11 打ち上げ(上)
《アトミック・ガールズ》の興行を終えたのち、懇意にしているメンバーはまた居酒屋で打ち上げを行うことになった。
なおかつ今回は、瓜子とユーリが《ビギニング》と正式契約を結んだお祝いも兼ねている。契約が締結してからすでに三週間であったが、懇意にしている女子選手の大半は今日の試合を控えていたため、この日まで持ち越すことになったのだ。それで打ち上げの会場には、今日の興行に来場していなかったプレスマン道場の関係者も何名か駆けつけることになった。
あとは、四ッ谷ライオット、武魂会、天覇館、天覇ZERO、ビートルMMAラボ、深見道場の関係者に、個人としてはオリビア選手や時任選手――そして、赤星道場の関係者も出席している。青田ナナは次回の興行でオリビア選手と対戦する身であったが、試合場の外で距離を取る必要はなかったし、もとより彼女は打ち上げの場でもごく限られた相手としか口をきかないため、べつだん支障はないようであった。
「……みなさんのお力添えもあって、自分とユーリさんは《ビギニング》と正式契約を交わすことができました。《アトミック・ガールズ》の公式試合に出場できなくなるのは、すごく寂しいですけれど……でも、自分は《アトミック・ガールズ》に育ててもらった身ですから、《アトミック・ガールズ》の看板を汚さないように頑張るつもりです。あと……こんな言い方をするのはおこがましいかもしれませんけど、今後もみなさんのお力で《アトミック・ガールズ》をよろしくお願いします」
開会の挨拶を申しつけられた瓜子がそのように告げると、たくさんの人たちが拍手と歓声を送ってくれた。
つい数時間前にも会場のお客たちから同じものを受け取った身であるが、同業者からの祝福というのはまた異なる感慨をかきたてるものである。瓜子はうっかり涙をこぼさないように気をつけながら、居酒屋の二階席を埋め尽くした人々に一礼した。
すると、瓜子の足もとに座してぺちぺちと手を叩くユーリの姿が視界に収まる。
ユーリもまた満面に笑みを浮かべており、瓜子の心を温かくしてやまなかったが、そのまま放っておくことはできなかった。
「どうもありがとうございます。……それじゃあ次は、ユーリさんの番っすよ」
「ええ? うり坊ちゃんの立派な挨拶の後にユーリのたわごとなどをお届けしてしまったら、申し訳ない限りですので……」
「だからって、挨拶をしないまま済ませるわけにもいかないでしょう? ほら、みなさんお待ちかねなんですから、期待に応えてください」
瓜子がユーリの腕を引っ張って立ち上がらせると、あちこちから歓声と笑い声が響きわたる。ユーリは純白の頭を引っかき回しながら、「あうう」と頼りなげな声をあげた。
「ユーリはその、何も偉そうなことは言えない身でありますけれども……今後もひっそりとお稽古と試合を頑張っていきますので、お見逃しいただけたら幸いでありますぅ」
「お見逃しって、どういう言い草っすか。アトミックに対する熱い思いも語ってくださいよ」
「うにゃにゃあ。それこそユーリは、アトミックでもご迷惑をかけるばかりでありましたし……でもでも、ユーリはアトミックが大好きですので……これからも、アトミックに出場される方々を応援させていただくつもりでありますぅ」
ユーリの挨拶はあまりに覚束なかったが、それでも温かい拍手と歓声をいただくことができた。
ユーリはいっそう恐縮した様子で、「むにゃあ」と肢体をよじらせる。そんなユーリの姿に苦笑を浮かべつつ、立松がジョッキを手に立ち上がった。
「それじゃあ今はトーナメント戦のさなかなんで、いちおう中立の立場である俺が挨拶をさせていただくよ。みなさん、今日の試合もお疲れ様でした。今日は敵味方の垣根なく、大いに楽しんでくださいな。……乾杯」
「乾杯!」の声が唱和されて、打ち上げが開始された。
たちまち大勢の人々が、瓜子とユーリのもとに押し寄せてくる。「おめでとう」「お疲れさん」「今後も頑張ってな」と次から次へとジョッキやグラスが差し出されて、瓜子はそのたびに頭を下げることになった。
しかしまあ、過半数のメンバーは同じ控え室で語らった後であるので、そう長い時間がかかることなくお祝いの猛襲は終結する。
すると、最後にやってきた二つの人影が、そのまま瓜子の正面に腰を下ろした。陣営が分かれていたためにあまり接する機会がなかった、武中選手と宗田選手である。
「猪狩さん、ユーリさん。あらためて、おめでとうございます。……それであの、ちょっとだけお話をいいですか?」
そのように告げてきたのは、普段から懇意にしている武中選手である。大胆な金髪にイメージチェンジした武中選手は、どこか思い詰めた目つきになっていた。
「ええ、もちろんそれはかまいませんけど……でも、珍しい組み合わせっすね。お二人は、もともとお知り合いだったんすか?」
「いえ。きちんと挨拶したのは、今日が初めてとなります」
表情を引き締めた武中選手に対して、宗田選手はにこにこと笑っていた。山垣選手との試合で左耳に深い裂傷を負った彼女はすぐさま救急病院に搬送されたそうで、分厚いガーゼを耳もとに張りつけられている。そんな宗田選手の口から、意外な言葉が放たれた。
「わたしたちは同じ立場だったから、意気投合しちゃったのかもしれません。でも、負け犬同士で傷をなめあっているわけではありませんので!」
「負け犬同士って……お二人とも、あと一歩のところまで相手を追い詰めてたじゃないっすか。相手は歴戦のトップファイターだったんすから、そんな自分を卑下することはないっすよ」
「でも、その一歩を踏み越えることができませんでした。それが、悔しいんです」
武中選手が、ぐっと身を乗り出してくる。その目には、試合中と見まごうような気迫が宿されていた。
「もちろん黄金世代の人たちは、みんな実力者です。でも、それを乗り越えていかないと、新しい時代を作っていくことなんてできません。わたしは、このままだと……みなさんの中から、落ちこぼれちゃいます」
「いや、トーナメントで敗退したのは悔しいでしょうけど、一回の負けでそんなに思い詰める必要はないっすよ」
「一回の負けじゃありません。わたしは、灰原さんにも鞠山さんにも山垣さんにも負けているんです」
「わたしなんて、二年越しで四連敗です。崖っぷちどころか、もう崖から転落した後って感じですね」
宗田選手は、あくまでも無邪気な笑顔だ。ただ先刻から、彼女らしからぬネガティブな発言が続いていた。
「わたしは黄金世代の人たちに当てられるんじゃないかっていう予測があったので、念入りに対策を練ってきたつもりです。でも、けっきょく最後の最後で届きませんでした。正直言って、塾長にあわせる顔がありません」
「そうっすか……それじゃあ自分も言葉を飾らずに言わせてもらいますけど、いきなり王座決定トーナメントってのは負担が大きかったんじゃないっすかね。二年以上も期間が空いたんなら、調整試合を組んでもらうべきだったんじゃないかって思いました」
「でも、パラス=アテナの方々がオファーをくれたんです。わたしはその期待にも応えることができませんでした。だから、不甲斐ないんです」
「わたしもそれは、似たような心地です。わたしはアトミックで、トップファイターとして扱ってもらえているのに……けっきょくまだ、トップファイターとの対戦では一勝もできていないんです。これじゃあ、トップファイターを名乗る資格なんてありません」
そんな風に語りながら、武中選手は膝の上にのせた拳をぎゅっと握り込んだ。
「……こんな泣き言を聞かされたって、猪狩さんは困っちゃいますよね。でも、猪狩さんはすべてのトップファイターを下した上で、次のステージに進んだ立場ですから……どうしても、意見をおうかがいしたかったんです」
「意見っすか。自分はそんな、偉そうなことは言えないっすけど……でも、武中選手がお強いことは、合同稽古で知ってるつもりっすよ。同じ階級の灰原選手や鞠山選手と比べても、そうまで力負けしてるなんて印象はありません」
「でもわたしは、そのお二人にも負けてしまいました。灰原さんに関しては、連敗です。もちろんあのお二人は、アトミックのトップファイターでも屈指の実力なんでしょうけど……」
「ええ。黄金世代の方々だって、あのお二人にはことごとく負けてるんですからね。つまり、黄金世代の方々も、武中選手と同じ立場ってことっすよ。それでも亜藤選手や山垣選手は、今日の試合で意地を見せたってことです」
小賢しい理屈など思いつかない瓜子は、思いのままに語ってみせた。
「しかも黄金世代の方々は、何年も前から同じような状況で苦しんでいたんです。デビューしてすぐにトップファイター扱いされながら、けっきょく王座には手が届かなくて……口の悪い人間には、ずっと引き立て役扱いだったんすよ? それでもあきらめずに選手活動を続けて、今日のチャンスをつかみ取ったんです。自分は心から、黄金世代の方々を尊敬してるっすよ」
「それは、わかってるつもりですけど……」
「それに、鞠山選手はもっと古い世代です。あれだけの実力がありながら、ずっと中堅の壁っていう扱いで、ようやくトップファイターの座を勝ち取ったんです。あと……期間は短いですけど、ユーリさんだってそれは同じことです」
ひっそりと気配を殺していたユーリが、「うにゃあ」と頭を抱え込む。
そちらに微笑みかけてから、瓜子はさらに言いつのった。
「自分は色々なことが重なって、MMAではあまり負けずに過ごすことができました。でも、だからこそ、思うんです。ユーリさんや鞠山選手や黄金世代の方々は、自分にはない強さを持ってる……自分の知らない苦しさを乗り越えた人たちなんだって。自分はここから十連敗したって、ユーリさんを見習って選手活動を頑張るつもりっすよ」
「猪狩さんが十連敗するわけないじゃないですか。……って、言いたいところですけど……猪狩さんは、本気でそんな覚悟を固めてるんですね」
と、武中選手がふいに気迫の炎を消して、しょんぼり肩を落としてしまった。
すると、大柄な人影が横合いから武中選手にのしかかる。それは、顔のあちこちにガーゼを貼った高橋選手に他ならなかった。
「何を深刻な顔で語らってるのさ? 負けたのが悔しいんだったら、稽古を頑張るだけでしょうよ」
武中選手は仰天した顔で、高橋選手を見返す。たしかこちらの両名は同世代で、音楽好きという共通項も備えているのだ。瓜子が見ていない場所でも、親睦を深めていたのだろうと思われた。
「ど、どうもお疲れ様です。……高橋さん、酔ってるんですか?」
「こんな顔面を殴られたら、酒なんて飲んじゃいられないよ。それでも、打ち上げを楽しんでるのさ」
高橋選手は精悍な顔に朗らかな笑みをたたえつつ、武中選手の背中をどやしつけた。同世代でも階級がふたつも違うので、なかなかの体格差だ。
「ベテランファイターに負けたのが悔しいのかい? でも、あたしなんかは自分よりも若い青田に負けたんだから、いっそう悔しいだろうと思うよ。でも、そんなもんは明日からの稽古にぶつけるしかないさ」
「え、ええ。それは、わかってるつもりですけど……」
「だったらどうして、そんなしょぼくれた顔をしてるのさ? まあ、昔はあたしも負けるたんびに、情けない顔を見せてたけどさ」
と、高橋選手は笑顔のまま、瓜子のほうに向きなおってきた。
「覚えてないと思うけど、ずいぶんな昔には猪狩にも情けない姿を見せちまったよね。まあ、その後は猪狩の豪快な勝ちっぷりで、あたしも心を入れ替えることになったけどさ」
「ああ、懐かしいっすね」と瓜子が笑顔を返すと、高橋選手はきょとんと目を丸くした。
「あんな昔の話を、覚えてるのかい? あたしにとっては、けっこう人生の一大事だったけど……あんたにとっては、行きずりの相手の泣き言だったろ?」
「それはあの頃は高橋選手とも初対面感覚でしたけど、忘れたりはしないっすよ。アトミックと《レッド・キング》の対抗戦の日でしょう? 自分はマリア選手と、高橋選手はマキ・フレッシャー選手とやりあったんすよね」
「なんだ、マジで覚えてるのかよ」
「だから、覚えてますってば。高橋選手がこんな気さくに喋ってくれるようになるなんて、あの頃は想像もしてませんでした」
「そりゃああの頃は、ようやくプレスマン道場の存在を受け入れられる心情になったばかりだったからさ。あたしもさぞかし、堅苦しい態度だっただろうね」
高橋選手は照れ臭そうに笑ってから、武中選手に向きなおった。
「まあ、それはともかくとして……あの頃のあたしは負けが込んでて、猪狩のおかげで持ち直した後にもまた負けちゃったから、けっきょく階級を落とすことになったんだよ。今のあんたと同じかそれ以上の苦労を乗り越えたと思ってもらっても、支障はないんじゃないのかね」
「はあ……つまりわたしも、階級の変更を考えるべきってことですか?」
「なんでそうなるんだよ。本当に迷走してるんだなぁ」
高橋選手が陽気に笑うと、武中選手もつられたように口もとをほころばせた。
「あと、もう一点。あんたは兄貴が《NEXT》の元王者ってことで、プレッシャーがかかってるんじゃないの? でも、あたしなんかは来栖ジュニアなんて肩書きをおっかぶせられたんだから、そっちの面でも負けてないつもりだよ」
「……ええ。あたしの兄貴なんかより、来栖さんの後継者ってほうがプレッシャーはきついんでしょうね」
「そんな苦労自慢をする気はないけどさ。あたしは無差別からバンタムに落としても、けっきょく勝ったり負けたりだ。で、今日なんかは天覇の選手が全敗しちまった。天覇の女子選手はここ数年ずっと落ち目で、御堂さんが戴冠してからようやく上向きになってきたのに、またこの有り様だ。でも、気落ちしてるひまなんてないんだよ」
「そうっすよ。それを言ったら赤星道場だって、ちょうど苦しい時代を乗り越えたところだったんです。その赤星道場と天覇館の選手で試合をしたら、けっきょくどっちかが負けることになるんです」
「うん。天覇や赤星に限らず、誰だって死に物狂いなんだからね。でも、勝てる人間はその中の半分だけだ。あたしらも、その半分の中に入れるように、死に物狂いで頑張るしかないだろうよ」
そう言って、高橋選手は長らく無言であった宗田選手の顔を覗き込んだ。
「で、あんたなんかは初めましてだけど……あんたは柔道やキックで、数々の相手をぶちのめしてきたんだろ? 四連敗はきついだろうけど、まだまだ勝った数のほうが多いはずだ。MMAでも結果を出したいなら、せいぜい頑張りな」
「……そうですね。もしかしたら、わたしにはMMAの適性がないのかもしれませんけど……まだまだあきらめる気にはなれません」
あくまでにこやかな面持ちのまま、宗田選手は腰を上げた。
「塾長とお話をして、今後のことを考えようと思います。猪狩さん、ユーリさん、どうもありがとうございました。……武中さんと高橋さんも、ありがとうございます」
「いえ。宗田選手も、頑張ってください」
「ありがとうございます」と繰り返して、宗田選手は立ち去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、高橋選手は「やれやれ」と肩をすくめた。
「どいつもこいつも、いざってときには猪狩を頼りたくなっちまうのかね。まあ、それで救われたあたしが文句をつけるいわれはないけどさ」
「何を言ってるんすか。大げさっすよ」
「いやいや。猪狩はどんな相手にも体当たりで向き合ってくれるから、みんな頼りにしちまうんだよ。桃園は……しゃべりがアレだから、試合で語ってくれるタイプかな」
「うにゃあ。お恥ずかしい限りですぅ」
「冗談だって。何にせよ、あたしたちが手本にするのはあんたたちだよ。みんなで必死にあんたたちを追いかけるから、これからも好きなだけ突っ走っておくれよ」
そう言って、高橋選手は傷だらけの顔で微笑んだ。
本当に、これまでに語った言葉の通りに覚悟を固めているのだろう。すべての選手が高橋選手のように不屈の闘志を携えていれば、《アトミック・ガールズ》の行く末も安泰であるに違いない――瓜子はそんな感慨を胸に、笑顔を返すことになった。




