05 大怪獣の腕試し
そうして楽しくも過酷な時間はあっという間に過ぎ去って、気づけば夕食の時間であった。
キッズコースの門下生は、これで本日の稽古も終了となる。赤星大吾の調理を手伝っていた保護者の面々と合流して、あとは楽しい自由時間だ。
いっぽうキッズコースならぬ選手一同は消費したカロリーを補給したのち、さらに過酷な夜間の稽古である。
栄養の補給としばしの休憩で、体力はあるていど回復する。足りない部分は、気力で補うしかない。そして、夜間から参戦する赤星弥生子がウォームアップしている姿を目にするだけで、瓜子の気力はキャパいっぱいであった。
「ここからは基本的に自主稽古となるが、もちろんトレーナー陣もぬかりなく力を添えてくれる。くれぐれも怪我のないように、それぞれの課題に取り組んでもらいたい」
ウォームアップを完了させた赤星弥生子は、そんな挨拶で口火を切った。
シンガポール陣営は、食い入るようにその凛々しき姿を見据えている。瓜子やユーリが対戦した試合を見て以来、彼女たちは赤星弥生子に大きな関心を寄せているのだ。瓜子にとっても、誇らしい限りであった。
「まずはあなたと試合形式のスパーに取り組ませていただきたい。……だそうだわよ」
鞠山選手がシンガポール陣営の意向を伝えると、赤星弥生子は「ふむ?」と小首を傾げた。
「スパーはまったくかまわないが、試合形式とは? そちらも十月に試合を控えているのだから、身をつつしむべきではないでしょうか?」
「もちろん負傷を避けるために、無茶な真似はしないと約束する。ただ、あなたの本領は試合形式でないと実感できないのではないかと考えた。……だそうだわよ。まあ、あんたの力量や稽古に対する姿勢に関しては、うり坊たちからみっちり聞き及んでるんだろうだわね」
そう言って、鞠山選手はずんぐりとした肩をすくめた。
「あんたは稽古で、大怪獣タイムと古武術スタイルの両方を封印しているんだわよ。それで、立ち技の技術はトキちゃんと同レベル、寝技の技術はわたいやピンク頭にやや劣るていどだわね。つまり、個別のスパーでは他の人間で事足りるんだわよ。そこで試合形式のスパーに着眼するというのは、なかなかの鋭敏さだわね」
「なるほど。もちろん制限は少ないほうが、MMAファイターとしての地力は発揮させやすいのだろう。どこまで期待に応えられるかはわからないが、彼女たちがそれを望んでいるのならば、私の側に異存はありません」
「あんたはわたいが相手だと、言葉づかいが定まらないだわね。わたいは永遠の十五歳なんだわから、気安い口調でかまわないだわよ?」
「そうですか」と赤星弥生子は目もとで笑い、鞠山選手もにんまり笑う。
そうして、いざスパーリングが開始されようとしたとき――二つの人影が、こちらに近づいてきた。レオポン選手と、グティである。
「師範、ちょっとお願いがあるんですけどね。俺も《ビギニング》の人らに稽古をつけてもらえないッスか?」
ラッシュガード姿のレオポン選手は小麦色の顔に朗らかな笑みをたたえつつ、そう言った。映画俳優のように男前でボディビルダーのような筋肉美をしたグティも、にこにこと無邪気に笑っている。
「ふむ? ハルキまでもが、手合わせを願うのか?」
「ええ。俺は以前に来栖さんやユーリちゃんとやりあって、女の底力ってもんを痛感させられましたからね。シンガポールのトップファイターである面々に、刺激をいただきたいんスよ」
レオポン選手の言葉は、鞠山選手が同時通訳している。その内容を聞いたグヴェンドリン選手は、力強くうなずいた。
「そちらは《アクセル・ファイト》に参戦していたハルキ・ツジですね。そんな御方にスパーを希望されるのは光栄な限りです。……だそうだわよ」
「なんだ、俺のことまで知っててくれたんスか。こっちのほうこそ、光栄な限りッスね」
レオポン選手は、あくまで屈託がない。
しかし彼は前回の試合で敗退して、《アクセル・ファイト》との正式契約を逃がした立場であるのだ。それでも十月にはまた単発の試合を組まれて、ここが正念場と奮起しているはずであった。
「そうか。シンガポールの方々に異存がないなら、私も許可しよう。……それで、グティは何の用なんだ?」
「はい。ハルキがユーリとスパーするなら、ワタシもキボウです。キョウこそ、イッポンです」
赤星弥生子が眉をひそめると、レオポン選手はライオンのような頭を引っかき回しながら釈明した。
「別に、俺が誘ったわけじゃないッスからね? 俺が青田コーチと話してるのを、盗み聞きしてたんスよ。こいつ、ユーリちゃんに関しては耳が早いッスからね」
「だがハルキは、桃園さんではなくシンガポールの方々とのスパーを希望しているのだろう?」
「いや、《ビギニング》の人らって言ったでしょう? ユーリちゃんと瓜子ちゃんも、そこに含まれてるんスよ」
「……桃園さんばかりでなく、猪狩さんとも?」
「ええ。《ビギニング》の王座に挑戦するんなら、瓜子ちゃんだって屈指のトップファイターです。きっと得るものがあるはずッスよ」
赤星弥生子はしばらくレオポン選手の笑顔を見据えてから、瓜子のほうに向きなおった。
「ハルキは、このように主張している。猪狩さんとしては、どうだろう?」
「押忍。自分なんかがお役に立てるかはわかりませんけど……ウェイトそのものはバンタム級の女子選手と変わらないんでしょうから、こっちは別にかまわないっすよ」
「そうか。では、よろしく願いたい。……問題は、グティだな」
「ワタシ、キボウです。きっと、おヤクダちです。……****。*********?」
と、グティはいきなり英語になって、シンガポール陣営の面々に語りかけた。
赤星弥生子がいっそう眉をひそめると、鞠山選手がすました顔で種明かしをする。
「自分はオリンピック出場の経験があるレスリングの選手で、グラウンドの稽古に参加したいと主張してるだわよ。多少の誇張はあれど、虚偽申告はしていないようだわね」
「まったく、しようのない……お手数をかけるが、グティの来歴と人柄について、正しくお伝え願えるだろうか?」
「わたいの主観が入り混じると、色男の評価は地に落ちるだわよ」
鞠山選手はそのように語っていたが、シンガポール陣営は眉をひそめることなくグティの提案を受け入れた。現在のグティは北米で活躍するプロレスラーで、前身はメキシコのルチャドールであるが、フリースタイルのレスリングでオリンピックに出場した経歴は事実であるし、一時期はMMAファイターとしても活動していたのだ。瓜子としても、これほどの変転を遂げたファイターというのは他に存じあげなかった。
「無節操な人柄に対する警戒心よりも、五輪出場に対する好奇心のほうがまさったようだわね。まあ、この色男とのスパーがいい経験になるかどうかは、各人の資質次第なんだわよ」
「そうか。……それじゃあそちらは、当人同士に任せたい。桃園さんも、無理に引き受ける必要はないからね?」
「はあ……まあ、三分一ラウンドぐらいであれば……」
と、ユーリは不明瞭な面持ちである。大男のグティは小柄な相手との対戦を苦手にしており、現在は発達しすぎた筋肉が邪魔になって、ユーリの敵ではないのだ。初めて手合わせをして以来、ユーリはグティに関心を寄せていなかったのだった。
「俺も三分一ラウンドでけっこうだよ。ユーリちゃんや瓜子ちゃんの強さを知るには、それで十分だろうからな」
レオポン選手がそのように告げると、ユーリは「はぁい」と口もとをほころばせる。体重や背丈が近いレオポン選手のほうが、ユーリにとってはまだしも魅力的なスパーリングパートナーであるのだ。
「なんだか、面白いことになってきたね。アタシらも、しばらく見物させていただこうか」
小笠原選手の提案で、女子選手の一団はそれらのスパーリングを見学することに相成った。
まずは、赤星弥生子とシンガポール陣営の三連戦である。こちらも三分一ラウンドで、ヘッドガードとニーパッドとレガースパッド、さらにエルボーパッドの四点セットを装着し、通常のMMAルールで行われることになった。オープンフィンガーグローブは、試合用よりも五割増しで重い六オンスだ。
「それじゃあ、俺が審判を引き受けよう。あまり熱くなるようだったら、途中で止めるからな」
と、レフェリーには立松が名乗りをあげた。
しかし、シンガポール陣営の三名はみんな節度を持っており、スパーで熱くなりすぎたことはない。瓜子も気を張らず、ただ大いなる好奇心をもって見学することになった。
「それじゃあ、始め」
初戦は、グヴェンドリン選手である。
グヴェンドリン選手は力強くステップを踏みながら、赤星弥生子と相対した。
両者は二階級の差があるが、平常体重の差は二、三キロであろう。グヴェンドリン選手は試合で大きく減量するタイプで、赤星弥生子は平常体重のまま試合に臨むスタイルであるため、そういう数値になるのだ。そもそも赤星弥生子が階級を設定するのは女子選手と対戦する際のみであり、普段は無差別級で男子選手を相手取っているのだった。
そして身長は、赤星弥生子のほうが十センチ高い。そのぶん肉厚であるのはグヴェンドリン選手のほうであるが、このリーチ差はなかなかに厄介であるはずであった。
(これはさすがに、弥生子さんのほうが有利だろうな)
赤星弥生子は、グヴェンドリン選手の試合を《アクセル・ジャパン》や《ビギニング》で見届けている。しかしグヴェンドリン選手は、古武術スタイルや瓜子との対戦で見せた変則的なスタイルしかわきまえていないのだ。赤星弥生子の真っ当なMMAスタイルというのは、伝聞でしか知らないのだった。
赤星弥生子は沈着そのもののたたずまいで、グヴェンドリン選手と相対している。
グヴェンドリン選手の力強いステップも、今日の稽古の指導だけで存分に拝見しているのだ。グヴェンドリン選手のファイトスタイルに関しては、それで余計に検分が進んだはずであった。
そうしてグヴェンドリン選手が勢いよく踏み込もうとすると、その腹に前蹴りが飛ばされた。
みぞおちの近くを蹴り抜かれたグヴェンドリン選手は、苦悶の形相で足を止める。すると、その顔面にするすると右ストレートがのばされた。
グヴェンドリン選手はさすがの反応速度で身を屈め、赤星弥生子の右拳を頭上にやりすごしながら組みつこうとする。
するとその鼻先に、膝蹴りが飛ばされた。
赤星弥生子は平常のMMAスタイルでも、カウンターを得意にしているのだ。
グヴェンドリン選手もかろうじて顔面をガードできたが、前進は止められてしまった。
そして赤星弥生子はそのまま首相撲でとらえて、さらなる膝蹴りを脇腹に叩き込む。
いかにも力半分という挙動であるし、ニーパッドを着用しているので威力は半減以下であろうが――ただ、一方的な展開であることに変わりはなかった。
グヴェンドリン選手は強引に首相撲から脱すると、あらためて赤星弥生子と向かい合う。
しかしその後はどれだけステップを踏んでも前に出ることができず、攻撃の手が止まってしまった。赤星弥生子も機敏に動いて有利なポジションを取らせなかったので、迂闊に踏み込めばカウンターの餌食だと理解したのだろう。そうして赤星弥生子も強引に仕掛けようとはしなかったため、それでタイムアップと相成った。
「グヴェンドリンさんのステップワークは素晴らしいので、もう少しタックルのフェイントを入れたほうが、より効果的だと思う」
スパー終了後の握手を交わしながら、赤星弥生子はそのように告げた。
まるきり、指導の時間の延長だ。その内容を鞠山選手に伝えられたグヴェンドリン選手は、清々しげな面持ちで「ハイ」と答えた。
次の相手は、ランズ選手である。
背丈はほとんど変わらないが、体重はランズ選手のほうが十キロ近くも上回っているだろう。骨格の違いもあって、同じ階級の選手とは思えないほどであった。
しかし、ランズ選手はグラップラーであり、スタンドの動きはやや鈍重である。相手の攻撃は頑丈な肉体で跳ね返して寝技に持ち込むというのがランズ選手のスタイルであったが、それは赤星弥生子に通用しなかった。サキほどではないにせよ、赤星弥生子もカウンターの名手であるのだ。鋭いワンツーとローキックで上下に揺さぶられたのちに三日月蹴りをクリーンヒットされると、ランズ選手は力なく膝をつくことになった。
これはMMAルールであるのでダウンをしてもストップはかけられないが、赤星弥生子は寝技に移行することなく距離を取る。たとえ本当の試合であったとしても、グラップラーであるランズ選手に寝技を仕掛けるつもりはない、ということだろう。立ち技であれば圧倒できることが、すでに証明されていた。
それを察したランズ選手は、ひざまずいた状態でマットをタップする。本気の勝負を仕掛けなければ、これ以上の進展はないと判断したのだろう。ランズ選手らしい、潔い引き際であった。
そして最後は、エイミー選手である。
エイミー選手はランズ選手よりも三センチほど背が低く、体重は同程度となる。ただ、ランズ選手ほどどっしりとはしておらず、まだしも均整の取れた体格であるのは、骨格の違いであるのだろう。タイプとしては、青田ナナをやや肉厚にしたような印象であった。
パワーでまさるのはランズ選手だが、スピードでまさるのはエイミー選手となる。また、グラップラーであるランズ選手に対して、エイミー選手はオールラウンダーだ。すべてにおいて、バランスの取れた選手であった。
(そういう意味でも、青田さんに似てるな。それで、青田さんよりもパワーとテクニックが少しずつ上回ってる印象だから……弥生子さんとしても、楽な相手ではないはずだ)
赤星弥生子は青田ナナとの試合において、古武術スタイルを使用しているのだ。それはすなわち、真っ当なMMAのスタイルだけでは勝利することが難しいという判断を下してのことであった。
そしてこのスパーの場では自ら古武術スタイルを封印しているので、エイミー選手に勝利することは難しいと予測される。それでエイミー選手に勝てるのならば、青田ナナにも勝てるはずであった。
(まあ、スパーに勝ち負けはないけど……弥生子さんは、どう対処するんだろう?)
瓜子はいっそうの興味をもって、そのスパーリングを見守ったが――実に、意想外な結果に終わった。赤星弥生子はエイミー選手のあらゆる攻撃を空気のように受け流して、持ち時間を使いきったのだ。
赤星弥生子も時おりカウンターの手を出すが、そちらもすべてガードされている。
おたがいにダメージを与えることなく、三分間が終了である。瓜子としては、肩透かしをくらったような心地であったが――よくよく考えると、エイミー選手の猛攻をこうまで受け流せる選手は、他に存在しなかった。
(立ち技限定のスパーだったら、小笠原選手でも上手くかわせるだろうけど……弥生子さんは、組み技も綺麗にさばいてたもんな。エイミー選手が青田さんに似てるから、やりやすい面があったのかもしれない)
しかし何にせよ、赤星弥生子が高度な技術を持っていることは証明された。その証拠に、エイミー選手も不満を覚えるどころかいっそうの闘争心をたぎらせていたのだった。
「これが試合であったなら、私の判定勝利だろう。しかしあなたには二つの隠された武器があるので、そんな仮定は無意味だ。あなたの強さに敬服を捧げたい。……だそうだわよ」
「こちらこそ、シンガポールのトップファイターの強さを痛感させられた。あなたたちが合宿稽古に参加してくれたことを、心から感謝している」
赤星弥生子は凛然とした面持ちのまま、エイミー選手と握手を交わした。
かくして、赤星弥生子の腕試しは終了し――お次は、瓜子とユーリの出番であった。




