ACT.2 《フィスト》八月大会 01 入場
ユニオンMMAの三名が来日してから、三日目――八月の第一土曜日である。
朝から昼下がりまではプレスマン道場でみっちり稽古を積んだのち、瓜子たちは《フィスト》八月大会の会場たる『ミュゼ有明』に向かうことになった。
本日、プレスマン道場の門下生で出場するのは愛音のみであるため、セコンド陣はジョン、サキ、蝉川日和の三名で事足りる。そうして立松や柳原やサイトーはローテーションで朝から夜まで道場の管理を受け持ち、瓜子たちは客として試合の観戦におもむくことになったのだった。
そこで親切にも車を回してくれたのは、毎度お馴染み鞠山選手である。さらには小笠原選手までもが武魂会からワゴン車を借り受けて、出稽古に励んでいたメンバーの全員を同乗させてくれたのだった。
本日の出稽古に参加していたのは、小笠原選手、小柴選手、オリビア選手、高橋選手の四名となる。そちらの面々を小笠原選手におまかせして、瓜子とユーリはユニオンMMAの三名ともども鞠山選手の厚意に甘えることになった。
「ふふん。低能ウサ公がいないと、空気の落ち着きからして違うだわね」
「あはは。今日は多賀崎選手の大一番ですからね。セコンドの座は譲れないって、ここ最近は大騒ぎだったっすよ」
本日の大会のメインイベントは多賀崎選手と魅々香選手による女子フライ級のタイトルマッチで、愛音と犬飼京菜と大江山すみれの三名は《アトミック・ガールズ》の代表として《フィスト》との対抗戦に挑む。これでは瓜子たちも、駆けつけないわけにはいかなかった。
「それにしても、エイミーたちは貴重な稽古の時間を潰してまで同行するんだわね。まあ、女子選手がのきなみ出頭するんじゃ、道場に居残る甲斐もないわけだわね」
そんな風に言ってから、鞠山選手は英語でエイミー選手たちに語りかけた。
エイミー選手はその返答を、翻訳アプリの機能で瓜子たちにも聞かせてくれる。
『ユーリたちが不在であれば、稽古の意義は半減です。また、《アトミック・ガールズ》の有力選手の試合を見届けるのは、私たちにとって有意義だと判断しました』
「ふふん。マコトと美香ちゃんは『アクセル・ロード』に参戦してたから、あんたたちにとってもお馴染みというわけだわね。……*****。*********。*********」
『はい。ミカ・ミドウはランズに、マコト・タガサキはロレッタ・ヨークに勝利したので、無視できない存在です。また、マコト・タガサキがさらに強くなったことは、二日前の稽古で確認しています』
鞠山選手が日本語と英語で語り、エイミー選手の語った英語が翻訳アプリで日本語に変換されるという、奇妙なやりとりである。まあ、翻訳アプリのおかげで鞠山選手の苦労が半分がた減じたわけであった。
『また、私たちはアイネの強さも知っています。彼女は軽い体重ですが、技術は確かです。また、私たちは《アトミック・ガールズ》の試合映像で、キョウナ・イヌカイとスミレ・オオエヤマの強さを確認しています。また、彼女たちは強くて、とても個性的です』
「ああ、《ビギニング》のスチット代表も、シンガポールの選手は北米の王道スタイルばかりでなくさまざまな技術を身につけるべきだと主張してただわね」
「あ、そうなんすか?」と、瓜子も口を出させていただいた。
「いや、自分たちも個人的にそういう話を聞いたことがあるんすけど……公の場でも、そういう主張なんすね」
「あんたたちに語った言葉を公の場でつつしむ理由はないんだわよ。スチット代表はアジア全体の底上げとシンガポールの底上げを同時に進行させようという方針なんだわね。その起爆剤として、日本やブラジルの選手をタイトルマッチに抜擢したわけだわよ」
《ビギニング》十月大会のマッチメイクは、八月に入って正式に告知された。その日は女子選手オンリーの大会であり、四大タイトルマッチが開催されるのだ。そして、現王者に挑むのは、瓜子とユーリの日本陣営に、ブラジル大会でアトム級とフライ級の王者を下したブラジル陣営であったのだった。
「ベアトゥリスが《ビギニング》の王座に挑戦ってのは、なかなかに胸の躍る展開だわね。雅ちゃんに打ち倒された選手は、雅ちゃんの分まで活躍してほしいもんだわよ」
「あはは。鞠山選手は本当に、雅さんを大切にされてるんですね。お二人が仲良くされてると、自分はなんだかすごく嬉しくなっちゃうんすよ」
「うり坊こそ雅ちゃんのお気に入りなんだから、もっと仲良くするだわよ。まあ、あんたの場合はヴェーゼを奪われる覚悟を固める必要があるだわけどね」
「それはご勘弁願います。それに、まずは今日の試合っすよね」
「わたいにしてみれば、エイミーたちの去就も気にかかるんだわよ」
と、鞠山選手は英語でまた何か語りかけた。
実のところ、ユニオンMMAの三名に手頃なホテルを手配したのは、鞠山選手であるのだ。その関係から来日した初日には挨拶をしていたが、プレスマン道場における出稽古にはいっさい関わっていなかったのだった。
『プレスマン道場の稽古は、とても有意義です。外部の女子選手もとても個性的なので、とても刺激的です。私は、トキコ・オガサワラに注目しています。あの身長は大きな武器ですし、空手の技術にも未知の要素がたくさんです』
『空手の技術に関しては、オリビア・トンプソンも同様です。シンガポールにもゲンブカンは存在しますが、MMAのジムとは交流が少なく、技術を知る機会はありませんでした。あの破壊力は、脅威です』
と、ついにはグヴェンドリン選手までもが翻訳アプリを操り始める。そして、こういう際でもランズ選手は、やはり寡黙であった。
『ミチコ・タカハシも、個性的です。テンパカンは柔道と空手の融合を目指したと聞きますが、私たちはどちらも馴染みがありません。ただし、北米のスタイルにもっとも近いのは彼女であるという印象もあります。それはおそらく、テンパカンがそれだけ近代MMAの攻略に熱心であるという証であるのでしょう』
『アカリ・コシバは小さいですが、技術は確かです。私たちが小さければ、脅威だったと思います』
『ヒサコ・ハイバラは、不思議です。技術とは別の力を、より感じます。スパーリングだけでは、彼女の本当の強さを理解できないと思います』
『イツキ・オニザワも、同様です。技術が足りないと感じることも多いですが、別の力を感じます』
やはり翻訳アプリでは、細かいニュアンスが伝わってこない。しかしその分、大枠の内容はダイレクトに感じ取れる気がした。
「まあ、おおよそ妥当な評価だわね。名前が挙がった順番が、そのまま注目度を表しているようだわよ」
「そうっすか。灰原選手や鬼沢選手だって、他の方々に負けてないと思いますけど……でも確かに、スパーだけでは把握しきれない面が大きい二人かもしれないっすね」
「グヴェンドリンたちは、選手を見る目も確かなんだわよ。だからこそ、あんたやピンク頭に執着してるわけだわね」
「わぁい。鞠山選手におほめいただけるのは、もののついででも嬉しいですぅ」
「ほめた覚えはないんだわよ。あんたはとっとと実力に見合った人格と品性を身につけるんだわよ」
そんな具合に楽しく会話を進めている内に、やがて二台のワゴン車は『ミュゼ有明』に到着した。
関係者用の駐車場に車をとめて、あらためて集合する。総勢十名の、錚々たる顔ぶれだ。小笠原選手は首筋をもみほぐしながら「やあ」と笑った。
「ひさしぶりの運転で、すっかり首が凝っちゃったよ。……それにしても、客の立場でここに来るのはなかなか奇妙な気分だね。このまま会場に向かっちゃっていいんだっけ?」
「ええ。他の人たちは、みんな座席もバラバラですからね」
本日は赤星道場やドッグ・ジムからも、数名ずつの関係者が来訪するのだ。しかし、別々にチケットを購入していれば、別々の座席になるのが当然の話であった。
ただし、この場に集まった十名に関しては、いささか事情が違っている。ユニオンMMAの三名の滞在期間が決定されたのは二週間ほど前の話であり、その頃にはもう観戦チケットも売り切れてしまっていたのだ。
それで瓜子が、ひと肌ぬぐことになった。実は瓜子もこの八月大会は部外者の立場ではなく、《フィスト》の王座を返還する身として挨拶することになっていたのだ。それで、付添人のユーリともども関係者枠のリングサイド席で観戦する予定であったので、そこにユニオンMMAの三名も同席させてくれないかと運営陣に一報を入れてみたのだった。
その返答は、「まったくかまわない」であった。
《フィスト》の運営陣にしてみても、海外のトップファイターに観戦してもらえるのは有意義であるという認識であったらしい。
そこで瓜子は、さらなる申し出をすることになった。何せ瓜子たちは英語がからきしであるため、翻訳アプリが頼みの綱であるのだ。それだけをよすがにエスコートするのはいささか不安が残るため、すでにチケットを購入している鞠山選手やオリビア選手あたりも同席させてもらえないかと打診したところ――想定以上に色よい返事をいただけたのだった。
『猪狩選手を含めて十名まででしたら、関係者用の座席をご準備できます。すでにチケットを購入されている方々に関してはチケット代を払い戻すことはできませんが、こちらの席に移動していただいてもかまいません』
おおよその女子選手はすでに懇意にしている選手のルートからチケットを購入していたが、リングサイド席に移れるならばもっけの幸いである。そうして身近な女子選手に声をかけたところ、このパーティーが完成されたわけであった。
「アタシなんてチケットすら買ってないんだから、申し訳ない限りだね。まあその分は多賀崎さんや御堂さんに食事でも奢って、相殺することにするよ」
そのように言っていたのは、小笠原選手である。小笠原選手はいつぐらいから上京できるか見込みが立っていなかったため、チケットを購入していなかったのだ。それでもけっきょくはシンガポール陣営に合わせて八月の初日から滞在することがかなったので、こうしてパーティーに組み込まれたわけであった。
「シンガポールの人たちの目に今日の試合がどんな風に映るのか、ちょっと怖い感じもするよね。まあ、御堂さんたちだったら心配はいらないだろうけどさ」
小笠原選手がそのように語ると、鞠山選手がそれを通訳して、シンガポール陣営の三名はそれぞれうなずいた。すっかり気安い仲――とまでは言えないものの、この三日間の稽古でおたがいの実力を知ることはできたのだ。おたがいに敬愛の精神が生まれていることに疑いはなかった。
グヴェンドリン選手は穏やかな面持ちで、エイミー選手は引き締まった面持ちで、ランズ選手は生真面目そうな無表情で、それぞれ瓜子たちと相対している。性格は三者三様であるが、彼女たちは誰もがファイターとしてのスキルアップを目的に来日したのだ。その心意気だけで、こちらの面々は敬意を抱くはずであった。
「それじゃあ、さっさと向かうだわよ。十人まとめて歓待されるんだわから、運営陣に挨拶が必要なんだわよ」
頼もしき鞠山選手の誘導で、いざ会場へと足を向けた。
普段の試合と同じように、関係者用の出入り口である。そちらで十名の氏名を告げるとバックステージパスが配布されるとともに、運営のスタッフが駆けつけてきた。
「みなさん、お待ちしていました。代表がご挨拶をさせていただきますので、こちらにどうぞ」
そんな風に言いながら、その若いスタッフはちらちらとユーリおよび瓜子の姿を盗み見てきた。瓜子はキャップをかぶっているのみであるが、ユーリはフライトキャップに白いマスクで入念に人相を隠している。しかしまた、日焼け対策でロングのトップスとレギンスを着用していようとも、ユーリの超絶的なプロポーションは隠しようもなかった。
そうして一行は関係者用の通路を辿って、運営代表のもとを目指す。
それは出場選手でも滅多に近づく機会のない、ちょっとした事務室のような場所であり――そこには《フィスト》の代表とともに、パラス=アテナの代表たる駒形氏もちょこんと控えていた。
「駒形代表もこちらだったんだわね。お暑い中、ご苦労様なんだわよ」
「ど、どうもどうも。みなさん、お元気そうで何よりです」
いつまで経っても腰の低い駒形氏は、ぺこぺこと頭を下げてくる。本日の興行は《アトミック・ガールズ》も共催という立場であったため、駒形氏も参じていたのだった。
「おひさしぶりだね、猪狩選手。《ビギニング》での活躍は、すべて見届けさせてもらったよ。タイトルの返還は残念な限りだが……日本人選手の勇躍を喜ばないわけにはいかないからね」
と、《フィスト》の代表は真っ先に瓜子へと挨拶をしてくる。瓜子は《フィスト》の王者であるため、タイトルマッチや調印式の場で毎回挨拶をしているのだ。ただし、挨拶以上の言葉を交わしたことは、ほとんどなかった。
現在の《フィスト》の代表は、二代目である。もともとは《ネオ・ジェネシス》という格闘系プロレスの団体で赤星大吾としのぎを削っていた竜崎氏という人物が代表を務めていたが、近年になってこちらの人物に受け継がれたのだ。
こちらの人物はブラジリアン柔術協会の理事も務めており、本人も黒帯の所有者であると聞き及ぶが、そうとは思えないほど温和な容姿をした壮年の男性である。中肉中背で、必要以上の筋肉をつけていない印象であった。
「そちらは、桃園選手だね? これまで挨拶をする機会がなかったけれど、君の活躍ものきなみ見届けているよ。前回のブラジル大会も、実に見事なグラウンドテクニックだった。……君はあれほど寝技が巧みであるのに、柔術の段位の取得には興味がないのかな?」
「はあ。柔術は大好きですけれど、段位とかはよくわからにゃいので……」
ユーリが小さくなってしまったので、瓜子が補足をすることにした。
「プレスマン道場には専属の柔術コーチがいないので、級位や段位を考えるなら余所の道場にも通う必要が出てくるみたいなんです。それで、その時間が取れなかったわけですね」
「ああ、プレスマン道場は柔術に対抗するために、独自の稽古を積んでいるという話だったね。それでも専属のコーチがいない状況で桃園選手のような選手を育てられるというのは、大したものだ」
《フィスト》の代表はにこやかに笑いつつ、ユニオンMMAの三名には流暢な英語で挨拶を交わす。そののちに、他なる面々に視線を巡らせた。
「それにしても、錚々たる顔ぶれだね。誰もが《アトミック・ガールズ》の誇る、歴戦のトップファイターじゃないか」
「《フィスト》の代表にそう言っていただけるのは、光栄な限りですね」
小笠原選手は屈託なく微笑みながら、そのように答えた。
小笠原選手とオリビア選手は《フィスト》から派遣された強豪選手を打ち倒したばかりの身の上なのである。しかし、代表たる人物の眼差しは小笠原選手に負けないぐらい澄みわたっていて、力強かった。
「残念ながら七月の後半は渡米していたので、《アトミック・ガールズ》の七月大会は拝見できなかったのだけれどね。三ツ橋選手とサム・ウヌ選手を下したのなら、君たちの実力は本物だ。この先も、君たちの躍進を期待しているよ」
「そうしたら、今日の面々みたいに《フィスト》にも呼んでもらえるんでしょうかね」
「それには、熟考が必要だろう。あまりに交流が密になると、団体を分けている甲斐もないからね。すべての階級で王座が統一されてしまったら、興ざめだろう?」
冗談めかして言いながら、代表の眼差しが熱気を帯びる。
それは、何だか――《ビギニング》代表のスチット氏を思い出させる眼差しであった。
「ただし、団体同士の交流が皆無であると、それはそれで大きな弊害を生むことになる。とりわけ女子選手は競技人口が少ないのだから、影響も顕著だろう。それぞれの団体が独自のカラーを打ち出しながら交流を重ねて切磋琢磨するというのが、理想の状況なのじゃないかな」
「ふむだわよ。それじゃあこれからも、《フィスト》と《アトミック・ガールズ》の対抗戦が企画されていくんだわよ?」
「対抗戦は、もっともわかりやすい切磋琢磨だね。しかしそれも加減を間違えると、新鮮味が薄れてしまう。普段からおたがいの所属選手を行き来させながら、ここぞという場面で対抗戦やタイトルマッチを企画して興行の活性化をはかるというのが、理想かな」
そう言って、代表たる人物は深みのある笑みをたたえた。
「まあ、そんなことで頭を悩ませるのは、裏方である我々の役割だ。選手の方々には心置きなく試合に集中してもらいたいと願っているよ。どんな企画を立てようとも、成功するかどうかは選手たちの活躍にかかっているのだからね」
「ええ。今日の興行に参加してる連中は、めいっぱい期待に応えてくれると思いますよ」
小笠原選手はゆったりと微笑みながら、そのように答えた。
瓜子も、まったくの同感である。今日のイベントに抜擢された面々であれば、如何なる人間でも素通りさせないような試合を見せてくれるはずであった。




