夏の下準備
(……どうしてこうなった?)
眩いフラッシュが瞬く中、瓜子はひとりどんよりとそんな思いに埋没していた。
そんな瓜子のかたわらでは、ユーリが心から幸せそうな笑みを振りまいている。ユーリのそんな笑顔は、瓜子にとっても何よりの喜びであるのだが――ただし、瓜子もユーリも布地面積の小さな水着の姿であったため、どうしてもネガティブな感情のほうがまさってしまうのだった。
本日は七月の第一木曜日――ブラジル遠征から帰国して、三日目のこととなる。
瓜子はいまだ時差ボケから回復しきっておらず、あれよあれよという間に今日という日を迎えた次第であった。
「瓜子ちゃんは、寝ぼけた顔をしてるわね。それはそれで色っぽくないことはないけど、今は華やかな姿を撮りたいの。セクシー路線は後で時間を作ってあげるから、もうちょっと集中してもらえるかしら?」
「そ、そんな時間は必要ありませんし、寝ぼけた顔が色っぽいとか意味わかんないっすよ」
「ユーリちゃんは、いっつも眠そうなお顔が色っぽさを上乗せしてるでしょうよ。いいから、集中なさい」
そんな理不尽な言葉を投げつけてくるのは、言うまでもなくトシ先生である。今回は来たるべき《アトミック・ガールズ》七月大会に備えた物販グッズのための撮影であり、パラス=アテナの駒形氏はそれでまた辣腕のカメラマンたるトシ先生に仕事を依頼していたのだった。
プレスマン道場からパラス=アテナに連絡を入れたのは、四日前のこととなる。《アトミック・ガールズ》七月大会は瓜子とユーリの去就によって内容が確定されるようだという話であったため、帰国の飛行機に搭乗する前にメールで一報を入れることになったのだ。
そうして二十四時間をかけて帰国して、三日目でもうこの騒ぎである。
瓜子とユーリが今後も《アトミック・ガールズ》のエキシビションマッチに出場することが可能だと知った駒形氏は、喜び勇んでこの撮影の仕事を申し入れてきたのだった。
『我々は一縷の可能性にかけて、坂上塚先生に撮影の仕事を依頼していたのです! 今後はお二人にも十分なギャランティを準備しますので、何卒よろしくお願いいたします!』
電話口にて、駒形氏はそんな風に熱弁していた。
もちろん瓜子とユーリが《アトミック・ガールズ》への出場を完全に禁止されていたならば、両名のグッズを物販で扱うことも難しくなるのだろう。しかしまた、エキシビションマッチにしか出場できない瓜子たちをそんな大々的に扱うというのも、如何なものかと思うのだが――二人のグッズの売り上げが《アトミック・ガールズ》を支える経済的な屋台骨の一本であるなどと聞かされては、瓜子も固辞することは難しかったのだった。
ただし、駒形氏から電話をいただいた時点では時差ボケでまったく頭が回っていなかったため、瓜子はプレスマン道場のコーチ陣および千駄ヶ谷に一任して、泥のように眠ることになった。そうして眠りから覚めたならば、この非情な現実が待ち受けていたわけである。
「ユーリちゃんと瓜子ちゃんは今後、シンガポールで活動していくっていうんでしょ? 今回は、それをお祝いするイメージでっていう依頼をいただいてるのよ。だから、そのイメージに相応しいお顔をなさい」
「……こんな格好だと、イメージもへったくれもないんすけど」
「ああ、あと、瓜子ちゃんはデビュー四周年なんですって? ピンの写真はユーリちゃんの倍ぐらい撮らせていただくから、そのつもりでね」
「……なんかもう、このまま地面に沈んじゃいそうです」
瓜子とユーリは次の七月大会で、それぞれ《アトミック・ガールズ》の王座を返上する。その瞬間がもう二週間と少しの後に迫っているというのに、これでは感傷にひたっている隙もなかった。
なおかつ、七月大会ではその返上された王座を巡るトーナメント戦が開催されるのだ。そのストロー級とバンタム級の王座決定トーナメントには、瓜子たちが懇意にさせていただいている数々の選手たちもエントリーされているのだった。
「王座を返上したその日にトーナメントだなんて、慌ただしい限りだねぇ。でもでも、誰が優勝するのか楽しみだねぇ」
撮影地獄の休憩時間に、ユーリは笑顔でそんな風に語っていた。
ユーリも《アトミック・ガールズ》の王座を返上することにはひとかたならぬ思いを抱いているはずだが、負の感情はすべて体外に排出しているのだろう。そんな感傷を引きずったまま、ユーリが二週間以上も過ごせるわけがなかったのだった。
「って言っても、その日に開かれるのは一回戦目だけらしいっすよ。一日に何試合もこなすワンデイトーナメントは、時代遅れだって話ですからね」
「にゃるほろ。あとうり坊ちゃんは、《フィスト》の王座も返上するんだもんねぇ。これまで大活躍だった分、後始末が大変だねぇ」
その件に関しては、立松が《フィスト》の運営陣と話をつけていた。折しも、八月の頭に《フィスト》と《アトミック・ガールズ》の共催イベントが開催されるため、そちらで王座返上の式典に出場してもらいたいという打診があったのだった。
ちなみにそちらのイベントにおいては愛音たちが参戦する《フィスト》と《アトミック・ガールズ》の対抗戦が実施され、さらにメインイベントには多賀崎選手と魅々香選手のタイトルマッチが予定されている。その日は《フィスト》において初の試みとなる、女子選手が主体となる興行が計画されているのだという話であった。
そして、格闘技とは別枠であるが、ユーリの《ビギニング》における次の試合が十月に設定されたため、『トライ・アングル』は八月のロックフェスに参戦する方向で動いている。そちらでも、千駄ヶ谷の辣腕が思うさま振るわれているはずであった。
「そんでもってお盆の前には合宿稽古もあるし、夏の予定がみっちりだねぇ。でもでも、楽しい予定ばっかりだからお胸が弾んじゃうねぇ」
「そうっすね。その中に、今日のコレは含まれないっすけど」
「にゃはは。うり坊ちゃんのかわゆらしい水着姿を満喫できるユーリにとっては、今日も幸せな限りなのでぃす」
ユーリの物言いは不本意な限りであるが、さりとて今日の事態の責任がユーリにあるわけではない。よって瓜子もユーリの髪をひとふさ優しく引っ張るだけで、勘弁してあげることにした。
「それにしても、仕事にかこつけて旅行ざんまいとは、いいご身分ね。できればもっと、お土産のセンスを磨いていただきたいところだけど」
と、別なるスタッフと談笑していたトシ先生が近づいてきて、テーブルに置かれていた丸いチョコレートの包みをつまみあげる。ユーリは申し訳なさそうに笑いながら、「うにゃあ」と声をあげた。
「今回は病院とか打ち合わせとかがあったので、あんまりおみやげ探しの時間を作れなかったのですぅ。かわゆらしいハンドクリームとかボディソープとかもあったのですけれど、トシ先生はブランドにこだわりがあるから不可でせう?」
「ただの軽口だから、気にしなくていいわよ。仕事で出向いたんなら、そっちに集中しないとね。……あら、おいし」
丸くて小さなチョコレートを口にしたトシ先生は、珍しく穏やかな眼差しで瓜子たちを見比べてきた。
「それに今回は青痣とかも作ってなかったから、上々ね。ブラジル人なんてのはやたらと頑丈そうなイメージだけど、かすり傷ひとつ負わずにぶちのめすことができたのかしら?」
「多少のダメージはもらいましたけど、この数日で完全回復しましたね。……って、トシ先生が試合の内容を気にするなんて、珍しくないっすか?」
「別に気にしちゃいないわよ。でも、ネットニュースで嫌でも目に入るもの。ユーリちゃんの血まみれの姿を見たときは、卒倒しそうになったわよ」
「うにゃあ。あれはみんな、相手の御方の鼻血だったのですぅ。ユーリが未熟なばっかりに、また相手の御方にケガをさせてしまいましたぁ」
「おー、やだやだ。……でもまあ、本業も順調みたいじゃない。死んでも試合なんて観ないけど、アンタたちが世界で活躍するのは誇らしい気分よ」
そんな風に言ってから、トシ先生はいきなりまなじりを吊り上げた。
「きっとこれからは、大きな撮影の案件がどんどん舞い込んでくるでしょうね。マネージャーさんにも言っておいたけど、可能な限りはアタシを指名するのよ? 他の三下カメラマンにまかせてたら、雑な撮影と安直な加工でアンタたちの魅力を台無しにするに決まってるんだから」
「いえいえ。最近は撮影の仕事も絞ってるんで、そんな大げさな話にはならないはずっすよ」
「どんなに絞ったって、最後に残されるのは大きな仕事でしょ? 十メートルサイズのポスターで瓜子ちゃんの美肌をそのまま再現できるカメラマンなんて、この世でアタシひとりなんだからね」
「だから、思い出させないでくださいってば……」
そうして瓜子が溜息をついたタイミングで、新たな被写体がやってきた。可愛らしいエスニックなワンピースに細身の身体を包んだ、愛音である。愛音は昂揚をあらわにしながら、ずかずかとこちらに近づいてきた。
「どうもお待たせしたのです! ようやく大学の講義が完了したのです!」
「あら、おはようさん。でも、愛音ちゃんのお仕事は二時間後だし、撮影スタジオもここの二階よ」
「承知しているのです! 後学のために、ユーリ様の撮影を見学させていただきたいのです!」
つい三日前にユーリと三週間ぶりの再会を果たした愛音は、まだ熱情を引きずっている様子である。ユーリが見事にアナ・クララ選手を下し、《ビギニング》との正式契約をこぎつけたと聞いた愛音は、ずっと感涙にむせんでいたのだ。そんな愛音を見返すユーリは、ちょっぴり気恥ずかしそうにふにゃふにゃと笑っていた。
「ムラサキちゃんも、お疲れさまぁ。この後は、『トライ・アングル』の撮影だったっけぇ」
「はいなのです! 八月にリリースされる映像作品の特典フォトブックの撮影なのです! 愛音はこの日を心待ちにしていたのです!」
そちらは、瓜子たちがブラジルに遠征している間に千駄ヶ谷が企画していた事項であった。『トライ・アングル』は秋か初冬にカバーアルバムのリリースを計画しているため、場つなぎとして過去のライブ映像をリリースすることに決定されたのだそうだ。
いまだ時差ボケで思考が定まらない瓜子は、ただただ溜息をつくばかりである。
しかしユーリの言う通り、この夏も予定がみっちりと詰まっている。七月の第三日曜日には《アトミック・ガールズ》の七月大会、八月の頭には《フィスト》、そのすぐ後には『トライ・アングル』が出場する『サマー・スピン・フェスティバル』、お盆の前には合宿稽古――ざっと数えあげただけでも、そんな有り様であったのだった。
(まあ、ヒマを持て余すよりはいいんだろうけどさ)
なんだか、まだ一週間も経っていない《ビギニング》ブラジル大会が、遥かなる昔日の出来事のように感じられてしまう。
しかしまた、あの一戦を無事に乗り越えられたからこそ、今があるのだ。瓜子やユーリが大きな怪我などを負っていたら、夏の予定も大半は潰れていたのだろうと思われた。
(……何にせよ、今年もユーリさんがいてくれるんだから、文句は言えないか)
そんな感慨を噛みしめながら、瓜子はユーリの横顔をそっとうかがう。
すると、愛音に笑いかけていたユーリが瓜子の視線に気づいて、こちらを振り返り――いっそうあどけない、幸せそうな笑顔を見せてくれた。
そうして瓜子は時差ボケの茫漠とした感覚の中でたゆたいながら、本年も騒がしい夏を迎えることに相成ったのだった。




