06 メインカード
ウォームアップで育てた熱を逃がさないように軽く身体を動かしながら、瓜子は横目でメインカードの第一試合を拝見することになった。
メインカードの第一試合は、《ビギニング》のアトム級王者とベアトゥリス選手の一戦だ。
ベアトゥリス選手の厳つい顔がモニターに大映しにされると、サキが「ふん」と鼻を鳴らした。
「まさか、こいつのツラをもういっぺん拝むことになろうとはなー。こんなザコ女は、コーチ連中ともどもヴァーモス・ジムを追放されたかと思ってたぜ」
「ベアトゥリスは雅ちゃんに負けてすぐさま帰国したようだわから、その後の馬鹿騒ぎとは無関係だったようだわね。コーチ連中も身をつつしんでいれば、ヴァーモス・ジムに復帰できたんだろうだわよ」
それは、《カノン A.G》にまつわる逸話であった。《カノン A.G》の運営陣は《アトミック・ガールズ》の旧勢力を一掃するために、フレア・ジムという秘密のジムを準備したのだが――そのジムのトレーナーとして招聘されたのが、ヴァーモス・ジムの関係者であったのだ。そして、雅が相手取ったアトム級の両名、ベアトゥリス選手とアレクサンドラ選手もヴァーモス・ジムの所属だったのである。
チーム・フレアの頭目であった秋代拓海はブラジルで武者修行をした折に、ヴァーモス・ジムと縁を持ったらしい。それで《カノン A.G》の発足においては、ヴァーモス・ジムから数々の人材を引き抜くことになったのだ。
話がそれで終わっていれば、取り立てて問題はないのだが――しかし、フレア・ジムはのちのち、忌まわしいドラッグ・パーティーの会場に成り下がってしまった。
神聖なる格闘技のジムにそんな変貌をもたらしたのが、《カノン A.G》のリングアナウンサーであった馬城雅史なるラップチームのリーダーと、ヴァーモス・ジムから引き抜かれたトレーナー陣であったようなのだ。そうしてそれらの面々は千駄ヶ谷と荒本の暗躍によって悪行を暴かれて、全員仲良く逮捕されていたのだった。
「それに、ベアトゥリスは決して雑魚じゃないんだわよ。雅ちゃんの勇躍あって、ようよう打ち倒すことができたんだわよ」
「その毒蛇ババアが、こいつをザコ呼ばわりしてたじゃねーか。アタシは毒蛇ババアの妄言を支持してやっただけのこった」
「それは雅ちゃんの奥ゆかしいトラッシュトークだわね。あの時代から、ベアトゥリスは立派なトップファイターだったんだわよ」
サキと鞠山選手が語る中、第一試合は開始されて――序盤から、激しい打撃戦が展開された。
ベアトゥリス選手は、雅を圧倒できるほどの打撃技を持っているのだ。雅が必殺の肘打ちを炸裂させていなければ、あの試合もどう転んでいたかわからなかった。
それに対して、《ビギニング》のアトム級王者はなかなかスマートに戦っている。ベアトゥリス選手の猛攻を上手く受け流しながら、自分の攻撃を当てることができているようだ。パワーと勢いはベアトゥリス選手、技術とスピードは《ビギニング》の王者という様相であった。
(世間的な評価は、ベアトゥリス選手のほうが格下ってことになってるんだよな)
メインカードに出場する《ビギニング》の王者の内、互角以上の相手をぶつけられたのはバンタム級のレベッカ選手のみであると聞き及んでいる。それ以外の三名には花を持たせられるように、格下の対戦相手があてがわれたという話であったのだ。
しかしまた、プレリミナルカードではその構図が逆転している。《ビギニング》の王者ならぬ四選手には、格上の選手がぶつけられているのだ。
しかし、そちらで敗北を喫したのは、アトム級の選手のみである。グヴェンドリン選手とエイミー選手とヌール選手は下馬評をくつがえして、見事に勝利を収めてみせたのだ。
よって、メインカードに出場する三名の王者たちも、決して楽な相手をぶつけられたわけではないのだろう。
その事実を示すように、試合は互角の様相を呈していた。
「ブラジル女は、なかなかのスタミナだなー。あいつはもう三十路間近だったっけか?」
「たしか、今年で二十八歳の世代だっただわね。女子選手の全盛期は個人差が大きいだわけど、今が全盛期でもおかしくないお年頃なんだわよ」
どれだけの反撃をくらっても、ベアトゥリス選手の勢いは止まらなかった。
すると、《ビギニング》の王者のほうがじわじわと動きを落としていく。明らかに、相手の勢いに押されている様子だ。上手く反撃できているのにベアトゥリス選手の勢いが落ちないものだから、精神的にもプレッシャーを受けているのかもしれなかった。
そして、客席に渦巻くのは、ベアトゥリス選手に対する大歓声だ。
きっとブックメーカーのオッズでも、ベアトゥリス選手のほうが不利であるとされているのだろう。客席の人々こそ、そんな下馬評がくつがえされることを熱望しているはずであった。
《ビギニング》の王者は流れを変えようとばかりにベアトゥリス選手に組みつき、壁レスリングに持ち込もうとする。
しかしベアトゥリス選手は首相撲で迎え撃ち、強烈な膝蹴りを叩き込んでから、相手を突き放した。
《ビギニング》の王者は脇腹にダメージを負った様子で、逃げようとする。
すると、ベアトゥリス選手がいっそう勢いづいた。ベアトゥリス選手は、前に出ることで勢いが増すタイプであるのだ。
「よくねーな。今の攻防で、ポイントが傾きそうだ」
「そうだわね。ここは防御に徹して、次のラウンドに勝負をかけるべきだわよ」
鞠山選手の言葉が聞こえたかのように、《ビギニング》の王者は防御に徹して一ラウンド目をしのいだ。
そうして二ラウンド目が開始されると、驚異的な回復力を見せて、足を使い始める。やはり《ビギニング》の王者というのは、伊達ではなかった。
しかしベアトゥリス選手は、不屈の闘志でそれを追いかける。
きっと大歓声が、ベアトゥリス選手に力を与えているのだろう。こちらはこちらで、驚異的なスタミナであった。
だが、《ビギニング》の王者は見事なステップワークでもってベアトゥリス選手の突進を受け流し、また上手い具合に自分の攻撃を当て始めた。
KOに繋がるような攻撃ではない。しかし着実に、ポイントを稼げる攻撃だ。どうやらこの選手は、ポイントゲームを得意にしているようであった。
(まあ、階級が軽ければ軽いほど、KO率は下がっていくもんだしな)
最近の《アトミック・ガールズ》のアトム級はKO決着が多いので忘れがちであるが、それはサキたちが規格外なのである。体重が軽ければ攻撃も軽くなるので、本来はアトム級でKO決着などそうそう目指せるわけもないのだった。
なおかつ、外国人選手というのは、日本人選手よりも頑強な肉体を持っている。肉体が頑強であれば攻撃力も増すのであろうが、この両名に関しては耐久力の増加のほうが明らかにまさっている。おたがいが頑丈であるために、いっそうKO決着は難しいように思われた。
そうしてベアトゥリス選手も数々の攻撃をくらいつつダウンにまでは至らず、第二ラウンドも終了する。
客席の人々は、劣勢に終わったベアトゥリス選手を鼓舞するように声援を張り上げていた。
そして、決着の第三ラウンドである。
ポイントはひとつずつ取り合ったので、このラウンドで優勢を取ったほうが勝利するはずだ。客席はブラジル一色であるが、ジャッジを担当するのはいずれも《ビギニング》の関係者であるため、いわゆるホームタウンディシジョンの心配はなかった。
《ビギニング》の王者は第二ラウンドと同様に、足を使っている。
自分のペースで試合を進められたので、スタミナの消費も最小限で済んだのだろう。いっぽうベアトゥリス選手のほうもダメージを感じさせない勢いで突進していた。
「なかなか長引いてるな。熱を入れすぎないように、気をつけろよ?」
厳しい顔をした立松に、瓜子は「押忍」と応じる。瓜子の出番までにはもう一試合あるので、ウォームアップの過剰に注意しなければならない時間帯であった。
ユーリのほうは意気揚々と、ひたすらストレッチに励んでいる。第一試合は立ち技に終始しているので、無関心な様子だ。
などと、瓜子が考えていたら、ユーリがふいにぴょこんと首をもたげた。
何事かと思ってモニターのほうを振り返ると、いきなりグラウンド戦に移行している。上になっているのは、ベアトゥリス選手であった。
「今のは、上手かっただわね。相手もテイクダウンの警戒がおろそかになってただわよ」
「さすがに脳ミソは疲れ始めたか。この一発が、勝負を分けそうだなー」
ベアトゥリス選手はどっしりと相手にのしかかり、小刻みなパウンドを繰り返している。グラウンドでは、なかなか堅実なタイプであるようだ。しかしその厳つい顔には、決して相手を逃がしてなるものかという気迫がみなぎっていた。
客席は、もう大変な騒ぎである。試合時間はすでに半分を過ぎているので、このテイクダウンは大きいはずであった。
《ビギニング》の王者も懸命に跳ね返そうとしているが、ベアトゥリス選手が堅実であるために隙がない。やはりパワーや重量は、ベアトゥリス選手のほうがまさっているのだ。きっとリカバリーで数キロ分の差があるのだろうと思われた。
そんな状態が一分ほど続くと、膠着状態と見なしたレフェリーが『ブレイク!』と告げる。
ベアトゥリス選手の有利なポジションが解消された形であるが、客席には大歓声が巻き起こっている。そのさまに、蝉川日和が小首を傾げた。
「あのまま上のポジションだったら、ブラジルのほうが判定勝ちだったんスよねー? ブレイクされちゃって、お客さんは不満じゃないんスか?」
「最近は柔術の本場であるブラジルでも、寝技より立ち技のほうが好まれてるようだわね」
「おおう、それは嘆かわしい限りですにゃあ。寝技ラブのユーリはしょんぼりなのですぅ」
「それは最近のMMAがポジションキープに偏向してるせいで、試合が膠着するからだわよ。寝技の魅力を伝えたいなら、命尽きるまで動きまくるんだわよ」
「それならユーリは、最初から最後までくるくる動きたおす所存であるのです!」
ユーリがあまりに無邪気なものだから、瓜子はついつい笑ってしまった。
そしてモニターでは、最後の激闘が繰り広げられている。両名ともにグラウンド戦でスタミナを消耗したらしく、精彩に欠いている。どれだけの大歓声を浴びてもない袖は振れないようで、けっきょくそのまま時間切れと相成った。
グラウンド戦で長きのポジションキープに成功したベアトゥリス選手が三ラウンド目のポイントを奪取し、結果は三者が29対28で青コーナーの勝利である。
客席には、ここぞとばかりに何回目かの大歓声がわきたった。
ベアトゥリス選手は精魂尽き果てた様子だが、それでも両腕を振り上げて観客たちに応えている。その姿に、鞠山選手が「ふふん」と鼻を鳴らした。
「今日のわたいたちは《ビギニング》陣営だわけど、かつて雅ちゃんに負けた相手が大舞台で勝利を収めるというのは、なかなか悪くない気分だわね。雅ちゃんももう何年か活動できてたら、きっと世界に羽ばたけたんだわよ」
「あんなババアにそんな余力があるわけねーだろ。ババアはババアらしく、縁側で茶でもすすってろってんだ」
「おやおや。まだ公衆の面前でヴェーゼを奪われた恨みが解消されてないんだわよ?」
「……よし、表に出ろや。おめーも隠居入りさせてやらー」
「セコンド同士で騒ぎを起こすな。鞠山さんも、そろそろこっちに集中してくれ」
立松が苦笑しながら取りなしてくれたので、なんとか血を見る騒ぎにはならなかった。
しかし何にせよ、かつて雅に敗北したベアトゥリス選手が、この大舞台で《ビギニング》の王者を下したのだ。実のところ、瓜子もどちらかといえば鞠山選手に近い心情であった。
(もちろんあれから三年近くも経ってるんだから、ベアトゥリス選手も力をつけてるんだろうけど……雅さんだってもうちょっと若かったら、世界に進出できたんじゃないかな)
しかしそれは、来栖舞や兵藤アケミや数々の選手たちも同様である。勝負の世界にたらればは禁物であるし、生まれた時代などは誰が何と言おうともひっくり返すすべはなかったのだった。
だからこそ、今の時代を生きる瓜子やユーリが、さまざまな人々の思いを背負って試合に臨むのである。
自分の試合を目前にして、瓜子はそんな思いを新たにすることになったのだった。




