05 二人の王者
開会セレモニーが行われる午後の七時が近づくと、瓜子とユーリはスタッフの案内で入場口に向かうことになった。
インターバルは一時間以上にわたったので、瓜子のウォームアップはすっかり完了している。最初の二試合が秒殺で終わっても、瓜子は万全の状態で試合に臨めるはずであった。
そんな瓜子のかたわらで、ユーリは散歩を目の前にしたゴールデンリトリバーのようにそわそわと身を揺すっている。試合の日にはいつも幸せそうなユーリであるが、本日は相手が生粋のグラップラーである上にベリーニャ選手から指導を受けているとあって、いっそう夢見心地であるようであった。
そうして瓜子たちが、それぞれ熱い心地で開会セレモニーの開始を待ち受けていると――同じ場所にたたずんでいた選手のひとりが、近づいてきた。
本日のメインイベントに出場する《ビギニング》の女子バンタム級王者、レベッカ・ジア・タン選手である。
昨日の前日計量で初めて間近から姿を拝んだ相手であるが、その際にも口をきくことはなかった。そんなレベッカ選手がなめらかな英語で何かを語り、付添として同行していたジョンがそれを通訳してくれた。
「エズメラルダ・コルデイロのウェイトをリークしたのは、ジブンたちのジンエイだ。ヨかれとオモってのコウドウだったけど、ウリコのプレッシャーになっていないかシンパイになったってイってるねー」
「あ、そうなんすか。別にプレッシャーにはなってないんで、お気遣いなくとお伝えください」
「うん。もうツタえたよー。どうやらレベッカも、エズメラルダのタイジュウチョウカにハラがタったみたいだねー」
ジョンはそのように語っていたが、レベッカ選手の顔は平静そのものであった。
レベッカ選手はすらりと背が高くて、実に均整の取れた体格をしている。噂によると、非の打ちどころがないオールラウンダーで、MMAを始めてから無敗の戦績を収めているらしい。
レベッカというのは英国名であるが、おそらく生粋の中華系であるのだろう。シンガポールでは、英国名をつける人間が増加しているという話であるのだ。グヴェンドリン選手やエイミー選手も、おそらくは英国名なのだろうと思われた。
よって、レベッカ選手も黒髪に黒瞳で、黄白色の肌をしている。これといって特徴のない柔和な面立ちで、首から上だけを見たならばファイターとも思えないぐらいであった。
「ジブンはあまり、ガイブのセンシュにカンショウしたくない。でも、エズメラルダのやりかたはどうしてもキにクわなかったので、クチをはさまずにいられなかった。どうかキをワルくしないでほしいってイってるねー」
「押忍。気は悪くしてません。……って、きっともう伝えてるんでしょうね」
「うん。ウリコはそんなコトでキをワルくしたりはしないからねー」
ジョンののんびりとした返答に、瓜子はつい笑ってしまう。
すると、レベッカ選手も口もとをほころばせた。
「ウリコがホントウにヘイジョウシンなようで、アンシンした。それに、とてもミリョクテキなエガオだってイってるよー」
「いえいえ、とんでもない。とにかく自分は平常心で頑張りますんで、レベッカ選手も頑張ってくださいとお伝えください」
ジョンはにこにこと笑いながら、レベッカ選手に英語で語りかける。
すると別の方向から、また別の選手が声をあげた。
こちらは小柄だがずんぐりとした体型で、褐色の肌をしている。アーモンドの形をした大きな目に、大きな丸っこい鼻と、ふっくらと厚みのある唇――ちょっとユーモラスで、とても愛嬌のある顔立ちだ。この人物こそ、瓜子と同じストロー級の王者である、イヴォンヌ・デラクルス選手であった。
「えーと、そちらのユーリはいずれレベッカのオウザにチョウセンするセンシュなのに、そのジンエイとナカヨくおしゃべりをするなんてフトコロがフカいってイってるねー」
いきなり名前を出されたユーリは、「ほえ?」と小首を傾げる。
その間に、年配のトレーナーが厳しい面持ちでイヴォンヌ選手に語りかける。イヴォンヌ選手は、悪戯が見つかった子供のような顔で肩をすくめた。
「イヴォンヌはいずれウリコのチョウセンをウけるタチバなんだからナれアうなって、コーチにチュウイされちゃったねー。イヴォンヌのジムは、そういうコトにキビしいみたいだねー」
イヴォンヌ選手が所属しているのは、シンガポールの三大勢力であるプログレスMMAである。かつてユーリが対戦したイーハン選手や宇留間千花に惨敗したシンイー選手なども所属する名門ジムであった。
ただしイヴォンヌ選手はシンガポールでなく、フィリピンの生まれである。故郷でボクシングとムエタイを習得し、まずは《ビギニング》のムエタイ部門にスカウトされたのち、早々にMMAへと転向して、十分なファイトマネーを獲得できるようになってから家族ごとシンガポールに移住して、プログレスMMAに移籍したという来歴であった。
そういったプロフィールを調べあげたのは、もちろんプレスマン道場のトレーナー陣である。瓜子たちが《ビギニング》に参戦したことにより、同じ階級の王者については入念に調べあげることになったのだ。瓜子にとってはこのイヴォンヌ選手が、ユーリにとっては先刻のレベッカ選手が、それぞれ未来の目標になり得るわけであった。
(でも、今はそれより目前の試合だからな)
瓜子がそのように考えたとき、ついに開会セレモニーの開始が告げられた。
青コーナー陣営のベアトゥリス選手が入場したらしく、壁を震わせる勢いで大歓声が響きわたる。
そしてこちらから《ビギニング》のアトム級王者が入場すると、その大歓声が同じ勢いでブーイングに変じた。
第二試合のフライ級の選手の入場でも同じ現象が繰り返されて、その次が瓜子の出番となる。
瓜子が笑顔のユーリと拳をタッチさせてから扉をくぐると、予想に違わないブーイングが総身に降りかかってきた。
(うん。自分だけブーイングがなかったら、それこそ落ち着かないからな)
瓜子はそれなりに満足な心地で、花道を突き進む。
しかし、その一歩を踏み出すごとに、ブーイングの圧力が強まっていった。
会場に押し寄せた一万三千人の過半数が、瓜子にブーイングを浴びせかけているのである。同規模の歓声を受けた体験はあっても、これほどのブーイングというのは人生初のことであった。
これだけ大勢の人間が、エズメラルダ選手の勝利を願い――そして、瓜子の敗北を願っているのである。
その甚大なる圧力に、瓜子は思わず口もとがゆるみそうになってしまった。
(やっぱり……あたしはこういう逆境が、嫌いじゃないんだな)
これだけの人間が瓜子の敗北を願っているのなら、それを打ち砕いて勝利してみせる――そんな気概が、瓜子の胸を熱くしてやまなかった。
(気合のほうは申し分ないから、あとは気負いすぎないように気をつけるだけだ)
そんな思いを胸に、瓜子はケージの外側に立ち並んだ。
警備のスタッフの頭ごしに、熱狂した人々の姿が垣間見える。彼らはいずれも笑っているかのような形相で、満身から熱気をみなぎらせており――そして、瓜子に対するブーイングの声を張りあげていた。
やがて次なる青コーナー陣営の選手が入場を始めると、それがすぐさま大歓声に切り替えられる。
瓜子は興味深く観察していたが、客席の人々の様子に大きな変化はない。歓声であろうとブーイングであろうと、彼らは同じ心持ちで熱狂し、声を張り上げているようだ。瓜子は本当に、異国の祭か何かを眺めているような心地であった。
その次はイヴォンヌ選手で、その次はブラジル陣営のアナ・クララ選手――そしてその次が、ついにユーリだ。
世界的な人気を獲得しつつある『トライ・アングル』のメンバーたるユーリにも、惜しみなくブーイングが浴びせかけられる。よもやユーリだけは歓声を送られるのではないかと一抹の懸念を抱いていた瓜子は、ほっと息をつくことになった。
(それはそれで、ありがたい話なのかもしれないけど……やっぱりひとりだけ仲間外れってのは、気の毒だもんな)
今のユーリは『トライ・アングル』のヴォーカルではなく、ひとりの日本人女子ファイターとしてこの場に身を置いているのだ。であれば、瓜子たちと同じ扱いを受けるのが相応であるはずであった。
(というか……むしろ、ブーイングが上乗せされてないか?)
瓜子は首をねじり、背伸びをしながら花道のほうをうかがった。
ユーリは笑顔で、花道を歩いている。両手をひらひらと振りながら、時おりくるりとターンを切って――まるきり、いつものユーリである。ただ違うのは、その軽妙なるさまに応じるのが怒号のごときブーイングであるという一点であった。
(うわ、まるで客席を煽ってるみたいだな。ユーリさんは、どういうつもりなんだろ)
ケージの外側にまで到着したユーリは、イヴォンヌ選手の向こう側から瓜子に手を振ってきた。
瓜子は曖昧に、笑顔を返す。この間も、ブーイングが屋根を吹き飛ばしそうな勢いで吹き荒れているのだ。ユーリの心臓というのは、やはり並の出来ではないようであった。
そして、そのブーイングがまた大歓声に切り替えられる。
ユーリの影響で勢いを増したブーイングが、そのまま大歓声に転じたのだ。それはまた、次に入場するのがメインイベントの出場選手で、《V・G・C》の現王者である影響もあるのかもしれなかった。
そちらの選手は勇猛なる笑みをたたえて、右腕を高々と突き上げている。
現地ブラジルの王者である彼女が、余所のプロモーションで余所の王者と対戦するのだ。現地のファンとしては、並々ならぬ思いが噴出するのだろうと思われた。
そうして最後にレベッカ選手が入場したならば、ユーリにも負けないブーイングが爆発する。
レベッカ選手は穏やかな面持ちでゆったりと歩を進めているに過ぎないが、《V・G・C》の王者と対戦するというだけで最大のブーイングを招いてしまうのだろう。しかしレベッカ選手は柔和なたたずまいを崩すことなく、ケージの周囲に立ち並んだ。
そののちに、スチット代表から開会の挨拶が行われる。
それ以降は、ずっと大歓声だ。ただし、瓜子たちに歓声を送っている人間は皆無であるのだろう。シンガポール大会では観戦ツアーなどというものも組まれていたようだが、さすがにブラジルまで観戦におもむく日本人などはひとりもいないのだろうと思われた。
(というか、こんな場所で日本やシンガポールの選手を応援しようとしたら、肩身がせまいどころの話じゃないもんな。それこそ、身に危険が及びそうだ)
選手に対するセキュリティは万全であるので、こちらに危険が及ぶことはないだろう。あとは客席でも暴動などが起きませんようにと、瓜子は心中で祈っておくことにした。
開会の挨拶が終了したならば、花道を引き返して退場だ。
入場口をくぐって、立松やジョンと合流して、控え室を目指す。その行き道で、瓜子は先刻の疑問をユーリにぶつけてみた。
「あの、ユーリさんはどうして笑顔を振りまいてたんすか? まさか、客席を煽ってたわけじゃないっすよね?」
「ふにゃ? ユーリはカメラの向こうの方々に元気な姿をアピールしていたつもりなのですけれども……もしや、身をつつしむべきだったかしらん?」
ユーリがたちまち不安げな表情になったので、瓜子は「いえ」と笑ってみせた。
「そういうことなら、納得です。きっと邑崎さんたちも、ほっとしてますよ」
「あんな状況でカメラの向こう側を意識できるなんざ、大物だな。ブラジルの洗礼も、桃園さんには無関係ってこった」
立松も、にやりと満足そうに笑った。
「猪狩も、それは同様みたいだしな。それじゃあ、あとは勝つだけだ」
「押忍。死力を尽くします」
そうして開会セレモニーは無事に終了し、ついにメインカードが開始されたのだった。




