07 二日目
合宿稽古の、二日目である。
携帯端末のアラームよりも早起きをした瓜子とユーリは、朝の散歩に興じていた。
海岸の砂浜は朝焼けが眩しく、波の音はやわらかい。遠くのほうではサーフィンに励む人影が見受けられたが、瓜子たちの周囲は無人であった。
「なんだか、懐かしいねぇ。いつだったかの合宿でも、こうやって二人きりのらぶらぶタイムを満喫してたよねぇ」
目立つ頭を隠すためにストローハットをかぶったユーリが、幸せそうに微笑みながら語りかけてくる。朝から温かい気持ちになりながら、瓜子は「ええ」と応じた。
「たぶん、初めて合宿に参加した年でしょうね。たしかそのときに、弥生子さんと六丸さんの朝稽古を覗き見しちゃったんでしたっけ」
「うん、そうそう。懐かしいねぇ。ノスタルジーだねぇ」
去年はこれほどの早起きはしていなかったはずであるし、一昨年は日程の都合で二日目から参加した。であればやっぱり、それは三年前の出来事であるのだろう。瓜子たちが初めて参加した、合同合宿――《カノン A.G》にまつわる騒乱が勃発した時代のことであった。
あれは心から忌まわしい出来事であったが、それが引き金となって《アトミック・ガールズ》は世界水準のルールに改正された。また、ショー的要素を重んじる初代代表の花咲氏が更迭されて、気弱ながらも実直な駒形氏が新たな代表として就任したのだ。それがなければ、瓜子とユーリが世界に進出する道筋は立てられなかったのかもしれなかった。
(まあ、ユーリさんはその影響で大変な怪我をしちゃったけど……今はこんなに幸せそうに笑ってくれてるもんな)
ユーリが退院してすでに一年以上が経過しているが、瓜子がその得難さを忘れたことは一日としてなかった。
あるいはそれは、試合直後の謎の昏睡という後遺症が残されているために、忘れたくても忘れられないのかもしれないが――幸福や不幸に無自覚に生きるよりは、よほど望ましいことなのではないかと思われた。
「今年の合宿稽古も、充実してますよね。体力的にはしんどいですけど、これを乗り越えて十月の試合を頑張りましょう」
「うみゅ。《ビギニング》は《アトミック・ガールズ》より試合数が少ないから、待ち遠しさがつのるばかりですわん」
「あはは。隔月ペースの試合ってのは負担が大きいから、これが普通のペースらしいっすけどね。その分は、他のみなさんの応援を頑張りましょう」
「そうだねぇ。ストロー級もバンタム級も、誰が優勝するのだろうねぇ」
そんな何気ない会話をしているだけで、瓜子の心は深く満たされていく。
社交性の低いユーリはもちろん、瓜子にとってもこういう二人きりの時間というのは重要であるのだ。雪の精霊のように美しいユーリの横顔を眺めながら、その甘ったるい声を聞いているだけで、瓜子はゆったりとした多幸感にくるまれるような心地であった。
そうしてたっぷり二十分ばかりもかけて無人の砂浜を往復すると、宿のあたりに黒い人影がわだかまっている。
瓜子が目を凝らすと、人影のひとつが子供のようにぶんぶんと手を振ってきた。夏の盛りであるのに長袖のTシャツを着込んで、頭のシルエットは綺麗な楕円形である。人相までは確認できなかったが、それは『ベイビー・アピール』のタツヤに間違いなかった。
「わぁ、『トライ・アングル』のみなさんも到着したんだねぇ。やっぱりレクリエーションの時間に遅れることはなかったねぇ」
「後半の言葉は、余計っすよ」
そうして瓜子が頬をつっつくと、ユーリはいっそう幸せそうに微笑んだのだった。
◇
かくして、二人きりの時間は終焉して、賑やかな合宿稽古が再開された。
二日目の朝からは、『トライ・アングル』のメンバーと千駄ヶ谷も参加する。その目的は、朝方のビーチ遊びと、午後からのMMAスクールと、夜間の稽古の見物と、そして打ち上げだ。彼らもこれで、三年連続の参加であったのだった。
「ベイビーもワンドも、昨日はライブだったんでしょー? それで朝から駆けつけるなんて、ほんとに熱心だよねー! このスケベ!」
そんな風に言いながら、灰原選手は自慢げに水着姿を見せびらかせている。もちろん瓜子はパーカーとショートパンツを着込んで、小さくなっていた。
新たなメンバーを加えて、二日目のレクリエーションである。タトゥーを隠すためにタツヤはラッシュガードの姿であり、海に入らない漆原も長袖のシャツに手袋を着用だ。漆原に限っては、目的の半分は千駄ヶ谷との交流なのだろうと思われた。
もちろんキッズコースの門下生やその保護者たちは、大喜びである。有名なロックバンドのメンバーとビーチ遊びをともにするなど、なかなか得難い体験であることだろう。そしてそれが三年も続くと、いっそうの親近感が生まれるようであった。
そうしてビーチ遊びを終えたならば、豪華なランチをはさんでMMAスクールの開講となる。
今回も受講者は厳正なる抽選によって、百名が集められていた。そして、期待通りにユーリや『トライ・アングル』の面々の姿を見出して、多くの人間が瞳を輝かせていた。
「うり坊だって、そのひとりでしょー? あれだけグラビア活動に励んでたら、知名度だって『トライ・アングル』に負けてないんだしさー!」
「しかも今では、世界クラスのトップファイターなんだわよ。そんな相手に無料でレッスンを受けられるなんて、なかなか破格な話だわね」
「いやいや。自分なんて、講師としては素人ですからね。初心者の人たちに間違ったことを教えないように、いつも冷や汗ものですよ」
しかし本年も瓜子は立ち技部門の講師を任されてしまったので、死力を尽くすしかなかった。
シンガポール陣営の三名は、模範演技の役割を担ってくれる。そうして無事にスクールが閉会した折には、グヴェンドリン選手がしみじみと感慨をこぼしていた。
『格闘技の普及のためにこういった催しを開くというのは画期的で、素晴らしいことです。また、日本が格闘技大国であるという事実を再確認しました』
「ええ。日本でも、ひと昔前だったら考えられないことなんでしょうね」
シンガポールはいまやアジアで随一の格闘技先進国とされているが、それは国として豊かであり、興行もジムも潤っているためであるのだろう。正確な数値などは知り得ないが、競技人口などではやはり日本のほうがまだまだ上回っているのではないかと思われた。
『そもそもシンガポールと日本では人口に二十倍の差があるので、競技人口の差は比較にもならないでしょう。シンガポールは潤沢な資金によって海外から有力な選手やトレーナーを招聘しているために、MMAの質が高まったのだと思います』
グヴェンドリン選手も、そんな言葉で瓜子の考えを補強してくれた。
やはり日本とシンガポールは、同じ格闘技大国でありながら対極的な存在であるようだ。そうだからこそ、こういった選手間の交流も有意義なのではないかと思われてならなかった。
MMAスクールののちに二日目の稽古が開始されると、瓜子のそんな思いはさらに強まった。日本とシンガポールの選手は、それぞれ異なる強みを持っていると再確認するに至ったのだ。
(赤星道場と関西勢にも個性的な選手が多いから、いっそう実感できたのかな)
瓜子は自分の稽古に取り組みながら、可能な範囲で他の選手たちの稽古も検分させていただいた。
シンガポール陣営の三名は、誰もが卓越した力を備え持っている。彼女たちは基本がしっかりしている上に、フィジカルにも秀でているのだ。瓜子がかねてから思っていた通り――そして昨晩も話題にあがった通り、それはおおよそ一階級分のパワー差であるように感じられた。
ストロー級であるグヴェンドリン選手は、一階級上のトップファイターと同等のパワーを持っている。これまでは多賀崎選手しかサンプルがなかったが、魅々香選手、マリア選手、香田選手が加わったことにより、その事実が浮き彫りにされた。
そしてエイミー選手とランズ選手に至っては最重量のバンタム級であるために、女子選手の中では随一のパワーであるのだ。小笠原選手、高橋選手、鬼沢選手、青田ナナも、ことパワーに関しては両名に太刀打ちできなかった。
オリビア選手などはさらに頑健な骨格を有しているはずであるが、パワーで対抗できるのは立ち技のみだ。組み技や寝技においては、グヴェンドリン選手が相手でも大きな苦労を強いられるほどであった。
(それで、ユーリさんだけは、やっぱりちょっと測定不能なんだよな)
ユーリも日本人選手としては、規格外のパワーを持っている。ユーリはこう見えて体脂肪率十パーセント未満という身であるため、筋肉量はシンガポール陣営に負けていないのだ。
しかしユーリは稽古の場において、そのパワーを前面に押し出す機会が少ない。
立ち技においては相変わらず基本を全うできていないし、組み技では怪我を誘発するスープレックスを禁止されているし、寝技においては機動力で圧倒してしまうため、どこでどのようにパワーを使っているのかがいまひとつ判然としないのだ。
よって、ユーリは除外するとして――シンガポール陣営のパワーにもっとも苦労させられているバンタム級の選手は、やはり青田ナナであるように思えた。
他の面々には、それぞれ独自の強みが存在する。小笠原選手はグローブ空手、オリビア選手はフルコンタクト空手、高橋選手と鬼沢選手は天覇館と、それぞれ近代MMAとは異なるルーツを有しているのである。
その中で近代MMAにもっとも近しいのは天覇館であるが、そちらももともとは空手と柔道の融合を目指した競技であるし、高橋選手と鬼沢選手を比較するだけでもさまざまなスタイルが育まれることは立証されていた。
然して、青田ナナというのはきわめて正道な近代MMAの使い手である。
赤星道場とて個性的なルーツであり、それはマリア選手や大江山すみれの存在が証し立てているのであるが、青田ナナはその環境でひたすら正道を追い求めたのだろうと思われた。
(青田コーチは近代MMAに対応しきれなくて、《JUF》の舞台で結果を残せなかった。だから青田さんは、近代MMAの技術の習得に熱心だったのかもしれない)
以前から、瓜子はそのように推察していた。
そしてこのたび、より洗練された近代MMAの使い手と相対したことで、その事実が明るみにされたのかもしれなかった。
エイミー選手とランズ選手は、パワーで青田ナナを上回っている。そして近代MMAの技術に関しても、青田ナナを上回っているのだ。ランズ選手などは生粋のグラップラーであったが、青田ナナの攻撃を危なげなく受け止めて、寝技に引き込むことが可能であるようであった。
これがまさしく、世界の壁というものであるのだろう。
青田ナナはかつて『アクセル・ロード』においてルォシー選手という強豪選手に打ち勝っていたが、彼女は当時からエイミー選手に劣るとされていたのだ。ルォシー選手に勝つことはできても、エイミー選手に勝つことは難しい――それが、厳然たる事実であるようであった。
(それで多賀崎選手なんかは、ルォシー選手より立派な戦績を持つロレッタ選手に勝ってたけど……あれこそ、作戦勝ちだったもんな)
そして青田ナナは、その多賀崎選手にも辛勝している。
やはりMMAというのは、相性が重要であるのだ。
その相性によって、青田ナナはエイミー選手とランズ選手に大きく阻まれているのだった。
(そういえば、ルォシー選手はムエタイ出身のストライカーだったっけ。青田さんにとっては、ストライカーよりもグラップラーやオールラウンダーのほうが手ごわいってことなのかな)
まあ、このような考察にはキリがないし、頭でいくら考えても机上の空論である。
ただ、青田ナナがエイミー選手とランズ選手に苦戦していることは確かであり――その事実こそが青田ナナに大きな成長をうながすのではないかと、小笠原選手はそのように推察しているわけであった。
「……猪狩さんは、こんな環境でも他の選手を検分する余裕があるんですね」
稽古のインターバルでそんな言葉を投げかけてきたのは、ちょうど瓜子とのスパーを終えた大江山すみれであった。
彼女は汗だくで疲労困憊の様子であったが、その顔には内心の知れない微笑がたたえられている。いっぽう内心を見透かされた瓜子は「いやあ」と頭をかくことになった。
「さすがにスパーの最中にわき見をする余裕はありませんよ。こういうインターバルで、ちょっとみなさんの様子を拝見しているだけです」
「だからそれが、余裕のある証拠なんです。わたしはどうやって猪狩さんを切り崩すかで頭がいっぱいで、周りを見ている余裕なんてひとつもありません」
そんな言葉も皮肉であるのかラブコールであるのか判然としない、厄介な大江山すみれである。瓜子はあえて好意的に受け取って、笑顔を返してみせた。
「大江山さんだって、大したもんじゃないっすか。いまだに寝技ではかないませんし、立ち技のスパーだって一瞬も気が抜けませんよ」
「その寝技も、そろそろパワーと機動力で突破されそうです。立ち技に関しては、あくまでカウンターを警戒しているだけでしょう? 猪狩さんが本気で攻め込んできたら、わたしなんて三十秒ももちそうにありません」
「そんなたらればは、禁物っすよ。試合になったら古武術スタイルが解禁されて、大江山さんももっと手ごわくなるんですからね」
しかし確かに瓜子は大江山すみれとのスパーで、これまでほど苦労をしなくなっていた。寝技の技術に関しては瓜子がじわじわ追いついてきているのであろうし、立ち技に関しては――やはりここ最近はシンガポール陣営とのスパーを重ねていたので、瓜子の感覚がより研ぎ澄まされていたのだった。
「……弥生子さんの言う通り、猪狩さんはいまや世界級のトップファイターです。こうして手合わせしていただけることを、光栄に思います」
そのように語る大江山すみれはにこやかに微笑みながら、その目に隠しようのない熱情をたぎらせている。それで瓜子も心置きなく、彼女とのスパーに取り組むことがかなったのだった。
(身になってるのは、おたがいさまだよ。合宿稽古に参加してくれたみなさんには、本当に感謝だな)
瓜子は心から、そのように思うことができていた。
大江山すみれはカウンターの名手であるため、やはりスパーでは一秒も気を抜くことができない。また、組み技ありのスパーであれば、彼女のテイクダウンの技術も小さからぬ脅威であった。
マリア選手は相変わらず躍動感の塊であり、立ち技でも寝技でも難敵である。瓜子は普段からアウトスタイルの名手たちに稽古をつけてもらっていたが、天性のバネという面ではマリア選手が随一であった。
青田ナナはシンガポール陣営に苦労させられているが、二階級も軽い瓜子にとっては余りあるほどの強敵だ。なおかつその堅実で力強いスタイルは、今の瓜子にとって格好のスパーリングパートナーであった。
夜間のみお相手をしてもらえる赤星弥生子は、もちろん一番の難敵である。堅実さという意味では青田ナナのほうがまさっているが、赤星弥生子もカウンターの名手であるし、あとはおそらく分析力というものが際立っているのだ。瓜子はいまだに立ち技のスパーリングでも、赤星弥生子に会心の攻撃を当てることができずにいた。
あとは魅々香選手も、やはり難敵である。彼女は小柄な相手を苦手にしているが、その豪腕はやはり脅威であるのだ。瓜子は毎回有利にスパーを進めることができていたが、それもめいっぱい集中力を振り絞った結果であった。
それに比べると香田選手はまだ粗い部分が目につくものの、組み技ありのスパーになると脅威の度合いが倍ほども跳ね上がる。そして寝技に関しては、魅々香選手と同程度の力量であった。
浅香選手は立ち技において、まだまだ瓜子の敵ではない。ただその長いリーチをかいくぐるのは簡単な話ではなかったし、寝技においてはお話にもならない。魅々香選手や香田選手はポジションキープ重視であったが、彼女はユーリに負けないぐらい機敏に動くので、いっそう厄介に感じられるほどであった。
鞠山選手の厄介さは、今さら言うまでもないだろう。鞠山選手はこれだけ長時間の稽古でも最後までステップワークの足取りが乱れないので、終盤に向かうにつれて苦労は増していった。選手としては最年長でありながら、おそるべきスタミナである。
それらの面々に比べると、武中選手はまだしも与しやすい相手であったが――彼女の真っ直ぐな熱情は、瓜子を刺激してならなかった。なおかつ、寝技に関しては瓜子が胸を借りる立場であったし、瓜子と体格が同程度で寝技に長けた選手というのはあまり身近に存在しなかったため、そういう意味でもありがたい存在であった。
もともと出稽古でお世話になっている人々やシンガポール陣営に加えて、それだけのメンバーと手合わせすることがかなうのである。
わずか二日間であっても、瓜子は得難い時間を過ごせた心地であったし、おおよその人間は同じ喜びを噛みしめているのだろうと信ずることができた。
そうして二日目の稽古は、午後の八時にまで及び――苦悶と悦楽に満ちた時間は、それで終わりを迎えたのだった。




