14 死闘の後
ユーリが変則的な膝十字固めを完成させるシーンまで披露したところで、モニターの映像はライブ中継に切り替えられた。
マットの上で半身を起こしたユーリは、きょとんとした面持ちで周囲を見回している。その姿に、瓜子は溜めていた息をつくことになった。
「試合の後は、いつも通りか。まあ、こいつも想定内だろ」
そんな風に言いながら、立松が瓜子の頭にふわりとタオルを投げかけてくる。瓜子は「押忍」と応じながら、頬を濡らしていたものをぬぐった。
「それにしても、最後の一分ぐらいはモーレツだったッスねー! あたしなんか寝技はちんぷんかんぷんだから、何が何やらサッパリだったッスよー!」
「多少の知識があるていどじゃ、ひよりんと同様だろうだわよ。……ただ、客の心を動かすには十分だったようだわね。さすが、柔術の国だわよ」
客席には、まだ絶大なる歓声が吹き荒れていた。
ユーリはサキの手で荒っぽく返り血をぬぐわれており、マットに伏したアナ・クララ選手は右膝に固定の器具を装着されている。鼻血も止まっていないアナ・クララ選手は、見るも無残な姿であった。
そんな中、勝利者インタビューが開始される。
また試合の後に意識を失ってしまったユーリはややしょんぼりした面持ちであったが、それでも懸命に応じていた。
『ユーリ、最後のスープレックスからグラウンドに至る展開には、誰もが息を呑んだことでしょう。そのスープレックスに至るまではディフェンスに徹していたようですが、あれはどういう意図だったのですか?』
『はいぃ。このまま立ち技勝負を続けると判定負けが確実なので、とにかく前進して組み合いに持ち込むべしという作戦をいただいたのですぅ』
『なるほど。途中で反撃できそうな場面もあったようですが、あえて攻撃しなかったわけですね?』
『はいぃ。ユーリは色んなことを同時に考えるのが苦手なので、防御と前進に集中していたのですぅ。あちこち殴られて痛かったですけど、どうしてもアナ・クララ選手と寝技の勝負がしたかったので……なんとかガマンできましたぁ』
『あなたは、実にユニークですね。驚くべきことに、あなたは今日の試合で打撃技を一発も当てていないのです。近代MMAの歴史において、フルラウンドで打撃技を一発も命中できないまま勝利を収めた選手というのは、前代未聞なのではないでしょうか?』
『うにゃあ。ユーリは打撃がへたっぴですのでぇ……お恥ずかしい限りですぅ』
『しかし、あなたはブラックスターのエースであるアナ・クララをも上回るグラウンドテクニックを持つことが証明されました。今後は、どのような目標をもって活動していくのでしょうか?』
『それは《ビギニング》との契約次第なので、ユーリにもわからないのですぅ。ただ……』
と、ユーリが視線をさまよわせた。
その向かう先は――担架に乗せられたアナ・クララ選手のもとにたたずむ、ベリーニャ選手の姿である。
しかしベリーニャ選手は、ユーリのほうを見ようとしない。
ユーリはぷるぷると頭を振ってから、無邪気な微笑を振りまいた。
『……ユーリはこれからもプレスマンのみなさんと一緒に、試合を頑張るつもりですぅ。それだけで、ユーリは幸せいっぱいですので……』
『ユーリ・モモゾノと、ウリコ・イカリ。プレスマン・ドージョーには、素晴らしいエースがそろっていますね。今後の活躍を期待いたします。……以上、日本が生んだ怪物級のストーム、ユーリ・モモゾノでした』
その言葉がポルトガル語に訳された時点で、客席は歓声の嵐である。
ユーリは最後にぺこりとお辞儀をしてから、ケージを下りた。
「かたや眼窩底骨折、かたや靭帯損傷で、ブラックスターは踏んだり蹴ったりだわね。まあ、プレスマンの怪獣コンビの相手を受け持ったのが、運のつきだわよ」
「試合の怪我は、恨みっこなしさ。桃園さんだって、もっとひどい怪我から復帰したんだからな」
「そうッスよ! あたしだって、いっつも顔面がボコボコッスからねー!」
ユーリの勝利で、控え室はわきかえっている。
そうしてユーリ当人が凱旋したならば、いっそうの賑わいがわきたった。
「桃園さんは、またしょんぼりしてるな。サキの言うことなんざ、気にするな」
「あうう。でもでも、どうしても試合の後はねむねむになってしまって……うり坊ちゃん、怒ってない?」
「そんなことで怒ったりしないって、なんべん言ったらわかってくれるんすか? 医療スタッフの方々からも、問題なしって言われてるんでしょう?」
「てゆーか、こいつは毎回スタッフが到着する寸前に目を覚ましやがるからなー。わざとやってるセンが濃厚だぜ」
「そ、そんなことしないよぉ。うり坊ちゃんは、信じてくれるよねぇ?」
「信じてますよ。とにかく、見事な一本勝ち、おめでとうございます」
瓜子が心からの笑顔を届けると、ユーリもようやくほっとした様子でふにゃんと微笑んだ。
「一本勝ちかぁ。ユーリはほんとに勝てたんだねぇ。アナ・クララ選手はものすごく寝技がお上手だったから、ユーリは夢のように幸せだったのだけれども……最後にはねむねむになってしまうから、アレが現実だったのかどうかわかんなくなっちゃうんだよねぇ」
「まごうことなき、現実っすよ。きっと世界中の人間が、ユーリさんのグラウンドテクニックに度肝を抜かれたでしょうね」
瓜子がそのように答えたとき、控え室のドアがノックされた。
誰かと思えば、ユニオンMMAの面々である。グヴェンドリン選手は屈託のない笑顔で、エイミー選手は仏頂面に熱情を隠しているような面持ちで、それぞれ入室してきた。
「コーチ陣に大会の終わりを待てと指示されたけど、我慢の糸が切れたそうだわよ」
鞠山選手が通訳するのを待つのももどかしい様子で、グヴェンドリン選手がさらに何事かを語った。瓜子に聞き取れたのは、「コングラチュレーション!」のひと言のみである。
「ウリコもユーリも素晴らしい試合だった。おたがいにピンチな展開があったぶん、心を揺さぶられてしまった。今日のVIPは二人で間違いないだろう。心から祝福する。……だそうだわよ」
「ありがとうございます。プレスマンもユニオンも全勝で、言うことなしっすね。よかったら、祝勝会のほうもよろしくお願いします」
「ああ。そして最後は、レベッカが勝利で締めくくるだろう。……だそうだわよ」
その言葉は、グヴェンドリン選手ではなくエイミー選手の発言であった。
その目は鋭い光をたたえつつ、モニターのほうを見やっている。そちらではすでに本日のメインイベントが開始されていたのだ。
《ビギニング》と《V・G・C》の、王者対決である。
現在は、レベッカ選手が相手の猛攻をなめらかに受け流しているさなかであった。
「レベッカは、本当に強い。現在の《ビギニング》でユーリに勝てる可能性があるのは、彼女だけだろう。……だそうだわよ」
「ああ。レベッカ選手のレベルの高さは、過去の試合で拝見したよ。本当に、絵に描いたようなオールラウンダーだよな」
立松がそのように応じると、エイミー選手は深くうなずいた。
「ストロー級のイヴォンヌも同様だが、彼女たちはとにかく防御が堅い。その上で、確かな攻撃力も備え持っている。これほど攻守に隙のないMMAファイターは、男子選手にもそうそう存在しないだろう。今日の試合でも、同じことが言えるかもしれないが……判定勝負ならレベッカ、一本勝ちならユーリという結果に終わると思う。……だそうだわよ」
すると、エイミー選手が珍しくもはにかむような笑顔を見せた。
「と、つい逸ってしまったが、今はユーリとウリコの勝利を祝福する時間だった。レベッカやイヴォンヌの攻略を考えるのは明日からにして、今日は今日の喜びを噛みしめてほしい。……だそうだわよ」
「はぁい。エイミー選手もグヴェンドリン選手もヌール選手も勝てたから、喜びも五倍増ですねぇ」
「……あんたの言葉も、通訳するべきなんだわよ?」
「いやーん。三週間の苦楽をともにしても、鞠山選手の牙城は突き崩せないのですぅ」
ユーリがふにゃふにゃ笑いながら身をくねらせると、その場には温かな笑い声が響きわたった。
「さて。レベッカ選手の試合はのちのちじっくり拝見するとして、帰り支度を始めるか。桃園さんも、そんな姿じゃ落ち着かないだろう」
ユーリの純白の髪や試合衣装には、タオルでもぬぐいきれない返り血がしみこんでいたのだ。いったんそちらに気が向くと、実に壮絶な姿であった。
まずはユニオンMMAの面々が退室して、次には男性陣が隣の控え室に移動する。血まみれのユーリにシャワーを譲った瓜子は、サキと鞠山選手と蝉川日和に囲まれながらモニターの試合をぼんやり観戦することになった。
モニターの様子に大きな変化はない。《V・G・C》の王者は凄まじい勢いで攻撃の手を出しているが、レベッカ選手は的確に防御しながら、時おりカウンターで反撃していた。
「確かにこいつは、うんざりするぐらい正攻法みてーだな。パワーもスピードもテクニックも一級品で、つけいる隙が見当たらねーや」
「きっとKOパワーも持ってるだろうに、それよりも堅実な勝利を狙うタイプだわね。ただ……実力差があれば、その限りではないんだわよ」
レベッカ選手は危なげなく戦っているが、その間に相手選手はどんどん動きが鈍っていく。スタミナの消耗のみならず、しっかりダメージも負っているのだ。
そうして二ラウンド目に突入し、瓜子がシャワーを浴びている間に、試合は終了した。レベッカ選手は最後まで一定のペースで試合を進めていたが、力尽きた相手がレバーブローのダメージから立ち直れず、KO勝利に終わったとのことである。
静まりかえった会場の中で、レベッカ選手は柔和な面持ちのまま勝利者インタビューを受けていた。
なんの昂りも疲労も感じさせない、泰然とした態度である。その眼差しは、巨大なゾウのように穏やかであった。
「うり坊もピンク頭も、まだまだ苦労しそうだわね。でもまあ、それも明日からのことだわよ」
「おー。身支度が済んだんなら、とっととずらかるか。ブラジルのチンピラに闇討ちされたら、かなわねーからなー。おら、とっとと野郎連中を呼んでこいや」
「はい! 承知したッス!」
蝉川日和が控え室を飛び出していき、男性陣が舞い戻ってくる。
レベッカ選手は勝利者インタビューを終えて、歓声のなか花道を引き返した。《V・G・C》の王者を下した彼女も、最後には祝福されたようだ。
「この陣営とすれ違うのも体裁が悪いんで、ちっとばっかり時間調節しておくか。荷物は俺たちが片付けておくから、お前さんがたは休んでおけ」
立松からそのように申しつけられた瓜子とユーリは、パイプ椅子に座したままぼんやりとモニターを眺めることになった。
客席の人々も、退場を始めているようである。ただし通路が混雑しているため、なかなか身動きが取れないようだ。
そんな中、リングアナウンサーが再びケージに姿を現す。
そして、そのかたわらには運営代表たるスチット氏の姿もあった。
「お、VIPの発表だわね」
本日のVIP――ビッグ・イニング・アワードというパフォーマンス・ボーナスの受賞者が発表されるのだ。恥ずかしながら、瓜子とユーリは日本大会とシンガポール大会で連続で受賞した身であった。
まあ、シンガポール大会は設立七周年大会であったためか、十名もの選手にボーナスが贈られたのだ。それならば、KO勝利と一本勝ちを収めた瓜子とユーリが含まれていても不思議はないのだろうと思われた。
それで今回は日本大会と同じく、五名の選手が受賞するようだが――そこでまた、瓜子とユーリの名が高々と宣言されたのだった。
他なる三名は、たったいま試合を終えたレベッカ選手と、《ビギニング》のアトム級王者を下したベアトゥリス選手、そしてプレリミナルカードで一本勝ちしたブラジル陣営のアトム級の選手であった。
「おやおや。うり坊とピンク頭は、これで三連続受賞だわね。ボーナスだけで総額九万ドルとは、お見それするだわよ」
「おー。どんな形で還元されるのか、楽しみなこったなー」
「じ、自分たちも還元したいんすけどね。なかなかネタが思いつかないんすよ」
もとより瓜子とユーリは、基本のファイトマネーが三万ドルであるのだ。それで毎回パフォーマンス・ボーナスで同額が上乗せされて――三試合分の総額は十八万ドルという、恐ろしい結果になってしまったわけである。また、瓜子に限っては本日の試合で、エズメラルダ選手のファイトマネーの三十パーセント分が上乗せされるのだった。
(まあ、来年の税金でどれだけ持っていかれるかわからないから、怖くてあんまりつかえないんだけど……それにしたって、道場には恩返ししたいよなぁ)
瓜子がそのように思い悩んでいると、鞠山選手がそっと顔を寄せてきた。
「余所のジムや道場では、ファイトマネーの何割かを徴収するシステムもあるんだわよ。でも、プレスマンはそういうシステムじゃないから、こういう際にはトレーニング用の器材や建物の修繕費なんかで還元するのが通例なんだわよ」
「あ、やっぱりそういうもんなんすね。でも、コーチ陣に相談しても、必要ないって言われちゃうんすよ」
「そういう相談は、道場のトップにするもんなんだわよ。会長からのお達しだったら、コーチ陣も従うしかないんだわよ」
確かに立松やジョンと異なり、篠江会長であればビジネスライクな姿勢で瓜子たちの援助を受け入れてくれそうだ。
瓜子は間近に迫った鞠山選手の平たい顔に、「ありがとうございます」と笑顔を返した。
「これでちょっとは気が楽になりそうです。本当に、鞠山選手のお力添えには感謝しています」
「ふふん。今日の勝利とともに、わたいの偉大さも噛みしめるがいいだわよ」
そんな言葉を残して、鞠山選手は身をひるがえす。
そのタイミングで、また控え室のドアがノックされた。
「うん? またユニオンのお人らか? ああ、俺が出るから、ひっこんでろ」
立松はいくぶん警戒心をあらわにしながら、速足でドアに近づいていく。すっかり通訳係が板についた鞠山選手は、乞われるまでもなく追従した。
然して、その向こう側に立ちはだかっていたのは――たったいま試合を終えたばかりの、レベッカ選手であった。
「突然の来訪、失礼する。ユーリ・モモゾノに挨拶をさせてもらいたい。……だそうだわよ」
「桃園さんに? 《ビギニング》の王者が、いったい何の用事なんだかな」
立松は眉をひそめつつ、ユーリを手招きした。
瓜子もユーリとともに腰を上げて、立松のかたわらに立ち並ぶ。汗をぬぐってウェアを着込んだレベッカ選手は、試合直後とも思えない穏やかさでユーリのきょとんとした顔を見つめた。
「自分とユーリ・モモゾノは、遠からぬ日に王座を懸けて対戦するだろう。その日を楽しみにしている。……だそうだわよ」
「そいつはずいぶん気の早い話だな。こっちは《ビギニング》三戦目で、この先もどう試合を組まれるかも未定なんだぜ?」
「しかし自分はシンガポールのトップファイターを一掃してしまったので、もはや国外の選手を挑戦者として迎えるしかない。その筆頭がユーリ・モモゾノなのだろうと考えている。……だそうだわよ」
鞠山選手が通訳を終えると同時に、レベッカ選手は右手を差し出した。
ユーリはいくぶん眉を下げながら、おそるおそる握手に応じる。しかしレベッカ選手も一瞬だけユーリの手を握り込むと、すぐに解放してくれた。
「対戦相手の候補者に挨拶をするというのは自分の流儀ではないのだが、ユーリ・モモゾノのエキサイティングな試合によって、いささか興奮しているのかもしれない。それでは、次の再会を楽しみにしている。……だそうだわよ」
レベッカ選手は何事もなかったかのように一礼して、身を引いた。
立松の手でドアが閉められると、ユーリは「ふいー」と息をつきながら鳥肌の浮いた手の甲を撫でさする。
「情熱的なのかそうでないのか、いまひとつわかりにくいお人であられたのですぅ。でもでも、レベッカ選手も寝技がお上手なのでしたら、いつか対戦させていただきたいものですねぇ」
「ふふん。王道のMMAファイターは、相手のストロングポイントにつきあわないのが鉄則なんだわよ。レベッカがあんたと対戦するなら、徹底的にグラウンド戦を避けるだろうだわね」
「むにゃー。それは物寂しい限りなのですぅ」
ユーリがしょんぼりしてしまったので、瓜子はついつい笑ってしまった。
「今日のアナ・クララ選手だって徹底的にグラウンドを避けてましたけど、最後には力ずくで引きずりこめたじゃないですか。ていうか、毎回そのパターンなんですから、誰が相手でも最後には寝技を楽しめますよ」
「ああ、言われてみればその通りだねぇ。ではではあらためて、レベッカ選手との対戦を心待ちにさせていただくのですぅ」
そう言って、ユーリは天使のように微笑んだ。
《ビギニング》の王者が相手でも、ユーリに変わるところはない。そんなユーリのたくましさに、瓜子はまた笑顔を誘われることになった。
かくして、《ビギニング》ブラジル大会は無事に終了し――三週間の苦楽をともにしたプレスマン道場の一行は、その締めくくりとして祝勝会に臨むことに相成ったのだった。




