03 稽古開始
「おう! 猪狩さんたちは、おひさしぶり! さあさあ、遠慮しないでどんどん食ってくれ!」
レクリエーションを終えて宿泊施設に舞い戻ると、今回も赤星大吾の手による豪勢な昼食が待ち受けていた。
キッズコースの子供たちを筆頭に、多くの人間がはしゃいでいる。これもまた、合宿稽古の大切な彩りである。瓜子も温かな気持ちで赤星大吾の心づくしをいただき、午後の稽古に備えることになった。
正午から夕方までは全員参加の合同稽古で、夕方から夜間は有志による自主トレーニングだ。
ただし、名目上は自主トレーニングでも、キッズコースを除く門下生とトレーナー陣は全員参加するのが通例である。赤星弥生子が稽古に加わるのは夜間のみであるので、女子選手の一行にしてみればそちらが本番と言えるぐらいであった。
「でも今回は、シンガポールの人たちもそろってますからね。これが初めての手合わせになる人たちは、午後一番から気合いっぱいでしょう」
「にゃはは。ユーリはいつでも気合むんむんのつもりでありますけれど、やっぱりこんな大人数だとうきうきしちゃうよねぇ」
プレスマン道場で稽古を積んでいる面々は、すでに一週間近くもシンガポール陣営の面々とともに汗を流している。そんな瓜子たちにとっては一年ぶりとなる赤星道場の面々やゴールデンウイーク以来となる関西勢との合同稽古に胸を弾ませていた。
「それではひとまず、グループ分けだね」
いよいよ午後からの稽古が開始されると、赤星弥生子が厳粛なる声をあげた。
キック部門の蝉川日和と二階堂ルミは男子門下生と合流して、コーチ役たる立松、来栖舞、兵藤アケミ、雅の四名はこちらに顔をそろえている。残る女子選手は総勢二十二名という、過去最大の規模であった。
「まず事前に通達した通り、《アトミック・ガールズ》の王座決定トーナメントで対戦する可能性があるメンバーは、同じ組にならないように手配する。そちらの五名を軸にして周囲の顔ぶれを変えていくという形式になるので、そのように心得てもらいたい」
王座決定トーナメントで勝ち残っているのは、ストロー級では灰原選手と鞠山選手、バンタム級では小笠原選手とオリビア選手と青田ナナという顔ぶれだ。初戦で対戦するのはオリビア選手と青田ナナのみであるが、さらに勝ち進めば誰もが対戦の可能性が生じるわけであった。
「なおかつ今回は、シンガポールから三名の客人を迎えている。誰もが均等に手合わせできるように、そちらの面々もそれぞれ異なる組に分かれてもらいたいのだが、異存はないだろうか?」
「ない、だそうだわよ」
「では、立松さんから組み分けの草案をいただいているので、まずはそれをもとに分かれていただこう」
そうして、バンタム級の三名を軸にしたグループの内訳が発表された。
小笠原選手と同じ組になったのは、エイミー選手、鬼沢選手、多賀崎選手、鞠山選手、武中選手、大江山すみれ。
オリビア選手と同じ組になったのは、グヴェンドリン選手、ユーリ、高橋選手、マリア選手、香田選手、灰原選手、愛音。
そして青田ナナと同じ組になったのは、ランズ選手、浅香選手、魅々香選手、小柴選手、サキ、瓜子という顔ぶれであった。
「まずは初参加になる四名の実力と、他の面々の成長の具合を確認させていただくという趣旨で、各階級の選手を均等に割り振っている。この後は試合を控えた選手を中心に稽古の内容を取り決めて、場合によっては軽量級と中量級で組を分ける可能性も生じるので、あらかじめ了承をもらいたい」
最重量のバンタム級と最軽量のアトム級では十キロ以上もウェイトが異なるため、同じ条件でスパーを重ねていたら危険な面もあるのだ。
ただし、アトム級には手練れがそろっているし、小柴選手を除く四名はみんな身長が百六十センチ以上もあるので、稽古の内容によってはバンタム級のスパーリングパートナーとしても不足はないはずであった。
「こうしてみると、バンタム級が一番人数が多いんだよな。試合では一番人材不足なはずなのに、不思議なこった」
「ふぅん。バンタムが九名で、ストローが五名、フライとアトムが四名ずつかいな。シンガポールの面々でかさあげされとるとしても、確かにけっこうな人数やねぇ」
雅は妖艶に微笑みながら、緊張した顔でたたずんでいる浅香選手のほうを見やった。
「ま、あんたはそん中で唯一のアマちゃんやさかい、せいぜい揉んでもらいやぁ」
「は、はい! みなさんの足を引っ張らないように、死力を尽くします!」
「ほんで? うちらはどないに分かれたらええのん?」
「まずは基本的な情報を共有できるように、五人が交代で三組の面倒を見るという形にさせていただきたい。おいおい、男子門下生の指導もお願いしたいのですが……まずは誰もが、シンガポールの方々の力量を確認したいでしょうからね」
雅と赤星弥生子が言葉を交わすと、瓜子はいまだに若干の緊張を覚えてしまう。赤星弥生子は頑なな一面があり、雅は人を食った気性をしているので、一歩間違えたら大惨事なのではないかという懸念を払拭しきれないのだ。
しかしまあ、一昨年の合宿稽古でもそんな事態には至っていなかったので、両名の本質にある情熱と誠実さを信じる他なかった。
「では、ウォームアップが済んだならば、立ち技と寝技のサーキットだ。各自、事故のないように」
かくして、合同稽古が開始された。
青田ナナのグループに組み込まれた瓜子も、他の面々とともに身体を温める。そんなさなか、ウォームアップとは関係なしに頬を紅潮させた小柴選手が耳打ちしてきた。
「こちらの組はふだん手合わせできない人たちがたくさんいて、お得な気分ですね」
「あはは。確かに、その通りっすね」
青田ナナ、ランズ選手、浅香選手、魅々香選手、小柴選手、サキ、瓜子――とりあえず、七名中の三名はひさびさの手合わせであるのだ。かつて対戦の経験がある魅々香選手とランズ選手が同じ組であるのも、興味深いところであった。
(これだけ選手が増えても、一番ウェイトがありそうなのは、やっぱりランズ選手だな)
ランズ選手は百七十一センチという背丈で、平常体重は七十キロ以上であるのだ。ほとんど減量をしないサキとは二十キロ以上の差であるのだから、呆れたものであった。
ただし、立ち技のスパーを行えば、圧倒するのはサキのほうである。ランズ選手は生粋のグラップラーであり、立ち技においてはスピードに難があり、小回りもきかないのだ。試合においてはその頑強な肉体で相手の攻撃を跳ね返し、得意の寝技に引きずりこむことを得意にしていたが、立ち技限定のスパーでは殴られ放題であるし、サキなどは体重差を無効化する急所への一撃を得意にしているので、ランズ選手にとっては天敵のようなものであった。
(そういう意味で、ランズ選手に一番近いのは……たぶん、兵藤さんなんだろうな)
兵藤アケミは現役の時代から、ランズ選手よりもさらに重かった。そして、三十キロばかりも軽いサキにKO負けをくらうことになったのだ。どれだけのパワーと頑丈さを持っていても、それだけではサキを攻略することはかなわないのだった。
(だからサキさんにとっては、ランズ選手よりも小柴選手のほうが強敵なんだ。それも、すごい話だよな)
しかし小柴選手をこれ以上昂揚させると稽古に支障が出そうであったので、瓜子は口をつぐんでおくことにした。
そうしていよいよ、七名がかりの立ち技サーキットである。
奇数の人数であるため、手余りの人間はインターバルだ。初っ端ではサキがその役割を志願して、瓜子の対戦相手は――いきなりの青田ナナであった。
「……ナナも猪狩さんも、あまり熱くなりすぎないように」
赤星弥生子のクールな呼びかけに、青田ナナはふてくされたような面持ちで「わかってます」と応じる。去年のスパーでは初回から熱くなって、両名ともにたしなめられることになったのだ。瓜子としては青田ナナの気迫に呼応した結果であったが、ここは素直に「押忍」と応じるしかなかった。
そうして、いざスパーリングが開始されると――青田ナナは思いの外、冷静であった。
冷静でありながら、力強く拳を振るってくる。勢いではなく、的確な間合いと角度とタイミングで瓜子を追い詰めようという算段であるようだ。その静かな気迫に、瓜子はむしろ胸を高鳴らせてしまった。
(青田さんも、動きは緻密だからな。むしろ勢いまかせじゃないほうが、怖いぐらいかもしれない)
かつて青田ナナは、メイに無個性なファイターと評されていた。どれだけ近代MMAの技術を堅実に学んでも、それでは体格でまさる海外の選手には通用しない――というのが、メイの厳しい評価であった。
それは確かに、真理であるのかもしれない。が、それは、同じ階級で試合をする前提の話である。二階級も異なる瓜子にとっては、堅実な攻め手も十分に脅威であった。
(それに、堅実でパワフルなオールラウンダーっていうのは、これから対戦するイヴォンヌ選手の特性なんだ。だからあたしは、グヴェンドリン選手や高橋選手と組まされることが多かったけど……青田さんのほうが、いっそうイメージに近いみたいだぞ)
ただやはり、青田ナナでも身長が高すぎる。イヴォンヌ選手はグヴェンドリン選手よりも小柄でありながら、パワーでまさっているという話であったのだ。青田ナナがもう十センチほど小柄であれば、理想のスパーリングパートナーであるのかもしれなかった。
(でもそうしたら、必然的にパワーも落ちちゃうんだろうしな。それだけ小柄でもパワフルってのは、やっぱり外国人選手ならではの特性なんだ)
ともあれ、青田ナナの動きはイヴォンヌ選手の動きと重なる部分が多い。この長いリーチをかいくぐることができれば、俊敏なるイヴォンヌ選手にも拳を当てることができるかもしれなかった。
そのように思案した瓜子は青田ナナの攻撃を完全に回避できるようにステップワークを駆使しつつ、懸命につけいる間隙をうかがった。
青田ナナは守りも堅いので、瓜子はなかなか近づくことができない。
遠い距離からローを当てるのが精一杯だ。そしてその攻撃もすねに装着したレガースパッドのおかげで、ダメージはもちろん痛みを与えることもできなかった。
(でも、動きが正確な分、少しずつパターンがわかってきたぞ)
頭の中身は落ち着いたまま、瓜子の体温がぐんぐん上がっていく。
そうして心が研ぎ澄まされて、ここぞというタイミングで踏み込んだとき――青田ナナの堅いガードに、わずかな隙間が垣間見えた。
瓜子は細い糸を辿るような心地で、その道筋に拳を走らせる。
青田ナナが構えた両腕の間をかいくぐり、瓜子の拳が下顎にヒットした。
瓜子はサウスポーの姿勢になっていたので、右のショートアッパーだ。
前手だが、利き手であるためにショートアッパーでも相応の威力が込められている。そしてこのスパーでは八オンスのグローブをはめていたが、この際はグローブの重さまでもが破壊力に加算されたようであった。
その結果として、青田ナナはがくりと片膝をつく。
青田ナナはまったく瓜子の拳が見えていなかったので、下顎を引いて備えることもできなかったのだ。
瓜子が一歩だけ身を引くと、青田ナナはひざまずいたまま瓜子を見上げてきた。
その目には、驚愕の光がたたえられている。自分がどうしてダウンをくらったのか、まだ理解しきれていない様子であった。
「ストップ。……ナナ、大丈夫か?」
赤星弥生子が凛然たる声をあげながら、こちらに近づいてくる。
青田ナナはハッとした様子で頭を振り、勢いよく立ち上がった。まったくふらつきもしなかったので、フラッシュダウンであったのだろう。拳の感触からして、瓜子もそれを予期していた。
「今のは、鋭い一撃だった。猪狩さんの成長は、試合を見ていても明らかだったが……稽古の場で体感させられると、やはり感銘を禁じ得ないね」
指導役としての厳しい表情を保持したまま、赤星弥生子はふっと目もとを和ませる。
「シンガポール陣営ばかりに気を取られていると、足をすくわれそうだ。……ナナも、熱くならないようにね」
「わかってます」と答える青田ナナは、燃えるような眼差しになっている。そして、両手の拳を勢いよく打ち合わせた。
「まだ交代の時間じゃないでしょう? 邪魔だから、師範はさっさとどいてください」
「だから、熱くなるなと言っているのに。また無茶な真似をしたら、遠慮なく止めさせていただくよ」
そうして赤星弥生子は身を引いて、スパーリングが再開された。
瓜子としては、何も特別なことをしたつもりもなかったが――ただ、心の片隅で奇妙な感覚を覚えていた。青田ナナの間隙を見つけると同時に、瓜子の集中力が瞬間的に限界突破したような――そんな奇妙な心地であったのだ。
(これって、いったい何なんだろうな。まあ、自分の意思でどうこうできないなら、戦略に織り込むこともできないし……あたしはいつでも、めいっぱい集中するだけだ)
そうしてその後は一段階ギアを上げた青田ナナの猛攻をやりすごすだけでタイムアップとなり、彼女との一年ぶりのスパーリングは無事に終わりを迎えたのだった。




