10 決着
瓜子はマットに倒れ伏し、生粋のグラップラーたるエズメラルダ選手に上を取られてしまった。
それも、サイドポジションである。わけもわからないままテイクダウンを奪われた瓜子は、ハーフガードのポジションを取ることさえかなわなかった。
しかしそれは、サミングの反則を基点にした結果である。
瓜子の左目はいまだちりちりとした痛みがあり、まともに開くこともできない。また、止めようもなく涙がこぼれているため、まぶたを開けたところで結果はあまり変わらなかった。
本来であれば、レフェリーにエズメラルダ選手の反則行為をアピールして、タイムストップをお願いするべき状況であった。
しかし瓜子は、声を出すこともままならない。サイドポジションを取ったエズメラルダ選手が、前腕で瓜子の咽喉を圧迫しているためである。
(くそ……とにかく、この状況から逃げないと……)
もしも瓜子がこのまま負けてしまったら、後で文句をつけても遅い。試合が終了してから反則行為が認められても、のちのち無効試合という裁定が下されるのみであるのだ。ひとたび試合終了のブザーが鳴り響いてしまったら、その後に試合を仕切りなおすことは絶対にかなわないのだった。
(逃げる稽古なら、死ぬほど積んできたんだ! そう簡単に、やられてたまるか!)
瓜子は下からエズメラルダ選手の手首をつかみ取り、まずは咽喉への圧迫の解除を試みた。
すると、エズメラルダ選手は逆の手で瓜子の手首をつかみ返してくる。その力感が、瓜子の背筋を粟立たせた。
男のように大きな手の平である。
もちろん彼女は百七十五センチという背丈であるのだから、手だって大きくて当然であるのだが――瓜子はまさしく、立松やジョンなどの男性トレーナーに手首を握られているような心地であった。
ユーリは怪力であるし、鞠山選手もかなりの握力だ。
しかし手のサイズは人並みであるため、これほどの圧迫は感じない。大きな手の平と長い指先で隙間なく手首を握られると、どれほど振り払っても逃げられないのが常であった。
(……だからって、あきらめるもんか!)
瓜子は、フリーであった左拳でエズメラルダ選手のこめかみを殴りつけた。
肘から先だけの力で打つ頼りない攻撃であったが、それでも瓜子の骨密度だ。エズメラルダ選手は追撃の拳を嫌がって、瓜子の上半身にべったりと覆いかぶさってきた。
その間も、瓜子の右手首を握ったままである。
何らかのサブミッションを狙っているのだろう。V1アームロックか、ストレートアームバーか、あるいは瓜子の見知らぬ技か――柔術黒帯のエズメラルダ選手であれば、このポジションからさまざまな技を繰り出せるはずであった。
(ただ、エズメラルダ選手はポジションキープを重んじるタイプじゃない。ポジションをひっくり返されても逆転できる自信があるから、どんどん技を仕掛けてくるはずだ)
そういう部分は、ユーリと共通している。
だから瓜子は、ユーリにも鞠山選手にもドミンゴ氏にも、過酷な寝技の稽古をお願いしていたのである。
あの地獄の時間を決して無駄にしてなるものかという決意を胸に、瓜子は次なるアクションを待ち受けた。
エズメラルダ選手は、じわじわと重心を移動させている。
瓜子の上半身に横からべったりとへばりついた体勢で、瓜子の右手首を左手で拘束しながら、瓜子の足側へと重心を移動させているようであった。
(今が暴れどきか……? いや、考えてる余裕なんかない!)
瓜子が制圧されているのは上半身で、腰から下は生きているのだ。エズメラルダ選手の挙動でそれを自覚した瓜子は、両足の膝を立てて、渾身の力で腰をバウンドさせた。
足の側に重心を移そうとしていたエズメラルダ選手の動きが、それで止まる。
そして今度は、右手首に圧力をかけられた。瓜子の右腕を、真横にのばそうという動きだ。
密着しているため、エズメラルダ選手がどのような体勢を取っているのかは、よくわからない。
しかし、腕をのばされるのは危険だ。どのような形であれ、肘を真っ直ぐ以上にのばされたら、そこで試合は終了であった。
瓜子は全力であらがったが、腕力ではかなわない。しかも相手は、両手を使える体勢であるのだ。二重の意味で、力比べは分が悪かった。
「相手は袈裟固めから、右腕のホールドを狙ってるだわよ! 腕をのばされる前に、相手の背中側に回るんだわよ!」
と――鞠山選手の声が、大歓声の隙間から響きわたった。
きっとこれまでも、懸命に声を張り上げていたのだろう。それが聞き取れないぐらい、瓜子の意識が狭窄していたのだった。
(袈裟固めから、腕のホールド……ヌール選手が得意にしてる、アレか!)
かつて鬼沢選手が血の海に沈んだ、恐るべき固め技である。
瓜子は心臓を騒がせながら、足の側にずっていき、相手の背中を狙えるポジションを目指した。
すると、エズメラルダ選手があらためて瓜子の上に覆いかぶさってくる。
瓜子の動きは封じられたが、右手首への圧力は弱まっていた。
「ニーオンを狙ってるだわよ! マウントよりも、腕のガードを死守だわよ!」
鞠山選手の声が響くと同時に、右脇腹に圧力をかけられる。
ニーオン――ニーオンザベリーを狙っているというのなら、これはエズメラルダ選手の膝だ。ここから腰をまたいでマウントポジションを狙うのが、ニーオンザベリーの常道であるが――鞠山選手は、それよりも腕のガードを重視しろとわめいていた。
(マウントポジションは不安定だし、エズメラルダ選手はサブミッションを仕掛けるタイプだから、どこかに逆転の目があるってことか)
しかし、それより早く腕の関節を取られたら、それで終わってしまうのだ。数秒遅れで、瓜子は鞠山選手の助言を理解した。
(だったら、むしろ……マウントを取らせたほうがいいのかもしれない)
今の体勢は視界が悪くて、エズメラルダ選手の挙動はつかみきれない。マウントポジションは圧倒的に不利なポジションであるが、そのぶん視界は開けるのだった。
そんな風に思考を巡らせながら、瓜子は大急ぎでまばたきをする。
すべての涙がこぼれ落ちて、視界の解像度が上昇した。
汗がしみて痛みが跳ね回るものの、左目の視力にも問題はない。時間が過ぎて、ようやく左目のダメージがおおよそ解消されたようだった。
今からレフェリーにタイムストップを求めても、きっと認められないだろう。
下手をしたら、ギブアップと誤認される恐れもある。このレフェリーは、日本語を扱えないのだ。瓜子の英会話レベルは最底辺であるので、こんな切羽詰まった状態での真っ当な意思疎通は期待できなかった。
(自力でグラウンドから脱出できれば、話を聞いてもらえるかもしれない。とにかく、ここから逃げるんだ)
エズメラルダ選手が、じわりと身を起こす。
それを待ち受けていた瓜子は、わずかな隙間から左腕を通して、両手をクラッチさせた。
それと同時に、右脇腹の圧迫が消失し、今度は腰が圧迫される。
エズメラルダ選手が瓜子の腰をまたいで、マウントポジションを取ったのだ。瓜子はその防御を放棄していたので、望んだ通りの結果であった。
エズメラルダ選手は内心の読めない無表情で、瓜子を見下ろしてくる。
その右手は、まだ瓜子の右手首をつかんだままだ。アームロックか、腕ひしぎ十時固めか、三角締めか――エズメラルダ選手の狙える技は、サイドポジションの折よりもさらに増加したはずであった。
(そのアクションに合わせて、エスケープする。あんたがユーリさんや鞠山選手より強いってんなら、その腕を見せてみなよ)
瓜子はぜいぜいと息をつきながら、心を研ぎ澄ました。
一ラウンドは、あとどれだけ残されているのか。最後に知覚したのは二分経過の宣言であったが、それから一分や二分は経過しているはずであった。
であれば、残りの時間も一分か二分ていどであろう。
その時間、エズメラルダ選手の攻撃を防ぎ、可能であればグラウンドから脱出する。瓜子はそのために、すべての力を注ぎ込む覚悟であった。
(後のことは、後で考える。今を切り抜けないと、後なんてないんだからな)
エズメラルダ選手は何かを試すように、瓜子の右手首をくいくいと引っ張った。
瓜子はしっかりとクラッチを組んで、有事に備える。
次の瞬間――エズメラルダ選手の姿が、消え失せた。
瓜子の右手首を捕らえたまま、左手の側に倒れ込んだのだ。
倒れ込みながら、瓜子の左腕を両足ではさみこもうとしている。彼女が選択したのは、腕ひしぎ十時固めであった。
そうしてエズメラルダ選手がマットに倒れ込む動きに合わせて、瓜子は上体を起こしている。限界いっぱいまで集中を研ぎ澄ましていたので、なんとかついていくことができた。
エズメラルダ選手が倒れ込む力をも利用して、瓜子は勢いよく身を起こす。
ただ不可思議であるのは、エズメラルダ選手が左側に倒れ込んだ一点である。彼女がつかんでいるのは右手首であるのだから、これではクラッチを解除しても腕ひしぎ十時固めは完成しなかった。
(でもとにかく、このアクションさえ防げれば――)
瓜子がそのように考えたとき、両手の先に強い摩擦の感覚が生じた。
瓜子の右手首を握っていたエズメラルダ選手の右手が、クラッチされた指先の上を通過して、左手首に移動したのだ。
それもまた、マットに倒れ込む勢いを利用しての所作である。
なおかつ、その過程でエズメラルダ選手の大きな手の平が瓜子の指先を蹂躙していき――その圧力が、瓜子のクラッチを解除させる一助となった。
エズメラルダ選手の両足にはさまれた瓜子の左腕が、真っ直ぐにのばされていく。
それが致命的な角度になる前にと、瓜子はエズメラルダ選手の上体にのしかかった。
すると、エズメラルダ選手の右足が瓜子の鼻先を通過して、外側に逃げていく。
腕ひしぎ十時固めから三角締めへの、コンビネーションである。
瓜子は死に物狂いで左肘を張り、今度は相手から上体を遠ざけた。
瓜子もユーリから同じコンビネーションを何度もくらった経験を有していたため、身体が無意識に反応してくれたのだ。
瓜子が身を引いたために、エズメラルダ選手の長い両足もクラッチを組めずに、三角締めは不発に終わる。
すると、瓜子の左腕に強い圧力がかけられた。
そこを支点に身体をひねり、また腕ひしぎ十時固めに戻ろうとしているのだ。
それもまた、瓜子の肉体に刻みつけられている記憶の通りであった。
そして、瓜子は――気づくと、右腕を振りかぶっていた。
スパーリングでは禁止されている、パウンドである。
パウンドさえ使えれば、ユーリの執拗な連続技からでも脱出できるのに――と、瓜子はスパーリングのたびにそんな思いを噛みしめていたのだ。
その無念を晴らさんとばかりに、瓜子の右腕が勝手に動いていた。
そしてその拳が、エズメラルダ選手の顔面に叩きつけられた。
硬い感触が、瓜子の拳から肩にまで走り抜ける。
瓜子はグラウンドの攻防のさなかであり、腰を屈めた不自由な体勢だ。なおかつ左手首を拘束されて、ろくに見動きも取れなかったが――エズメラルダ選手は後頭部をマットにつけた体勢であったため、瓜子の不自由なパウンドの衝撃がそのまま顔面に浸透したようであった。
その一撃で、エズメラルダ選手の左目尻から血が噴き出す。
しかし、エズメラルダ選手の目は死んでいない。その顔も動物めいた無表情のまま、瓜子の左腕を破壊するべく腕ひしぎ十時固めを完成させようとしていた。
このままでは、左腕をへし折られる。
瓜子がそんな危機感を抱いた瞬間――世界が、くっきりと明度を増した。
左目の回復にともなって鮮明になりつつあった世界が、突如として輪郭を際立たせる。これはまぎれもなく、集中力の限界突破とも言うべき現象であった。
(そういえば……レッカー選手とやりあってたときも、いきなりこの感覚に陥ったんだっけ)
しかし何にせよ、瓜子は為すべきことを為さねばならなかった。
エズメラルダ選手は右足をもとの位置まで戻して、瓜子の左腕をはさみこもうとしている。その右足を払いのけて、腕ひしぎ十時固めの脅威から脱するのだ。
その手順は、瓜子の身に刻みつけられている。
可愛くて憎たらしいユーリから刻みつけられた、痛みと苦悶の記憶である。エズメラルダ選手もまた、ユーリに負けないほどの鋭い動きを持っていたが――今のこの状態であれば、瓜子は正しい手順で逃げられるはずであった。
(それに、今だからわかるけど……ユーリさんより、一瞬だけ遅い。鞠山選手やドミンゴ先生に比べたら、もっと遅い)
それはおそらく、エズメラルダ選手が長身であるためなのだろう。長い手足は寝技においても有利な面が多かったが、ただ一点、小回りだけはきかなくなるのだ。
そのわずかな遅延が、瓜子に救いをもたらした。
瓜子はエズメラルダ選手の右足を払いのけ、正対し、腕ひしぎ十時固めの脅威から完全に脱することができた。
しかしエズメラルダ選手は、いまだ瓜子の左腕を抱え込んでいる。
そしてその指先の圧力が、次なる攻撃の予兆を伝えていた。
再びの三角締め――あるいは、オモプラッタ――あるいは、瓜子の見知らぬ技であろうか。
もしも瓜子の知らない技であれば、この状態でも対処できないかもしれない。
一瞬でそのように判じた瓜子は、再び右腕を振りかざした。
瓜子の左腕が、あらぬ方向にねじられていく。
それが痛みをもたらす寸前に、瓜子の右拳がエズメラルダ選手の顔面に届いた。
今回も、真っ直ぐ撃ちおろすパウンドだ。
横殴りのパウンドよりもこちらのほうが効果的であることは、先刻証明されている。瓜子の拳とマットにサンドイッチにされたエズメラルダ選手の頭蓋骨が、わずかに軋んだようであった。
しかし、左腕にかけられた圧迫は消え去らない。
瓜子は三たび右腕を振りかざし、そして今回は右肘を繰り出した。
この不自由な体勢であれば、肘打ちのほうがより効果的だ。
瓜子は腰を両足ではさまれたガードポジションを取られていたが、その体勢でかなう限り体重を乗せて、エズメラルダ選手の顔面に右肘を叩き込んだ。
さきほどよりもさらに明確に、頭蓋骨の軋む感触が伝わってくる。
そして、左腕の拘束もゆるんだ。
瓜子は上体を起こしながら、左腕にからみつくエズメラルダ選手の指先を振り払い、そして再び右の肘打ちを繰り出した。
左腕の拘束が解けた分、いっそうの威力でもって、肘打ちが炸裂する。
明らかに、骨の砕ける感触があった。
おそらくは、眼窩底の骨だろう。人間の頭蓋骨は強靭だが、眼窩底の骨は脆いのだ。
だが――それだけの痛撃をくらいながら、エズメラルダ選手は瓜子の右腕に指先をからめてきた。
彼女はまだ、試合をあきらめていないのだ。
であれば、瓜子も手をゆるめることはできなかった。
瓜子は上体を起こしながら、エズメラルダ選手の指先をもぎ離す。
そして、左腕を横合いから振りかぶった。
エズメラルダ選手は、真っ直ぐに瓜子の顔を見上げている。
その左目の下がじわじわと青黒く変色して、風船のように膨れあがっていくさまが、はっきりと見て取れた。やはり、眼窩底の骨が砕けたのだ。
同じ場所に右肘を落としたならば、より深刻な負傷になっていたかもしれない。
そうならなかったのは、誰にとっても幸いな話であった。
エズメラルダ選手は真っ直ぐ瓜子の顔を見上げているため、横合いから振るわれる左拳に気づいていない。瓜子は可能な限り腰をひねり この不自由な体勢で最大限の力でもって、エズメラルダ選手の下顎を真横から撃ち抜いた。
その瞬間、エズメラルダ選手の肉体がぐにゃりと弛緩する。
瓜子の腰をはさんでいた両足はマットに落ちて、下顎を撃ち抜かれた頭部はマットの上で何度か小さくバウンドした。
瓜子は脱力して、頭上を振り仰ぐ。
白いスポットの効果も相まって、世界がすみやかに白濁していき――瓜子の総身に、虚脱の感覚がどっしりとのしかかってくる。
しかし世界は、静寂に包まれたままだ。
そんな中、試合終了のブザーだけが冴えざえと鳴り響いた。