02 前半戦
しばらくして、ステージを終えた『ワンド・ペイジ』の面々が楽屋に舞い戻ってきた。
当然のこと、誰もが汗だくの姿である。瓜子は千駄ヶ谷や他のマネージャー陣とともに「お疲れ様です」と出迎えることになった。
『トライ・アングル』の出番は、この次である。以前は舞台袖で待ち受けていたものであったが、どうせステージの準備に長い時間がかけられるため、『ワンド・ペイジ』が着替えるのを待ってからともに出陣することになったのだ。
ちなみに『トライ・アングル』が出場するのは展示場スペースにおいてもっとも大きなメインステージであったが、持ち時間は一時間から四十分に短縮されてしまった。昨年までは一律で一時間であったのに、出順や出演者の格式によって持ち時間が変動するように定められたのである。一時間以上の枠をもらえるのはよっぽど実績のあるバンドだけで、それ以外は二十分から四十分の割り振りであるとのことであった。
「持ち時間が減っちゃったのは、残念な限りだねぇ。ユーリはそれだけが、しょんぼり要素なのでぃす」
と、ユーリがぼしょぼしょと瓜子に囁きかけてくる。もちろん瓜子も同じ気持ちであったので、「そうっすね」と耳打ちを返すことになった。
演奏時間が短縮されたのは、さらに数多くのアーティストを出演させるためである。『トライ・アングル』は人気急上昇中であったので、ぎりぎり一時間の枠をもらえるのではないかと期待がかけられていたのだが――やはり、こちらにエントリーする際にはユーリの予定がまだ不確定で急遽欠場する可能性がゼロではなかったため、見送られたようであった。
「最近はこちらのイベントも客足が頭打ちで、色々と試行錯誤しているようですね。音楽業界も真冬の時代は抜けたと称されてひさしいですが、まだまだ予断を許さないのでしょう」
何事につけても博識な千駄ヶ谷は、そんな風に言っていた。
格闘技業界に比べれば華々しく見えてならない音楽業界も、決して安寧の時代ではなかったのだ。それでもまあ、二日間で十五万名もの集客を見込めるのだから、大したものだろうと思うのだが――時代の移り変わりとともに、さまざまな産業が変転を余儀なくされているのだろうと思われた。
(まあ、下っ端のあたしはユーリさんたちの活躍を見守ることしかできないけどさ)
女子格闘技界では日本代表に祀り上げられてしまった瓜子も、音楽業界では関係者を名乗るのもおこがましいぐらいの末端構成員に過ぎないのだ。瓜子は粛々と、上司たる千駄ヶ谷の命令に従うばかりであった。
そうして『ワンド・ペイジ』のメンバーが着替えを終えるのを待って、『トライ・アングル』の一行はいざ舞台袖へと出陣する。
ピンクのユーリ、オリーブグリーンの『ベイビー・アピール』に対して、『ワンド・ペイジ』の三名はワインレッドのTシャツだ。カラーリングは違えど同じデザインのTシャツを纏った瓜子は、関係者用の通路を進みながらいっそう胸を高鳴らせることになった。
客席では、数多くの観客たちが『トライ・アングル』の出番を待ち受けていることだろう。その中には、懇意にしている女子選手も多数ふくまれている。昨日の試合に出場した愛音と多賀崎選手も大きな怪我を負うことなく来場できたのは、何よりの話であった。
(そういえば、去年はユーリさんが出場できるかどうかわからなかったから、シークレットの扱いだったんだっけ)
そしてそれは長期入院していたユーリの、復活ライブであったのだ。それからもう一年が経つのかと思うと、瓜子はむやみに感慨深くなってしまった。
ユーリは去年の七月に退院して、すぐさま瓜子のセコンドについてくれたのである。
その二ヶ月後に、ようやくファイターとしても復帰できて――そして今では《ビギニング》と正式契約を交わして、次回はタイトルマッチに挑戦する身である。あらためて考えると、とてつもない激動の人生であった。
(もうユーリさんは、そういう星のもとに生まれついてるんだろうな)
瓜子の想念がそんな結論に行き着いたところで、舞台袖に到着した。
照明の落とされたステージ上では、まだペンライトを携えたスタッフたちがせわしなく行き来している。そして、客席からは熱いざわめきが伝わってきていた。
本番前の、緊張のひと時である。
自分の試合では緊張と無縁の瓜子も、この時間だけは気を張ってしまう。この感覚を味わうのも、三ヶ月半ぶりのことであった。
他のメンバーたちは気を張る様子もなく、おのおの歓談に耽っている。ユーリはひとり、ウォームアップだ。瓜子がそのさまを見守っていると、ユーリは屈伸運動を続けながらふにゃんと笑いかけてきた。
「うり坊ちゃん、いつになくスリリングなお顔だねぇ。さてはステージに乱入して、ユーリからマイクを奪おうという目論見では?」
「そんなわけないじゃないっすか。……頑張ってくださいね、ユーリさん」
「うみゅ。ここまできたら、なけなしの力を振り絞るだけなのでぃす」
ユーリがその身の力を振り絞れば、ステージの成功も確実であろう。
ユーリのやわらかな笑顔が、瓜子の心を優しくなだめてくれた。
「セッティング、完了しました。よろしくお願いします」
やがて会場のスタッフからそんな言葉が告げられると、漆原は気の抜けた笑顔で「はいよ」と応じた。
「じゃ、しばらくぶりの復帰戦だなぁ。焦らしておいた連中を満足させられるように、気合を入れていこうぜぇ」
『ベイビー・アピール』の面々は漆原よりも脱力した調子で「おー」と応じて、ユーリは「はーい!」と両腕を振り上げた。
照明が絞られたステージにユーリを除くメンバーが入場していくと、たちまち歓声がわきおこる。
ユーリは天使のように無垢なる笑顔で、瓜子に向きなおってきた。
「それでは、いってくるのです」
「はい。ここで見守ってますから、頑張ってください」
試合の日と同じように、瓜子とユーリの拳がぎゅっと押し合わされる。
ステージでは、西岡桔平の合図によって、すべての楽器の音色が爆発した。
ステージ上にはさまざまな色合いのスポットが入り乱れて、さらなる歓声が吹き荒れる。
名残惜しそうに拳を離したユーリはにこりと笑ってから身をひるがえし、音と光の中に身を投じた。
『みなさん、こんにちはぁ。おひさしぶりの、「トライ・アングル」でぇす』
ユーリがのんびり声をあげると、歓声はいっそうの熱気を帯びていく。いったいどこまで上昇していくのかと、少し怖くなるぐらいであった。
『今日は四十分しかないので、最初から盛り上がっていきましょうねぇ。一曲目は、「Re:Boot」でぇす』
本日のオープニングナンバーは、ユーリの復活とともにリリースされた最初のシングル曲、『Re:Boot』であった。
退院間近のユーリと相対した山寺博人が、その変わり果てた姿からインスパイアされた一曲だ。力強い復活というものをテーマにした、『トライ・アングル』の中でもとりわけ勢いのあるアップテンポの曲調であった。
西岡桔平の疾走感にあふれたドラムに合わせて濁流のごときイントロが奏でられると、ユーリもまた猛烈なる躍動感でステップを踏んだ。
これは山寺博人の手掛けた楽曲であるが、ひときわ印象的であるのは漆原のピアノである。スローテンポの楽曲では哀切さや優美さを担う漆原のピアノが、こちらの『Re:Boot』では誰よりも狂騒的な迫力を発露していた。
土台を支えるのは西岡桔平のドラムとタツヤのベースで、山寺博人の生々しい熱情にあふれたエレアコギターとダイの奔放なパーカッションもさらにリズムを補強している。激しく歪んだリュウのギターと弓でかき鳴らされる陣内征生のアップライトベースは、漆原のピアノとともに楽曲を絢爛に彩った。
そして最後に重ねられるのは、ユーリの歌声である。
その甘ったるくて力強い歌声が響きわたるのと同時に、瓜子の背筋が粟立った。
やはりユーリは、ライブ本番になると迫力が倍増する。
それはもうこれまで何度も体感してきたことであったが、三ヶ月半も期間が空くと、瓜子に鮮烈な驚嘆をもたらしてやまなかった。
それに――ユーリはまた、歌の凄みが増したのではないだろうか。
歌の練習を重ねるにつれて歌唱力が向上したのか、筋力の向上によって声量が増したのか、歌詞の理解度がいっそう深まったのか――専門家ならぬ瓜子にはまったく見当もつかなかったが、ユーリの歌声はこれまで以上の勢いで瓜子の胸に食い入ってきた。
ユーリは笑顔で、激しい演奏に合わせて全身を躍動させながら、実にのびやかに歌声を響かせている。そんなにも自然体で、どうしてこれほどの歌声を生み出せるのか、いっそ不思議なほどであった。
(本当に……グラップリング・マッチでも楽しんでるみたいだな)
MMAの試合において、ユーリはいつも大きな苦労を強いられている。大好きな寝技を楽しむために、苦手な立ち技をクリアーしなければならないからだ。その攻撃のモーションは寝技に負けないぐらい優美で力強かったが、それでもユーリが立ち技の勝負で楽しげな顔を見せたことはなかった。
よって瓜子の目には、ステージで歌っているユーリのほうが、よほど楽しげに見えてしまう。ユーリがこんなに幸せそうな顔を見せるのは、グラップリング・マッチや寝技の稽古に打ち込んでいるときぐらいであるのだ。
しかしそれでもユーリが選んだのは、ミュージシャンでも柔術家でもなく、MMAファイターである。
ユーリの充足しきった笑顔を視界に収めながら、瓜子はその得難さをしみじみと噛みしめることになった。
(もちろんユーリさんがミュージシャンや柔術に専念するって言い出しても、あたしは全力で応援するけどさ)
しかしそれでは、ともに歩いていくことができない。
だから瓜子はユーリの選択を、これほどありがたく思っているのだった。
『ありがとうございまぁす。二曲目は、「burst open」でぇす』
立て続けに、激しいナンバーが披露される。
テンポは『Re:Boot』のほうがまさっているが、『burst open』も疾走感を追求した楽曲である。また、ここ最近ではこちらの曲でも漆原がピアノのパートを考案して、これまで以上の絢爛さと迫力を付け加えていた。
こんな二曲を連投されたら、客席は大変な騒ぎであろう。
瓜子が懇意にしている女子選手たち――特に、初めて『トライ・アングル』のステージを体感するシンガポール陣営は、大丈夫であろうか。瓜子がそんな懸念を覚えるほど、今日の『トライ・アングル』のステージは暴風雨めいた迫力であったのだった。




