05 ストロー級王座決定トーナメント(上)
大勢の選手やセコンド陣がモニターを見守る中、ついにストロー級王座決定トーナメントの一回戦が開始された。
第一試合は、灰原選手と奥村選手の対戦だ。バニーガールを模したレオタード姿の灰原選手は意気揚々と、無骨な外見をした奥村選手は気合をみなぎらせた面持ちで、それぞれ入場した。
先刻話題にもあがった通り、奥村選手は今回エントリーされた八名の中で、唯一の中堅選手である。
ただし、鞠山選手がトップファイターに成り上がった現在、中堅最強の選手である。現在トップファイターにもっとも近いのは、この奥村選手であるはずであった。
年齢は、そろそろ三十歳を過ぎる頃だろう。ヒロ・イワイ柔術道場という個人道場に所属する身で、勢いのある打撃と巧みな寝技をストロングポイントにしている。小柴選手はその勢いを跳ね返すことができずに敗北し、それでアトム級への転向を決意した身であった。
当時の小柴選手は、十分に強かった。時任選手などは長期欠場の果てに鞠山選手と小柴選手に連敗することで、階級の変更を決意したのだ。奥村選手は黄金世代の時任選手を下した直後の小柴選手を下しているのだから、そこでも実力のほどが示されていた。
(灰原選手は、奥村選手にもいっぺん勝ってるけど……そんなのは、もう大昔の話だもんな。きっとあの頃とは、おたがいに実力が違ってるはずだ)
たしか奥村選手は小柴選手を下してから、すぐさま灰原選手と対戦したはずだ。それに勝利したことで、灰原選手もトップファイターに仲間入りできたわけであるが――何にせよ、それらはすべてユーリが渡米するより前の話となる。であればもう、二年ぐらいは過ぎているはずであった。
その間に、灰原選手は華々しく、奥村選手は堅実に、それぞれ勝ち星を重ねていった。恐るべきことに、灰原選手は今回のトーナメントにエントリーされた選手全員と対戦しており、鞠山選手を除く六名に勝利しているのだった。
いっぽう奥村選手は武中選手に敗北してしまったが、その後はずっと中堅選手を相手に勝利を重ねていた。《アトミック・ガールズ》のみならず、《フィスト》や《NEXT》の舞台にも乗り込んで結果を出し続けたのだ。それらの実績が認められて、奥村選手はこのトーナメントにエントリーされたのだろうと思われた。
「奥村さんの勢いは凄いですけど、灰原さんはそれ以上ですもんね。警戒するべきは、やっぱり寝技でしょうか」
クールダウンを完了させた小柴選手は試合衣装の上から公式ウェアを着込みながら、そのようにつぶやいた。
瓜子は慎重に、「どうでしょうね」と答える。
「もちろん寝技の技術は奥村選手のほうが上なんでしょうけど、灰原選手もディフェンスを磨いていますし……その反面、奥村選手だってスタンドの技術を向上させているはずです。そのおたがいの成長の度合いが、勝負を分けるかもしれませんね」
そうして、試合開始のブザーが鳴らされた。
灰原選手は力強くステップを踏み、奥村選手は――頭から突進する。歴戦のストライカーたる灰原選手に、インファイトを挑む算段であるようだ。
灰原選手はカモシカのごとき足でステップを踏み、奥村選手の突進を受け流す。
しかし奥村選手は、執拗に突進した。間合いに入ったらすぐさま乱打戦を仕掛けようとばかりの迫力である。
「乱打戦でも、灰原さんに分があると思いますけど……でも、警戒はするべきですよね」
「はい。乱打戦だと、どうしても攻撃をもらうリスクが増加しますからね。そんな簡単に応じないほうが、利口だと思います」
かつてはサキも不調な時代に、奥村選手の荒っぽい攻撃でダウンをくらっているのだ。灰原選手はアウトファイターとしても開花したのだから、乱打戦と寝技を得意にする奥村選手とのインファイトはなるべく避けるべきであった。
しかし、灰原選手がどれだけ躍動感にあふれるステップを披露しようとも、奥村選手は執拗に追いかけていく。
灰原選手にカウンターを出す隙すら与えない、猛烈な突進だ。灰原選手こそ凄まじいKO率を誇るストライカーであるため、こうまでがむしゃらに追いかけられるのは初めてなのではないかと思われた。
(だからこそ、奥村選手はこの作戦を選んだのかな。灰原選手は、確かにやりにくそうだ)
灰原選手は人を食った性格であるため、相手を翻弄するアウトスタイルがお気に召したらしい。しかし現在、翻弄されているのは灰原選手の側だ。これは灰原選手にとって、小さからぬストレスになりそうな展開であった。
「……猪狩さんと稽古をご一緒していれば、生半可な突進なんてプレッシャーにならないと思います。だから、これは……生半可な突進ではないんでしょうね」
「押忍。奥村選手は、短期決戦を狙ってるっぽいですね。モニター越しでも、すごい気迫を感じます」
奥村選手はインファイトに持ち込めば自分の勝ちだとばかりに、ぐいぐいと突っ込んでくるのだ。その大胆さも、灰原選手には未知の体験であったかもしれなかった。
(いや、山垣選手もこれぐらい強引に突っ込んでくるけど……奥村選手はそれにプラスして、寝技の技術もあるからな)
灰原選手とて、乱打戦に打ち勝つ自信は有しているだろう。しかし、組み技に持ち込まれては分が悪い――という意識を持っていたならば、それもプレッシャーに加算されるはずであった。
(プレッシャーがかかると、スタミナの消耗も早い。逃げてばかりじゃ、不利になるいっぽうかもしれないぞ)
瓜子がそんな風に考えたとき、灰原選手がいきなり右アッパーを振りかざした。
アッパーを選択したのは、おそらく組みつきを警戒してのことだろう。奥村選手は足を止めてその右アッパーをやりすごしてから、再び突進しようとした。
すると、灰原選手が頭を屈めて、自らも前進する。
奥村選手が得たりとばかりに左のショートフックを放つと――灰原選手はその拳をかいくぐって、奥村選手の胴体に組みついた。
奥村選手はたたらを踏みつつ、なんとか腰を落として転倒をこらえる。
灰原選手はすぐさま身を離して、後方へとステップを踏んだ。
奥村選手は仕切り直しとばかりに、足を踏み出す。
すると、下がったばかりの灰原選手が再び前屈して、相手の胴体につかみかかった。まさかの、胴タックルの二連発だ。
完全に虚を突かれた奥村選手は踏みとどまることがかなわず、背中からマットに組み伏せられる。
そうして、灰原選手の肉感的な右足を両足ではさみこんだが――その頃には、灰原選手が左右の拳を振りかざしていた。
先刻の小柴選手を上回る勢いで、パウンドの乱打が開始される。
灰原選手は天然の馬鹿力で、パウンドの威力も絶大であるのだ。しかし、これまでの試合ではグラウンドにもつれこむ機会が少なかったため、その事実を知る人間は少なかった。
寝技巧者である奥村選手も、パウンドのあまりの威力に恐れをなして、防戦一方である。
それでも何とか灰原選手の胴体に組みついて難を逃れようと試みたが、灰原選手は力ずくで相手の咽喉もとに腕をねじこみ、強引にひき剥がした。
そして再び、パウンドの嵐である。
奥村選手は懸命に防御したが、まったく反撃できそうにない。そうして何発かのパウンドが顔面をとらえて、目尻から出血すると、レフェリーが厳粛なる面持ちで試合をストップさせた。
一ラウンド、三分十四秒、パウンドアウトで灰原選手のTKO勝利である。
結果的にはノーダメージのTKO勝利であったが――瓜子にとっては、両選手の強さがまざまざと感じられる内容であった。
(きっと奥村選手は、インファイトから勝ちに繋げる手立てがあったんだろう。灰原選手はその手を出させる前に、インファイトとは別の道筋から勝利をもぎ取ったんだ)
派手好きな灰原選手が自らテイクダウンを仕掛けて、パウンドで勝負を決めた。その事実こそが、灰原選手の苦戦と成長を同時に示しているように思えてならなかった。
「これはお見事な勝利なのです。きっとセコンド陣のアドバイスが功を奏したのです」
愛音などはすました顔で拍手をしながら、そんな風に言っていた。
灰原選手には、多賀崎選手を始めとする頼もしいセコンド陣がついているのだ。きっとこれも、チームの力の勝利なのだろうと思われた。
「いやーまいったまいった! 奥村のやつ、すっげー迫力だったよー! 二年前とは、もはや別人だね!」
勝利者インタビューを終えて控え室に凱旋したのち、灰原選手は笑顔でそんな声を張り上げた。
「あいつはもう、トップファイターって言っていい実力なんじゃないかなー! なーんて、うら若きあたしの言うセリフじゃないけどさ!」
「灰原選手と奥村選手は二歳ていどしか変わらなそうなので、その謙遜は的外れであるように思うのです」
「うるさいやーい! あんただって、いつまでもガキじゃないんだからねー!」
灰原選手は陽気に笑いながら、愛音の茶色い頭をわしゃわしゃとかき回した。
その間に、モニターでは次なる試合の入場が始められている。一回戦目の第二試合は、山垣選手と宗田選手の一戦であった。
「さー、あたしの次の相手は、どっちになるかなー! てか、宗田のやつは復帰していきなりこんなトーナメントとか、やっぱ優遇されすぎじゃない?」
「それが優遇にならないってことは、《カノン A.G》の時代に証明されてますけどね。ただ、キックの戦績は見事なもんでしたよ」
宗田選手はMMAのデビュー戦でチーム・フレアの一色ルイに敗れて、さらに鞠山選手と灰原選手に敗北したことで、いったん身を引いた。かつては柔道の五輪強化選手として大きな注目を集めていたにも関わらず、MMAでは三連敗を喫してしまったのだ。
それからの二年半はキックの舞台で活動して、素晴らしい成績を残している。七勝一敗五KO――唯一の敗戦は蝉川日和のプロデビュー戦であり、その後には《G・フォース》のランカーからもKO勝利を奪取していた。
「でも、MMAの戦績は全敗なわけっしょ? それで王座決定トーナメントとか、やっぱジキソーショーじゃない?」
「自分も、そう思ってますよ。だからまあ、本人の性格と話題性が重なった結果なんでしょうね」
宗田選手は、良くも悪くも物怖じしない。きっと今回のオファーも、喜んで承諾したのだろう。普通であれば若手や中堅の選手との調整試合で調子を見てから大一番に臨みたくなるところであるが、そういう慎重さを持っていない人物であるのだ。
ただし、身体の頑丈さと格闘技のセンスは、一級品である。
秋代拓海もそうであったが、五輪の強化選手までのぼりつめた選手には、それ相応のフィジカルとポテンシャルがひそんでいるのだ。それで宗田選手は、キックの世界で素晴らしい結果を残すことがかなったのだった。
(もとは柔道の選手だったのに、キックのほうが結果を残せたっていうのは不思議な話だけど……やっぱりMMAでは、相手が悪かったよな)
一色ルイも実力そのものは確かであったし、鞠山選手や灰原選手は出稽古や合宿稽古で実力を底上げされた直後であったのだ。その後の両名の活躍を考えれば、対戦した時期が悪かったとしか言いようがない。宗田選手はデビューするなり、トップファイターと三連戦したようなものであった。
そうして四戦目となるのは、またもやトップファイターである山垣選手だ。
瓜子や灰原選手には敗北した山垣選手であるが、それ以外の相手には負けていない。武中選手もまた、山垣選手には敗北しているのだ。黄金世代はすでに輝きを失っているなどという無礼な風聞は絶えなかったが、山垣選手の強さは瓜子のこめかみにも三針の古傷としてしっかり刻みつけられていた。
(まずは、キックで磨いてきた宗田選手の打撃技が、どこまで通用するか……あとは、山垣選手のラフファイトに対する対応策だな)
そうして、試合は開始され――それと同時に、両選手は勢いよく突進した。
山垣選手は、ストロー級で随一のラフファイターである。誰よりも荒っぽいインファイトを得意にしており、それで瓜子やサキも大流血した身であった。
そんな山垣選手を相手に、宗田選手は恐れげもなく向かっていく。
そしてまずは、宗田選手の強烈な右フックが炸裂した。
打たれ強い山垣選手は意に介した様子もなく、自らも右フックを放ったが、それはダッキングでかわされてしまう。
そして、宗田選手のボディフックが山垣選手の脇腹にめりこんだ。
それでも山垣選手は一歩もひかず、左右の拳をぶんぶんと振り回す。
宗田選手はそれを的確にブロックしつつ、逆に自分のパンチを当てた。腰の入った、重い攻撃だ。瓜子も蝉川日和との一戦はセコンドの立場で見届けていたが、あの頃よりも格段に技術は向上していた。
(パンチの精度も防御の技術も、まったく段違いだ。ここで打ち負けたら……山垣選手も、危ないぞ)
宗田選手は小柄な上にクラウチングのスタイルであるため、山垣選手の頭突きをくらう心配もない。蝉川日和との対戦では、自らが頭突きを当てる事態に至ったのだ。しかし本日は距離の設定も絶妙であるため、そんなアクシデントも生じなかった。
また、山垣選手が完全に足を止めてしまっているため、間合いを測るのも楽であるのだろう。山垣選手が踏み込めばその分だけ足を引き、自分の拳がもっとも有効に振るえるポジションをキープしている。これならテイクダウンも狙えそうなところであるが、その必要を感じないぐらい、宗田選手の拳ばかりがヒットしていた。
「なんだ、頭突き女はサンドバッグだなー。こりゃーいよいよ、引退か?」
担当の小笠原選手がメインイベントの出場となったため、セコンドのサキも悠然と観戦している。そしてそのぶっきらぼうな言葉に、時任選手が反応した。
「山垣さんは、そんな簡単な相手じゃないでしょう? これはひさびさに、怖い山垣さんを見られるかもねぇ」
「はん。すでに見るも無残なツラだけどなー」
宗田選手もパンチ力が尋常でないため、何発ものクリーンヒットをくらった山垣選手は、すでに両目の周囲が赤く腫れあがっていた。
だんだんと、拳の回転も鈍くなってきている。それではいっそう簡単にガードされて、反撃をくらう率も上昇するのが自然の摂理であった。
レフェリーは、緊迫した面持ちでその壮絶な殴り合いを見守っている。
こうまで一方的な展開では、ダウンに至る前にストップをかけられてもおかしくはなかった。
そうして、宗田選手の渾身の右フックが山垣選手の顔面を撃ち抜き、目尻の出血が宙を舞う。
それと同時に、時任選手が「出た」とつぶやいた。
山垣選手は、猛然たる勢いで宗田選手の身を突き飛ばす。
そうして自分が自由に動ける距離を確保するなり、暴風雨のごとき勢いで拳を振り回した。
いきなりの猛攻に、宗田選手は防御を固める。
その腕に、山垣選手は何発もの攻撃を叩きつけた。
山垣選手はしょっちゅう相手を出血させているのに、自分の血が流されると逆上してギアが全開になってしまうのだ。
灰原選手はこの猛攻をも切り抜けて、KO勝利を奪取していたが――宗田選手は、動けなくなってしまった。
「あー、よくないねぇ。山垣さんがああなったら、足を使って時間を稼がないと」
のんびりとした笑いを含んだ声で、時任選手はそう言った。かつては同じ黄金世代のトップファイターとして、山垣選手としのぎを削っていた間柄であるのだ。それらの試合は、瓜子も中学時代からしっかり拝見していた。
宗田選手は足を使わず、持ち前の頑丈さで山垣選手のラッシュに耐えている。
こんなラッシュは長く続かないので、スタミナが尽きるのを待っているのだろう。それもひとつの道ではあったが――サキや灰原選手のように足を使ったほうが、より有効である。山垣選手がこの状態に至ったならば、頑丈さで知られる亜藤選手やディフェンスに長けた後藤田選手でもダウンを余儀なくされていたのだった。
山垣選手は狂ったような勢いで、左右のフックを振り回している。
目尻からそれなり以上の鮮血をこぼしつつ、その顔は鬼のように笑っていた。
そうして、山垣選手の右フックがガードの外側から宗田選手のこめかみを叩き――それで宗田選手の軸が揺らぐと、山垣選手はそのまま相手の首裏を抱え込み、左膝を振り上げた。
宗田選手の土手っ腹に、山垣選手の膝蹴りが突き刺さる。
宗田選手が身を折ると、山垣選手は右肘を振り上げた。
その肘が、宗田選手の左耳に叩きつけられる。
何かの冗談のように鮮血が飛散して、宗田選手はマットに突っ伏した。
山垣選手はその分厚い背中にのしかかろうとしたが、レフェリーが横合いから抱きとめる。
山垣選手は不満げなわめき声をあげたが、マットには大きな血だまりができていた。
一ラウンド、三分五十五秒、エルボーパットによるレフェリーストップで、山垣選手のTKO勝利である。
宗田選手はすぐさま身を起こしたが、その間もびたびたと血がこぼれて試合衣装を汚していく。瓜子やサキに負けないほどの、大流血であった。
「やったやったぁ。山垣さんが、意地を見せてくれたねぇ」
「はん。北米だったら、あんなていどの出血で止められることはねーだろうけどなー」
「ここは日本だから、いいんだよぉ。これは、お祝いしなくちゃなぁ」
時任選手の表情はのほほんとしていたが、とても嬉しそうに見えた。時任選手と山垣選手はどちらもフィスト・ジムの派生ジムの所属であり――そしてやっぱり、同じ時代を生きた戦友であったのだった。
かくして、王座決定トーナメントの第二試合は、山垣選手の勝利に終わり――二ヶ月後の準決勝戦では、灰原選手と山垣選手のリベンジマッチが決定されたのだった。




