03 王座返還の式典
開会セレモニーが終了された後は、すみやかに第一試合が開始された。
ここからインターバルまでの五試合は、すべて男子選手の一戦だ。トップファイターと呼べるのは第九試合に出場するひと組だけで、序盤はのきなみ新人や若手や中堅の選手であるとのことであった。
一試合目は新人同士であったらしく、どちらも挙動が荒っぽい。《フィスト》でプロデビューしたからにはアマチュアの大会で確かな実績を残してきたのであろうが、これほどの観客の前で試合を行う経験が足りていなければ、緊張や昂揚で実力を発揮するのが難しい面もあるのだろう。やみくもな乱打戦からスタートして、スタミナが尽きた後は不毛な消耗戦にもつれこむという、新人同士ではありがちな展開に至り、結果は赤コーナー陣営の判定勝利であった。
第二試合は、年齢差が甚だしい。若手選手と、古株ながら実績を残せていない選手の一戦であったようだ。そちらはアクティブに動く若手選手のスタミナ切れを待って、古株の選手が判定勝利を狙うという、やはり見どころの少ない試合であった。
その時点で、ユーリはうとうとと居眠りを始めてしまう。もとよりユーリは男子選手の試合に興味が薄いので、よほど見ごたえのあるグラウンド戦でも展開されない限りは集中力が続かないのだ。瓜子としては、ユーリがパイプ椅子からずり落ちないようにケアするしかなかった。
いっぽう反対の側では、仏頂面のエイミー選手が鞠山選手にタブレットを所望する。間にグヴェンドリン選手をはさんでいるため、筆談で会話をしようというのだろう。
エイミー選手が英文字を打ち込んで返却すると、鞠山選手も英文字でそれに答える。エイミー選手は納得したようで、それ以上は語ろうとしなかった。
その間に、会場では三試合目の選手たちが入場を開始している。
その試合が始まる前にと、瓜子は鞠山選手に耳打ちした。
「あの、エイミー選手は何て仰ってたんですか?」
鞠山選手は大きな口で溜息をついてから、キーボードを操作した。
瓜子にも筆談で答えるのかと思いきや、画面上の英文字が日本語に変換される。何かそういう機能を駆使したのだろう。瓜子は頭を下げながら、その内容を拝見した。
『《フィスト》は《アクセル・ファイト》にも多数の選手を輩出している優秀なMMA団体なので、期待をかけていました。しかしここまでの二試合は、きわめて質が低いです。《アトミック・ガールズ》と比較しても、それは明らかです。それは何故でしょう?』
『《フィスト》は日本で最大規模の団体ですので、興行の回数も一番です。この八月は東京と大阪で興行を行い、男子選手のトップファイターの大半は大阪大会に出場します。この東京大会は、新人から中堅までの男子選手にチャンスを与えようというコンセプトです。中堅選手が出場すれば、エイミーの期待に多少は応えられるかと思います』
英語が日本語に変換されたため、鞠山選手らしからぬ言葉づかいになっている。
それはともかくとして、瓜子も納得した。確かにこれまでの二試合は、最近の《アトミック・ガールズ》でも見ないぐらいの凡戦であったのだ。
(《アトミック・ガールズ》は隔月の開催で出場選手の枠に制限があるから、実力が足りない選手はなかなか出場できないって話だもんな)
よって、昨今の《アトミック・ガールズ》はそれなり以上に試合内容が充実しているように感じられるが――それは逆説的に、新人や若手のチャンスが少ないという現状も示しているのだろう。そういう選手が別の団体に流れて多極化に拍車をかけるという面もあるのかもしれなかった。
そうして三戦目は新人と若手の対決で、実力差があるためにあっさりと勝負がついて――四戦目にして、ようやく見ごたえのある試合が披露された。
どちらも中堅選手で、どちらもストライカーのようである。フェザー級の一戦であったために力感にも申し分はなく、迫力のある打撃戦が展開された。
ただし実力が伯仲していたために、結果は時間切れの判定勝負だ。
なおかつ立ち技の攻防に終始していたため、ユーリが目覚めることもなかった。
そして第五試合は、若い選手とベテラン選手の一戦だ。
瓜子にとっては見知らぬ二人であったが、客席の盛り上がりで人気のほどがうかがえる。髪を赤く染めた若手選手に対して、ベテランの選手は背中に大きくタトゥーを入れており、外見的にも華やかであった。
どうやらこれは勢いのある若手選手と、地力はあるがトップファイターにまでは届かないベテラン中堅選手の一戦であったらしく、それぞれの選手に多くのファンがついているようであった。
その歓声で眠りを阻害されたユーリは、ねぼけまなこで試合の様子をうかがっている。
そして、ベテラン選手が豪快なタックルを決めると、ユーリのまぶたがやや持ち上がり――さらに、上を取ったベテラン選手がパウンドを使わずにサブミッションで追い込むと、ついにぱちりとまぶたが開かれた。
このベテラン選手は柔術をやりこんでいるらしく、寝技の技術もかなり巧みである。そして、ポジションを逆転されてもかまわないという覚悟のもとにサブミッションを仕掛けて、会場を大いにわきたたせた。
それでついにはポジションを入れ替えられて、強烈なパウンドをくらってしまったが、下からの仕掛けで腕ひしぎ十字固めを完成させる。若手選手がタップをすると、会場には大歓声が爆発した。
「今のはお見事だったねぇ。こういう試合ばかりだったら、ユーリもねむねむの誘惑にとらわれないのににゃあ」
ユーリはそんな風に語っていたし、エイミー選手たちも満足げな面持ちで拍手を送っていた。
そして瓜子とユーリは、出陣の時間である。第五試合まで終了したならば十五分間のインターバルとなって、それが明けるとタイトル返還の挨拶であった。
迎えのスタッフがやってきたため、瓜子とユーリは連れの人々に挨拶を残して腰を上げる。そうして人目を忍びながら関係者用の通路に向かうと、そこにはチャンピオンベルトを両手で抱えた蝉川日和が待ち受けていた。
「猪狩さん、ユーリさん、お疲れ様ッス。立松コーチから、これをお渡しするように申しつけられたッス」
蝉川日和はいつもの調子で、のほほんと笑っている。瓜子もまた、笑顔でチャンピオンベルトを受け取ることになった。
「蝉川さんこそ、お疲れ様です。邑崎さんの調子は如何ですか?」
「邑崎さんはいつも通り、気合むんむんッスよー。対戦相手はもちろん、大江山さんや犬飼さんにも負けるもんかって、闘志を燃やしまくりッスねー」
「それも、切磋琢磨の一環っすね。大江山さんと犬飼さんも、相変わらずっすか?」
「そうッスね。犬飼さんはなかなか口をきいてくれないッスけど、大和さんは立松コーチや大江山の親父さんと楽しそうに喋ってたッスよー」
本日はいずれも味方陣営であるために、それなりに和やかな様相であるのだろう。意固地な犬飼京菜の分まで大和源五郎が和を保っているのなら、何よりであった。
「あ、青コーナーには魅々香選手もいるんすよね。そちらは、如何っすか?」
「そっちも相変わらずッスねー。試合前は来栖さんが気迫ビンビンなんで、あたしは近づけないッス」
蝉川日和は物怖じを知らないので、自分の存在が集中の邪魔になってはならないという思いがあっての発言であろう。何にせよ、控え室の面々に大きな変わりはないようであった。
「あたしらは準備があるから、猪狩さんの晴れ舞台を見届けらんないんスよねー。格闘技チャンネルで放映されたら、拝見させてもらえないッスか?」
「そんな大層な話じゃありませんけど、いつでも遊びに来てください。ね、ユーリさん?」
「うみゅ。セミカワちゃんなら、いつでもうぇるかむなのですぅ」
ユーリは瓜子を敬愛する蝉川日和のことを、気兼ねなく好ましく思っているのだ。蝉川日和もまた無邪気な面持ちで「ありがたいッスー」と応じた。
「じゃ、仕事があるんで失礼するッス。たぶん猪狩さんたちが戻ってくる頃には、こっちも入場口でスタンバイしてるッスよー」
「そうですね。それじゃあ、またのちほど。みなさんにも、よろしくお伝えください」
「了解ッス」と言い残して、蝉川日和は通路の向こうに消えていく。
瓜子はチャンピオンベルトを肩に引っ掛けて、ユーリに笑いかけた。
「それじゃあ今日のひと仕事っすね。ユーリさんに付き添ってもらえるなんて、光栄っすよ」
「うにゃあ。《フィスト》とは縁もゆかりもないユーリが出しゃばってしまい、キョーシュクのイタリなのですぅ」
などと言いながら、ユーリは幸せそうに笑っていた。
実のところ、挨拶の場までユーリに付き添ってほしいと願い出てきたのは、《フィスト》の側であるのだ。瓜子には関係者用の席を準備すると言ってもらえたので、そちらにユーリも同行させていいかと打診したところ、それならば挨拶の場まで同行してもらいたいと言い渡されたわけであった。
(まあ、お客を喜ばせるためのパンダ役ってことだろうけど……あたしの側に、断る理由はないしな)
そうして瓜子が呑気な心地で待ち受けていると、扉の向こう側から歓声がわきたった。きっと王座返還セレモニーの開始が告知されたのだろう。案内役のスタッフは扉にぴたりとへばりつき、細く開いた隙間から会場の様子をうかがっていた。
「間もなく入場です。スタンバイをお願いします」
瓜子は「押忍」と答えながら、呑気な気持ちを心の隅に追いやった。
瓜子は《アトミック・ガールズ》に対する帰属の思いが強いためか、《フィスト》においては余所者の気持ちが抜けきらない。しかしそれでも二年以上にわたって王座を保持していた身であるのだ。それを返還するからには、厳粛な気持ちでいなければならなかった。
やがて扉の向こうから『ワンド・ペイジ』の『Rush』の演奏が聞こえてくると、スタッフの若者が「どうぞ」と扉を引き開ける。
瓜子は山寺博人のしゃがれた歌声が聞こえるのを待ってから、スポットに照らされた花道に足を踏み出した。
とたんに、《アトミック・ガールズ》の大会にも劣らない熱量で歓声と拍手が届けられてくる。
そしてその中に、「ユーリ!」のコールも入り混じっていた。ユーリはフライトキャップとマスクを脱ぎ去っていたので、遠目にも正体は明らかであったことだろう。また、ユーリには場を賑やしてほしいと事前にお願いをしていたため、ユーリも遠慮なく愛嬌を振りまいていた。
ケージの上では運営代表やコミッショナー、ラウンドガールや撮影班などが待ち受けている。《アトミック・ガールズ》のセレモニーと変わりのない様相だ。瓜子はひとつ礼をしてから、ユーリとともにケージへと足を踏み入れた。
『《フィスト》女子ストロー級第四代王者、猪狩瓜子選手です! 猪狩選手はこのたびシンガポールの《ビギニング》と専属契約を締結しましたため、無敗のまま王座を返還することになりました!』
リングアナウンサーのそんな紹介も、《アトミック・ガールズ》のときと大きな違いはない。そして、あのときと同じぐらいの歓声が、瓜子のもとに届けられた。
『猪狩選手! 今のお気持ちは、如何ですか?』
『押忍。《フィスト》ではあまり試合の数をこなすことができなかったので、申し訳ない気持ちもあるんですが……自分は歴史ある《フィスト》の王者としても恥ずかしくないように活動してきたつもりです。応援してくださったみなさんには、心から感謝しています』
瓜子がそのように答えると、いっそうの歓声が吹き荒れる。
瓜子のかたわらにちょこんと控えたユーリは、とても嬉しそうににこにこと笑っていた。
『本日は、猪狩選手とともに《ビギニング》と専属契約を結んだユーリ選手にもご来場いただきました! そしてお二人は九月のシンガポール大会にて、早くもタイトルマッチに挑戦することが発表されております! それについて、意気込みをお聞かせ願えますか?』
『押忍。自分は《フィスト》と《アトミック・ガールズ》の王座を返上することになりましたけど、王者であった事実に変わりはありません。その肩書きに恥じることがないように、全力で最高の結果を目指したいと思います』
『あ、ユーリもですかぁ? レベッカ選手はとてもお強そうなので、結果はどうなるかわかりませんけれども……うり坊ちゃんと一緒に、頑張りまぁす』
ユーリが語ると、また一風違った雰囲気で歓声が巻き起こる。ユーリこそ《フィスト》にはいっさい関わりのない身であったし、会場には《アトミック・ガールズ》に馴染みのないお客も何割かは存在するはずであったが、アイドルファイターを揶揄するような気配は感じられなかった。
(《アトミック・ガールズ》には馴染みがなくても、《アクセル・ファイト》や《ビギニング》に馴染みのある人は少なくないんだろうしな)
質実剛健なる《フィスト》の試合観戦におもむく硬派な格闘技ファンであれば、《アクセル・ファイト》や《ビギニング》の試合を追っていてもおかしくない。であれば、《アトミック・ガールズ》の試合は未見のまま、ユーリの怪物じみた強さを体感できるわけであった。
ユーリはこの数年間で、それだけの実績を築いてきたのである。ユーリに向けられる歓声は、瓜子にとって我がことのように誇らしかった。
『それでは、代表からもひと言お願いいたします!』
リングアナウンサーにマイクを向けられた代表は、ゆったりとした笑顔で『はい』と応じた。
『これまでにも《フィスト》から世界に羽ばたく選手は、多数存在しました。ですが、海外で王座をつかんだ人間はひと握りです。猪狩選手やユーリ選手にはそのひと握りになるポテンシャルを感じていますので、女子選手として初の王者を目指してもらいたいと願っています』
よどみのない口調でそう言ってから、代表は瓜子とユーリに握手を求めてきた。その姿が、報道陣によってカメラに収められていく。
しかるのちに、チャンピオンベルトが返還されて――瓜子は、何も持たない身となった。
瓜子の肩書きから二冠王の名が外されて、今後は一介のプロファイターである。
そして今度は、《ビギニング》で王座に挑戦するのだ。ユーリの言う通り、結果がどうなるかはわからなかったが――瓜子は頼もしいチームメイトとともに、死力を尽くすしかなかった。




