08 バンタム級王座決定トーナメント(上)
ストロー級王座決定トーナメントの準決勝戦は、灰原選手と山垣選手、鞠山選手と亜藤選手という組み合わせに決定された。
しかしそちらの試合が行われるのは、二ヶ月後の九月大会だ。その三週間後にシンガポールで試合を行う瓜子も、ぎりぎり見届けることができるはずであった。
そうして十五分間のインターバルが終了したならば、今度はバンタム級王座決定トーナメントの開始が告知される。
客席の人々は、これまでに負けない勢いで歓声を張り上げていた。こちらはこちらで外様の選手を三名も迎えているため、ストロー級とはまた異なる期待をかきたてられるのだろう。瓜子としても、それは同じ心境であった。
その第一試合となるのは、オリビア選手と三ツ橋選手の対戦である。
三ツ橋選手は、《フィスト》のトップファイターだ。すでに二十八歳という年齢で、つい先年には青田ナナが所持する王座に挑戦して敗れていたが、それ以降は誰にも負けていないらしい。《フィスト》のバンタム級では指折りの実力者であるという評判であった。
また、彼女がこれまで《アトミック・ガールズ》に参戦しなかったのは、地方のジムの所属でお呼びがかからなかったためであるらしい。今回はまた《フィスト》運営陣のはからいで都内の宿泊施設があるジムに招待されて、今日という日に備えたようであった。
「こいつは、外連味のないオールラウンダーっていう評価みたいだね。青田もけっこう苦戦して、勝負は判定までもつれこんだらしいよ」
「ま、青鬼はもともと判定勝負が多いってウワサだもんねー! オリビアだったら、豪快にぶっとばしてくれるさー!」
灰原選手はそんな風に言っていたが、ボディチェックを完了させた三ツ橋選手がケージに上がると、「おおう」と身をのけぞらせた。
「こいつも、すげーカラダしてるね! なんか、日本人離れしてるなー!」
「いったい何キロぐらいリカバリーしてるんだろうね。まあ、重い階級で勝ち抜くにはパワーも必須なんだろうさ」
三ツ橋選手は身長百六十センチで、オリビア選手のほうが十五センチばかりもまさっている。しかしそのぶん肉厚な体格をしており、頑健な骨格を有するオリビア選手よりもさらに逞しく見えた。
「オリビアもすっげーパワーだけど、見た目はちょっとひょろひょろしてるからなー! でもまーこれだけリーチに差があったら、楽勝っしょ!」
しかし試合が開始されると、話はそれほど簡単にはいかなかった。オリビア選手は基本の移動がすり足で、動きはあまり機敏ではないのだ。いっぽう三ツ橋選手は見た目にそぐわぬ軽やかなステップワークで、オリビア選手もなかなか攻撃を当てることができなかった。
「やっぱり《フィスト》の叩きあげってのは、簡単な相手じゃないね。ずるずる判定勝負にもっていかれたら、ちょっとヤバそうだ」
「だーいじょぶだって! オリビアの攻撃が一発でも当たったら、モンゼツはヒッシなんだから!」
フルコンタクト空手の現役選手であるオリビア選手は、攻撃が重い。しかし、当たらなければ意味はないのだ。三ツ橋選手のほうは軽いジャブやローをオリビア選手の手足にヒットさせていたが、オリビア選手の攻撃はすべて空を切っていた。
「オリビアはフライ級の時代、時任さんにも逃げきられてるからな。こういうタイプは、苦手なのかもしれないよ」
「あはは。オリビアさんの猛攻から逃げるのは、恐怖の連続だったけどねぇ」
時任選手は、呑気に笑っている。オリビア選手は敗戦が続いたために階級を上げたわけであるが、そのとどめとなったのは時任選手との一戦であったのだ。それはちょうど一年前の七月大会であったはずであった。
「あれはユーリが退院して初めての大会だったよねぇ。あのときのうり坊ちゃんの勇姿は、今でもユーリのおめめにしかと焼きつけられているのです」
他の人々の不興を買わないように、ユーリは小声でそんな風に告げてきた。オリビア選手の苦境ではあるが、まったくダメージを負っている様子はないので、まだまだ呑気な心地であるのだろう。瓜子とて、覚悟を決めて階級を上げたオリビア選手が、ここでむざむざと敗れ去るとは考えていなかった。
(オリビア選手は階級を上げただけじゃなく、出稽古の時間もめいっぱい増やしたんだからな。相手選手もかなりの実力みたいだけど、力負けはしてないはずだ)
そのまま一ラウンドは終了して、客席には不安げな歓声が巻き起こる。やはり客席の人々も、《アトミック・ガールズ》生え抜きのオリビア選手が勝利することを願っているのだろう。長年の盟友である瓜子たちなどは、言うまでもなかった。
ただ、チーフセコンドたるジョンからアドバイスを受けるオリビア選手は、泰然とした面持ちだ。そしてその背後に柳原と蝉川日和が控えているのも、瓜子には心強い限りであった。
そうして開始された、第二ラウンド――オリビア選手が、常ならぬ構えを見せた。
足を前後に大きく開いて、腰を深く落とす。左腕はゆったりと前方にかざして、右の拳は腰のあたりにためる――これは古きの時代、メイとの対戦で見せていた型であった。
「おー、出た出た! これって、カウンター狙いだったっけ?」
「この姿勢じゃ、自分から動くのも難しいからね。それに……サイドを取られたら厄介だし、前足を狙われるのも危ないよ」
多賀崎選手の言う通り、この構えはずいぶん動きが制限されるため、サイドステップを得意にする瓜子には使用されなかったのだ。そして本日の三ツ橋選手もどちらかといえば前後の動きを得意にしていたが、左右のステップが鈍いわけでもなかった。
(しかもこれは、バンタム級の試合なんだ。相手なんかはオリビア選手より重い可能性があるし、一発でもローをくらったらダメージも甚大だぞ)
三ツ橋選手もそのように考えたらしく、左右にステップを踏み始めている。
リーチ差があるので三ツ橋選手も慎重になっているが、プレッシャーを受けている様子はない。ただでさえスピードで劣っているオリビア選手がより動きにくそうな構えを取ったことを、歓迎しているようにすら見えた。
三ツ橋選手はアウトサイドに踏み込んで、まずは関節蹴りを射出する。
オリビア選手はかろうじて膝を正対させることで、それを受け止めた。オリビア選手はほとんど直角に近い角度で膝を曲げているため、正面から蹴られる分には膝を痛める危険も少なかった。
「うひー、危ない! でも、なんとか防いだね!」
「でも、横からのローには対応できないだろ。カーフなんか狙われたら、一発で足を潰されるかもしれないぞ」
四ッ谷ライオットの両名が語る中、三ツ橋選手はいっそう機敏にステップを踏む。
そしてまたアウトサイドを取ってから、今度は低い軌道のカーフキックを繰り出した。
それと同時に、オリビア選手の長身が宙に舞った。
深く曲げた両膝をのばしながら、前方に跳躍したのだ。
三ツ橋選手のカーフキックはその跳躍のさなかにヒットしたため、打点がずれた上に衝撃も分散した。
そしてオリビア選手は、腰に溜めていた右拳を射出していた。
跳躍しながら拳を繰り出す、変則的なスーパーマンパンチとでもいった趣だ。
その右拳は低い軌道でうなりをあげて、三ツ橋選手の左脇腹にめりこんだ。
三ツ橋選手はアウトサイドに回り込んでいたので、当たりは浅い。
それでも三ツ橋選手はマウスピースを剥き出しにして、苦悶の形相で後ずさる。
マットに着地したオリビア選手は、すぐさま右足を振り上げた。
オリビア選手の長い足が、するすると三ツ橋選手のほうにのびていく。
三ツ橋選手はボディを守ったが、オリビア選手の右足は途中で上空に跳ねあがり、三ツ橋選手の顔面を襲った。腰の回転と股関節の内旋で蹴りの軌道を変化させる、これはブラジリアンキックであった。
三ツ橋選手も懸命に後ずさっていたので、オリビア選手の長い足でもぎりぎりの間合いとなり――その足先は、三ツ橋選手のこめかみをかすめるに留まった。
しかし、オリビア選手の重い蹴りである。
三ツ橋選手は軽い脳震盪を起こしたらしく、いっそう足をもつれさせた。
そしてそこに、今度はオリビア選手の左拳が飛ばされた。
蹴り足を前側に下ろしたので、奥手による重い正拳突きだ。
そして、長い蹴り足の一歩で、間合いは十分に詰まっている。
オリビア選手の正拳突きは、真正面から三ツ橋選手の顔面を撃ち抜き――三ツ橋選手は、後方のフェンスまで吹き飛ばされた。
フェンスに衝突した三ツ橋選手は、そのままずるずると崩れ落ちる。
オリビア選手は胸もとで交差させた腕を腰に引きおろし、一礼した。
追撃するまでもなく、三ツ橋選手は昏倒していたのだ。それを確認したレフェリーが両腕を交差させて、試合終了のブザーが鳴らされた。
客席にも控え室にも、歓声がわきかえる。ユーリも「やったぁやったぁ」とはしゃいでいたので、瓜子はそちらに笑顔を返しつつ精一杯の思いで手を打ち鳴らした。
「やっぱり、オリビアさんの攻撃は一撃必殺ですね……パウンドに頼るしかないわたしは、羨ましいです」
小柴選手が溜息まじりにそんな言葉をこぼしたので、瓜子は「何を言ってんすか」と笑いかける。
「正拳突きだろうとパウンドだろうと、KOはKOっすよ。パウンドで勝つにはテイクダウンを成功させる必要があるんですから、より高度な技術が必要だっていう見方もできるんじゃないっすかね」
「はい……猪狩さんも、この前のフィニッシュブローはパウンドでしたもんね」
と、小柴選手はもじもじしながら、あどけなく微笑む。
そうしてオリビア選手が凱旋したならば、あちこちからお祝いの言葉が投げかけられることになった。
「ったく、いきなりの奇策だったなー。ありゃーおめーらの指示かよ?」
小笠原選手のウォームアップを手伝うかたわら、サキがぶっきらぼうな声を投げかけると、ジョンは笑顔で「ウン」とうなずいた。
「ただ、ボクはアイテのペースをミダすつもりだったんだけどねー。オリビアがツヨいから、それでKOになっちゃったんだよー」
「あはは。最初の一発に手ごたえがあったから、ちょっと勝負に出てみようと考えたんですよー」
オリビア選手もジョンに負けないぐらい、にこやかな面持ちだ。瓜子たちも、そんなオリビア選手に心を込めて拍手を送ることになった。
バンタム級の朋友たちの、まずは一勝目である。
残る面々の勇躍も、大いに期待したいところであった。




