16 新たな一歩
《ビギニング》ブラジル大会の翌日――リオデジャネイロに滞在する最終日、瓜子は救急病院に出向くことになった。
理由は、試合中に指が入った左目の診察のためとなる。瓜子としては痛みも何もなかったのでそんな必要はなかろうと考えていたのだが、周囲の面々を安心させるために腰を上げることに相成ったのだった。
なおかつ瓜子にとっては、もののついでという心境である。
《ビギニング》代表のスチット氏からの要請で、ユーリはまたもや精密検査を受けることになったのだ。試合の翌日は日曜日で、おおよその病院は休診日であったが、スチット氏がわざわざ精密検査の段取りをつけていたのだった。
「やっぱり試合直後の桃園さんは、呼吸も脈拍も心音も確認できなかったって話だからな。それでも医療機器できっちり確認する前に回復しちまうから、スチットさんにしてみてもなかなか気が休まらないってところなんだろうさ」
ユーリの診断結果を待つ間、立松はことさら陽気な声でそう言った。
他に付き添ってくれたのはジョンで、他の面々は観光とショッピングに繰り出している。サキあたりは観光を楽しむどころの話ではなかろうが、付添は立松とジョンで十分であったし、瓜子たちの分まで土産の品を見つくろってもらわなければならなかったため、伏してお願いしたのだった。
「もちろん俺たちだって、心配なことは心配だよ。でも、何回精密検査をしたって結果はオールグリーンだし、こんなに元気いっぱいなのに稽古や試合を控えろとはなかなか言えたもんじゃないからな。俺たちは管理責任の崖っぷちから、桃園さんの活躍を見守ってるつもりだよ」
「はいぃ。お稽古や試合を取り上げられたら、ユーリはそれこそ心停止してしまいますので……みなさんのご温情には感謝の気持ちしかないのですぅ」
と、純白の頭をぺこぺこ下げたのちには、おずおずと瓜子の顔色をうかがってくる。それに笑顔を返すのも、もう何回目のことかもわからなかった。
「自分の言いたいことは、立松コーチがみんな言ってくれました。サキさんや邑崎さんたちだって、みんな同じ気持ちですよ。だから、ちょっとでも不調を感じたりしたら、絶対に隠したりしないでくださいね?」
ユーリは幼い子供のように「うん」とうなずいてから、瓜子の羽織った上着の袖をきゅっとつかんできた。
そこで看護師がやってきたので、ユーリとジョンだけが診察室に入っていく。瓜子の左目はすでに問題なしと診断されており、あとはユーリの検査結果待ちであったのだ。
その結果は、当然のようにオールグリーンである。
まあ、細かな結果に関しては後日を待たなくてはならないが、それも毎度のことであった。毎回異なる病院で精密検査をして、まったく異常は見つからないのだから、あとはユーリのすこやかな笑顔を信じるしかなかった。
「よし。ひとまず一件落着だな。それじゃあ、お次の問題を片付けるとするか」
立松の合図で、ジョンが携帯端末を操作する。病院の検査が終了したならば、今後の契約について話をさせてもらいたいと、スチット氏じきじきから連絡をいただいていたのである。
会談の場所は、救急病院からタクシーですぐの立派なホテルであった。
帽子で多少ながら人相を隠した瓜子とユーリはそそくさとタクシーに乗り、移動する。昨日の打ち上げの席では外国人の観光客からサインをねだられるという事態も生じていたが、今のところ現地の人間と衝突する事態には至っていなかった。
「まあ、博打で大損をこいた酔っ払いと酒場か何かで遭遇したら、とんでもない騒ぎになりそうだが……こうやって公共の場をうろついてる限りは、危ないこともないだろうさ」
などと語る立松こそが、もっとも警戒心をあらわにしている。しかしこの行き道でもアクシデントに見舞われることはなく、プレスマン道場の一行は無事にホテルに到着した。
フロントで部屋番号を告げると、若い男性スタッフがロビーに降りてくる。その人物の案内で最上階のスイートルームに向かうと、そこにスチット氏が待ち受けていた。
「ユーリ選手、猪狩選手、個人的にご挨拶をさせていただくのは、実におひさしぶりですね。昨晩は、素晴らしい試合をありがとうございました」
厳つい顔に柔和な微笑をたたえたスチット氏が、悠揚せまらず頭を下げてくる。本日もスチット氏はがっしりとした体躯に黒いジャケットと開襟の白いシャツを着込んでいた。
「さあ、どうぞお座りください。精密検査のほうも問題はなかったそうで、何よりです。猪狩選手も、昨晩はとんだ事態に見舞われてしまいましたね。猪狩選手の選手生命に支障が生じなかったことを、心から安堵しています」
タイと日本の血を引くというスチット氏は、なめらかな日本語で瓜子のことも気づかってくれた。
「昨日の《ビギニング》対《V・G・C》の対抗戦は、八勝四敗という結果に終わりました。その内の三勝は日本陣営の方々があげてくれたわけですから……わたしも胸を撫でおろすことができました」
「シンガポールの陣営も、大活躍だったじゃねえか。王者は二人ほど負けちまったが、そのぶんプレリミのほうでは三人も勝ち残ったんだからな」
「ええ。奇しくもプレスマン道場のみなさんと行動をともにしていた三名が勝利をあげることになりました。これこそ、ジャパニーズ・チーム・プレスマンの影響力でしょうか。ユニオンMMAの方々が日本遠征を計画するのも必然であったのでしょう」
「ほう、ずいぶん耳が早いな。俺たちも、そんな計画は昨日まで知らされてなかったんだがね」
「わたしは前々から、ユニオンMMAのトレーナー陣に相談されていたのです。所属選手たちがそんな計画を立てているようだが、どうしたものだろうか、と……もちろんわたしは、前向きに検討するべきだと助言することになりました。わたしとて日本のトレーニング環境をつぶさにわきまえているとは言えない身ですが、ユーリ選手と猪狩選手の活躍が何より如実に物語っていますからね」
そう言って、スチット氏はにこりと微笑んだ。
「ユーリ選手と猪狩選手は、期待以上の試合を見せてくださいました。つきましては、半年間に及ぶ特別契約はこれで満了として、新たな契約に関してお話をさせていただきたいのですが……この期間内に、外部のプロモーションからスカウトの話は届けられましたか?」
「腹を割って話させてもらうが、そっちのほうはさっぱりだね。《アクセル・ファイト》も、なしのつぶてだ。好意的に考えるなら、こっちではつい最近メイさんっていう有望な選手が正式契約を結ぶことになったから、それでひとまず満足したってところなのかもな」
「ああ、メイ・キャドバリー選手も素晴らしい活躍を見せていますね。彼女は、《アクセル・ファイト》の王座を目指せる器なのではないかと考えています」
スチット氏のそんなひと言で、瓜子は呆気なく胸を高鳴らせることになった。
するとスチット氏はそんな瓜子の内心を見透かしたかのように、また微笑む。
「つまり、メイ選手に連勝している猪狩選手はそれ以上の器であるということです。そんな猪狩選手にすらオファーがかからないというのは、いささか不思議なぐらいですね」
「こっちはメイさんの契約でもギャラ交渉に熱を入れちまったもんだから、こりゃたまらんと首を引っ込めたのかもな。まあ何にせよ、現時点ではあんたのほうが猪狩と桃園さんを高く評価してくれてるってことさ」
「現段階では。……まさしく、その言葉の通りでしょう。世界最高峰の看板を掲げた《アクセル・ファイト》であれば、いずれ必ず猪狩選手とユーリ選手の獲得に着手するはずです」
スチット氏は身を乗り出してテーブルに肘をつくと、その上で指先を組んだ。
「以前にもお話ししました通り、わたしはアジアの選手が《アクセル・ファイト》で頂点をつかむことを夢見ています。そして、女子選手の中でもっとも実現に近いのは、ユーリ選手と猪狩選手なのではないかと考えています」
「ほう。シンガポールの並み居る選手を差し置いて、この二人にもっとも期待をかけてるってのかい?」
「はい。《ビギニング》の現王者たる四名も、まぎれもなく世界で戦える器であるはずですが……ただ一点、《ビギニング》では選手が洗練されればされるほど、北米のスタイルに近づいていくという傾向が強いのです。それこそが、MMAで勝利するための最適解であるのでしょうが……しかし、MMAの最先端である北米においては、その最適解も恐るべきスピードで更新されています。こちらが洗練された頃には、北米において新たな最適解が生み出されているのです。これでは、《ビギニング》の選手が《アクセル・ファイト》で王座をつかむことも難しいでしょう」
表情や口調は穏やかなまま、スチット氏の身に静かな熱情がみなぎったように感じられた。
「ですが、ユーリ選手と猪狩選手はきわめてユニークなファイターです。お二人であれば、《ビギニング》をいっそう活性化させることができるでしょう。そのために、お二人には《ビギニング》と正式契約を交わしていただきたいと考えています」
「ああ。この半年間、次から次へととんでもない試練を準備してくれたが……そのおかげで、この二人もますます成長することができた。あんたは信頼の置けるお人だし、前向きに検討させてもらいたく思ってるよ」
そんな風に言ってから、立松はにやりと不敵に笑った。
「ただもちろん、契約条件次第だがね。会長からも、そこで妥協するなと厳命されてるもんだからさ」
「はい。ご期待に沿えれば幸いです」
スチット氏に目配せを受けたスタッフが、ブリーフケースから書類の束を取り出した。
「余計な時間を省略するために、これまでの特別契約から内容が変更された部分を口頭でご説明いたします。そののちに、書面でのご確認をお願いできますでしょうか?」
「ああ。よろしくお願いするよ」
「承知しました。まずは、契約期間と契約金に関してですが……契約期間は一年間、契約金は十六万ドル、期間内に最低四試合を消化していただきたく思います」
一年間で、十六万ドル――《アクセル・ファイト》の正式契約の最低値は年間十万ドルであるので、十分に破格と言えるだろう。それで四試合ということは、一試合に対するファイトマネーは四万ドルであり、現在のファイトマネーに一万ドルを上乗せされた格好であった。
「次に、主たる契約内容ですが……このたびは正式な専属契約でありますため、国内外を問わず外部のプロモーションの試合に出場することは禁止とさせていただきます」
これまでは、日本国内に限り公式試合に出場することが許されていたのだ。これで《ビギニング》と契約したならば、瓜子とユーリはすべてのタイトルを返上しなければならないわけであった。
(……まあそれは、これまでが特別待遇だったんだもんな)
そのおかげで、瓜子はサキや山垣選手と、ユーリは小笠原選手とタイトルマッチを行うことがかなったのである。スチット氏には、感謝の思いしかなかった。
するとスチット氏は、「ただし」と笑顔で付け加える。
「それはあくまで、公式試合のみの措置となります。エキシビションマッチに関しては、こちらの関与するところではありません」
「うん? それじゃあ、《アトミック・ガールズ》のエキシビションマッチに出場することは許してもらえるのかい?」
「はい。ユーリ選手と猪狩選手には、日本の格闘技界も盛り上げていただきたく思いますので……これがこちらの提示できる、限界のラインとお考えください」
「それは、アトミックの運営陣が小躍りしちまうな。……って、それはこっちも同じことか」
立松が皮肉っぽい笑みを浮かべつつ、瓜子たちのほうを振り返ってくる。
瓜子は胸を詰まらせながら、そちらに笑顔を返そうとしたが――ユーリがぽろぽろと涙をこぼしていることに気づいて、慌てふためくことになった。
「だ、大丈夫っすか、ユーリさん? お気持ちは、十分にわかりますけど……」
「うん……アトミックに出場できなくなっちゃうのは寂しいなって……それだけが、唯一の心残りだったから……」
ユーリは滂沱たる涙をこぼしながら、天使のように微笑んだ。
「ありがとうございます、スチットさん……なんてお礼を言ったらいいのか、おばかなユーリにはわからんちんなのです……」
「わたしはアジア全体の活性化を願って決断したのですから、ことさらお礼を言われる立場ではありません。でも、選手ひとりずつのお気持ちもないがしろにしたくはないと考えていますので、ユーリ選手の喜びを我がことのように嬉しく思います」
スチット氏は果てしなくやわらかな笑顔で、そう言った。
「これまでの特別契約から大きく変更された点は、以上となります。それとは別に、次の試合のオファーに関してもお話を進めさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「ほう。昨日の今日で、慌ただしいこったな。まあ、あんたぐらいになったら、一年先のスケジュールまでざっくり考えてるんだろうけどよ」
立松はふてぶてしく笑いながら、身を乗り出した。
「で? 次はどんな試練を準備してくれたんだい? またどっかの国との対抗戦かな?」
「いえ。わたしが考案したのは十月上旬の本国大会で、対戦相手は……ユーリ選手がレベッカ・ジア・タン、猪狩選手がイヴォンヌ・デラクルスとなります」
瓜子は再び息を呑むことになった。
そして立松も絶句したため、ずっと無言で微笑みをたたえていたジョンが発言する。
「つまり、いきなりタイトルマッチってことなのかなー?」
「はい。その日はまた女子選手のみの大会として、全階級の四大タイトルマッチを計画しています」
「おいおい」と、立松も我に返った様子で声をあげる。
「あんたはつくづく、とんでもないことを言いだすんだな。正式契約を結ぶなりタイトルマッチなんて……そいつはあまりに、規格外じゃねえか?」
「ですが、ユーリ選手はエイミーおよびジェニー、猪狩選手はグヴェンドリンおよびミンユーおよびレッカーに勝利しているのですから、王座挑戦の資格は十分です。と、いうよりも……王者の他に相応しい対戦相手など、もはやひとりかふたりほどしか存在しないことでしょう」
「だから、普通は先にそっちを対戦させるもんなんじゃないのかい?」
「そうしますと、戴冠したのちにすぐさま対戦相手を失い、国外の強豪選手を招聘する事態に至ります。まあ、すぐさま戴冠しても、大きな違いはないのですが……何にせよ、もっとも効果的なのは先に王座挑戦することだろうとわたしは考えました」
悠揚せまらず、スチット氏はそのように言いつのった。
「すでにみなさんもご存じでしょうが、レベッカとイヴォンヌの両王者は正統派の北米スタイルで、きわめて高いレベルにあります。《アクセル・ファイト》の王座には一歩届かないかと思われますが、あと一歩の距離であることに疑いはないでしょう。ですから……ここで彼女たちがユーリ選手や猪狩選手を下せるようでしたら、その最後の一歩を埋めることができるかもしれません」
「……なるほど。どっちが勝っても、あんたに損はないってことか。まあ、国外の選手に王座を奪われるってのは、そんなに旨みもなさそうだがな」
「わたしはアジア全体の活性化を最優先に考えていますため、王者の国籍は問いませんが……まあ、もしもユーリ選手と猪狩選手が両王者を下して戴冠したならば、シンガポール国内の選手やファンたちは奮起することでしょう。それが、何よりの起爆剤となりえるのです」
スチット氏の返答に、立松は深々と息をついた。
「ようやくわかったよ、スチットさん。あんたはすべての人間に等しく優しくて……それでもって、等しく厳しい人間なんだな」
「はい。偏った優遇と冷遇は非生産的な結果しか招かないだろうと、わたしは自分を律しているつもりです」
そう言って、スチット氏はやわらかく微笑んだ。
その笑顔に、瓜子は深く胸を満たされる。そして、こっそり立松の横顔を盗み見ることになった。
(みんなに優しくてみんなに厳しいってのは、立松コーチもご一緒ですよ。だから、あたしは……スチットさんのことも信用できるんだと思います)
それが、瓜子の本心であった。
いっぽうユーリはようやくハンカチで涙をぬぐいつつ、幸せそうに微笑んでいる。《アトミック・ガールズ》のエキシビションマッチに出場することを許されて、次の対戦相手にレベッカ選手を指名されて――すべてが、幸福でならないのだろう。根幹の部分では、瓜子も同様の心情であった。
かくして、瓜子とユーリは《ビギニング》と正式契約を交わすことになり――またファイターとして新たな一歩を踏み出すことに相成ったのだった。




