08 ガトリング・ガンとブラックスパイダー
瓜子がケージに足を踏み入れて、リングアナウンサーが選手紹介のアナウンスを開始すると、またブーイングが大歓声に切り替えられた。
エズメラルダ選手は飄然としたたたずまいで、その大歓声に身をひたしている。前日計量の場でも彼女はずっと取りすました顔をしていたが、これだけの熱狂をぶつけられても表面上の変化は見られないようだ。最後に彼女の名前がコールされて、いっそうの歓声が爆発した際にも、ひょろりとして見える長い腕をゆったりと持ち上げたのみであった。
そして、瓜子の紹介のアナウンスに移行したならば、もちろん大ブーイングの再来だ。
全方位から届けられるブーイングで、瓜子の肌がびりびりと震える。それは何だか、瓜子の肉体が懸命にブーイングを跳ね返そうとしているかのようであったが――瓜子の心のほうは、相変わらず心地好い熱だけが宿されていた。
やがて『ガトリング・ガン! ウリコ・イカリ!』という言葉で選手紹介が締めくくられたならば、瓜子も右腕を上げてみせる。ユーリを見習って、カメラの向こう側の人々に思いを伝えたつもりであった。
そののちに、瓜子はレフェリーのもとでエズメラルダ選手と相対する。
昨日の前日計量でも実物を目にしていたが、やはりこうして目前に迎えると、たいそうな身長差である。
瓜子は百五十二センチで、エズメラルダ選手は百七十五センチ――その差は、二十三センチだ。エズメラルダ選手は頭が小さくて頭身が高いため、瓜子の頭は相手の肩にも届いていなかった。
瓜子がこれほど身長差のある相手とやりあうのは、オリビア選手との対戦以来となる。当時から一階級上であったオリビア選手は、ちょうどエズメラルダ選手と同じ背丈であった。
ただし、当時のオリビア選手は試合前に五キロも絞っていなかったはずだ。
それならば、計量の際にはフライ級の規定である五十六キロ、リカバリーをしても六十キロていどの数値であり――ウェイトのほうも、現在のエズメラルダ選手と同程度であったということになるのだった。
(つまり、こっちはきっちり絞った状態で、フライ級の相手とやりあうようなもんだよな)
瓜子はかつて、フライ級の試合に三回だけ挑んでいる。
その相手は、オリビア選手、マリア選手、そして赤星弥生子という錚々たる顔ぶれであった。
ただその際はフライ級の試合であったため、瓜子は減量をせずに五十五キロていどのウェイトで挑んでいた。現在はドライアウトで落とした二キロ分だけリカバリーしたので、五十四キロていどのウェイトであり――つまりは、過去最大の体重差になるのだろうと思われた。
(エズメラルダ選手が減量に失敗していなければ、そんな細かいことをあれこれ考える必要はなかったんだけどな)
試合に向けた大歓声に身をひたしながら、瓜子はエズメラルダ選手の姿をじっくり観察させていただいた。
確かに昨日の前日計量より、さらに大きくなったように感じられる。昨日の段階では五十三キロ、今日の直近では六十キロオーバーという話であったのだから、それも当然の話であった。
エズメラルダ選手は頭が小さく、手足が長く、肩幅がせまい。それでひょろりとして見えるのは、オリビア選手と――あるいは、宇留間千花と同様であった。骨格もがっしりとしているのに縦長の印象であるというのが、それらの三名の共通点であった。
身幅はせまいが前後が分厚いため、円柱のような体型に見える。そういう点は、オリビア選手よりも宇留間千花に似ていた。
また、いくぶん垂れ気味の大きな目に、彫りの深い顔立ちと褐色の肌というのも、宇留間千花に似ていなくもなかった。異なるのは、ちりちりの短い頭を金色に染めていることだ。
どれだけひょろ長く見えても、やはり手足は瓜子よりも太い。そして、鞠山選手も語っていた通り、肌艶のほうも申し分なかった。過酷な減量を最後の一歩で放棄したことにより、コンディションも万全であるのだろう。不調な相手との対戦など望んでいない瓜子にしてみれば、願ってもない話であった。
エズメラルダ選手は『ブラックスター』というジム名がプリントされた黒いタンクトップとショートスパッツという姿で、飄然と立っている。
その飄々とした雰囲気も、オリビア選手や宇留間千花を思い出させてやまなかったが――ただ、にこやかな印象であった両名と異なり、エズメラルダ選手は取りすました無表情だ。
試合に対する気迫も、体重超過したことに対する申し訳なさも、何も感じない。無機的な鳥類を思わせるレッカー選手や、静謐な若鹿を思わせるベリーニャ選手およびヌール選手とも異なる、どこか動物のような――あるいは、虫のような眼差しである。
そういえば、彼女の異名は『ブラックスパイダー』というものであったのだ。それはおそらく長い手足で相手を絡め取ったら決して逃がさないというファイトスタイルに基づいているのであろうが、この内心の知れない雰囲気は蜘蛛の名に相応しかった。
(……でも、やる気がないわけじゃなさそうだな)
その証拠に、エズメラルダ選手と向かい合っているだけで、瓜子はどんどん心が研ぎ澄まされていった。
彼女はMMAばかりでなく柔術の試合にも出場する、生粋の柔術家であるのだ。この内心がうかがえない自然体の姿も、おそらくは武道家としての鍛練の結果であり――そこからにじみ出る無色透明の気迫に、瓜子の肉体が過敏に反応しているようであった。
レフェリーの身振りに応じて、瓜子はグローブに包まれた右拳を差し出す。
エズメラルダ選手はすました顔のまま、両方の拳で瓜子の拳に触れてきた。
試合に対する大歓声の中、瓜子は背後のフェンス際まで引き下がる。
すると、どんな大歓声にも負けない鞠山選手の特徴的な声が聞こえてきた。
「まずは、距離感だわよ! しっかり足を使いながら、自分の間合いをつかむんだわよ!」
それはきっと、立松の言葉を代弁してくれたのだろう。
瓜子は右腕を小さく上げて、セコンド陣の言葉に応えた。
そんな中、試合開始のブザーが鳴らされる。
瓜子はひとつ息を吐いてから、まずは尋常にケージの中央まで進み出た。
エズメラルダ選手もまた、無造作な足取りで進み出てくる。
両手の拳は胸の高さで、ずいぶん脇が開いている。完全に背筋をのばしたアップライトの姿勢で、足さばきはすり足であった。
これだけの長身でありながら、彼女が得意とするのはインファイトである。
相手を懐に呼び込んで、肘打ちや膝蹴りを狙うのだ。そうして相手を削りながら、上からかぶさってギロチンチョークを狙うか、強引に押し倒すか、あるいは自ら倒れ込んででもグラウンド戦に引きずり込むか――それが、エズメラルダ選手の常套手段であった。
(エズメラルダ選手はスタンド状態での移動を重視してないから、足を潰しても効果は薄い――ただし、グラウンドで足を器用に使うから、潰すに越したことはない、か)
コーチ陣の助言を頭の中で反芻しつつ、瓜子は前後と左右にステップを踏んだ。
エズメラルダ選手はすり足で小さく前後に動きつつ、瓜子にサイドを取られないように身体の向きを修正する。
そしていきなり、あちらから関節蹴りを繰り出してきた。
長い足を十全に活かした、遠い距離からの攻撃だ。
瓜子はバックステップでそれをかわしつつ、また左右にもステップを踏んだ。
エズメラルダ選手はインファイトを得意にしているが、遠い間合いからの攻撃も多用する。遠い間合いの勝負では、卓越した射程距離を持つエズメラルダ選手のほうが圧倒的に有利となるため、対戦相手は距離を詰める必要性に駆られて――そして、エズメラルダ選手の得意なインファイトに引きずり込まれるという寸法であった。
(あんな遠くから蹴られたら、こっちの攻撃なんて届くわけないもんな。……でもそう簡単に、相手の庭場には踏み込まないぞ)
瓜子はひとつだけギアを上げて、さらに細かくステップを踏んだ。
そして、遠い距離から大きく踏み込み、低い軌道で右ローを放つ。
ふくらはぎの下部を狙った、カーフキックだ。
するとエズメラルダ選手はキックの試合のように高く左足を持ち上げて、瓜子のカーフキックを完全に回避した。
彼女はテイクダウンをいっさい恐れていないため、一本足の不安定な姿勢を取ることにも躊躇いがないのだろう。そしてやっぱり遠い距離からの攻撃であったため、楽に回避できるようであった。
(もう半歩は近づかないと、当てられないな。慎重に探ってみよう)
そのとき、今度はエズメラルダ選手のほうが大きく踏み込んで、右ストレートを繰り出してきた。
決して鋭い攻撃ではない。瓜子であればそれをやりすごして懐に飛び込むことも容易であったが――それこそが、エズメラルダ選手の呼び水であった。
よって、瓜子はアウトサイドに踏み込むことでその攻撃をかわし、今度は左ローを射出する。
右ストレートを戻す不安定な体勢でも、エズメラルダ選手はひょいっと左足を持ち上げて瓜子の蹴りを回避した。瓜子の技量でも簡単にテイクダウンを狙えそうなほど、それは無防備な姿であったが――それもまた、エズメラルダ選手の呼び水であった。
(……絶対のフィールドを持ってる選手ってのは、やっぱり強いな)
エズメラルダ選手の絶対のフィールドとは、もちろんグラウンドである。
ポジションなども、いっさい関係ない。彼女はどれだけ不利なポジションからでも逆転できる技量を持っているため、自分から背中をつけて下のポジションを選ぶことのほうが多いぐらいであるのだ。
インファイトを得意にするのも、その絶対の自信があってこそである。いざとなったら寝転んでしまえばいいという切り札を携えて、彼女は遠慮なく肘や膝を振り回すことができるのだ。たとえインファイトで打ち負けても、彼女はその場に寝転ぶだけで有利な状況に持っていくことがかなうわけであった。
(あたしの目標は、その状況に持っていかせないことだ)
まず、グラウンドには絶対につきあわない。どれだけ有利なポジションが取れようとも、グラウンドになったらすぐに立って逃げる。これはもう、耳にタコができるぐらい言い聞かされていた。
次は、スタンド状態での組みつきを許さない。相手が得意のギロチンチョークはもちろん、いかなる組み合いもすべて突き放すべしと、瓜子は厳命されていた。
理想は、中間距離で戦うことである。
時には、インファイトに挑んでもいい。ただし、ギロチンチョークと組み合いを徹底的に回避するのが、絶対条件だ。
あとはその条件で、どれだけ相手にダメージを与えられるか。
深いダメージを与えれば、グラウンドでも相手の動きは鈍るだろう。それだけの確信を得られるまでは、とにかくスタンド状態で攻撃を当てることに注力しなければならなかった。
「一分経過だわよ! 落ち着いていくだわよ!」
また鞠山選手の声が聞こえてくる。
瓜子は心中で(押忍)と答えてから、いざエズメラルダ選手のもとに歩を進めた。




