Act.4 赤星道場合宿稽古 01 出陣
大盛況に終わった『サマー・スピン・フェスティバル』の三日後――八月の第一水曜日である。
実に慌ただしい話であったが、それが赤星道場主催の合宿稽古の初日であった。
半月にわたって日本に滞在するシンガポール陣営の、これが折り返し地点となる。そもそも彼女たちは、この合宿稽古を目的にして来日したのだ。集合場所であるプレスマン道場の駐車場まで出向いてみると、シンガポール陣営の三名はいずれも気合の入った目つきをしていた。
「みなさん、お疲れ様です。ついに、合宿稽古の本番っすね」
グヴェンドリン選手の携帯端末を拝借して、瓜子は挨拶の言葉を届ける。グヴェンドリン選手も翻訳アプリの機能で、それに答えてくれた。
『今日までの稽古もきわめて有意義でしたが、やはり期待は高まります。また、昨日は一日オフでしたし、素晴らしいステージを観戦できて心も満たされています。最終日まで、よろしくお願いします』
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
瓜子が笑顔を届けると、グヴェンドリン選手も気合の入った目つきのまま朗らかに笑ってくれた。
「おう、みんなそろってるな。あとは、他の車待ちか」
と、立松ものしのしと歩み寄ってきた。
プレスマン道場の運営はジョンたちに一任して、立松だけはこちらに付き添うことになったのだ。それは、いまやプレスマン道場の看板選手である瓜子とユーリを放置できないという理由からであった。
「まだまだ試合までには間があるが、一日だって無駄にはできないからな。エイミーさんたちを赤星にまかせっきりっていうのも、不義理な話だろうしよ」
立松は、シンガポール陣営に負けないぐらい気合をみなぎらせている。瓜子にとっては、心強い限りであった。
そうしてしばらく駐車場で語らっていると、二台のワゴン車がやってくる。鞠山選手と天覇館東京本部のワゴン車だ。本年も、鞠山選手と来栖舞の両名が運転役を引き受けてくれたのだった。
「お待たせした。こちらは四名の空きがあるので、自由に乗ってもらいたい」
来栖舞がそのように告げると、灰原選手が「いやいや!」と声を張り上げた。
「誰がどの車に乗るかは、勝負だから! 今日も負けないぞー!」
「あたしと御堂さんは、来栖さんのお世話になりますよ。決着がついたら、こちらにどうぞ」
高橋選手が苦笑まじりにそう告げてきたので、残るメンバーでじゃんけん大会が繰り広げられることになった。
まあ、同乗する相手にこだわっているのはユーリと愛音と灰原選手ぐらいであり、しかもユーリは瓜子とペアという免状を与えられているので、何も騒ぐ理由はないように思えるのだが――もはやこれも、夏の風物詩であるのだろう。きょとんとしているシンガポール陣営に見守られながら、往来で白熱したじゃんけん大会が敢行された。
その結果、立松が運転するプレスマン号に乗車することになったのは、瓜子とユーリ、小笠原選手と小柴選手、愛音と鬼沢選手である。
鞠山選手のワゴン車にはシンガポール陣営の三名と四ッ谷ライオットの両名、および武中選手。来栖舞のワゴン車はもともと乗っていた高橋選手と魅々香選手、サキ、蝉川日和、オリビア選手という顔ぶれであった。
トレーナー陣も含めて総勢二十名という、錚々たる顔ぶれだ。
なおかつ、関西勢は現地集合で、そちらは兵藤アケミ、雅、香田選手、浅香選手というメンバーがそろっている。赤星道場の門下生にそれだけの人間が加わるのだから、実に贅沢な話であった。
「うちの門下生が丸ごとお世話になったときは、これ以上の大人数だったが……女子選手の人数としては、過去最高だろう。まったく、大した話だな」
ワゴン車を走らせながら立松がそのようにつぶやくと、小柴選手とともに最後列に収まった小笠原選手が明るい声音で「ええ」と応じた。
「アタシも参加することに決めて、正解でしたよ。こんな体験は、なかなかできませんからね」
「ああ。多少の手の内はバレちまうかもしれねえが、それ以上の収穫があるだろうさ。細かい戦略さえ隠しておけば、何も不都合はないだろうしな」
ストロー級とバンタム級の王座決定トーナメントで対戦する可能性がある面々も、のきなみ参加することになったのである。その枠から外れてしまった鬼沢選手は、助手席で「ははん」と鼻を鳴らした。
「うちなんて早々に敗退したけん、気楽なもんちゃ。あんたがあんフランス女をどう始末するか、じっくり拝見させてもらうばい」
「ジジと二度も対戦したアンタのアドバイスは、ありがたくてたまらないよ。このお礼は、いつか必ずさせてもらうからね」
「お代は、ベルトでけっこうばい。あんたが戴冠したら、うちが真っ先に挑戦させてもらうけんね」
鬼沢選手が豪放に笑うと、小笠原選手も楽しげに笑った。出稽古でともに汗をかいている間に、すっかり親睦が深まったのだ。それでも彼女たちは、同じ階級のライバル同士であったのだった。
(まあ、それはみんな同じことだもんな)
このたびの合宿稽古に参加する女子選手は、すべて四つの階級に属している。人数に多少の差はあれど、誰もがライバルとともに稽古に励むのだ。
その中で、瓜子とユーリとシンガポール陣営の三名は小さな輪を作っている格好になる。いまや瓜子にとって対戦の可能性があるのはグヴェンドリン選手ひとりきりで、ユーリもエイミー選手とランズ選手の二名のみであったのだった。
(ちょっと寂しい気はするけど……でも、他の人たちだって、いつかは世界に進出するかもしれないんだ。そうしたら、またライバルってことさ)
そんな感慨を噛みしめがら、瓜子はふっと隣のユーリを振り返った。
ユーリは相変わらず遠足に向かう幼子のような趣で、にこにこと笑っている。そして瓜子と目が合うと、いっそう嬉しそうな顔になりながら口を寄せてきた。
「赤星のみなさんとお稽古するのは、ひさしぶりだねぇ。想像しただけで、わくわくが止まらないねぇ」
「そうっすね。ユーリさんがすねてなくって、何よりです」
「ユーリはすねたりしないのですぅ。あと、ビーチのレクリエーションも楽しみでならないのですぅ」
「……わかりました。不毛な消耗戦は控えましょう」
瓜子が苦笑を浮かべると、ユーリは幸せそうに「にゃやは」と笑う。そして、ユーリの向こう側で身が触れないように縮こまっていた愛音が、瓜子に向かって険悪な視線を飛ばしてきた。
「猪狩センパイ、車内で密談は控えるべきだと思うのです。愛音ばかりでなく、他のみなさんにも失礼であるのです」
「そんな込み入った話をしてたわけじゃないっすよ。なんなら、邑崎さんもユーリさんとの内緒話を楽しんだらどうっすか?」
「そうだにゃあ。ではでは、ムラサキちゃんのかわゆらしいお耳を拝借」
「ユ、ユーリ様まで加担しないでいただきたいのです! 猪狩センパイは、本当に見下げ果てた卑劣漢なのです!」
そうして楽しく騒いでいる間に、三台のワゴン車は一時間ばかりをかけて目的地に到着した。
千葉の南房総の海岸沿いに位置する宿泊施設、『七宝荘』である。この地に来訪するのも、ついに四度目だ。もともとは赤星道場とプレスマン道場の合同合宿という名目であったのに、そちらが隔年ペースの開催となっても、女子選手の一行は毎年参加しているわけであった。
「そういやあ、去年はキッズコースの子供らがわちゃわちゃ騒ぎよっとったなぁ。おらなきゃおらんで、静かなもんだの」
ワゴン車のトランクから手荷物を引っ張り出しつつ、鬼沢選手がそんな言葉をこぼした。鬼沢選手はサイトーに劣らず子供の面倒見がいいので、道場にキッズコースの門下生が集まるときなどはなかなかに楽しげであるのだ。
「それでも赤星道場の子供たちは参加してるでしょうから、賑やかさには事欠きませんよ。……それに、大人だけでも十分に賑やかでしょうしね」
瓜子がそのように答えたとき、鞠山選手のワゴン車から降り立った灰原選手が「とうちゃーく!」とはしゃいだ声を張り上げた。
鬼沢選手は「まったくばい」と肩をすくめ、瓜子は温かい心地で笑う。これだけのメンバーがそろっていれば、稽古はもちろんプライベートでも楽しい時間を過ごせるはずであった。
総勢二十名のメンバーはそれぞれの荷物を抱えて、『七宝荘』へと足を向ける。
その入り口に、いくつかの人影が見えた。それに気づいた鞠山選手は瓜子たちを追い抜いて、いそいそとそちらに近づいていく。
「無事に到着できて、何よりだっただわよ。みんな、元気そうだわね」
「ああ、そちらさんも、お疲れさぁん。聞きしにまさる大所帯やねぇ」
ねっとりとした京都弁が、そのように応じてくる。それは四名の関西勢であり、鞠山選手の挨拶に答えたのは柔術道場ジャグアルの特別顧問たる雅であった。
選手を引退したあと正式に指導員となった兵藤アケミに、バンタム級からフライ級に転向した香田選手、そしてバンタム級の新たな星たる浅香選手も居揃っている。七月の興行では関西勢にお呼びがかからなかったので、瓜子たちにとっては五月以来の再会であった。
土佐犬のように厳つい風貌をした兵藤アケミは来栖舞と視線で挨拶を交わしてから、瓜子とユーリに向きなおってくる。その小さな目には、好意的な熱っぽさがたたえられていた。
「ようやく面と向かって挨拶できるね。猪狩、桃園、《ビギニング》との正式契約、おめでとう。ブラジルの試合も、しっかり見届けさせてもらったよ」
「わ、わたしもです! ユーリさん、猪狩さん、今さらですけど、おめでとうございます!」
『トライ・アングル』の熱心なファンである浅香選手は、真っ赤になりながら頭を下げてくる。瓜子よりも年少だが、均整の取れた百七十五センチの長身を有する、新進気鋭の女子ファイターだ。
いっぽう、浅香選手よりも内気な香田選手は声をあげることもできずにまごまごしていたので、瓜子は兵藤アケミと浅香選手にお礼の言葉を返してから笑いかけた。
「香田選手も、おひさしぶりです。今年はご一緒できて、嬉しく思っています」
「あ、いえ、その……今年はゴールデンウイークでもご一緒できましたし……ビ、《ビギニング》との正式契約、おめでとうございます」
「はい。ありがとうございます」
昨年はユーリの復帰戦の相手に任命されたため、香田選手を筆頭とするジャグアルの面々は合宿稽古の参加を控えることになったのだ。
それから香田選手はフライ級に階級を落としたわけだが、首から下の逞しさに変わりはない。いったん落とした平常体重をまた上げて、より大きなリカバリーを目指そうとしているのだろう。それでいっそうのパワー増強がかなえば、フライ級の台風の目にもなりえる存在であるはずであった。
「そんで、そちらがシンガポールの御三方ってわけやねぇ。確かにこら、風格が違うてるわぁ」
雅に妖艶なる流し目を向けられて、シンガポール陣営の三名はおのおの会釈をした。彼女たちはけっこうな年代までさかのぼって《アトミック・ガールズ》の試合映像を入手しているので、関西勢の素性もおおよそわきまえているのだった。
「挨拶は、赤星の連中といっぺんにさせてもらおう。もう集合時間ぎりぎりだからな」
立松のそんな号令で、二十四名にふくれあがった一行は『七宝荘』に足を踏み入れることになった。
こちらの騒ぎを聞きつけて、ひとつの人影が中庭に通じる出入り口から飛び出してくる。それは丈の短いタンクトップと股上の浅いショートパンツで小麦色の肢体をあらわにした、二階堂ルミに他ならなかった。
「みなさん、お疲れさまでーす! とりあえず寝室に荷物を置いて、中庭に集合してくださーい! みんな、首を長くして待ってますからねー!」
「おう、ありがとさん。部屋割りなんかは後にして、とにかく荷物を置かせてもらうぞ」
跳ねるような足取りである二階堂ルミの先導で、一行は寝室のドアが並ぶ場所まで誘導される。それらの寝室に荷物を放り込んで中庭に向かうと、そちらには赤星道場の精鋭がずらりと立ち並んでいた。
道場主の赤星弥生子、師範代の大江山軍造、青田コーチ、二名のサブトレーナー、青田ナナ、マリア選手、大江山すみれ、レオポン選手、竹原選手、複数の男子門下生、六丸、是々柄、キッズコースの子供たち、子供たちの保護者たち――さらには覆面レスラーの親子、アギラ・アスールことリカルド氏に、アギラ・アスール・ジュニアことグティも居揃っている。その総勢は、四十名ほどだ。
「待たせたな。今年もお世話になるよ」
引率役たる立松がそのように呼びかけると、赤星弥生子は凛々しい面持ちで「はい」と応じた。
「今年もこれだけ有望な選手にご参加いただき、心からありがたく思っています。最後まで事故のないように、よろしくお願いします」
赤星弥生子は、ほれぼれするほどの沈着さだ。
しかし他なる女子選手たちは、誰もが熱情をあらわにしている。もっとも内心の読みにくい大江山すみれですら、シンガポール陣営から目を離そうとしないのだ。彼女たちがどれだけ海外のトップファイターに関心を寄せているかは、この段階で明白であった。
いっぽうシンガポール陣営も、赤星弥生子を筆頭とする女子選手の姿を鋭い眼差しで見つめ返している。もともと彼女たちは《アトミック・ガールズ》や《JUFリターンズ》の試合映像によって赤星道場の門下生の実力をわきまえていたが、瓜子たちのもたらす情報によっていっそうの熱情をかきたてられることになったのだ。
これだけの顔ぶれがこれだけの気合を携えていれば、もはや合宿稽古の成功は約束されたようなものだろう。
瓜子はその理想を現実にするべく、死力を振り絞る所存であった。




