた女子選手であった。
百六十五センチというなかなかの長身だが、体型はいくぶんひょろりとしている。階級は多賀崎選手や魅々香選手と同じフライ級だが、それに比べるとずいぶんな細身であろう。もともとはキックのアマ選手であり、MMAを学ぶためにドッグ・ジムに入門したのだという経歴であった。
「いちおう何度かは、挨拶をさせてたよな。本来、一般門下生は入れない日取りなんだが、こいつと蔵人の坊主も参加させてかまわねえかい?」
大和源五郎の言葉に、瓜子が代表者として「もちろんです」と応じる。
「こちらは軒をお借りする立場ですからね。どうぞよろしくお願いします」
「そんなに馴染みのない人らもいるだろうから、いちおうあらためて紹介しておくか。……うん? なんだい?」
「シンガポールの人たちは日本語が覚束ないんで、よかったらどうぞ」
小笠原選手が差し出した携帯端末を受け取った大和源五郎は、どこか照れくさそうな面持ちでそれを構えた。
「こんなジジイがこんな機械を偉そうに扱うのは、何だか恐縮しちまうな。……こっちの陣営の紹介をさせていただくよ。道場主兼選手の犬飼京菜。寝技のコーチが俺、大和源五郎。立ち技のコーチ、マー・シーダム。立ち技と寝技のコーチ、ダニー・リー。一般門下生の榊山蔵人と、こっちは照本菊花だ」
犬飼京菜は百四十二センチに四十キロ前後という小さな体躯で、やたらと毛量の多い茶色の癖っ毛を無造作な三つ編みに結っている。それなりに親睦を深めた現在も、そのぎょろぎょろと大きな目には反骨の炎が渦巻いていた。
大和源五郎は坊主頭の大男で、そろそろ還暦を超える年頃となる。皺深い顔は土佐犬に似ており、漁師のような塩辛声であった。
マー・シーダムはタイ人らしくやや小柄で、女性のように柔和な面立ちをしている。寡黙でひかえめな性格だが、犬飼京菜に古式ムエタイの技を伝授したのは彼であるはずであった。
ダニー・リーはすらりと背が高く、革鞭のように引き締まった身体つきをしている。黒いざんばら髪の隙間から切れ長の目と痩せこけた顔が覗いており、相変わらず冷たい迫力に満ちていた。
榊山蔵人は犬飼京菜と同じく二十一歳の世代で、百九十センチはあろうかという長身と分厚い体格を有しているが、とても気弱でいつも目を泳がせている。その眼差しは、穏やかなゾウのように優しげであった。
照本菊花なる新人門下生は、どこか飄々とした雰囲気だ。そののほほんとした面持ちは、時任選手を思い出させてやまなかった。
(あらためて、個性的な面々だよなぁ。……まあ、こっちも人のことは言えないけどさ)
こちらも瓜子が代表者として、九名で編成された女子選手を紹介した。
ドッグジムの面々は、やはりシンガポール陣営の三名を注視している。その中から声をあげたのは、当然のように大和源五郎であった。
「グヴェンさんにエイミーさんに、ランズさんね。『アクセル・ロード』や《ビギニング》の試合はすりきれるほど拝見したから、名前よりもファイトスタイルのほうが頭にこびりついてるよ。これから五日間、どうぞよろしくな」
『はい。よろしくお願いいたします』
「それでそっちは、小笠原さんに高橋さんにオリビアさんか。ずいぶんとまた、大柄な面々が居揃ったもんだね」
「たまたまバンタム級の人たちがそろいましたけど、夕方には灰原選手や多賀崎選手もいらっしゃいますよ。他の方々も、ドッグジムでの出稽古を楽しみにしています」
「そいつは何よりだ。こっちも夕方には沙羅が顔を出すはずなんで、よろしくやってくんな」
大和源五郎のそんな言葉に、グヴェンドリン選手たちは期待の眼差しを浮かべる。『アクセル・ロード』で準決勝戦まで勝ち進み、ユーリとも名勝負を演じた沙羅選手は、シンガポール陣営の三名に大きな関心を寄せられているのだ。
かくして、五日間に及ぶドッグ・ジムの出稽古は粛然と開始されたのだった。




