09 バンタム級王座決定トーナメント(中)
バンタム級王座決定トーナメント第一回戦の二試合目は、青田ナナと高橋選手の一戦である。
激戦が必至のバンタム級でも、とりわけ結果が読みにくい一戦だ。青田ナナは赤星道場でたゆみなく研鑽を積んできたのだろうし、高橋選手は先月の天覇館の全国大会で優勝することで実力を示していた。
(うーん。これこそ、どっちにも負けてほしくないところだけど……こればっかりは、黙って見守るしかないや)
高橋選手とはすっかり懇意であるし、青田ナナの活躍には赤星道場の未来がかかっている。それは瓜子にとって、どちらも二の次にできない話であった。
「青田が強いのは確かだけど、高橋だってどんどん調子を上げてるからね。まあ、組み技と寝技は青田に分があるだろうから……まずは、立ち技がどうなるかだな」
かつて『アクセル・ロード』の舞台で青田ナナに惜敗を喫した多賀崎選手は、誰よりも真剣な眼差しでモニターを見守っていた。
そんな中、試合開始のブザーが鳴らされると――勢いよく前進したのは、高橋選手である。その重そうな右フックが、頭部を防御する青田ナナの左腕をしたたかに叩いた。
身長は、高橋選手のほうが五センチばかりもまさっている。両名ともに均整の取れた体格であるので、リーチ差も同程度だろう。五センチというのは、そこまで大きな差ではなかったが――高橋選手は、そのわずかな差で序盤の主導権を握ることができた。
青田ナナも攻撃を返すが、高橋選手が半歩さがるだけで、その拳は空を切る。そして高橋選手はまた半歩間合いを詰めると、的確に攻撃をヒットさせた。
青田ナナも守りは固いのでガードされてしまうが、高橋選手の攻撃は重い。それにこれは、ポイントゲームにも大きく関わる攻撃だ。青田ナナは粘り強いので、ポイントを取ることも重要であった。
「うーん……なんか、セコンドを見てるだけで感慨深いなぁ」
そんなつぶやきをもらしたのは、時任選手である。
高橋選手のセコンドには来栖舞、青田ナナのセコンドには赤星弥生子がついているのだ。それは、かつての『女帝』と現在もなお猛威を振るう影の番長という構図であった。
「来栖さんと大怪獣ジュニアの一戦ってのは、あたしらにとってドリームマッチだったからさぁ。まあ、この試合を代理戦争あつかいする気はないけどねぇ」
「そりゃそーさ! 最近は女帝ジュニアなんて呼ばれてるみたいだけど、ミッチーはミッチーなんだからね!」
灰原選手は陽気な声で、そんな風に答えた。
「とにかくうちらは、ミッチーを応援するだけさ! 頑張れ、ミッチー! アトミック魂を見せつけてやれー!」
やはりこの控え室でも、青田ナナを応援する人間は皆無である。《フィスト》の王者で《アトミック・ガールズ》に一回しか参戦していない青田ナナは、外敵という扱いであるのだ。しかもその一回は《カノン A.G》運営陣の思惑によって作られた機会であったため、観客などはいっそう敵視するのではないかと思われた。
よって、高橋選手が優勢に試合を進めると、大歓声が巻き起こる。
青田ナナは防御に徹して、そのまま一ラウンド目を終えることになった。
「よーしよし! きっとKOで決着がつくだろうけど、ポイントもいただきだねー! その調子で、かっとばしていけー!」
情の深い灰原選手が、応援団長のようなポジションになっている。瓜子も盟友たる高橋選手の応援をしつつ、やはり胸中では赤星道場の行く末を思わずにはいられなかった。
ただ――青田ナナにアドバイスを送る赤星弥生子は落ち着いた眼差しであり、青田ナナ自身も焦っている様子は見受けられない。意図的に一ラウンド目を様子見に使った気配だ。試合はまだまだ、どう転ぶかもわからなかった。
そうして第二ラウンドが開始されると、青田ナナは明らかにギアが上がっていた。
高橋選手の攻撃を受けずに、ステップワークでかわし始める。そして自分からも積極的に近づいて、テイクダウンの仕掛けを見せた。
こうなると、高橋選手も慎重にならざるを得ない。高橋選手は組み技も寝技も鍛えているが、やはりストライカーであるのだ。いっぽう青田ナナこそ、すべての局面に隙のないオールラウンダーであった。
(オールラウンダーを突き崩すには、自分の得意な局面で優位を取るか……相手の攻め手を潰すこと、か)
瓜子もまた次回の《ビギニング》で名うてのオールラウンダーを相手取るため、その攻略を学んでいるさなかとなる。ストライカーがオールラウンダーを倒すには、やはり立ち技で圧倒する必要があるのだ。
そこで厄介になるのが、組み技である。相手の組み技を警戒しながら優位に立つというのは、簡単な話ではなかった。
(多賀崎選手なんかは真っ向勝負で、最後には消耗戦にもつれこんだけど……あれは、多賀崎選手も組み技が得意だったからだもんな。高橋選手はストライカーだから、打撃技でどうにかするしかないんだ)
すると、高橋選手の側にも変化が見られた。
相手に負けないぐらい機敏に動いて、また積極的に手を出し始める。それで相手に組みつきを許して、時には壁レスリングにまで持ち込まれたが――それでも、テイクダウンを許すことはなかった。
(そう。やっぱり、受け身に回っちゃ駄目なんだ)
ストライカーに必要なのは、組み技を恐れない勇気である。
多少の危険が生じてでも、攻勢に出るのだ。でなければ、相手のリズムで試合が進むばかりであった。
どちらもギアを上げたことにより、いっそう激しい攻防が繰り広げられる。
おたがい防御にも注力しているため、ダメージらしいダメージはなかったが――その激しい攻防だけで、客席はわきたった。一歩も譲ってなるものかという両者の気迫が、観客にも火をつけたのだ。控え室にも、いっそう激しく言葉が飛び交うことになった。
「いけいけ、ミッチー! くっそー、やっぱ青鬼は手ごわいなー!」
「そりゃそうさ。最初からそう言ってるだろ。でも、高橋だって大したもんだよ」
「完全に互角の勝負ですねー。ポイントも、どうつくかわからないですー」
「こ、こんなに激しい攻防で、判定勝負までもつれこむんでしょうか?」
「多賀崎サンとの試合は、判定勝負だったのです。あの試合も今日に負けないぐらいの激しさだったのです」
「判定だと、どっちに転ぶかわかんないからねー! 頑張れよ、ミッチー!」
しかし第二ラウンドも、大きな変転もなく終わりを迎えることになった。
序盤は青田ナナが主導権を握っていたが、高橋選手もすぐさま対応したので、やはり互角の勝負だっただろう。三人のジャッジがどちらにつけても、おかしくはなかった。
「でも、一ラウンド目はミッチーが取ってるはずだからねー! これなら、青鬼も焦るんじゃない?」
「ああ。やっぱりポイントゲームでは、先取したほうが有利だね。青田が確実に勝つには、次のラウンドでKOか一本を狙うしかないってことだ」
そんな言葉を聞きながら、瓜子はひたすらモニターを注視する。
高橋選手も青田ナナもさきほどのインターバルと打って変わって、疲労困憊だ。しかしそれでも赤星弥生子や来栖舞の沈着なたたずまいに変わりはなかった。
おたがいに呼吸を乱しながら、運命の最終ラウンドが開始される。
そこで先に攻勢に出たのは――やはり、青田ナナであった。
テイクダウンの仕掛けは見せずに、打撃技の猛攻で高橋選手を追い詰めていく。体格でまさり、ストライカーでもある高橋選手が下がらざるを得ないぐらい、青田ナナの攻撃は猛烈であった。
しかし、どれだけ気迫を燃やしても、スタミナには限りがある。
青田ナナの猛攻が一分ほどで終息すると、高橋選手が反撃に転じた。
多少のダメージはもらったはずだが、こちらもこれまでで一番の猛攻だ。スタミナを使った青田ナナは、ディフェンスの動きも弱々しくなっていた。
そうして青田ナナがフェンスにまで追い込まれると、客席には歓声が吹き荒れる。
しかし瓜子は、一抹の胸騒ぎを覚えていた。
(弥生子さんが、そんな雑な指示を出すとは思えない。この逃げの姿勢が誘いだとすると、何か目論見が――)
瓜子がそのように思案すると同時に、青田ナナが高橋選手の右フックをかいくぐった。
そうして高橋選手の胴体に組みついて、足を掛けようとする。
高橋選手はたたらを踏んだが、なんとか倒れまいとして後方に逃げる。結果、八メートルばかりもあるケージを横断して、反対側のフェンスに追い込まれることになった。
一転して、壁レスリングの攻防だ。
青田ナナが腰を落として頭を押しつけると、高橋選手は苦悶の形相で首をよじった。高橋選手は猛攻の直後であったため、スタミナが枯渇しているのだ。いっぽう青田ナナは防御に徹している間に、多少ながら呼吸が整ったようであった。
「わー、耐えろよ、ミッチー! マコっちゃんだって、耐えたんだからね!」
「ああ。青田もここで力を使ってるから、耐え抜いたらまたチャンスが来る。ここが、耐えどころだよ」
高橋選手の下顎を頭で圧迫しつつ、青田ナナは相手の両足を絡め取ろうとする。高橋選手は懸命に足を開いて防御していたが、その攻防でも尋常なくスタミナを削られるはずであった。
そうしてテイクダウンが難しいと判じたのか、青田ナナは両腕を足もとから両脇に戻して、高橋選手の左腿に膝蹴りを撃ち始めた。
相手の姿勢を崩そうという嫌がらせの攻撃だが、高橋選手の顔は苦しげだ。青田ナナの膝蹴りには、それだけの勢いが込められていた。
そのまま三十秒ほどが経過すると、ついにレフェリーからブレイクが命じられる。
客席はわきたったが、高橋選手の消耗は甚大だ。そして青田ナナも、それに負けないぐらい肩を上下させていた。
ケージの中央で、試合が再開される。
高橋選手は決死の形相で足を踏み出したが――左足の動きが、鈍かった。疲ればかりでなく、執拗な膝蹴りで多少のダメージを負ってしまったようだ。この状態では、わずかなダメージも顕著に影響するはずであった。
その間隙を見逃さず、青田ナナが攻撃を仕掛ける。
青田ナナの右フックをガードした高橋選手は、弱々しく後ずさった。
(そこで下がったら、駄目だ!)
おそらく青田ナナは、最後にはテイクダウンを狙ってくる。試合時間はすでに半分を過ぎているので、一本勝ちを狙うのならばもう猶予はなかった。
予想に違わず、青田ナナは両足タックルを仕掛ける。
すると――高橋選手は痛んだ左足でマットを踏みしめ、右膝を振り上げた。
タイミングが悪かったので、右膝は胸のあたりに浅くぶつかる。
しかし、スタミナが切れかけているのは、青田ナナも同様だ。両足タックルの途上であった青田ナナは、力なくマットに突っ伏した。
高橋選手は、迷わずその背中にのしかかる。
その瞬間、また瓜子の胸がざわめいた。
(グラウンドは、青田さんのフィールドだ。あたしだったら、ここで寝技にはいかない)
ただそれは、瓜子が外から見守っている立場であるからだ。スタミナが切れかけて朦朧とした頭で相手の無防備な背中を見たら、反射的にのしかかってしまうのかもしれなかった。
高橋選手は相手の胴体に両足を絡めて、バックマウントを取ろうとする。
そのさなか、青田ナナは強引に仰向けの姿勢を取った。
高橋選手が青田ナナの腰にまたがった、マウントポジションだ。
これもまた、上の人間が圧倒的に有利なポジションであったが――ただ、安定感はバックマウントの比ではない。マウントポジションをキープするには、相応の技術が必要になるのだ。
高橋選手は相手の上体に覆いかぶさって、とにかくポジションをキープしようと試みる。
このラウンドでポイントを取れば判定勝ちは確実であるので、それは決して間違った判断ではなかっただろう。
しかし青田ナナはオールラウンダーであり、普段から赤星弥生子やマリア選手などを相手取っているのだ。ことポジションキープに関して、その両名は一流の部類であった。
青田ナナはブリッジをして、高橋選手の身を跳ねのけようとする。
そうはさせまいと高橋選手が腰を浮かせると、青田ナナは股座に右腕を突っ込んだ。
それから再度、ブリッジをすると――左足を抱えられた高橋選手の身が、横合いに倒れ込んだ。
青田ナナは猛然と身を起こし、高橋選手の上にのしかかりながら、胴体をはさみこもうとする足を乗り越える。
今度は、青田ナナのマウントポジションだ。
青田ナナは頭上を振り仰ぎ、大きく息を吸い込むと、鬼の形相で左右の拳を振り回した。
猛烈なパウンドが、頭部を守った高橋選手の両腕を殴りつける。
残り時間は、一分ていどだ。
おそらくは、セコンドから指示が飛ばされたのだろう。高橋選手は残存するスタミナをすべて使って、無茶苦茶に暴れ始めた。
しかし、青田ナナの重心は崩れない。
そして、青田ナナはパウンドを取りやめて、高橋選手の右腕をつかみ取った。
腰をバウンドさせながら、高橋選手は両手をロックする。腕ひしぎ十字固めを警戒してのアクションだ。
青田ナナは、いくぶん拙速な動きで横合いに倒れ込む。
高橋選手はそのアクションに合わせて身を起こし、青田ナナの上にのしかかった。
腕ひしぎ十字固めも不発に終わり、青田ナナは呆気なく上を取られてしまう。
青田ナナはパウンドを嫌がるように、下から高橋選手に抱きついた。
客席には歓声が巻き起こり、控え室にも期待の声が散発する。
最終ラウンドも大接戦であるが、上を取ったまま終わればポイントを取れる公算が高かったし――青田ナナはこれ以上の攻防を嫌がるように、下から高橋選手に抱きついているのだ。青田ナナが反撃をあきらめたならば、あとは時間切れを待つのみであった。
だが――瓜子の隣で、ユーリが「あっ」と囁いた。
高橋選手はべったりと身を伏せて、青田ナナにのしかかっている。
青田ナナは、下から高橋選手の身を抱きすくめており――そしてその両腕が、高橋選手の首の後ろで交差された。
右手で自らの左上腕をつかみ、その状態で左手の先を高橋選手の咽喉もとにもぐりこませる。
何かを察した高橋選手が身を起こそうとしたが、青田ナナのロックは深くて、もはやびくともしない。
そうして左手の先は、いっそう深く咽喉もとにもぐりこみ――おそらくそれが、頸動脈を圧迫した。
柔術の技、エゼキエルチョークである。
寝技が得意なユーリでも、グラップリングのスパーリングでしか見せたことのない技であった。
高橋選手の動きが止まると、青田ナナがレフェリーに向かって何かわめきたてた。
レフェリーはマットに膝をつき、高橋選手の右腕を取る。そうしてレフェリーが右腕を持ち上げても、肘から先はぷらぷらと揺れるばかりであった。
レフェリーは片腕を頭上で振りながら、もう片方の腕で青田ナナの肩をタップする。
青田ナナが拘束を解き、高橋選手の身はレフェリーの手でマットに横たえられた。
高橋選手は、完全に意識を失ってしまっている。
三ラウンド、四分五十三秒――青田ナナの一本勝ちであった。




