15 再会
《ビギニング》ブラジル大会の祝勝会は、滞在していたホテルのレストランの一画で行われた。
参加者は、同じホテルに宿泊していた面々――プレスマン道場の八名と、ユニオンMMAの八名と、ドージョー・テンプスフギトの四名のみである。ブラジルでは勝手もわからないので、けっきょく他のホテルに滞在している陣営とは合流できなかったのだ。
つまりはこの三週間ずっと顔を突き合わせてきたメンバーのみということだが、瓜子はそれでまったくかまわなかった。今日の喜びをもっとも等分に分かち合えるのはこの面々であるのだから、文句のつけようがなかったのだ。グヴェンドリン選手の屈託のない笑顔や、エイミー選手の不愛想な顔に宿された満足そうな眼差しや、まったく昂ることのないヌール選手のたたずまいなども、瓜子の心を満たしてやまなかったのだった。
「アナ・クララ・ダ・シルバのグラウンドテクニックは噂通りの力量だった。だからこそ、ユーリ・モモゾノの怪物じみた強さをいっそう実感することになった。あなたはスパーリングの際にも素晴らしい実力を発揮していたが、試合になると数段レベルが上がるようだ。心から、敬服している。……だそうだわよ。こんな言葉をわたいの口から語らせるなんて、あんたも偉くなったもんだわね」
「うにゃあ。恐縮の限りなのですぅ。でもでも、ヌール選手もさすがのお強さだったとお伝えいただきたいのですぅ」
「そんな内容のない言葉を通訳したって、わたいのカロリーが無駄に消費されるだけだわね」
と、シンガポールの陣営と交流するには鞠山選手の力を頼らざるを得ないが、瓜子にとってはそれも楽しさの一因であった。
試合に出場した瓜子たち五名は全員ダメージらしいダメージもなく、元気な姿をさらしている。瓜子もこの時間には集中力の限界突破から生じる虚脱感からも完全に回復して、何も憂うことなく食事と歓談を楽しむことができた。
プレスマン道場のセコンド陣は二手に分かれて、それぞれシンガポールのセコンド陣と交流に励んでいる。サキや蝉川日和がどのような会話をしているかは謎であったが、まあどちらもマイペースな気性であるため気詰まりなことはないのだろう。通訳の役目を担うジョンやドミンゴ氏が大らかな気性であるためか、どのグループからもきわめて和やかな雰囲気が感じられた。
「ところで、ウリコとユーリに相談したいことがある。……だそうだわよ」
と、楽しい歓談のさなか、グヴェンドリン選手がふいに真剣な面持ちになった。
「こんな話は道場の責任者にするべきなのだろうが、ウリコとユーリの気持ちを一番に考慮したいので、どうか聞いてもらいたい。……だそうだわよ」
「ええ。もちろん、どんなお話でも喜んでおうかがいしますけど……何か、楽しくない話題なんすか?」
「ウリコたちに不愉快だと思われるのが、一番の懸念だ。でも、物怖じせずに語りたい。……おやおやだわよ」
「なんすか? 自分たちにも教えてくださいよ」
「英会話教室に通う労力も払わないくせに、偉そうな物言いだわね。……グヴェンドリンとエイミーとランズの三人が、八月の合宿稽古に参加したいそうだわよ」
鞠山選手のそんな言葉に、瓜子はきょとんとしてしまった。
「八月の合宿稽古って……赤星道場主催の、アレっすか? あの合宿稽古に、グヴェンドリン選手たちが?」
「ウリコたちは日本のさまざまな選手と稽古をつけることで今の実力をつけることができたのだと、かねがねそのように語っていた。そんな話を聞かされたら、自分たちが黙っていられなくなるのも当然だと思う。それに自分たちは、ハナコやサキがとてつもない実力者であることも知った。シンガポールの滞在時に同行していたアイネも、あの年齢としては規格外の実力だと思う。あれだけの実力を持つ女子選手が十名以上も存在するというのなら、それは確かに得難い経験になるのだろうと思う。……だそうだわよ」
鞠山選手がグヴェンドリン選手の長い言葉を通訳し終えると、今度はエイミー選手が重々しい声音で語り始める。
「ただし、合宿稽古は二泊三日のスケジュールだと聞いている。さすがにそんな短い期間のために日本まで出向くのは非効率的なので、その前後に数日ずつプレスマン道場で出稽古をさせてもらいたく思っている。自分やランズがユーリと対戦することはしばらくないだろうし、ウリコとグヴェンドリンもまた同様だろう。こちらのトレーナー陣からはすでに了承を得ているので、どうか前向きに考えてもらいたい。……だそうだわよ」
「そ、それはもちろん、ユニオンのみなさんが参加してくれたら、こっちも頼もしい限りですけど……でも、本当にいいんすか? 自主的な出稽古ってことは、費用も自腹なんすよね?」
「教養の足りないあんたの言葉を伝える前に、わたいが説教させていただくだわよ。日本の男子選手なら、海外に自腹で出稽古に行くことなんてザラなんだわよ。ユニオンの三人はそれなりのファイトマネーをいただいてるだろうし、もともと裕福な家庭なんだわから、何も不思議な話ではないんだわよ」
そうして瓜子の不見識をたしなめてから、鞠山選手は通訳の役目を再開させる。するとまた、グヴェンドリン選手が発言した。
「自分たちは、それだけの価値があると判断した。それに、日本にはヤヨイコ・アカボシも存在する。あの怪物じみた強さは試合でしか味わえないという話だが、ウリコともユーリともあれだけの死闘を演じたヤヨイコ・アカボシには興味をかきたてられてならない。……ああもう、矢継ぎ早だわね。……また、仮に他の日本人選手が期待外れだったとしても、ユーリにウリコ、ハナコにサキが居揃っているだけで、自分たちには無駄にならないだろうと考えている。……だそうだわよ」
後半の言葉は、エイミー選手の弁である。
両名は真剣そのものの面持ちで、瓜子とユーリの顔を見据えている。ユーリはきょとんとした顔のまま何も語ろうとしないので、けっきょく瓜子が答えることになった。
「お二人のお気持ちは、わかりました。もちろん最後に決めるのは、プレスマン道場と赤星道場のトップの方々ですけど……自分個人はみなさんが日本に来てくださったら、心から嬉しく思います」
「本当に? どうか心を偽らず、正直に語ってもらいたい。……だそうだわよ」
「あはは。自分たちだってみなさんとの合同稽古がどれだけ有意義であるかは、この身体に叩き込まれてますよ。そんなの、嬉しいに決まってるじゃないですか」
そうして鞠山選手が瓜子の言葉を通訳すると、グヴェンドリン選手はぱあっと顔を輝かせて、エイミー選手はほっとしたように深々と息をついた。
「ありがとう。自分個人はまたウリコと再会できるだけで嬉しくなってしまうので、気持ちを引き締めるのが大変だった。……だそうだわよ。イノシシハーレム・インターナショナルバージョンも着実に勢力を広げてるだわね」
「そんな奇っ怪な組織は存在いたしません。ちなみに鞠山選手も、賛成してくれますよね?」
「ふふん。懸念があるとしたら、どこかの低能ウサ公が日本の恥をさらさないかどうかだわね」
人の悪いことを言いながら、鞠山選手はトロピカルな色合いをしたカクテルをすすった。
すると、黙然と食事を進めていたヌール選手が落ち着いた声音で発言する。
「自分は経済的な事情から、日本に同行することはできない。きっとユニオンMMAの面々は得難い経験を得るだろう。心から羨ましく思う。……だそうだわよ」
「そうっすね。自分もヌール選手をお招きできたら、嬉しいっすけど……旅費と滞在費だけでけっこうな額になっちゃうでしょうから、無理は言えないっすよね」
「自分は自分の道場で、《ビギニング》の王座を目指す。そして可能なら、《アクセル・ファイト》との正式契約も目指したいと考えている。ウリコとユーリも同じ姿勢であるのなら、心から歓迎する。……だそうだわよ。この娘っ子なら、きっとやりとげるだろうだわね」
言葉の内容の熱っぽさはグヴェンドリン選手たちにも負けていないが、ヌール選手のたたずまいはあくまで静謐だ。彼女が同じ階級であったならば、さぞかし大きな脅威になっていただろうと、瓜子はそんな感慨を噛みしめることになった。
そこで鞠山選手が、「おやおやだわよ」と声をあげる。
瓜子が何気なく振り返ると、鞠山選手はもともと眠たげな目をいっそう細めて、瓜子の背後に視線を飛ばしていた。
「危険なことはないだろうだわけど、いちおう用心しておくだわよ。立松コーチ、お客人だわよ」
「お客人? ……おいおい、いったい何事だよ」
別のテーブルで歓談に勤しんでいた立松が、こちらのテーブルに近づいてくる。
そして、背後を振り返った瓜子は思わず息を呑み――ユーリは、硬直することになった。
レストランに入ってきた黒い人影が、しなやかな足取りでこちらに近づいてくる。
その人物は、黒いパーカーのフードを目深にかぶっていたが――そのシルエットと足取りだけで、瓜子にもユーリにも正体が知れたのだった。
「ハイ、ピーチ=ストーム」
その人物はテーブルから少し離れた場所で立ち止まり、フードを背中にはねのけた。
その下から現れたのは、セミロングの黒髪をゆったりと束ねた、褐色の穏やかな笑顔であり――瓜子の想像に違わず、ベリーニャ選手に他ならなかった。
「パーティー、サイチュウ、シツレイします。イマ、スコしだけ、カイワ、オーケーですか?」
「カイワ! カイワとは、ユーリとお言葉を交わしていただけるということでありましょうか?」
ユーリは椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、そして全身でもじもじとした。
しかし、それ以外の面々はいくぶん張り詰めた面持ちになっている。鞠山選手も立松も、グヴェンドリン選手もエイミー選手も、他のテーブルのトレーナー陣も――ひとり変わらぬ姿を見せているのは、ヌール選手ぐらいのものであった。
「おしゃべりぐらいは、いくらでも楽しんでもらいたいところだがな。ただ、ちっとばっかり口出しさせてもらおうか」
と、立松が鋭く声をあげた。
「試合が終わればノーサイドで、いくらでも仲良くさせてほしいもんだよ。ただ、あんたは自分の稽古をほっぽってまでブラジルに居残って、桃園さんの対戦相手のコーチとセコンドを受け持った。何か物騒な目論見を持ってるわけじゃないって、証明できるかい?」
ベリーニャ選手の日本語は明らかに覚束なかったので、鞠山選手が立松の言葉を通訳した。
ベリーニャ選手は穏やかな笑顔のまま、「ハイ」と首肯する。
「ワタシ、ピーチ=ストーム、トクベツなキモち、ありますが……ワルいキモち、ありません。シンじる、オーケーですか?」
「……信じたい気持ちは、山々だがな。どうもこっちには、あんたの本心がわからないんだよ。どうしてあんたは同門でもない人間に、わざわざ桃園さんの攻略法を伝授することになったんだ?」
「ハイ。ワタシ、ピーチ=ストームのイマのツヨさ、シりたい、オモいました。でも、ワタシ、ピーチ=ストーム、シアイ、デキないので、アナ・クララ、キョウリョクしました。アナ・クララ、オッケーしたので、ワタシ、オモいつく、ピーチ=ストームのジャクテン、すべてオシえたのです」
誰よりも穏やかな面持ちのまま、ベリーニャ選手はそのように言いつのった。
そのしなやかな肢体には若鹿のごとき生命力があふれかえり、その眼差しは静謐そのものだ。瓜子はかねてより、ヌール選手はベリーニャ選手と雰囲気が似通っていると考えていたが――こうして間近で見比べると、備え持っている深みがケタ違いであった。
(昨日や今日は会場でニアミスしてるけど……こんなに間近で言葉を交わすのは、それこそ二年以上ぶりだもんな)
瓜子とユーリがベリーニャ選手と最後に言葉を交わしたのは、《カノン A.G》の最後の興行を終えた直後――三年前の十一月である。秋代拓海の悪質な反則行為で目を負傷したベリーニャ選手は、カリフォルニアに帰国する前にプレスマン道場に立ち寄ってくれたのだった。
「ピーチ=ストーム、『アクセル・ジャパン』、シュツジョウしました。でも、《アクセル・ファイト》でなく、《ビギニング》、ケイヤクしました。ワタシ、そのリユウ、シっています。……そのリユウ、しゃべる、オッケーですか?」
「知ってるんなら、こんな場で語る必要はないだろうが……ただ、何か誤解があったら面倒だな。猪狩、お前さんが確認してくれ」
「お、押忍」と、瓜子は慌てて立ち上がる。海外遠征にまで協力してくれている鞠山選手にはそれらの事情も通達済みであるので、その耳をはばかる必要もないわけだが――それでも、どこに誰の耳があるかもわからないので、用心するに越したことはないだろう。
そうして瓜子が身を寄せると、ベリーニャ選手はやわらかな表情のまま口を寄せてくる。こうまで接近すると、瓜子はベリーニャ選手が持つ温かな空気の中に呑み込まれてしまいそうだった。
「ピーチ=ストーム、シアイ、オわると、コキュウ、トまります。ピーチ=ストーム、ケンコウ、フアン、あるため、《アクセル・ファイト》、ケイヤクできなかった、キいています」
「……ええ、そうです。ベリーニャ選手は、誰からそんな話を聞いたんすか?」
「《アクセル・ファイト》のトップ、アダム・ブラウンです。リユウ、オシえなければ、ケイヤクハキする、ツタえたら、オシえてくれました。もちろん、ゼッタイ、ヒミツ、ジョウケンです」
契約破棄――ベリーニャ選手は《アクセル・ファイト》との契約を引き換えにしてまで、ユーリの現状を知ろうとしたのだ。
やっぱりベリーニャ選手は、ユーリにそこまでの思い入れを抱いているのである。瓜子は深く胸を満たされながら、身を引くことになった。
「……ベリーニャ選手がお聞きした情報に、間違いはないみたいです」
「そうかい。……で、桃園さんは《アクセル・ファイト》じゃなく《ビギニング》と正式契約を結びそうだから、今後もあんたと対戦するのは難しいだろうと考えて……そこでアナ・クララ選手に肩入れするってのが、よくわからねえ心理なんだよな」
「リユウ、さっき、イいました。ピーチ=ストーム、イマのツヨさ、シりたかったのです。アナ・クララ、サイショから、グラウンド、イドんでいたら、イチラウンド、シアイ、オわっていたでしょう。もちろん、ショウリ、ピーチ=ストームです」
ベリーニャ選手は、ゆったりとした声音でそのように語った。
「やっぱり、ピーチ=ストーム、ツヨいです。アイテ、ケガさせる、ミジュクですが……それでも、ツヨいです。ワタシ、ヤヨイコ・アカボシ、カてませんが、あなた、カちました。あなた、ミジュクですが……セカイイチ、ポテンシャル、モっている、ショウコです」
ユーリは、何も答えようとしない。
ただ、今ではもじもじとしておらず――そして、その純白の面にはとても穏やかな表情が浮かべられている。今にもそのまぶたが半分おりて、菩薩像のごとき静謐な表情を浮かべるのではないかと、瓜子は胸を騒がせてしまった。
「ワタシ、オナじコトバ、クりカエします。……ピーチ=ストーム、センシュをツヅけますか?」
それは、二年と数ヶ月前にもベリーニャ選手が口にした言葉である。
ユーリが昂ることなく「はい」とうなずくと、ベリーニャ選手はいっそう穏やかに微笑んだ。
「では、クりカエします。……フタリとも、センシュをツヅけていれば、いつかチャンス、クるはずです。そのヒ、タノしみ、しています」
「はい。ユーリも楽しみにしているのです」
あの日と同じように、二人は信頼しきった眼差しでおたがいの姿を見つめている。
二年と数ヶ月が過ぎ去っても、二人の思いが報われることはなかったが――それでもまだ、二人はおたがいの存在をあきらめていないのだ。ユーリとベリーニャ選手の双方が信念を貫こうと決意しているならば、誰にも邪魔立てをすることはできないのではないか――瓜子は何の根拠もなく、そんな思いを深く噛みしめることに相成ったのだった。