04 得難い経験
「やはり一年も期間が空くと、誰もが大きな成長を果たしている。私は、心から感服させられた」
立ち技のサーキットが終了すると、瓜子たちの組に対しては赤星弥生子がそのように告げてきた。隣でその言葉を聞いているのは、兵藤アケミだ。
「ただこちらの組では、ウェイトが重い選手が軽い選手に翻弄されていたね。おそらく立松さんが、そういう意図でもってこのメンバーを選んだのだろう」
「ああ。軽量級の相手とまともにやりあえてたのは、そっちの青田さんぐらいだったね」
そのように語る両名は、どちらも携帯端末の翻訳アプリを活用していた。ランズ選手は呼吸を整えながら、厳粛な面持ちでその言葉を聞いている。
「あと、うちの浅香は体重どうこうじゃなく、単純な力不足だろう。まあ、相手がこれだけのトップファイターぞろいじゃ、それが当然の話だろうけどね」
「ええ。それでも浅香さんはリーチを活かして、上手く逃げていたように思います。アマチュアの選手としては、立派なものでしょう。それにやっぱり以前の試合を拝見したときよりも、確かな成長を感じます」
浅香選手はランズ選手に負けないぐらい真剣な面持ちで、トレーナー陣の寸評を拝聴している。確かにアマチュア選手の身でこんな面々とサーキットに取り組むのは、きわめて過酷な話であるはずであった。
いっぽうサキは小憎たらしいぐらい涼しい面持ちであるし、小柴選手もやりきった顔をしている。みんな瓜子と同様に、体重でまさる相手の攻撃を上手く受け流すことができたのだろう。魅々香選手やランズ選手は小柄な相手を苦手にしているため、なかなかの試練であったのだろうと思われた。
「あと印象的だったのは、御堂とランズさんの組み合わせだね。御堂は完全に機動力で、ランズさんを圧倒してたじゃないか」
「あ、い、いえ……こ、これはあくまでスパーですから……ランズさんも、強引な攻め手は控えたのでしょう」
「それは、お互い様だろう? あんただって本気を出していたら、いいカウンターを何発も出せたはずだ。少なくとも、さっきのスパーで圧倒的に優位に立ってたのはあんただよ」
そんな風に言ってから、兵藤アケミは青田ナナのほうに向きなおった。
「いっぽうそちらの青田さんは、ランズに手も足も出なかったね。組みつき有りのスパーだったら、かなり追い込まれていたんじゃないか?」
青田ナナは両目に闘志の炎を燃やしながら押し黙っていたので、赤星弥生子がその言葉に応じた。
「ナナはスピードでまさっていたのに、すべての攻め手を潰されていました。おそらくランズさんは、正攻法の攻撃を受けるのに手馴れているのでしょう。さらに言うならば、ランズさんは普段からもっとパワーのある同門の選手を相手取っているため、ナナの攻撃に脅威を感じなかったのかもしれません」
「ああ。ランズさんは御堂の攻撃に警戒している様子だったが、青田さんに対しては余裕が見えた。御堂は意外にトリッキーなところがあるし、スピードも青田さん以上だから、ランズさんはやりにくそうな印象だったな」
「ええ。いっぽう御堂さんは、ナナを切り崩すのに苦労している様子でした。ナナは普段からマリアやすみれを相手取っているので、少しぐらいスピードで負けていても的確に対応できるのでしょう。中量級の三名は、ちょっとした三すくみの関係になっていましたね」
「それで、そんな三人を上手くいなした軽量級の三人は、大したもんだ。ましてや、猪狩や小柴はインファイターなわけだしな。あれだけステップワークが巧みで攻め手も多いから、インファイトを有利に進めることができるんだろう」
そんな具合に、最後は軽量級への賛辞で寸評の場は締めくくられた。
しかしそのあと寝技のサーキットに移行すると、立場が逆転した。
軽量級の選手はストライカー、中量級の選手はグラップラーかオールラウンダーという組み合わせであったので、今度はこちらが攻め込まれる番であったのだ。
魅々香選手や浅香選手は柔術茶帯であるし、ランズ選手はもっとも体重が重いグラップラー、そして青田ナナは名うてのオールラウンダーとなる。また、青田ナナは柔術よりもレスリングを重んじる動きであったが、確かな技術とパワーに裏打ちされた寝技の手腕にはまったくつけ入る隙もなかった。
「うん。ランズさんは、さすがの力量だ。それに技術で対抗できる御堂さんやナナも大したものだと思う」
そんな風に言ってから、赤星弥生子は浅香選手のほうを見やった。
「だけどそれよりも驚かされたのは、浅香さんだ。いかに柔術茶帯とはいえ、もっとも若年である君が他の面々と互角にやりあえるというのは……さすが、桃園さんと名勝負を繰り広げただけはあるね」
「と、とんでもありません。わたしはいちおう、柔術道場の所属ですので……」
「いちおうって何だよ。あんたは若うても古株なんだで、少しは自信と責任をもって振る舞いな」
と、兵藤アケミが珍しく苦笑しながら、口調を崩した。ジャグアルの面々はみんな共通語で会話しているが、誰もが名古屋出身であるはずなのだ。
「正直言って、あたしも大したもんだと思ったよ。まさか、シンガポールのトップファイターとも真正面からやりあえるとはね。……よかったら、そちらさんにも意見をもらえるかい?」
兵藤アケミがランズ選手のもとまで近づいて、携帯端末を差し出した。
立ち技と寝技のサーキットで存分に汗をかいたランズ選手は、重々しい口調で何かを語る。それが無機的な合成音声で翻訳された。
『メグミ・アサカは、身体の使い方が巧みです。彼女は男性のように長身ですが、女性らしい柔軟性をあわせ持っていますので、如何なる男性とも女性とも感覚が異なります。その感覚の違いが、私を悩ませました。寝技の技術そのものも十分に質は高いので、彼女の攻略には長い時間と思考が必要になります』
「うん、私も同感だ。立ち技の技術はまだまだ成長の余地があるけれど、現時点でもアマチュア選手としては及第点以上だろう。……そういえば、彼女は九月の大会で査定試合を行うという話でしたか?」
「ああ。《フィスト》の協力で、具合のいい相手を準備してもらえたんでね。アマチュアって肩書きは、その日限りだ」
兵藤アケミが力強く答えると、浅香選手も恐縮しつつ表情を引き締めた。彼女はついに、プロ昇格をかけた査定試合に挑むことになったのだ。これまでの試合からも、彼女にその資格があることははっきり証明されていた。
「数ヶ月後には、並み居るトップファイターとしのぎを削っていそうですね。……では、いったん合流して、あらためて組分けをしましょう」
五名のトレーナーと二十二名の選手が再集結して、大きな輪を作った。
ここまでは実力を見るための前哨戦で、ここからが本稽古だ。心身ともに温まった瓜子は、心してトレーナー陣の言葉を聞くことになった。
「ではここからは、試合が決まっている選手の意見を尊重しながら、稽古の内容を決めていく。試合が決まっているのは、トーナメントにエントリーされている五名と、関西勢の両名と、《ビギニング》の五名と……それに、高橋さんと武中さんだったかな?」
「ああ。二十二名中の十四名だな。まったく、豪気な話だぜ」
「その全員が有意義な稽古を積めるように、善処しましょう。そちらに関しても、あるいていどの草案を作っていただけたのですね?」
「ああ。現場でわちゃわちゃ騒ぐのは時間の無駄なんでな。ここに上手く赤星と関西の面々を組み込んでほしいんだ」
立松が持参したタブレットを差し出すと、他なるトレーナー陣が四方からそれを覗き込んだ。
「なるほど。この内容からいくと……ナナは桃園さん、マリアは猪狩さん、すみれは……やはり、猪狩さんかな」
「だったらうちの香田も、猪狩や大江山さんとご一緒させてほしいところだね。おたがいに得るものはあると思うよ」
「浅香くんは、やはり桃園くんの組ではないかな。その前に、シンガポールの残る両名とも比較したいところだが」
「せやせや。もうちょいじっくり、シンガポール陣営のお手並みを拝見したいところやねぇ」
協議の末、まずはシンガポール陣営および初顔あわせとなる赤星道場と関西勢の面々がひとつところに集められて、それ以外のメンバーは四名ずつで小分けにされた。後からすべての選手を割り振るので、それまでは課題に沿った自主稽古を進めることになったのだ。
瓜子と同じ組になったのは、鞠山選手、多賀崎選手、武中選手である。取り仕切るのは、もちろん鞠山選手であった。
「うり坊とキヨっぺは、寝技の集中トレーニングなんだわよ。わたいとマコトが心を鬼にして、地獄の試練を与えるんだわよ」
「ありがたくて、涙が出そうです。でも、鞠山選手の稽古を二の次にしちゃっていいんすか?」
「わたいの対戦相手は亜藤で、その次に待ちかまえるのは低能ウサ公もしくは詩織なんだわよ。こうまでタイプがバラバラだと、まんべんなく鍛えるしかないんだわよ」
亜藤選手はレスリング巧者、灰原選手はインファイトとアウトファイトの二刀流、山垣選手はインファイトを得意にするラフファイター――それらのすべてに対策を練るというのは、確かに途方もない話である。これがトーナメント戦の怖いところであった。
いっぽう瓜子が《ビギニング》で相手取るのはパワーとスピードとテクニックをあわせ持ったオールラウンダーで、武中選手は――トーナメント戦のリザーブマッチとして、宗田選手との対戦が決定したのだ。宗田選手は豪快かつ的確な打撃技を習得した歴戦の柔道家という、ちょっと特殊な存在であった。
「イヴォンヌと宗田星見の共通項は、寝技におけるポジションキープの強さだわね。よって、わたいとマコトが重し役を受け持つんだわよ。あんたたちはせいぜいあがいて、わたいたちの支配下から脱出するんだわよ」
「本当に、地獄の稽古ですね。心から、ありがたく思います」
そのように答えたのは、武中選手だ。武中選手は両目に意欲の炎を宿しながら、瓜子に向きなおってきた。
「こういう稽古は自分のジムでもしょっちゅうですけど、ただ重いだけの相手とポジションキープが上手い人だと、感覚がまったく違いますもんね。それに、女性と男性でも感覚が違うように思います」
「押忍。小柄だけど重心を取るのが上手いっていうのは、感覚が違いますよね。そういう意味では、鞠山選手の存在は本当に希少だと思います」
「それじゃあ期待に応えて、ぞんぶんに圧殺してあげるだわよ。さあ、さっさと転がるんだわよ」
かくして、地獄の稽古が開始された。
鞠山選手や多賀崎選手の重圧から逃れて、立ち上がる稽古だ。ストライカーにとっては、もっとも苦悶に満ちみちた稽古であった。
しかし瓜子も今回ばかりは、試合中にテイクダウンを取られる想定で稽古を積んでいる。何せ相手は極上のオールラウンダーであるため、テイクダウンを恐れていては攻勢に出ることも難しいのだ。とにかくスタンドでは積極的に攻めて、テイクダウンを取られたら一秒でも早く立ち上がる。そのために、立ち技と組み技と寝技の技術をまんべんなく鍛えるしかなかった。
(まあ、鞠山選手にとっても、あたしたちを抑え込むのはそれなりの稽古になるんだろうな)
灰原選手や山垣選手と対戦したならば、あちらは必死にグラウンドから逃げようとするはずだ。瓜子や武中選手はそちらの両名よりも寝技の技術はまさっているはずであるので、鞠山選手にとっても有意であるはずであった。
「ほらほら、無駄に暴れてもスタミナをロスするだけなんだわよ。隙があったら、遠慮なく関節も取らせていただくだわよ」
鞠山選手は嬉々として、瓜子を鍛えあげてくれた。
この苦しさを乗り越えられれば、試合中の苦しさも緩和されるはずだ。瓜子はこれまでと比較にならない量の汗をかきながら、鞠山選手の責め苦に耐えることになった。
そんな地獄の時間が十五分ほど経過したところで、ようやく新たなメンバーがやってくる。
先頭に立っているのは来栖舞で、彼女が引き連れているのはマリア選手と香田選手であった。
「大江山くんは、ひとまず灰原くんの組に入った。のちのち、マリアくんと交代してもらう手はずだ。」
「了解だわよ。そのメンツということは、グラウンド地獄を継続なんだわよ?」
「いや。寝技ばかりに集中していると、夜までもたないだろう。いったん、スタンドに移行だ。花子は、桃園くんの組に移ってもらいたい」
「ふふん。あっちには青鬼とエイミーが配置されただわね。これは腕が鳴るだわよ」
鞠山選手はにんまり笑いながら、ユーリたちのもとへと立ち去っていく。
それを見送ってから、多賀崎選手が来栖舞に向きなおった。
「あたしは、ここに残留ですか? お役に立てるんなら、なんでもやりますけど」
「ああ。多賀崎くんは打撃も組みも強いから、スタンドの稽古でもうってつけだろう。武中くんに対しては荒っぽく、猪狩くんと真央に対しては堅実に攻め込んでほしい」
「了解しました。三人の対戦相手は頭に入ってるんで、できるだけなりきります」
この顔ぶれだと、多賀崎選手とマリア選手だけが試合を控えていないのだ。しかしそれを差し引いても、その物言いに多賀崎選手の実直さがあふれかえっていた。
「真央はまだまだ打撃の技術が粗いが、フットワークはかなりの水準に達しているし、突進力も申し分ない。武中くんのスパーリングパートナーには最適だと思う」
「はい! わたしもそう考えていて、香田さんの参加をありがたく思っていました! わたしはいつも通りでいいんでしょうか?」
「うん。真央が対戦する加藤というのは、わりあい真っ当なスタイルだからね。正攻法で攻めてもらいたい」
そう言って、来栖舞は瓜子に向きなおってきた。
「それで、猪狩くんに関しては……自由に攻め込んでもらいたい」
「押忍。自分も宗田選手の雰囲気はつかめてますけど、荒っぽくする必要はないっすか?」
「ああ。それよりも、君は何の制限もなく動いてほしい。その鋭い動きに目が慣れれば、たいていの相手には対応できるだろうからね」
そのように語りながら、来栖舞は微笑むように目を細めた。
「今回はシンガポール陣営に注目が集まっているが……最初のサーキットで、君も同様の存在であることが理解できた。君はもはや、世界級のトップファイターなんだ。小細工なしでぶつかるだけで、すべての人間に得難い経験を与えることができるだろう」
「いやいや、シンガポールの方々に比べたら、自分なんてまだまだ雑っすよ。それに、ユーリさんだって――」
「寝技に限って言うならば、桃園くんは君以上の世界クラスだ。ただし立ち技は長所と短所が入り乱れていて、扱いが難しい。……桃園くんの好きにやらせたら、怪我人が続出してしまうだろうしね」
「あはは」と笑いそうになった瓜子は、慌ててそれを呑み込んだ。稽古のさなかで、しかも来栖舞を前にして笑い声をあげるというのは、あまりに不謹慎であるように思えたのだ。
いっぽう来栖舞は、とても穏やかな面持ちをしている。ただ、やわらかく細められたその目の内には、確かな熱情も宿されていた。
「君と桃園くんと、シンガポールの三名。この五名と手合わせするだけで、何かをつかめる人間は少なくないだろう。これこそ、日本人選手の底上げだ。この場に集った面々が格闘技界を牽引して、他なる面々が追いすがってくるようにと、わたしは強く願っている。……では、おしゃべりはこれぐらいにして、稽古に取り掛かろうか」




