13 静かなる行進
「まあ、序盤で劣勢になっちまうのは、いつものことと言えばいつものことだが……桃園さんの勢いをここまで綺麗に受け流されるってのは、ひさびさのことかもしれねえな」
「傍目には、ごく真っ当なMMAの試合に見えるんだわよ。つまりは、ピンク頭らしからぬ展開ってことだわね」
「でもユーリさんなら、ここからひっくり返してくれるッスよ! でかいダメージもなくて、元気いっぱいなんスからね!」
瓜子のセコンドたる三名は、そんな言葉で第一ラウンドの様相を表していた。
瓜子としても、大きな部分で異論はない。生粋のグラップラーと聞いていたアナ・クララ選手が立ち技に終始するというのはいささか意外であったものの、あちらにはベリーニャ選手がついているのだから、こちらが裏をかかれてもおかしいことはないはずであった。
ただ瓜子は、小さからぬ違和感を覚えてしまっている。
試合の様相そのものに大きな驚きはなかったし、ユーリの元気そうな姿にも安心しているのだが――何か、落ち着かない心地であるのだ。正体の知れない疑念が、小骨のように引っかかっている心地であった。
そんな中、第二ラウンドが開始される。
ユーリは元気いっぱいに進み出て、アナ・クララ選手はまた小刻みにステップを踏んだ。
まずはユーリのほうから、豪快かつ優美なるハイキックを披露する。
それが通りすぎるのを待ってから、アナ・クララ選手は鋭く踏み込んで左ジャブをヒットさせた。
いかにも軽い攻撃だが、もうこのジャブを何発ヒットされたかもわからない。ユーリの白い顔は、あちこちが赤らんでしまっていた。
ユーリはめげた様子もなく、キックのみのコンビネーションを発動させる。
そしてその最後に両足タックルを仕掛けたが、間合いが遠いために届かない。そうしてユーリがマットに突っ伏しても、アナ・クララ選手は距離を取ってグラウンド戦に入ろうとはしなかった。
「ふん……最初のハイキックと今のタックルは、グラウンドへの呼び水だな。基本の戦略では、相手の有利なポジションからグラウンドは始めさせないって方針だったはずだが……いよいよそうも言っていられなくなったんだろう」
「そうだわね。おそらくは、相手にグラウンド戦をする気があるかを探ろうとしたんだわよ。結果、あっちがグラウンド戦に入るつもりはさらさらないってことが判明しただわね」
「えー? 相手は生粋のグラップラーなんスよねー? それなのに、グラウンドの勝負を避けるんスかー?」
「ベリーニャ選手は桃園さんのグラウンドテクニックをわきまえてるだろうからな。もっとダメージを与えるまでは自重しようって方針なんだろう」
「そうッスかー。ユーリさんは寝技の勝負を楽しみにしてたのに、なんかお気の毒ッスねー」
「ふん。重要なのは、勝つことなんだわよ。なんなら立ち技で勝負が決まったって、こっちはいっこうにかまわないんだわよ」
アナ・クララ選手は時おりニータップのアクションを見せるが、得意の組みつきやタックルは完全に封印している。これは立松の言う通り、まだしばらくはグラウンド戦に転じるつもりがないということなのだろう。
そうして第二ラウンドに入ってからは、乱打戦も見せなくなっている。ひたすらステップを使ってユーリの周囲を回り、左右のジャブとカーフキックで翻弄しようという作戦だ。最近のユーリはカーフキックのディフェンスに力を入れていたので、ダメージを負った様子はなかったが――それでも、一方的に攻撃をくらい続けているのだから、よくない流れであった。
「……なんか、相手の攻撃も軽いし、スパーでも眺めてる気分ッスねー」
「ふん。ピンク頭が呑気な顔をさらしてるから、余計にそういう印象になるんだわよ」
鞠山選手のそんな言葉を聞いた瞬間、瓜子の内に生じた違和感の正体が知れた。
それを確認するために、瓜子は身を乗り出してユーリの姿を注視する。
折よく、ユーリの上半身が大きく映されて、その表情が見て取れた。
ユーリは、真剣な面持ちだ。鞠山選手は呑気な顔などと評していたが、ふくよかな唇をきゅっとすぼめて、いくぶん眉を寄せながら、右目を閉ざして相手選手を見据えている、スパーリングでもよく見せる、ユーリの集中した顔であった。
(何もおかしな顔つきじゃない。でも……)
山科医院から退院して以降、ユーリは試合中に常ならぬ表情をさらすようになった。
もともと眠たげな目に半分まぶたをおろして、とても静謐な眼差しで相手を見つめる、菩薩像のような表情――ユーリは毎回そんな顔つきで、勝利を収めてきたのである。
今回は、その表情になっていない。
真剣は真剣だが、スパーリングの際と同じ表情であるのだ。それは選手として、決して正しい姿ではないはずであった。
(アナ・クララ選手は、ユーリさんの攻撃だけじゃなく……気合とかそういうものまで、受け流してるってことなのか?)
瓜子がやきもきする中、ユーリがひさびさに猛烈なコンビネーションを見せた。
しかしそうすると、アナ・クララ選手は間合いの外に逃げてしまう。そしてユーリが最後に飛びつくようなタックルを見せても、カウンターを狙うことなく下がってしまった。
するとユーリは素早く仰向けの姿勢となって、アナ・クララ選手のほうに両足を開く。
しかしやっぱりアナ・クララ選手はグラウンド戦に応じず、ユーリに近づこうともしなかった。
「ここで足を蹴ろうとしないのは、足を潰すのが狙いでもないってわけだわね。これはいよいよ、ポイントゲーム説が濃厚になってきただわよ」
「そいつはあまりに、消極的だが……勝つためだったら、何でもありだな」
立松は口惜しそうに、自分の手の平に拳を打ち込む。
アナ・クララ選手が優勢であるために客席は歓声の坩堝であるが、そちらもやはり弛緩した雰囲気になっていた。アナ・クララ選手の攻撃がユーリにダメージを与えた様子がないため、物足りなく感じているのだろう。言ってみれば、アナ・クララ選手は観客の期待をも軽妙に受け流しているようなものであった。
そんな状態で、第二ラウンドまでもが終了してしまう。
ユーリは元気そのものだが、ポイントは完全にあちらのものだ。ユーリは次のラウンドで勝負を決めないと、判定負けが確実であった。
「……普通はこんな簡単に、桃園さんの勢いを受け流せるもんじゃない。やっぱり、ベリーニャ選手の指導がきいてるんだろうな」
「そうだわね。おそらくベリーニャは、ピンク頭のちょっとしたクセなんかもまるっと把握してるんだわよ。そのレッスンをきちんと自分の身にできるアナ・クララも、なかなかのもんだわね」
「そ、そんな落ち着いてていいんスか? あとは相手が逃げ回るだけで、判定負けになっちゃうんスよ?」
「外野が騒いだって、どうにもならないんだわよ。……うり坊は静かだわけど、意外に不安そうな面持ちだわね」
と、鞠山選手が横目で瓜子を見やってくる。
瓜子が何も答えられずにいると、鞠山選手は大きな口でにんまりと笑った。
「まあ、ピンク頭が信頼に値しない物体だってことは、わたいもわきまえてるだわよ。でもあの物体には、ジョンコーチとサキとお師匠様がついてるんだわよ? あの三人が手を携えたら、ベリーニャだって敵じゃないんだわよ」
「……そうだな。MMAってのは、チーム戦なんだ。総力では、こっちが圧倒してるだろうさ」
立松は自分に言い聞かせるように、そう言った。
瓜子もまた拳を握り込みながら、モニターを注視する。今の瓜子にできるのは、ユーリと三人のセコンド陣を信じることだけであった。
椅子に座ったユーリはドリンクボトルでくぴくぴと水分を補給しつつ、正面に膝を折ったサキの言葉を聞いている。そして背後のフェンスからは、ジョンとドミンゴ氏が笑顔で声を投げかけていた。
そうして『セコンドアウト』のアナウンスとともに、インターバルは終了する。
サキは椅子をひっつかんでケージの扉をくぐり、ユーリは天井を仰ぎつつ大きく息をつき――
次に顔を正面に向けたとき、ユーリの目が半分まぶたに閉ざされていた。
瓜子が胸をざわつかせる中、最終ラウンド開始のブザーが鳴らされる。
ユーリはすうっと拳を上げて、ぴょこぴょこと前進した。
真っ直ぐに背筋がのびた、アップライトのスタイルだ。なおかつ両手の拳が目の位置よりも高い、ムエタイ流の構えであった。
足もとは完全に後ろ足重心で、いっそうぴょこぴょことした足取りになっている。
そしてユーリは、そのままぐいぐいと前進していった。
ユーリはアップライトの上に後ろ足重心であるので、テイクダウンの防御を完全に捨てている。これは打撃技のカウンターに徹するために考案した構えであるので、相手がテイクダウンを仕掛けてこないと想定したのかもしれなかった。
しかしアナ・クララ選手は警戒心を剥き出しにして、ユーリから遠ざかろうとする。
これがカウンター狙いの構えであるということは、ユーリのこれまでの試合を研究していればすぐに知れることであるのだ。たとえ瓜子が対戦相手でも、この状態のユーリに自分から気安く仕掛けようという心持ちにはなれないはずであった。
ただ――そんなこれまでのスタイルとも、どこか違っている。
ユーリの足取りが、やたらと軽いのだ。ほとんど後ろ足一本でステップを踏んでいるような状態であるが、歩幅が大きく、とにかく相手に接近しようという意志をあらわにしていた。
「よしよし。いい具合に、おかしな感じになってきたな」
「ふふん。おかしな挙動で味方を安心させるんだから、つくづく因果な生き物だわね」
「インガでも何でもいいッスよ! とにかく、展開を変えることが一番ッスからね!」
ユーリがひたすら前進して、アナ・クララ選手はひたすら逃げ惑う。そんな構図が完成されたのだ。
するとすぐさま、客席からはブーイングが響きわたる。これはユーリではなく、アナ・クララ選手に対するブーイングであろう。愛国心やら地元愛やらが熱烈なるブラジルの人々でも、逃げ腰の選手には容赦なくブーイングを浴びせかけるのだ。
それで発破をかけられた結果なのか、アナ・クララ選手は逃げる過程で関節蹴りを繰り出す。
しかしユーリは前足にまったく体重をかけていないため、膝を蹴られても大きな支障はなかった。
そうして関節蹴りのためにステップが一歩遅れたため、両者の間合いがいっそう縮まる。ユーリは相手の間合いに踏み入ることにも、まったく躊躇しなかった。
アナ・クララ選手は、意を決した様子で右ストレートを射出する。
するとユーリは両腕のガードを閉ざして、それを跳ね返した。
しかし、カウンターの攻撃を出そうとはしない。
そしてユーリは、さらに前進したのだった。
アナ・クララ選手は、ほとんど駆け足で横合いに逃げ惑う。
その弱気な挙動に、また盛大なブーイングが響きわたった。
ユーリはめげた様子もなく、いっそうの勢いでアナ・クララ選手に肉迫する。
ガードの隙間から見えるその顔は、菩薩像のように穏やかで静謐だ。
いっぽうアナ・クララ選手は内心の知れない無表情だが、やたらと汗をかいている。ユーリの粛然たる前進にプレッシャーを受けていることは明白であった。
「なんか……ユーリさん、怖くないッスか? 殴ったり蹴ったりしようって気合が、まったく感じられないんスけど」
「ふん……それが、どうして怖いんだわよ?」
「いやー、なんか、刃物を持ったやつとやりあったときのことを思い出しちゃうんスよねー。そいつ、どんだけぶん殴られても刺したら勝ちだっていう気配をプンプンさせてて、めっちゃおっかなかったんスよー」
「ひよりんは本当に、荒くれた青春を送ってたんだわね。コーチ陣の苦労が偲ばれるだわよ」
「あ、いや! 昔の話! 昔の話ッスから!」
こちらの陣営が騒いでいる間も、ユーリは粛々と前進している。
相手が関節蹴りや前蹴りで食い止めようとしても、まるきり意に介さない。本当に、刃物で刺すことを狙っているかのような、不気味なる前進だ。
しかしその間も、着実に時間は流れている。
気づけば二分半が経過して、残りは半分である。どれだけ前進しようとも、ユーリはKOや一本を狙わない限り勝ちはなかった。
だが、そんなリスクと引き換えに、ユーリはアナ・クララ選手から平常心とスタミナを奪っている。
ひたすら逃げ惑うアナ・クララ選手はどんどん多量の汗をかき、足ももつれ始めていた。
「これだけずかずか間合いに入られたら、消耗して然りだわね。ピンク頭の打撃の破壊力を知ってれば、なおさらだわよ」
そんな風に言ってから、鞠山選手はいきなり瓜子の肩を小突いてきた。
「ただ、ようやく記憶の蓋が開帳されただわよ。ピンク頭のひたすら前進作戦ってのは、過去にも例があっただわね」
そう、瓜子もそのことを思い出していた。
すべての戦略を打ち砕かれてなすすべを失ったユーリが、防御を固めてひたすら前進する――それはかつての赤星弥生子との一戦でも見せていた姿であったのだった。
(あの弥生子さんですら、そのプレッシャーに耐えかねて大怪獣タイムを発動させることになったんだ。しかも――)
しかも、現在のユーリは大したダメージも負っておらず、スタミナも十分である。なおかつ、赤星弥生子との対戦はもう二年以上も前の話であるのだから、ユーリもさまざまな面でスキルアップしているのだ。その成果を示すかのように、ユーリはひたすら前進しながら相手の打撃技を無効化していたのだった。
「ただし、ここまで追い込まれれば、相手だって火がつくだわよ。それが、どういう結果を招き寄せるか――」
鞠山選手がそのように言ったとき、アナ・クララ選手がふいに足を止めた。
そして、ガードを固めるユーリに向かって、左右のフックを叩きつける。さらにはボディアッパーを繰り出し、左足にカーフキックを叩きつけ、また左右のフックを振るってから、勢いよく後方に跳びすさった。
おそらくは、何発かはクリーンヒットしたことだろう。
しかしユーリは、これまで通りの挙動で前進を再開した。
やみくもなラッシュを仕掛けたことで、アナ・クララ選手はいっそうスタミナを消費している。
そうして勢いのない右ストレートでユーリの前進を止めようと試みたが、それは両腕のブロックで弾き返された。
今のぬるい右ストレートであれば、ユーリも容易くカウンターの技を返せそうなところであったが――しかしやっぱり、ユーリは反撃に転じようとしない。ただ黙々と前進した。
試合時間は、三分を過ぎている。
あと二分足らずで、ユーリの判定負けは確定だ。
しかしアナ・クララ選手は消耗し果てており、会場には凄まじいまでにブーイングが吹き荒れている。
これは、一切の攻撃を切り捨てたユーリに対するブーイングでもあるのだろうか。ユーリはすでに三分以上も、まったく攻撃していなかったのだ。
そんな中、アナ・クララ選手がバランスを崩しながら前蹴りを射出する。
ユーリはぴょんっとインサイドに踏み込むことで、その前蹴りを回避した。
両者の身が、目の前に迫っている。
おたがいの胴体は、五十センチも離れていないだろう。どちらでも、簡単に相手の顔を殴れる距離であった。
アナ・クララ選手は不十分な体勢から前蹴りを出したところであるので、優位に立っているのはユーリのほうだ。
しかしそれでもユーリは攻撃しようとせず、さらに接近しようとした。
それで惑乱したアナ・クララ選手が、強引に身をよじってユーリの胴体に組みついた。
ユーリは高く拳を上げていたため、あっさりと両脇を差されてしまう。
双差しのポジションとなったアナ・クララ選手はユーリの背中でクラッチを組み、右足を引っ掛けて押し倒そうとした。
その瞬間、ユーリが上げていた腕をおろして、相手の両腕を外側から抱え込んだ。
相撲で言う、かんぬきの体勢だ。
さらにユーリは相手の内掛けをすかしてから、あらためて両足でマットを踏みしめて、優美な曲線を描く背中をのけぞらせる。
かんぬきの状態で相手を投げ飛ばす、ダブルアームサルト、あるいは極め反り投げと呼ばれるスープレックスであった。
両腕を抱え込まれたアナ・クララ選手は受け身を取ることもかなわず、顔面からマットに激突する。
そして次の瞬間にはユーリが身をひねり、グラウンドで上のポジションを取っていた。
相手に息をつく間も与えないまま、ユーリは両手でアナ・クララ選手の右腕をつかみ取り、両足ではさみこみ、横合いに倒れ込む。腕ひしぎ十字固めのアクションだ。
アナ・クララ選手は素晴らしい反射速度で身を起こし、顔にかけられたユーリの足を振り払い、上のポジションを取り返した。
するとユーリは、三角締めに移行する。
その前に、アナ・クララ選手はユーリに体重を浴びせて、三角締めを無効化した。
それと同時に、ユーリの純白の髪が朱に染まる。
顔面からマットに落ちたアナ・クララ選手は、大量の鼻血をこぼしていたのだ。
しかしユーリは菩薩像のように静謐なる面持ちのまま、アナ・クララ選手の首にかけようとしていた右足を振り上げて、頭部をまたぎこし、右肩の上から右腕を絡め取った。
三角締めから、オモプラッタに移行したのだ。
肩や肘を損傷する前に、アナ・クララ選手は前方に転がった。
その過程でユーリは右肩の拘束を解き、再び腕ひしぎ十字固めを狙う。
だが、アナ・クララ選手もマットに倒れた反動を利用して半身を起こし、再び上を取ろうとした。
その足もとに、ユーリは上半身をもぐりこませる。
その両腕が、アナ・クララ選手の右足を抱え込んだ。鞠山選手も得意とする、膝十字固めだ。
しかしアナ・クララ選手は凄まじい勢いで身をひねり、膝十字固めの脅威から脱しつつ、身を起こそうとする。
するとユーリはすぐさまアナ・クララ選手の右足を解放して、背中にへばりつこうとした。
しかしアナ・クララ選手もそれを予期しており、再び反転してユーリと正対し、上から覆いかぶさろうとする。
するとユーリも身をひねり、相手の左脇を差しながら、アナ・クララ選手をマットにねじ伏せた。
顔面からマットに落ちたアナ・クララ選手は、白いキャンバスにぶしゃっと赤い花を咲かせる。
その背中に、ユーリがのしかかろうとした。
しかしアナ・クララ選手はマットに押しつけられた顔面を支点に、強引に前方転回する。
その勢いに巻き込まれたユーリは、鮮血に濡れたマットに突っ伏した。
そして――恐るべき反応速度で身を起こしたアナ・クララ選手が、獣のような勢いでユーリの背中にのしかかる。
アナ・クララ選手の右腕がユーリの首に、両足が胴体に回されようとした。
そこでユーリは、自らの右膝を自分の胸もとにおもいきり引きつけた。
アナ・クララ選手の両足はユーリの右足ごと腰に絡んだが、それではロックもままならないため、下方に下がって左足を捕らえる。変則的な、ハーフのバックガードポジションだ。
しかしその間に、アナ・クララ選手の右腕はユーリの首を捕らえている。
ユーリは下顎を引いてガードしていたが、その下に前腕がもぐりこんだら、万事休すである。アナ・クララ選手の右腕はすでに肩まで回されて、チョークスリーパーの形を完成させつつあった。
アナ・クララ選手の返り血にまみれたユーリは、それでも菩薩像のごとき面持ちである。
そしてその手が、左足に絡みついているアナ・クララ選手の右足首を捕獲した。
さらにユーリはフリーであった右足でマットを踏みしめて、可能な限り前屈し――そこから後方に倒れ込むことで、アナ・クララ選手の右足を引き剥がした。
そんな中、アナ・クララ選手の右前腕がユーリの咽喉もとにもぐりこむ。
そして、ユーリに足首をつかまれたアナ・クララ選手の右足は――ユーリの股をくぐる格好で、弓のように反り返った。
変則的な、膝十字固めである。
アナ・クララ選手のチョークスリーパーがユーリの意識を奪う前に、ユーリの膝十字固めがアナ・クララ選手の膝靭帯を引き千切った。
アナ・クララ選手は獣のごとき絶叫をあげて、ユーリの首を解放する。
そしてユーリはレフェリーに肩をタップされてから、アナ・クララ選手の右足を解放し――その瞳がまぶたに隠されるのと同時に、試合終了のブザーが鳴り響いた。
その瞬間、怒号のような歓声が爆発する。
勝利したのは、ユーリであるのに――ブラジルの人々が、歓声をあげたのだ。
それは、ユーリとアナ・クララ選手の両名に送られた歓声であったのだろうか。
それぐらい、二人の寝技の攻防は凄まじい迫力に満ちみちており――瓜子もまた、いつしか涙をこぼしていたのだった。
そうしてユーリは天使のように安らかな顔で深い眠りに落ち、フェンスの扉からはベッドサイドモニタを抱えた医療スタッフが駆け込んできて――モニターには、すぐさまユーリの豪快なスープレックスの映像がスロー再生され始めたのだった。
 




