11 クールダウン
「まったく、ひやひやさせやがって! まさかグラウンドで決着をつけるとは予想してなかったぜ!」
立松はそんな風にわめきながら、瓜子の頭をタオルでかき回してきた。
集中力の限界突破から脱して虚脱の状態にある瓜子の身は、蝉川日和が横から支えてくれている。そしてパステルイエローのジャージを纏った鞠山選手は、眠たげなカエルのような顔で「ふふん」と鼻を鳴らした。
「まあ、パウンドでもKOはKOだわよ。十試合連続一ラウンドKO勝利、おめでとさんだわよ」
「い、猪狩さんは、十試合連続一ラウンドKO勝利なんスか!? ここ最近は外国人選手ばっかだったのに、マジですごいッスね!」
そんなセコンド陣の言葉が、くたびれ果てた瓜子の耳に遠慮なく飛び込んでくる。静まりかえった客席にはどよめきとざわめきがあげられていたが、やはり歓声などは皆無であるために会話の邪魔にはならなかった。
客席の人々はエズメラルダ選手の敗北を残念がるよりも、まずは驚くか呆れるかしているようである。エズメラルダ選手は左目下の眼窩底骨折のダメージが著しい上に、マットで後頭部を強打してしまったため、意識が戻ったのちも立ち上がることを許されず、そのひょろ長い身体を担架に乗せられていた。
いっぽう瓜子も、あまり安穏とはしていられない。今にも勝利者インタビューが始められそうな気配であったため、瓜子は声を振り絞ることにした。
「すみません……ドクターの手が空いたんなら、こっちも診てもらえますか……? 実は、左目に指が入ったんです……」
「なに? だからいきなり、動きが鈍くなったのか! 畜生め、ふざけた真似をしやがって!」
「まあまあだわよ。リングドクターは、わたいが呼んでくるだわよ」
リングドクターもまた《ビギニング》の人員であり、日本語は通じそうになかったのだ。鞠山選手がぴょこぴょことマットを横断してリングドクターを呼びつけて、瓜子の左目が診察された。
「多少の内出血が見られるが、他に異常は見当たらない。痛みはあるかね? ……だそうだわよ」
「いえ……もう時間が経ってるので痛みはありませんし、視界も良好です……」
「それなら、心配いらないそうだわよ。不安があったら明日にでも病院に行くべし。……だそうだわよ」
「押忍……ありがとうございます……」
そうしてリングドクターが身を引くと、リングアナウンサーおよび通訳の女性が近づいてきた。
熱っぽいざわめきの中、まずはリングアナウンサーが英語で問いかけてくる。それを客席の人々のためにポルトガル語に訳してから、ようやく日本語に訳された。
『ウリコ・イカリ。突然のキャッチ・ウェイトで戸惑うことも多かったかと思いますが、本日の試合は如何でしたか?』
『押忍……エズメラルダ選手がどういうコンディションだったのかはわかりませんけど……強かったことは、確かです。それに、エズメラルダ選手は独特のファイトスタイルなんで、序盤はやりにくかったです』
瓜子の返答も、英語とポルトガル語に訳される。
しかし、ブーイングの声があがることはなく、どよめきの質量が高まった。
『中盤ではテイクダウンを取られて、大きなピンチでしたね。やはりあれは、エズメラルダの独特な動きに惑わされた結果なのでしょうか?』
『いえ……エズメラルダ選手の指が目に入って、一瞬動きを止めてしまいました……たぶん故意ではないと思いますけど……エズメラルダ選手は荒っぽく動いて隙を作ることで、相手をインファイトに誘い込むスタイルなんで……その荒っぽい動きがアクシデントを招いたんだと思います……』
瓜子の返答に、一瞬だけブーイングが響きかける。
しかしそれは、すぐに元気なく立ち消えた。
『最後はサブミッションの仕掛けを次々に回避して、寒気のするようなパウンドで勝負を決めましたね。エズメラルダのサブミッションをあそこまで回避できた選手は、これまで存在しなかったように思います。ウリコはストライカーと聞きますが、寝技のトレーニングにも注力しているのでしょうか?』
『押忍……ストライカーだからこそ、寝技の稽古はおろそかにできません……うちの道場には凄いコーチと選手が居揃ってますから、そのおかげでエズメラルダ選手の寝技にも対処することができました……』
『ウリコは本日、十試合連続一ラウンドKO勝利という記録を達成したそうですね。その驚異的な強さに、心からの敬意を表します。……以上、ジャパニーズ・ガトリング・ガン、ウリコ・イカリでした』
通訳の女性がポルトガル語でそのように告げるなり、客席から歓声が爆発した。
他の《ビギニング》の陣営も、この時間には歓声を浴びていたわけであるが――それがどれほどの熱気をはらんだ歓声であったか、瓜子は我が身で体感することになった。
猛烈な勢いであったブーイングが、そのまま大歓声に転じたのだ。
瓜子の勝利を祝福してくれているのか、エズメラルダ選手の健闘をたたえているのか、楽しい時間を過ごせたことを喜んでいるのか、その内実はまったくわからない。ともあれ、それは日本やシンガポールの会場を凌駕する勢いであり――疲労の極みにある瓜子の心に、とてつもない誇らしさを与えてくれたのだった。
(本当に……ブラジルの人たちっていうのは、根っこからパワーが違うんだろうな)
そうして瓜子は蝉川日和に支えられたまま、花道を退場することになった。
入場口の扉をくぐり、長い通路を踏み越えて、控え室に到着する。とたんに、ユーリが大砲のような勢いでつかみかかってきた。
「うり坊ちゃん! 目に指が入っちゃったの? だいじょーぶ? 痛くない? ユーリのお顔、きちんと見えてる?」
ユーリは子供のような顔で、泣きそうになってしまっている。
瓜子は総身の力を振り絞って、「はい」と笑ってみせた。
「ドクターにも、問題なしって診断されましたよ……ユーリさんのお顔も、はっきり見えてますから……どうか泣かないでくださいね……」
するとユーリはそのまま瓜子の首っ玉にかじりつき、蝉川日和の手から瓜子の身を強奪しつつ、めいっぱいの力で抱きすくめてきた。
「よかったよぅ……うり坊ちゃんのおめめに万が一のことがあったら、どうしようって……ユーリはずっと、悪夢の中をさまよっているような心地だったのです……」
「心配かけちゃって、すみません……でも、たとえ目に怪我をしたって……ユーリさんを見習って、頑張るつもりですよ……」
ユーリは自身も目を負傷して視力を大きく損なった身であるため、こうまで過敏に反応してしまうのだ。そして瓜子もそれを察していたからこそ、痛くもない目をリングドクターに診察してもらったのだった。
「ったく、試合の直前にオタオタしやがって。目に指が入るなんざ、MMAでは日常茶飯事だろーがよ? 納得いったんなら、きりきりウォームアップを再開しやがれ」
サキはぶっきらぼうに言い捨てながら、ユーリの純白の頭を小突く。しかしその力加減も、普段よりはうんと優しいものであるように思えた。
ユーリは最後に瓜子の身をぎゅうっと抱きすくめてから、名残惜しそうに身を離す。そして、目もとににじんだものをぬぐいつつ、「えへへ」と笑った。
「取り乱してしまって、お恥ずかしい限りなのです。うり坊ちゃんは、どうぞゆっくり身を休めてほしいのです」
「押忍……ユーリさんも、頑張ってくださいね……」
そうして瓜子は蝉川日和に手を借りながら、マットに腰をおろすことになった。
しかし、虚脱の感覚はそれほどひどいものではない。今日は酸欠に陥ったわけでもないし、おかしな感覚の中で過ごしていた時間もごく短かかったのだ。二度にわたって集中力の限界突破を強いられたサキとの対戦を思えば、比較にならないほど安楽な状態であった。
「しかしまさか、サミングをくらってたとはな。どうも今回は、すっきりしない試合だったぜ」
立松は不満の声をこぼしつつ、瓜子の首筋や手足を氷嚢でマッサージしてくれる。その冷たさが、瓜子の意識をますます明瞭にしていった。
「でも、最後には勝てたんですから、帳消しっすよ。エズメラルダ選手のほうが、よっぽどダメージは深いでしょうしね」
「ああ、あれは間違いなく眼窩底をやってるだわね。頭をマットにつけてる状態でうり坊の肘打ちをくらうなんて、想像するだけで恐怖だわよ」
鞠山選手もまた、力感あふるる指先で瓜子の肩をマッサージしてくれた。
「それにしても、最後の攻防にはわたいもトラウマがフラッシュバックしただわよ。グラウンド状態でちびっこ怪獣タイムを相手取るのは、グラップラーにとって最大の悪夢だわね」
そういえば、瓜子がパウンドで試合を決めたのはこれが二度目であり、一度目はこの鞠山選手が相手であったのだ。
その懐かしさにひたりながら、瓜子はつい「あはは」と笑ってしまった。
「あの日は、お世話をかけました。……でも、エズメラルダ選手の動きは鞠山選手よりも遅かったっすよ」
「ふふん。六十キロ級の相手にスピードで負けてたら、お話にならないんだわよ」
鞠山選手はにんまりと笑いながら、瓜子の顔を覗き込んできた。
「早くも声に張りが戻ってきただわね。やっぱりちびっこ怪獣タイムは、発動時間の長さが回復の度合いにも関わってくるんだわよ?」
「どうやら、そうみたいです。サキさんはもちろん、レッカー選手との試合よりも楽な感じですね。……実際問題、やりにくさはありましたけど、自分的にはレッカー選手のほうが手ごわいっていう印象でした」
「それはおそらく、相性だわね。真っ当なムエタイの技しかないレッカーじゃ、エズメラルダを相手に勝ち目はないんだわよ。いっぽうあんたは、ピエロ女との連戦がいい経験になったみたいだわね」
「ああ、自分もイリア選手のことを思い出してました。どっちも長身で、タイプは違うけど一点特化のファイトスタイルですもんね」
「あんたはそれなりに正道の成長をしてるから、生半可な邪道スタイルじゃ相手にならないだわね。そこにちびっこ怪獣タイムまで上乗せされるから、厄介の極みなんだわよ」
そうして瓜子はのんびり語らいながら、クールダウンを終えることになった。
テイクダウンの前にくらった肘打ちや膝蹴りも、さしたるダメージにはなっていない。そういう面でも、レッカー選手との対戦のほうが苦労は大きかった。これならば、万全の状態でユーリの勇姿を見届けられそうなところであった。
そのユーリは、ジョンの構えたキックミットに優美なるミドルキックを叩きつけている。ユーリの出番は次に迫っていたが、第四試合が長引いているようであった。
「イヴォンヌ選手は、判定勝ちが多いからな。ま、そいつはのちのちゆっくり拝見しよう」
と、立松も瓜子の面倒を見るのにかかりきりで、モニターに目を向けようともしない。第四試合には瓜子と同じ階級であるストロー級の王者イヴォンヌ選手が登場していたが、どうせ《ビギニング》の試合は配信で視聴できるので、この慌ただしい時間にチェックする必要はなかった。
そうして瓜子がオレンジ色のウェアを纏い、パイプ椅子に移動したところで、モニターからブーイングの声が爆発する。最終ラウンドも終わりを告げて、判定勝負にもつれこんだのだ。それでブーイングがあがったということは、イヴォンヌ選手が優勢に試合を進めたのだろうと思われた。
また、モニターに映される両選手の姿からも、その事実がうかがえる。イヴォンヌ選手は汗だくの姿であったがにこやかな面持ちであり、いっぽう相手選手は顔中を赤く腫らしながら青息吐息であった。
「ふん。イヴォンヌ選手は判定勝負が多いが、そこまでディフェンシブなわけじゃないからな。ムエタイ出身だが穴のないオールラウンダーだし、王者の名に相応しい実力だろう」
すでにイヴォンヌ選手の過去の試合をさんざんチェックしている立松は、そんな風に語っていた。
そうして、ジャッジの判定は――ひとりが30対26、二人が30対25で、イヴォンヌ選手の圧勝である。三ラウンド通して相手を圧倒できるというのは、何よりも確かな実力を示しているはずであった。
「さて。それじゃあいよいよ、桃園さんの出番だな」
瓜子はパイプ椅子を温める間もなく立ち上がって、ユーリのもとに身を寄せた。
まずは、瓜子のセコンドを受け持ってくれた三名がユーリを取り囲む。
「心配なのは、ベリーニャ選手の存在だけだ。そっちに気を取られて、ポカをするんじゃないぞ」
「ふふん。ベリーニャがどんな策を授けたのか、お手並拝見だわね。ぶざまな姿をさらして、お師匠様の顔に泥を塗るんじゃないだわよ?」
「ユーリさん、頑張ってください! ユーリさんの打撃が一発でも当たったら、楽勝ッスよ!」
相手が生粋のグラップラーということで、セコンド陣の表情も普段以上に明るい。ユーリならば、相手の得意な寝技でも後れを取ることはないと信じているのだ。
「ベリーニャ選手がセコンドについてる以上、どんな手を使ってくるかわかりませんからね。ベリーニャ選手に、今のユーリさんの強さを見せつけてあげてください」
「うにゃあ。そんなにベル様の名前を連呼されたら、ユーリのお胸が千々に乱されてしまうのですぅ」
などと言いながら、ユーリはふにゃふにゃ笑っている。瓜子の目に対する心配も払拭できたようで、いつも通りのユーリであった。
そしてその拳もいつも通りの力強さで、瓜子の拳にぎゅっと押しつけられてくる。瓜子も回復の度合いを示すために、同じ力で応じてみせた。




