06 《フィスト》女子フライ級タイトルマッチ
《アトミック・ガールズ》と《フィスト》の対抗戦が終了したのちは、男子選手のトップファイターによる一戦である。
そちらもトップファイターの名に恥じない熱戦であったものの、実力伯仲で試合が大きく動かないためか、客席は今ひとつ盛り上がっていない。犬飼京菜の秒殺KOがあまりに鮮烈であったため、いっそう地味な印象になってしまうのであろう。また、愛音と大江山すみれの試合もそれぞれ印象的であったので、多少は影響しているのではないかと思われた。
瓜子としてもシンガポール陣営の評価が気になるところであったが、目の前の試合を二の次にして筆談に励むというのは礼を失していることだろう。それに、試合運びは地味であったが、こちらの一戦も高いレベルであることに疑いはないのだ。まだまだ未熟な瓜子は、勉強のつもりでそちらの試合に集中することにした。
結果はけっきょく時間切れで、赤コーナー陣営の判定勝利となる。
寝技の攻防が少なかったため、ユーリはまた居眠りタイムだ。瓜子は苦笑をこぼしながら、その丸くてやわらかな肩を揺さぶることにした。
「ほら、次は多賀崎選手と魅々香選手のタイトルマッチっすよ。しっかり起きて、応援してあげてください」
「むにゃあ……おなかのぺこぺこ具合と相まって、どうにもねむねむの誘惑にあらがえないのですぅ」
「普通はおなかが空いてると、眠りにくい気がしますけどね。とにかく、応援しましょう」
そんな中、ケージの中央に進み出たリングアナウンサーがメインイベントの開始を宣言する。
《フィスト》の女子フライ級タイトルマッチである。気を取り直したような大歓声の中、まずは挑戦者の魅々香選手が入場した。
白と黒の公式ウェアを纏った魅々香選手は、いくぶんうつむき加減にひたひたと花道を進む。その背後を守るのは、来栖舞と二名のトレーナーだ。今日は熟練のトレーナーでセコンドが固められて、高橋選手にはお呼びがかからなかったという話であった。
そして赤コーナーからは、チャンピオンベルトを肩に掛けた多賀崎選手が入場する。そちらのセコンドは二名のトレーナーと、灰原選手だ。その全員が四ッ谷ライオットの黒いウェアを纏っているのが、なんとも新鮮であった。
両陣営が入場したならば、王座の一時返還とコミッショナーによるタイトルマッチ宣言、そして国歌の清聴である。
しかるのちに、リングアナウンサーが朗々たる声を響かせた。
『第十試合、メインイベント! 女子フライ級タイトルマッチ、五分三ラウンドを開始いたします! ……青コーナー、挑戦者! 百六十五センチ、五十五・九キログラム、天覇館東京本部所属! 《アトミック・ガールズ》フライ級第七代王者……魅々香!』
魅々香選手は、ただうっそりと頭を下げる。
彼女は内向的なだけであるのだが、何せ迫力のある面相をしているので、とてつもない威圧感であった。
『赤コーナー、王者! 百六十一センチ、五十六キログラム、四ッ谷ライオット所属! 《フィスト》女子フライ級第四代王者……多賀崎、真実!』
多賀崎選手が小さく腕を上げると、魅々香選手に倍する勢いで歓声があげられた。
やはり本日は、多賀崎選手も《フィスト》陣営の選手と見なされているのだろう。また、アトム級の対抗戦が《フィスト》陣営の全敗に終わったため、多賀崎選手に期待をかける人間も少なくないのではないかと思われた。
(ここは《フィスト》の会場で、多賀崎選手は《フィスト》の王者なんだから、それはしかたない。あたしはあたしで、多賀崎選手を応援するだけだ)
瓜子にとっては魅々香選手も大切な存在であるが、より親密なおつきあいをさせてもらっているのは多賀崎選手のほうである。試合会場や合宿稽古の場でしか顔をあわせない魅々香選手を友人呼ばわりすることはできなかったが、多賀崎選手はまぎれもなく友人と呼べる存在であるはずであった。
なおかつ多賀崎選手は四ヶ月ほど前に《アトミック・ガールズ》の舞台で魅々香選手の王座に挑んで、敗れている。ここで敗れれば魅々香選手に対して連敗となり、王座も失ってしまうのである。多賀崎選手にとっては王座を守るための、魅々香選手にとっては二冠王になるための、これは大一番であった。
大歓声の中、両者はレフェリーのもとで向かい合う。
どちらも、逞しい体格である。多賀崎選手などは愛音や大江山すみれと同じ身長で二階級も重い階級であるのだから、身体の分厚さは比較にもならなかった。
ただし魅々香選手は、それよりもさらに逞しい肉体を有している。背丈で上回っているばかりでなく、身体の厚みでもまさっているのだ。それは多賀崎選手よりも頑健な骨格を有しているだけではなく、より大きなリカバリーを果たしている証拠であった。
多賀崎選手は均整の取れた体格であるが、魅々香選手は上半身の逞しさが際立っている。極度に肥大した広背筋や広い肩幅や丸太のような腕など、腰から上は男子選手さながらであるのだ。リーチの差などは、十五センチぐらいに及ぶのではないかと思われた。
(それでも、地力では負けてないはずです。四度目の正直ですよ、多賀崎選手)
多賀崎選手は数年前にも魅々香選手と二回対戦しており、通算成績は三戦三敗なのである。
数年前までは、確かに魅々香選手のほうが格上であったのだろう。魅々香選手は二歳年長である上に、格闘技のキャリアはさらに長いはずであるのだ。瓜子がデビューした当時、魅々香選手は日本人選手のナンバーツー、多賀崎選手はトップスリーに届かない四番手という肩書きであった。
しかしそれから四年ほどを経て、両者はともに実力を上げている。だからこそ、多賀崎選手は《フィスト》の王者であり、魅々香選手は《アトミック・ガールズ》の王者であるのだ。現在のフライ級は、この両者が双璧――あるいは、《パルテノン》の王者たる巾木選手を含めて、日本のトップスリーであるはずであった。
(それに多賀崎選手は、プレスマンのコーチ陣からも助言をもらってる。ふた組のコーチ陣から助力してもらえるのは、大きな強みのはずだ)
瓜子がそんな思いを噛みしめる中、両者はフェンス際に引き下がる。
そうして、試合開始のゴングが鳴らされた。
まず大きく前に出たのは、多賀崎選手である。
それもまた、プレスマン道場のコーチ陣の助言に基づいての作戦であった。
アウトファイターとしての稽古を積んだ多賀崎選手は、その力強いステップワークを突進の力にかえて、魅々香選手に肉迫する。
魅々香選手は怯んだ様子もなく、左のショートフックで迎え撃った。豪腕と称される魅々香選手の、前手でも重い左フックである。
ダッキングでその攻撃をかいくぐった多賀崎選手は、インサイドから魅々香選手の懐に飛び込む。
魅々香選手は下がろうとしたが、多賀崎選手の突進力のほうがまさっている。クラウチングの姿勢を取った多賀崎選手は、近い位置から右のボディブローを繰り出した。
魅々香選手は不発に終わった左フックを素早く戻して、ボディをガードする。さすがの反応速度である。
その左腕に右拳を叩きつけてから、多賀崎選手はさらに左のショートアッパーを繰り出した。
魅々香選手は上体をのけぞらせて、何とかその一撃も回避する。
そして、今度こそ距離を取ろうと大きくバックステップを踏んだが――多賀崎選手は、執拗に追いすがった。これが、立松たちの授けた作戦なのである。
(魅々香選手はリーチがあるから、中間距離の戦いはこっちの分が悪い。だから、インファイトに徹底する――だったよな)
なおかつ、リーチがある選手は懐に入られると、長い腕を持て余すことになる。実際、現在の魅々香選手は得意のフックを返すこともできず、ただ距離を取ろうとしていた。
そんな魅々香選手に、多賀崎選手はコンパクトな攻撃を撃ち込んでいく。左手はジャブかショートアッパー、右手は顔面かボディを狙うフックだ。これもまた、ここ最近のスパーで磨いてきた攻撃の数々であった。
瓜子は背丈が足りていないため、今回はほとんどスパーリングパートナーに選ばれることもなかった。選ばれたのは、魅々香選手と同等以上の身長を有するオリビア選手や高橋選手や鬼沢選手などである。そちらの三名は魅々香選手と同様にインファイトを得意にしているため、スパーリングパートナーにうってつけであったのだった。
ただし魅々香選手は、その三名の有していない武器を有している。
柔道ルーツの、組み技である。
距離を取るのが難しいと見た魅々香選手は、すぐさま組み技に切り替えて多賀崎選手に組みつこうとした。
魅々香選手の長い腕が、多賀崎選手の頭部を抱え込む。
多賀崎選手はかまわず、無防備なボディに拳を撃ち込んだ。
それを嫌がるように、魅々香選手は右膝を振り上げる。
それを左腕でブロックした多賀崎選手は、自らも魅々香選手の胴体につかみかかった。
魅々香選手の胸もとに肩を押し当てながら、多賀崎選手は足を掛けようとする。
組み技における足技は、魅々香選手がもっとも得意とするところだ。魅々香選手は危なげなく回避したが、しかし反撃の手は打てなかった。多賀崎選手が油断なく腰を落としつつ前進しているため、足技を返す余地がなかったのだ。
ここでも多賀崎選手が、近い距離をコントロールできている。
すべては、稽古の成果である。もとよりレスリングを得意にしている多賀崎選手が、この日のためにさらなる鍛練を重ねていたのだ。
自分のリズムをつかめない魅々香選手は、多賀崎選手の身を突き放して逃げようとする。
しかし多賀崎選手は組みつきを解除しつつ、距離は取らせない。魅々香選手の懐にぐいぐいと踏み込んで、またコンパクトなパンチを連打した。
(前回の試合ではいきなり乱打戦を仕掛けられて、テイクダウンを取られて、肘打ちをくらって……あれで完全に、主導権を握られちゃったもんな。今度は、こっちが翻弄する番だ)
魅々香選手は極度にリーチが長いため、いったん距離を取られると懐に入ることも難しい。それで前回の試合も、多賀崎選手はさんざん悩まされたのだ。
よって今回はこちらが先手を取って懐に飛び込み、その位置取りをキープする。それが、立松たちの授けた作戦であった。
インファイトと柔道仕込みの足技を得意にする魅々香選手に接近戦を挑むというのは、きわめて過酷な話である。
しかし多賀崎選手にも、KOパワーを持つ打撃技とレスリングの力がある。多賀崎選手の実力を知っているからこそ、立松たちも背中を押すことがかなったのだった。
魅々香選手は防戦一方で、距離を取ることもかなわない。
この一方的な展開に、会場は大きくわきたっていた。
しかし、勝負はここからだ。
魅々香選手とて歴戦のファイターであり、しかも日々成長しているのである。これだけで勝てるほど甘い相手ではなかった。
(……あっ!)と、瓜子は息を呑む。
ひたすら防御に徹していた魅々香選手が、右腕を振りかざしたのだ。
きわめて鋭いスイングであるが、フックを当てるには距離が詰まりすぎている。
魅々香選手の右腕は、もっと鋭角に折りたたまれており――その肘先が、多賀崎選手の頭部を狙った。
至近距離では、肘打ちが有効であるのだ。
そして魅々香選手は、前回の試合でも強烈な肘打ちで多賀崎選手の顔面を割っていた。あれはグラウンドにおける肘打ちであったが、魅々香選手が肘打ちを磨いている事実を指し示していた。
よって――多賀崎選手もコーチ陣も、魅々香選手の肘打ちは警戒していた。
多賀崎選手は頭を屈めてその肘打ちを回避すると、再び魅々香選手の胴体に組みついた。
その腹に、魅々香選手の左膝がめりこむ。
魅々香選手もまた、多賀崎選手が組みつきに来ると見越して、カウンターの膝蹴りを準備していたのだ。
膝蹴りをクリーンヒットされた多賀崎選手は、一瞬動きを止めてしまう。
魅々香選手は胴体に回された多賀崎選手の両腕をかんぬきにとらえて、振りほどこうとする。ユーリなどはその状態から豪快なスープレックスに繋げたものであるが、あれはユーリの怪力と柔軟性があってこその荒技であった。
横合いに振り回された多賀崎選手は力なくたたらを踏んで、魅々香選手の身からもぎ離されてしまう。
両者の間に、ついに大きな距離があいてしまった。
魅々香選手は、猛然と右腕を振りかぶる。
苦しげに身を折っていた多賀崎選手は――自らも左拳を繰り出した。
魅々香選手は奥手による豪快なオーバーフックで、多賀崎選手は前手によるコンパクトなショートフックである。
前手のほうが相手に近いし、辿る軌道もショートフックのほうが短い。破壊力でまさるのは魅々香選手のオーバーフックであるが、スピードに秀でているのは多賀崎選手のショートフックであり――結果、多賀崎選手のショートフックがクリーンヒットした。
一瞬遅れて魅々香選手の右拳も多賀崎選手のこめかみに炸裂したが、先に攻撃を当てられたため威力も半減であろう。
そして多賀崎選手は左拳を引きながら、右拳をも繰り出した。
前屈みの姿勢であったため、地を這うような右アッパーである。
左フックと右アッパーのコンビネーション――それは、多賀崎選手がプレスマン道場の出稽古に励む日々の中で、サイトーと蝉川日和を手本にして習得したコンビネーションであった。
サイトーのライジング・アッパーや蝉川日和のタイガー・アッパーに劣らない勢いで、多賀崎選手の右拳は真下から魅々香選手の下顎を撃ち抜いた。
魅々香選手は大きくのけぞり、そのまま背中からマットに倒れ込む。
その上に、多賀崎選手が躍りかかった。
魅々香選手の足を乗り越えて、一気にマウントポジションだ。
魅々香選手は力なく腕を突き出して、多賀崎選手の身を押しのけようとする。寝技巧者の魅々香選手とは思えないほど、弱々しい所作であった。右アッパーが、それだけのダメージであったのだ。
多賀崎選手はその長い右腕をつかみ取りながら、魅々香選手の左肩を右足でまたぎこす。そして一瞬も動きを止めないまま魅々香選手の首裏に足先をねじ込んで、横合いに倒れ込み、その首をロックした。
ユーリも得意とする、三角締めである。
魅々香選手の頭部を右腕ごと両足でロックした多賀崎選手は、自らが苦悶の形相になりながら両足を引き絞った。
数秒間の静寂ののち――魅々香選手の右手の先が、多賀崎選手の肩をタップする。
大歓声が爆発して、そこにアナウンスの声が重ねられた。
『一ラウンド、四分二十二秒! 三角締めにより、多賀崎選手の勝利です! 王者が勝利したため、タイトルの移動はありません!』
瓜子は大きく息をつきながら、周囲の人々とともに手を打ち鳴らす。
それから、ユーリのほうを振り返ると――ユーリはとても優しい眼差しで、ケージのほうを見つめていた。
「多賀崎選手、頑張ったねぇ。……たぶん、呼吸ができてないんじゃないかなぁ」
瓜子は「え?」と驚きの声をあげつつ、ケージのほうに向きなおる。
三角締めから解放された魅々香選手は、マットに突っ伏しており――多賀崎選手は仰向けの姿勢で腹を抱え込みながら、苦しげに身をよじっていた。
ケージ内に駆け込んだリングドクターも、魅々香選手ではなく多賀崎選手に駆け寄る。そして、四ッ谷ライオットのセコンド陣もすぐさま多賀崎選手を取り囲んだ。
多賀崎選手が呼吸をできていないとしたら――それは、膝蹴りのダメージしかありえない。それ以降は、呼吸を阻害されるような攻撃はくらっていないはずであった。
しかし多賀崎選手は膝蹴りをもらった後に、左フックと右アッパーのコンビネーションを撃ち込み、倒れた魅々香選手の上にのしかかり、三角締めを完成させたのである。呼吸をできない状態でそのような真似に及ぶなどとは、信じ難い話であった。
「最後の三角締めも、完璧な入りだったねぇ。魅々香選手は残念だったけど、多賀崎選手は格好よかったねぇ」
「……ええ、本当っすね」
瓜子がそのように答えると、ユーリはきょとんとした顔で振り返ってきた。
「うにゃにゃ? もしかして、ユーリは心の声がだだもれだったかしらん?」
「今のは、心の声だったんすか? どこに出しても恥ずかしくないコメントだったっすよ」
「うにゃあ。お恥ずかしい限りなのですぅ」
ユーリは気恥ずかしそうに微笑みながら、フライトキャップに包まれた自分の頭を抱え込む。その愛くるしい姿に、瓜子も思わず笑ってしまった。
そうして多賀崎選手は四度目の対戦にして、ついに魅々香選手を下して――《フィスト》女子フライ級王座を死守してみせたのだった。




