02 王座返上セレモニー
その後は、試合前の下準備を進めることになった。
ただし瓜子はセコンドの立場であるため、おおよそは担当である小柴選手を見守る格好だ。セコンドの役目は初めてではなかったものの、ユーリや愛音とトリオでその役を果たすというのは、なかなかに新鮮な心地であった。
ちなみにチーフセコンドは瓜子であり、サブセコンドはユーリ、雑用係は愛音という割り振りになる。ユーリを差し置いてチーフセコンドを務めるのは恐縮の限りであったが、接触嫌悪症たるユーリは試合中のインターバルでも選手のマッサージなどをできない身の上であるため、こればかりはどうしようもなかった。
「スタンドのアドバイスは、自分と邑崎さんが受け持ちます。グラウンドになったら、ユーリさんの出番ですよ」
「はぁい。チーフセコンド様のご命令には絶対服従のかまえなのですぅ」
どうやらユーリは瓜子の下につくというシチュエーションを、存分に楽しんでいるようである。瓜子としても楽しくないことはなかったが、愛音の視線があるため迂闊に表情をゆるめることはできなかった。
それに瓜子は、正規コーチに就任した柳原を差し置いて、小柴選手のチーフセコンドを務めるのである。それは各選手との相性などを吟味した結果であるという話であるので、瓜子が気を病む必要はないのであろうが――しかしやっぱり、身に余る大役を任されたことに変わりはないので、奮起せざるを得なかった。
ルールミーティングやメディカルチェックは外から見守り、マットの確認とバンテージのチェックは瓜子が小柴選手に同行する。また、バンテージを規定通りに巻くのも、瓜子の役割であるのだ。レフェリー役の男性にOKのサインをもらった際には、ひそかに安堵の息をつくことになった。
本日は最初から《アトミック・ガールズ》公式のウェアを着込んできたので、着替える必要もない。だいぶん気温が上がってきたので、Tシャツにジャージのボトムという装いだ。魔法少女仕様である小柴選手は、その上からジャージのトップスを羽織った姿であった。
赤コーナー陣営は見知った相手が多いので、いつも通りの賑やかな様相だ。本日、懇意にしている中で控え室が分かれたのは、鞠山選手と武中選手、そして青田ナナの陣営のみであった。
また、高橋選手のセコンドには来栖舞と魅々香選手がついている。瓜子とユーリは、そちらからもお祝いの言葉をいただくことになった。
「猪狩くんも桃園くんも、素晴らしい試合を見せてくれたね。これからも《ビギニング》の舞台で、日本人選手の底力を見せてほしいと願っているよ」
「押忍。来栖さんにも誇らしいと思っていただけるような試合を目指します」
いまや瓜子が知るほとんどの人間は、《ビギニング》と提携している配信サービスと契約して試合を見届けているのだ。激励の言葉をいただくたびに、瓜子は誇らしい気持ちであった。
そうして、時間は着々と過ぎていき――ついに、開会セレモニーの刻限である。
なおかつ、王座返上のセレモニーも矢継ぎ早に開催される。瓜子とユーリは道場から持参したベルトを手に、出場選手たちとともに入場口へと集まることになった。
「おー、ベルトだベルトだ! 決勝戦は次の大会だけど、絶対にあたしがそいつをいただくからねー!」
灰原選手がそんな宣戦布告を口にしても、赤コーナー陣営の他なる面々――亜藤選手、後藤田選手、山垣選手は、無言である。不敵な気性をした亜藤選手や山垣選手はにやにやと笑っていたが、この場で舌戦を始めるつもりはないようであった。
(それにしても、黄金世代が同じ陣営にそろい踏みっていうのは……なんだかやっぱり、感慨深いな)
なおかつ本日はフライ級のワンマッチで時任選手も出場し、これまた同じ陣営であったのだ。時任選手を含めたこの四名が、かつてはサキやイリア選手としのぎを削っていたわけであった。
そうして瓜子が感慨にふけっている間に、入場が開始される。
まずはプレマッチに出場する二名のアマチュア選手、それに続いて小柴選手と時任選手、そして王座決定トーナメントに出場する四名ずつの選手であった。
それらの全員が花道に消えたならば、瓜子とユーリが扉の前に待機する。
本日は選手代表の挨拶もないので、ここからすぐさま王座返上のセレモニーだ。瓜子はやたらと胸が騒いでしまったし、ずっとにこにこと笑っていたユーリもどこか神妙な面持ちになっていた。
(ユーリさんは、これが二度目の返上なんだもんな)
秋代拓海を下したことで、ユーリは《カノン A.G》のバンタム級王者に認定された。それからすぐに《アトミック・ガールズ》の名が復活して、ユーリはあらためてバンタム級の初代王者となり――そして、防衛戦を行ういとまもなく『アクセル・ロード』に参戦して、深手を負い、王座を返上することになったのである。
そうしてユーリが入院している間に、小笠原選手が二代目の王座を勝ち取り――それをまた、ユーリが暴虐なる力でもって取り返した。今のユーリは、《アトミック・ガールズ》のバンタム級第三代王者という立場となる。
いっぽう瓜子はメイとの死闘でもぎ取った暫定王座を《カノン A.G》の運営陣に剥奪され、一色ルイを下すことで、ストロー級の第五代王者に認定された。それからの三年弱で、ラウラ選手、鞠山選手、灰原選手、亜藤選手、山垣選手――そしてサキの挑戦を退け、六度の防衛を果たした身であった。
あとはノンタイトル戦であるが、イリア選手や後藤田選手とも対戦している。新参である武中選手や階級を変更してしまった時任選手との対戦は実現しなかったが、《アトミック・ガールズ》のトップファイターはのきなみ打ち倒すことがかなったのだ。
(そういえば、ユーリさんはもともとミドル級の……今で言うフライ級の王者だったんだっけ。それもけっきょく《カノン A.G》の連中に剥奪されちゃったけど、そっちの戦績は王者に相応しい内容だったもんな)
そちらでは、前王者のジジ選手を筆頭に、日本人選手のトップスリーたる沖選手、魅々香選手、マリア選手、日本人キラーのオリビア選手、沙羅選手、前時代の王者たる秋代拓海と、トップファイターを総なめにしているのだ。バンタム級における戦績がミニマムであるのは、ひとえに活動期間の短さと選手数の少なさが要因であった。
ともあれ――ユーリとて、王者に相応しい強さを見せつけてきた。サキの指導で覚醒してからはベリーニャ選手にしか負けていないのだから、《アトミック・ガールズ》最強の選手と銘打たれてもおかしくはない立場であった。サキにリベンジを果たした瓜子も、それは同様のはずである。
そんな瓜子とユーリが最強の立場のまま王座を返上して、次なるステージに向かう。
これもまた、新陳代謝のひとつであるのだろう。瓜子とユーリは《アトミック・ガールズ》の王座にふんぞり返ることなく、《ビギニング》の舞台に羽ばたいて――そして、次の王者となる面々に進むべき道を示す立場となるのだった。
(まあ、そんな偉そうなことを考えながら、試合に臨んでるわけじゃないけど……あたしもユーリさんも、ただ大きな舞台や高額のファイトマネーだけを目的にして、《アトミック・ガールズ》を卒業するわけじゃないんだ)
《アトミック・ガールズ》で活躍することに、これまで以上の意味を持たせたい――手本を示すというのは、きっとそういうことなのだろう。《アトミック・ガールズ》で活躍した選手は、世界にも通用する。瓜子とユーリは先陣を切って、その事実を世界中に示しているつもりであった。
『それでは続きまして、王座返上のセレモニーを開始いたします! ……《アトミック・ガールズ》ストロー級第五代王者、猪狩瓜子選手! 《アトミック・ガールズ》バンタム級第三代王者、ユーリ・ピーチ=ストーム選手、入場です!』
リングアナウンサーの宣言とともに、さらなる歓声が吹き荒れる。
瓜子とユーリは無言のまま拳をタッチさせてから、ともに花道へと足を踏み出した。
とてつもない熱気と歓声が、瓜子とユーリの身に叩きつけられてくる。
それをユーリと二人きりで味わえるというのは――瓜子にとって、胸が詰まるぐらい誇らしいことであった。
つい先刻まで神妙な面持ちであったユーリはすぐさまサービス精神を発揮して、無邪気な笑みを振りまいている。そのさまをすぐ横合いから見守りながら、瓜子は粛々と歩を進めた。
ケージの外側には、二十四名の出場選手が立ち並んでいる。
それを横目に、瓜子とユーリはケージの舞台に上がり込んだ。
そちらで待ちかまえているのは、運営代表の駒形氏、コミッショナー氏、リングアナウンサー、二名のラウンドガール、ビデオカメラを構えた撮影スタッフ、それに数名の若い運営スタッフという顔ぶれだ。さらに、フェンスの外側からは多くの報道陣がフラッシュを瞬かせていた。
『《アトミック・ガールズ》の誇る絶対王者、猪狩瓜子選手とユーリ・ピーチ=ストーム選手です!』
すでに熱狂の嵐である人々をさらに煽りたてようとばかりに、リングアナウンサーが声を振り絞る。それでまた、いっそうの歓声がうねりをあげることになった。
『猪狩選手とユーリ選手はこれまで数々の激闘を繰り広げて、《アトミック・ガールズ》の看板を守ってくださいました! そしてこのたびシンガポールのMMA団体たる《ビギニング》と正式契約を締結し、世界に羽ばたくことが決定しましたため、《アトミック・ガールズ》の王座を返上することになりました!』
リングアナウンサーのそんな言葉にも、ブーイングをあげる人間はいない。
人々は、ひたすら瓜子とユーリを祝福してくれている。
それが何より、瓜子にはありがたかった。
『それでは王座返還に先立ちまして、お二人にお言葉を賜りたく思います! まずは……本日の興行でMMAプロデビュー四周年となるストロー級の絶対王者、猪狩瓜子選手です!』
瓜子はこの七月大会で、プロデビュー四周年となるのだ。
プロデビュー一周年では、四大タイトルマッチの舞台においてメイと暫定王座を巡って戦った。二周年では同じ階級に対戦相手を見つけられず、フライ級でオリビア選手と雌雄を決することになった。三周年ではようやく退院できたユーリをセコンドとして、亜藤選手とタイトルマッチを行うことになった。
そうして瓜子は二十五勝一敗一引き分けという戦績で、プロデビュー四周年を迎えて――本日、ストロー級の王座を返上するのだった。
『猪狩選手! 王座返上にあたって、現在はどのような心境でありましょうか?』
『押忍。まずは本日も、ご来場ありがとうございます。もちろん今日の主役は、試合に出場される選手の方々ですけれど……こんなにたくさんの人たちに自分の言葉を聞いていただけることを、心から嬉しく思っています』
歓声がいっそうのうねりをあげて、「瓜子!」や「うりぼー!」の声がコールされる。
試合の際とはまったく異なる感慨を噛みしめながら、瓜子は一礼した。
『さきほど説明された通り、自分は王座を返上することになりました。だけど自分はこれからも、《アトミック・ガールズ》の看板を背負って戦っていくつもりです。誰に対しても恥ずかしくない試合を目指しますので、どうかよろしくお願いします。……そして何より、《アトミック・ガールズ》で活躍する選手の方々の応援をよろしくお願いします』
『猪狩選手、ありがとうございました! それでは、続きまして……さまざまな分野において絶大なる人気を誇る驚異のプリティ・モンスター、ユーリ・ピーチ=ストーム選手です!!』
『はぁい。……でもでも、ユーリはうり坊ちゃんみたいに立派なことは言えませんので、どうかご容赦くださぁい』
ユーリがいつもの調子で声をあげると、歓声に多少の笑い声が入り混じった。
だが、熱狂の度合いに変わりはない。ユーリは無邪気な笑顔のまま、そっとまぶたを閉ざした。
『たぶん前にもおんなじことを言っちゃってると思いますけれど……ユーリは、《アトミック・ガールズ》が大好きです。せっかくのベルトをお返しして、公式試合をできなくなっちゃうのは、すごくすごく残念ですけれど……でも、エキシビションマッチには出られることになりましたぁ。今はそれが、一番うれしいですぅ』
ユーリのそんな言葉には、掛け値なしの歓声が吹き荒れる。
パラス=アテナには瓜子とユーリの今後の活動に関して問い合わせが殺到していたので、エキシビションマッチの出場が可能であることは、すでにウェブサイトで告知されている。よって、この場に詰めかけた人々の大半は、すでにその事実を知っていたはずだが――それでも、喜びの思いに変わりはないようであった。
『でもでもやっぱり公式試合に出られないと、半分ぐらいは部外者っていう立場になっちゃうんですよねぇ。それはすっごくさびしい気分ですけれど……でもでも、《アトミック・ガールズ》が大好きっていう気持ちは変わらないので、これからはみなさんと一緒に《アトミック・ガールズ》を応援していくつもりですぅ。ふつつかものですが、どうぞよろしくお願いしまぁす』
ユーリはよそゆきの笑顔だが、その言葉には真情があふれかえっている。
そしてその閉ざされたまぶたからは、うっすらと光るものが覗いていた。
それで瓜子は、また胸を詰まらせてしまい――客席には、いっそうの熱狂が渦を巻いたのだった。




