04 朋友たちの闘い(下)
「よし。それじゃあ、じっくり熱を入れていくぞ」
通路に出てエイミー選手にお祝いの言葉を届けたのち、立松がそのように宣言した。
プレリミナルカードの第三試合が終了して、最初のウォームアップである。ちょうど次は、プレリミナルカードの中で唯一見知らぬ選手同士の対戦であった。
「気になるなら、サキはモニターをチェックしておけよ。お前さんだって、いつ《ビギニング》にお呼びがかかるかわからんからな」
「はん。天下の《ビギニング》が、故障を抱えたロートルなんざに声をかけるかよ」
サキはそんな風に応じていたが、もとよりユーリの陣営は遅い出番であるため、ウォームアップを始めるには早いのだ。そちらのセコンドであるサキとジョンとドミンゴ氏は、ユーリともどもパイプ椅子に陣取って観戦の構えであった。
次はアトム級の一戦で、《ビギニング》で活躍する見知らぬ選手の登場となる。所属はかつて『アクセル・ロード』に抜擢されたルォシー選手やユーシー選手と同じく、アディソンMMAファクトリーであるとのことであった。
「たしか《ビギニング》のバンタム級王者も、おんなじジムだったか。おめーにとっては次のターゲットの同門ってこったなー」
「にゃはは。今のユーリはベル様とアナ・クララ選手だけで頭もお胸もいっぱいなのですぅ」
サキとユーリの気安いやりとりに胸を温かくしながら、瓜子はウォームアップに励んだ。
すると、どこかで携帯端末のメッセージ受信音が鳴り響き、ジョンが「んー?」とポケットをまさぐる。
「あー、トシカズからだねー。どうしたんだろー?」
「トシカズ? って、誰だっけか?」
「ギガント・カゴシマのカイチョーだよー。ショウにナニかあったのかなー」
ギガント鹿児島の会長とは山岡氏のことであり、祥とは巾木選手のことだ。ジョンは常にファーストネームで相手を呼ぶため、ちょっと縁の薄い相手は判別が難しいのだった。
そうしてジョンは黒いスキンヘッドを撫で回しながら「うーん?」と悩ましげな声をあげると、身を起こして立松のほうに近づいてくる。ジョンの携帯端末を覗き込んだ立松は、見る見る渋い顔になっていった。
「……まあ、そうだな。隠し立てする理由はないだろ。どうせ本人は、鼻で笑うだけだからよ」
「鼻で笑うって、誰がっすか?」
「お前さんだよ。……どういうルートだか知らねえが、山岡さんがエズメラルダ選手の最新のウェイトの数値を耳にしたんだとよ」
「最新の数値? 朝の再計量では、五十六キロていどだったんでしょう?」
「ああ。それが、六十キロオーバーまで増量したんだとさ」
瓜子はストレッチの手を止めて、きょとんと目を丸くした。
「えーと、それってどういう意味っすか? たった数時間で四キロも増量されるなんて……あんまり普通の話じゃないっすよね?」
「ああ。今日の再計量は朝の九時からだったから、それからの数時間でリカバリーしたってこったろ。昨日の数値は五十三キロていどだったんだから、合計で七キロはリカバリーしたってこったな」
そう言って、立松は自分の手の平に拳を打ち込んだ。
「つまり、落とせなかった一キロってのは、水分じゃなく肉だったわけだ。で、コンディションは万全なまま、きっちりドライアウトをやってのけたってこったろ。かえすがえすも、ふざけた野郎だな」
「なおかつ、朝昼の食事と真っ当な水分補給だけで四キロも増えることはそうそうありえないんだわよ。おそらくは、点滴を使ったんだわね」
「点滴? ああ、ブドウ糖を点滴して手っ取り早く水分を補充するっていう、アレか」
「そうだわよ。試合の当日に点滴ってのは、よっぽど体質が合ってないと調子を崩しそうなところだわけど……それでも敢行したってことは、向こうにとってそれがベストな選択だったというわけだわね」
「えー? それじゃあ相手は規定体重を守らなかったくせに、猪狩さんより八キロも重い状態で試合をするんスかー? なんか、納得いかないんスけど」
「そんなもん、全人類が納得してないんだわよ。……ま、立松コーチの言う通り、ご当人は我関せずだわね」
「押忍。エズメラルダ選手は、普段からそれぐらいリカバリーしてるんでしょうからね。けっきょく余分なのは、肉の一キロだけってことっすよ」
瓜子はウォームアップを再開させながら、そのように答えた。
「それにきっと弥生子さんだって、自分との試合ではそれぐらいリカバリーしてたんでしょうからね。だったら、どうってことありません」
「あのときはフライ級のリミットで、お前さんだってナチュラルウェイトだっただろうがよ。数字の上では、今日のほうが差があるってことだぞ」
「それでも、体重超過した選手に負けたりしないっすよ。そんな選手がサキさんや弥生子さんより強いなんて、ありえないっすからね」
「うるせーなー。いちいちアタシを引きあいに出すんじゃねーよ」
サキは立ち上がる手間をはぶいて、遠い場所から左腕を突き出してきた。
その拳に頭を小突かれたような心地で、瓜子は笑ってみせる。
「何にせよ、そんな情報で集中を乱したりはしません。よかったら、山岡さんにお礼を言っておいてください」
「あっちも善意のつもりなんだろうがな。試合の直前は勘弁してほしいもんだぜ」
立松が仏頂面で溜息をついたとき、モニターから大歓声がわきおこった。
何事かと思って振り返ると、レフェリーが頭上で両腕を交差させている。シンガポールの選手はぐったりと倒れ伏し、その背中にへばりついていたブラジルの選手が身を起こしたところであった。
「ついに一敗しちまったか。ま、さすがに全勝はきついわな」
「んー? アレ、何やってんスか?」
と、蝉川日和が小首を傾げる。大歓声の中、ブラジルの選手が奇妙な挙動を見せ始めたのだ。
腰を落とし、両腕を水平に持ち上げて、マットの上をそろそろと歩いている。そして、大歓声をあげる客席のほうに視線を巡らせると、自分の口もとに人差し指をあてがった。おそらくは、「静かにしろ」というジェスチャーである。
もちろんそんな仕草だけで、大歓声が鳴りやむわけもない。四試合目でようやくブラジル陣営が勝利をあげたのだから、客席は熱狂の坩堝であるのだ。
すると、その選手はリングドクターに介抱されているシンガポールの選手のほうを指さすと、左右の手の平を合わせたのちに顔の横合いにあてがい、首を傾げてまぶたを閉ざした。
そしてまた、口もとに人差し指をあてる仕草と、手の平を合わせる挙動を繰り返す。
しかるのちに、いきなりマットを右足で踏みつけて、勝利の雄叫びをほとばしらせた。
それに呼応するように、さらなる歓声がうねりをあげる。
鞠山選手は、「やれやれだわよ」と肩をすくめた。
「女子選手でコレを見たのは、初めてなんだわよ。なかなかいい性格をした娘っ子だわね」
「今の、なんだったんスかー? 見るからに、相手を小馬鹿にしてるように見えたんスけど」
「可愛いベイビーがおねんねしてるから静かにしてあげなさいっていう、煽り要素満載の勝利の舞なんだわよ。ブラジルの男子選手では、時たま見られるジェスチャーだわね」
蝉川日和はぽかんとしてから、毛先の跳ね回ったショートヘアーをぐしゃぐしゃにかき回した。
「なんスか、それー! 百パーセント、負けた相手を煽ってるだけじゃないッスか! スポーツマンシップとか、ないんスか?」
「負けた相手に拍手を送るのだって、見ようによっては煽り行為なんだわよ。人様の美意識に腹を立てたって、カロリーの無駄遣いだわよ」
蝉川日和は大爆発した頭で瓜子のほうに向きなおると、なかなかに切羽詰まった面持ちで詰め寄ってきた。
「猪狩さん! お願いだから、負けないでくださいね! 体重超過したやつにこんな真似されたら、あたしは乱闘騒ぎでも起こしちゃいそうッスよ!」
「セコンドが選手にプレッシャーをかけるんじゃねえよ」
立松は苦笑しながら、蝉川日和の頭を引っぱたいた。
「周りにどうこう言われなくったって、うちのチャンピオン様は勝つ気まんまんだしな。俺たちは、それをサポートするだけだ」
「押忍。試合前に、あんまり大きなことは言いたくないっすけど……自分は、勝ちますよ。勝っても、勝利の舞なんて踊ったりしないっすけどね」
瓜子が大口と軽口をいっぺんに叩くと、蝉川日和も「あは」と笑ってくれた。
そうしてモニター上では、大歓声の中で勝利者インタビューが始められている。ついにブラジルの陣営が勝利をあげたということで、客席にはまだ大歓声が渦を巻いていた。
そののちに、ブラジルの選手は何事もなかったかのようにシンガポールの選手に握手を求めて、最後にはハグをする。
彼女も決して、シンガポールの選手を小馬鹿にしていたわけではないのだろう。それでもあんな形で勝利をアピールしようという精神構造が、瓜子や蝉川日和には理解できないということなのかもしれなかった。
「ツギは、ナオのデバンだねー。マきカエすことができるかなー」
「だから、耳に馴染まねー名前を連呼するんじゃねーよ」
菜緒とは、横嶋選手のファーストネームである。立て続けに、アトム級の一戦であった。
相手はまたもや、ヴァーモス・ジムのトップファイターとなる。《ビギニング》のアトム級王者と対戦するベアトゥリス選手を含めて、ヴァーモス・ジムは今大会に三名もの選手を輩出しているのだ。さすがは《JUF》の時代から数多くのトップファイターを生んでいる名門ジムであった。
「横嶋さんは《ビギニング》で連勝中だが、だんだんシビアな相手になってきてるからな。ブラジルのトップファイターに通用するかどうか、お手並み拝見だ」
立松はそんな風に言っていたし、瓜子も大いに期待をかけていたのだが――この試合は、思いも寄らない形で幕を閉ざすことになった。試合開始のブザーが鳴ると同時に相手選手が真っ直ぐ突進して、飛び膝蹴りを繰り出したのだ。
それで顔面を強打された横嶋選手は、立ち上がることができなかった。
試合開始から六秒で、相手選手のKO勝利である。相手選手は歓喜の形相でケージ内を一周すると、フェンスを乗り越えて通路のほうにまで出てしまい、客席の人々をハグしまくっていた。
「あーあ。《ビギニング》でも退場の時間までケージの外に出るのは、ご法度だろ? せっかく勝ったのに、罰金だなー」
「それだけ感極まったんだわね。ブラジルの選手だって、こっちに負けないぐらい必死なんだわよ」
「今のはまるで、イヌカイちゃんみたいでしたねぇ。横嶋選手のグラウンドテクニックを拝見できなくて、残念ですぅ」
瓜子も心から残念であったが、こればかりは致し方がない。今のはおそらく、奇襲攻撃が成功しただけの結果であったのだ。大いなる野心を抱く横嶋選手の再起を願うしかなかった。
「それにしても、五試合中の四試合が一ラウンド決着か。インターバルが、長くなりそうだな」
本日もメインカードの開始は午後七時と定められているため、プレリミナルカードが早急に終わった場合はインターバルを長く入れるしかないのだ。本日のインターバルは、一時間以上に及ぶ可能性が高かった。
そんな中、プレリミナルカードの最後の一戦――ヌール選手の登場である。
相手は、柔術系の道場所属のグラップラーだ。このために、ヌール選手はユーリたちを相手に入念な寝技の稽古に取り組んでいたのだった。
まず、試合は静かな形で立ち上がる。
ヌール選手が取ったのは、前蹴りと関節蹴りで距離を測る戦法だ。すると相手選手も慎重な挙動で、ヌール選手の周囲を回り始めた。
「こいつがサイドからの動きに弱いってのは、バレバレだろうからなー」
「それでもヌールはこの三週間で、動きが見違えたんだわよ。わたいたちの指導の賜物だわね」
ヌール選手は、熟練のアウトファイターたるサキや鞠山選手に稽古をつけてもらっていたのだ。相手選手はグラップラーであったが、ステップワークが得意であるという前情報をつかんでいたため、その対応策を磨いていたのだった。
しかしまた、ヌール選手自身もグラップラーであるし、対応策というのは自分に有利な形でグラウンドに引きずりこむという内容であった。
現在見せているスタイルも、そのために磨かれた戦法であるのだ。こうして距離を測りながら、最後にはテイクダウンを仕掛けるのがヌール選手の勝ちパターンであった。
しかし相手選手もヌール選手の研究は怠っていなかったようで、とにかく足を使いまくっている。
相手選手が近づいてこないため、ヌール選手もなかなか攻撃の手が出なかった。
(でも、焦ってる様子はまったくないな。これが、ヌール選手の強みなんだろう)
そうして試合の動きが少ないと、客席には焦れたような歓声が巻き起こる。
それでアクションを起こしたのは、相手選手のほうであった。よく言えば、大歓声に力を得て――悪く言えば、大歓声のプレッシャーに耐えかねたのだ。
相手選手は大きくサイドステップを踏んでから、やおらヌール選手につかみかかろうとする。
しかしヌール選手は半瞬遅れで身をよじると、右ストレートで反撃した。
ヌール選手の右拳が、相手の顔面に突き刺さる。
しかし相手選手は、体格差でそれを跳ね返した。ヌール選手は二キロしかリカバリーしていないため、体格は明らかに負けているのだ。
相手選手は強引に、ヌール選手を押し倒そうとする。ヌール選手の左肩を押し、右の膝裏に手をかける、ニータップだ。
するとヌール選手は抵抗の気配も見せないまま、後ろざまにひっくり返った。
あまりに無抵抗であったため、その上にのしかかった相手選手は前のめりになってしまっている。そんな相手選手の右腕をひっつかんだヌール選手は、右膝を相手の腹にぶつける格好で、変則的な巴投げを披露した。
相手選手はヌール選手の上で一回転して、背中からマットに叩きつけられる。
その頃には、素早く身をひるがえしたヌール選手が相手選手の上にのしかかっていた。
相手の頭側から体重を浴びせた、上四方のポジションだ。
そのポジションを確保するなり、ヌール選手は横合いから相手の首を抱え込もうとしている。ユーリの得意技、ノースサウスチョークである。ヌール選手もこの三週間、ユーリからさんざんこの技を極められていた。
しかし相手もグラップラーであるため、そう簡単にタップはしない。ヌール選手のホールドが完成する前に身をよじり、腰を切って、何とか下のポジションから脱しようと試みた。
すると、ヌール選手は潔くノースサウスをあきらめて、逃げようとする相手のサイドに回り込む。今度は、袈裟固めを狙おうという格好だ。
相手選手はいっそう激しく身をよじり、ヌール選手の背中に右膝を叩きつける。
苦しまぎれの攻撃であるが、体格差があるので効かないことはないだろう。ヌール選手がその攻撃を避けるために相手選手の頭側に重心を移すと、その隙をついた相手選手が物凄い勢いでブリッジをしてヌール選手の身を弾き返した。
ヌール選手はマットに突っ伏し、半身を起こした相手選手は膝立ちの姿勢でヌール選手の背中にのしかかろうとする。
すると、ヌール選手はマットを蹴って、前方転回した。
目標を失って、今度は相手選手がマットに突っ伏す。
そして、相手選手が身を起こそうとすると――ヌール選手が再びマットを蹴って、相手の腰にくらいついた。
両者はもつれいあながら、マットに倒れ込む。さらには勢い余って、マットの上で半回転して――そうして気づくと、ヌール選手は相手の右足を両腕で抱きすくめていた。
相手選手は半身を起こして、ヌール選手の背中につかみかかる。
その腕が、ヌール選手の首をチョークスリーパーで捕らえようとしたが――それより早く、ヌール選手の腕が相手選手の右足を弓なりに反り返らせた。
鞠山選手が得意とする、膝十字固めである。
相手選手は悲鳴をあげながらヌール選手の背中をタップして、客席の大歓声が消失した。
無音の中、ヌール選手は相手選手の右足を解放し、試合終了のブザーが鳴らされる。
ユーリはまた、「やったぁ」と無邪気な声をあげた。
「今のは、お見事でしたねぇ。まるで鞠山選手みたいでしたぁ」
「ふふん。わたいとお師匠様でダブルのレクチャーを受けたら、誰だって足関の達人なんだわよ」
「あはは。ヌールは、きそもしっかりしてましたからね。はんだんのはやさが、すばらしいです」
寝技巧者の三名が、またそんなコメントを交わしている。
ここ最近はサブミッションで勝負が決まる試合も少なかったので、ユーリもご満悦の面持ちであった。
かくして、プレリミナルカードは《ビギニング》陣営の四勝二敗という結果に終わり――会場は、長きにわたるインターバルに突入したのだった。




