Act.3 サマー・スピン・フェスティバル 01 楽屋にて
《フィスト》八月大会の翌日――八月の第一日曜日である。
実に慌ただしいことに、その日が『サマー・スピン・フェスティバル』における『トライ・アングル』の出番の日であった。
「昨日は俺たちもこっちに顔を出さなきゃいけなかったから、観戦に行けなかったんだけどさ! アトミックのみんなが勝てて、何よりだったよ!」
会場の楽屋でそのように言い出したのは、『ベイビー・アピール』のベースであるタツヤであった。『サマー・スピン・フェスティバル』は昨日と今日の連日開催であり、『トライ・アングル』のメンバーはおおよそライブ観戦を楽しんでいたのだ。
「まあ、美香ちゃんもアトミックの選手だろうけど、相手がマコっちゃんならしかたねえよな! 前回はマコっちゃんが負けちまったんだし、これで痛み分けってこった!」
「ああ! おたがいベルトを守れたんなら、文句もないだろうしな!」
タツヤのよき相棒であるドラムのダイも、同じぐらい陽気な笑顔で賛同する。『トライ・アングル』は三ヶ月半ぶりのライブなので、誰もが意気揚々であるのだ。
向かいのソファに座したユーリもにこにこ笑っているし、もちろん瓜子も幸せな心地である。瓜子は半分がたファンの立場として、今日という日を心待ちにしていたのだった。
「それにしても、シンガポールの方々まで観にきてくださるなんて光栄な限りですね。その内のお二人は、音源や映像まで集めてくれているんでしょう?」
隣のソファセットから、『ワンド・ペイジ』のドラムたる西岡桔平も口をはさんでくる。こちらは相変わらずの、穏やかな笑顔だ。
「はい。グヴェンドリン選手とランズ選手っすね。『アクセル・ロード』で『トライ・アングル』の存在を知って、それ以来ファンになってくれたそうですよ」
「ああ、あの番組でも一回だけ、『トライ・アングル』の曲がエンディングで使われたんだもんな! 相変わらず海外の売れ行きも好調みたいだし、みんなユーリちゃんと瓜子ちゃんのおかげだな!」
「いやいや、自分は関係ないっすよ。デジタル音源には特典もへったくれもないんすからね」
「でも、その二人だってわざわざ特典つきの限定版を日本から取り寄せたってんだろ? それに、どうして海外ではCDやDVDが発売されないんだって、SNSなんかは大荒れらしいぜ? みんなユーリちゃんと瓜子ちゃんのセクシーショットを手に入れたくてしかたねえんだよ!」
「そうそう! あとはMVにだって、瓜子ちゃんたちのセクシーショットは山盛りなんだしな! 瓜子ちゃんの水着姿も、めいっぱい貢献してるはずさ!」
「……なんか、気分が滅入ってきました」
瓜子ががっくり肩を落とすと、西岡桔平のかたわらで身をのばしていたリュウが苦笑まじりの声をあげた。
「お前ら、ほんと成長しないよな。せっかくひさびさのライブなんだから、瓜子ちゃんを落ち込ませるなよ」
「お前はまたそうやって、いいところを持っていこうとするんじゃねえよ!」
「お前らが勝手に自爆してるだけだろ。……で、最後のひとりのエイミーってのは、つきあいでくっついてくるのかい? あっちにしてみれば、自腹を切って修行中の身なんだろ?」
「はい。どっちみち、稽古相手もみんな来場するわけですからね。今日は骨休めの日と割り切って、ユーリさんの勇姿を見届けようっていう気持ちになってくれたみたいです」
「ふーん。ユーリちゃんに連敗してても、恨みはないってことか。まあ、わざわざプレスマンに武者修行に来るぐらいなんだもんな」
「ええ。シンガポールで再会したときから、エイミー選手も好意的でしたよ。ユーリさんはいずれ《ビギニング》の王者になるだろうから、そのときは自分が挑戦するんだって奮起してるみたいです」
「十月には、瓜子ちゃんもユーリちゃんもタイトルマッチなんだもんな。俺たちも、負けてられねえや」
リュウの屈託のない笑顔に、瓜子も笑顔を返す。
すると、どこからともなく出現した千駄ヶ谷が鋭く手を打ち鳴らした。
「それではそろそろ、お召し替えの準備をお願いいたします」
「あ、もうそんな時間ですか。それじゃあ俺たちは、出番ですね」
西岡桔平が腰を上げると、少し離れた場所でくつろいでいた山寺博人と陣内征生もそれに続く。『トライ・アングル』の前に、『ワンド・ペイジ』の出番であるのだ。すでに出番を終えている『ベイビー・アピール』の面々は「へーい」と着替えに取り掛かった。
『トライ・アングル』しか出番のないユーリは、すでに着替えを終えている。今回はごくシンプルに、『トライ・アングル』のロゴが入ったTシャツとダメージデニムのショートパンツとデッキシューズといういでたちだ。この夏の活動に備えて新作のグッズTシャツが開発されたので、その販売促進を願ってのステージ衣装であった。
そのTシャツは凶悪に隆起した胸の下で裾が縛られて、真っ白な腹部が剥き出しにされている。卓越しすぎたプロポーションを有するユーリはTシャツもオーバーサイズにしなければならないので、そのように処置しないと不格好になってしまうのだ。瓜子にとっては試合衣装で見慣れた姿であったが、男性諸君にはこれだけで目の毒であるはずであった。
「ひさびさのライブ、楽しみだにゃあ。みんなも楽しんでくれるかにゃあ」
周囲からメンバーの姿がなくなると、ユーリは散歩を待ちきれないゴールデンリトリバーのようにうずうずと身を揺すり始める。その顔はノーメイクで、ふくよかな唇に前髪のひとふさと同系色のリップが塗られているのみであったが、それだけで十分に蠱惑的な美貌である。もともとウェーブがかっている純白の髪も手櫛だけでごく自然なふくらみを得ており、メイク係を呼びつける甲斐もなかった。
「ライブは四月以来なんですから、ファンのみなさんも心待ちにしてますよ。今月発売されるライブDVDも、過去最高の予約数らしいっすからね」
「うにゃあ。それはそれで、プレッシャーですわん。ユーリがノーテンキにはしゃいでたら、ヒンシュクを買わないかしらん」
「ユーリさんも、それだけ今日を楽しみにしてたんですもんね。絶対に大丈夫ですから、何も気にせず大暴れしちゃってください」
『トライ・アングル』はこの日に備えて、何回かのスタジオ練習に取り組んでいる。そのすべてを見届けてきた瓜子は、何の心配もなくユーリの背中を押すことができた。
(この夏だって、ライブは二回しかないんだからな。だったら、その二回で完全燃焼するしかないさ)
ユーリのスケジュールが不安定であったため、けっきょく本年は苗場の『ジャパン・ロック・フェスティバル』にエントリーできなかったのだ。その代わりに別なる夏フェスにエントリーできたので、この『サマー・スピン・フェスティバル』を含めてその二回が、『トライ・アングル』の夏の活動のすべてであった。
ファンの間ではもっとライブの本数を増やしてほしいという声が飛び交っているようであるが、こればかりはしかたがない。ユーリもようやく《ビギニング》と正式契約を結んで年間のスケジュールが立てやすい状況になったので、今後に期待していただくしかなかった。
「さー、準備は万端だ! さっさと始めてえよなー!」
着替えを終えたタツヤとダイが、向かいのソファにどかりと座り込む。リュウはまた隣のソファで、漆原は千駄ヶ谷と立ち話だ。今回、『ベイビー・アピール』陣営のTシャツはオリーブグリーンで統一されており、ユーリは当然のようにピンク、スタッフの瓜子はブラックであった。
「そういえば、こいつの通販ページの瓜子ちゃんも可愛かったよなあ! 水着でもTシャツでも可愛いなんて、本当に可愛い証拠だぜ!」
「……いちいち余計なワードをはさむのはご遠慮願えますか?」
「ごめんごめん! やっぱひさびさだから、テンションが上がっちまってよ! 瓜子ちゃんたちと会えるのも、ライブと練習と撮影の日だけだからなぁ」
確かに瓜子とユーリは海外におもむく日取りが増えたため、『トライ・アングル』のメンバーと顔をあわせる頻度がずいぶん減っていたのだ。四月の単独公演を終えた後は、カバーアルバムにまつわるミーティングと、特典ブックレットの撮影と、今日に備えたスタジオ練習でしか顔をあわせていなかった。
「これからは、こういうペースで活動を続けていくんだろうな。何せユーリちゃんは、三ヶ月にいっぺんぐらいのペースで海外に出向くんだろうからさ」
リュウの言葉に、ユーリは「うにゃあ」と頭をひっかき回す。
「ユーリがみなさんの足を引っ張ってしまい、キョーシュクのイタリなのですぅ。それ以外ではご迷惑をかけないように身をつつしみますので……」
「ユーリちゃんはファイターが本業なんだから、それでいいんだよ。ユーリちゃんが《ビギニング》の王者になったら、俺たちだって誇らしいさ」
「それに、瓜子ちゃんもな! 二人そろってアジアのチャンピオンなんて、本当にすげえ話だよ!」
ダイの無邪気な発言に、瓜子は「いえいえ」と笑ってしまう。
「試合がどういう結果になるかは、まったくわからないっすよ。イヴォンヌ選手とレベッカ選手は、本当にお強いんですから」
「でも、負ける気なんてありゃしねえんだろ?」
「それはもちろん、どんな試合だって勝つ気で挑みますけどね。でも、今回は……本当に強敵なんです」
瓜子がうっかり気合をこぼしてしまったため、タツヤが「おお」と身を引いた。
「いま一瞬、すげえマジな目つきになってたな。俺も気になって、そいつらの試合を確認してみたんだけど……あれって、そんなにすげえ相手なのかい?」
「ええ。コーチいわく、格闘技の経験者じゃないとわかりにくい強さみたいっすね」
瓜子の言葉に、リュウが「ああ」と反応した。
「それはなんか、わかる気がするよ。俺も過去の試合映像を確認してみたけど、なんていうか……その二人が強いっていうより、相手が弱く見えちまうんだよな」
「ええ。あのお二人は相手のストロングポイントを打ち消すのが得意だから、そういう印象になるんじゃないっすかね」
「で、試合はほとんど判定勝負だもんな。正直に言って、俺は魅力を感じねえよ。ここは是非とも瓜子ちゃんとユーリちゃんにベルトをぶんどってもらって、《ビギニング》をひっかき回してほしいところだよな」
そう言って、リュウは力強く笑った。
瓜子もまた、「はい」と笑ってみせる。
「結果がどうなるかはわかりませんけど、全力でぶつかりますよ。絶対に、相手に涼しい顔をさせたまま終わらせたりはしません」
「うん。確かに、すげえ気合だな。……もしかして、メイちゃんに触発されてるのかい?」
「あはは。リュウさんは鋭いっすね」
瓜子たちよりひと足早く《アクセル・ファイト》と正式契約を交わしたメイは、こちらと同時期にニューヨークで試合を行うのである。そしてその相手は、いきなり《アクセル・ファイト》のランカーであり――しかも、かつてはメイと同じく《スラッシュ》の王者であった選手であったのだった。
その選手はゴールデンウイークの期間に開催された《アクセル・ファイト》のラスベガス大会で別なるランカーに敗れていたので、運営陣としてはメイの腕試しという思惑なのかもしれないが――何にせよ、メイは奮起しているはずであったし、それを追いかける瓜子も同様であった。
「……あれ? そういえば、同じ日にベリーニャも試合をするんじゃなかったっけ?」
「ええ。ガブリエラっていう若いブラジルの選手と、タイトルマッチっすね」
「だよな。じゃ、ユーリちゃんも気合まんまん……って感じではねえなぁ」
「はいぃ。もちろん期待はむんむんですけれど、ユーリはまず自分の試合を頑張らないといけませんのでぇ」
ユーリはにこりと、あどけなく微笑んだ。
もちろんその胸の内には、ベリーニャ選手に対する熱情が変わらぬ勢いで渦巻いているのであろうが――ブラジルの地でベリーニャ選手と再会して以来、ユーリはとてもゆるやかな充足にひたっているような雰囲気であった。
(やっぱりベリーニャ選手もユーリさんと同じ気持ちでいてくれたことが、嬉しかったんだろうな)
そうしてユーリの様子に心を和ませつつ、瓜子は慌てて声をあげた。
「あ、ライブの直前なのに格闘技の話ばっかりで、どうもすみません。どうかみなさんは、ライブに集中してください」
「こっちから話を振ったんだから、瓜子ちゃんが謝る必要はないさ」
「そうそう! ステージに立てば、勝手に集中するんだからよ! 今から気を張ったって、疲れるだけさ!」
「何にせよ、瓜子ちゃんたちとおしゃべりしてるだけで、テンションはマックスだからよ!」
リュウの誠実さもダイおよびタツヤの陽気さも、瓜子にはありがたい限りである。
やがて楽屋に設置されたモニターでは、『ワンド・ペイジ』の演奏が開始される。その荒々しい演奏に胸を震わせつつ、瓜子は自分の闘志にそっと蓋をかぶせて『トライ・アングル』の出番を待ち受けることになったのだった。




