02 開幕
午後の一時半にはルールミーティングが開始され、その後はメディカルチェックに試合場のマットの確認、最後にバンテージのチェックで、事前準備は終了である。
メインカードの開始は午後の七時からであるので、まだまだゆとりはたっぷりだ。まずはプレリミナルカードの開始である午後の四時を、控え室で待ちかまえることになった。
瓜子とユーリはすでに試合衣装に着替えており、その上からプレスマン道場のオレンジ色のウェアを着込んでいる。
試合衣装は、どちらも《アトミック・ガールズ》のオフィシャルグッズだ。
瓜子たちは《ビギニング》と正式契約を結んだならば、新たな試合衣装を作りあげる計画であったため――それが実現したならば、《アトミック・ガールズ》の試合衣装を身につけるのは今日が最後になるわけであった。
しかし瓜子は感傷的な気分にひたることなく、試合前の時間を静かに過ごしている。
この数ヶ月、何度も何度も考えてきたことだが――感傷にひたるのは、まだ早いのだ。今日の一戦が終わらない限り、瓜子とユーリの未来はまったく予測も立てられないのだった。
(自分はとにかく、勝利を目指すだけだ。あとはもう、その場その場で対処するしかないさ)
そうしていよいよ、プレリミナルカードの開会式である。
ケージの試合場にスポットがあてられてリングアナウンサーの姿が浮かびあがると、客席には大変な歓声がわきたった。
今日の集客は、一万三千名ていどであったらしい。
《ビギニング》の日本大会を超える集客である。日本の会場よりもチケット代は割安であったようだが、大した集客であることに違いはなかった。
まずは青コーナーから、ブラジル陣営の選手が入場する。
歓声は、いよいよ高まるばかりである。モニター越しでも、それは日本やシンガポールを上回る熱狂であるように感じられた。
そして、赤コーナー陣営からグヴェンドリン選手が入場すると――その歓声が同じ勢いのまま、ブーイングに転じた。
しかしグヴェンドリン選手は厳しく引き締まった面持ちのまま、力強く歩を進めていく。瓜子も心を乱すことなく、そのさまを見守ることができた。
その後も、合計で十二名の選手が続々と入場する。
日本陣営である横嶋選手と巾木選手、シンガポール陣営であるエイミー選手とヌール選手――グヴェンドリン選手を含めれば、六試合中の五試合に瓜子のよく知る選手が出場するのだ。
それらの六組の選手が入場する間、客席には歓声とブーイングが交互に響きわたった。
ブラジルの選手が入場すれば大歓声、対戦相手が入場すればブーイングだ。そのさまに、蝉川日和が「ひゃー」と声をあげた。
「なんか、すげーッスねー。あたしだったら、歓声とブーイングをこんなコロコロ切り替えらんないっすよー」
「ここまできっちり国別で対抗戦を行うイベントなんて、そうそうないだわからね。きっと現地のファンたちも、お祭り気分で楽しんでるんだわよ」
「リオっつったら、お祭りの代名詞だしなー。ま、そのカーニバルでも毎年死人が出てるって話だけどよー」
「祭には、タップアウトもねえしな。ケージの中のほうが、よっぽど安全かもしれねえぞ」
会話の内容は物騒であるが、セコンド陣の表情に思い詰めた気配はない。これぐらいの騒ぎは想定内であるし、選手のためにはセコンド陣のほうが冷静であらねばならないという方針であるのだ。まあ、年若い蝉川日和は天然で振る舞っているのであろうが、心強いことに変わりはなかった。
そしてモニターでは、スチット代表が開会の挨拶を始めている。
そちらには、ブーイングを飛ばす人間もいない。客席の人々もこのイベントを楽しんでいるはずなので、イベンターにブーイングを浴びせる筋合いはないのだろう。なおかつ善良にして明哲なるスチット代表も、決して現地のファンの反感を買うような発言はしないのだろうと思われた。
「さあ、グヴェンドリン選手の出番だな。じっくり応援させていただくか」
立松はパイプ椅子の上で座りなおし、瓜子もまた背筋をのばした。
グヴェンドリン選手はこの逆境で、一番槍を務めるのだ。そして今や瓜子にとって、グヴェンドリン選手はユーリの次に思い入れの深い出場選手に成り上がっていた。
すべての選手が退場したのち、あらためて第一試合の開始が宣言される。
リングアナウンサーはシンガポールの人間で、語られる言葉は英語である。そしてそれが、ポルトガル語の大歓声でかき消されそうになっていた。
あらためて、青コーナー陣営の選手が入場する。
歓声は、熱量を増すいっぽうだ。そちらの選手も両腕を振り上げて、いっそうの歓声を要求していた。
そして、グヴェンドリン選手が入場すると――また大歓声が、ブーイングに切り替えられる。
グヴェンドリン選手は勇猛な気配をたちのぼらせながら、全身でそのブーイングを跳ね返していた。
それでも、表情は落ち着いている。かつてこの同じ会場でブーイングを浴びていたアメリア選手のように、眉間に皺を刻むこともなかった。
そんな歓声とブーイングの波状攻撃は、選手紹介の間も継続される。
相手選手の名前がアナウンスされれば大歓声、グヴェンドリン選手の名前がアナウンスされればブーイングだ。本当に、呆れるぐらい徹底されていた。
そんな中、グヴェンドリン選手と相手選手はレフェリーのもとに進み出る。
体格差は――ほとんど感じられない。グヴェンドリン選手は七キロものリカバリーを達成していたが、相手選手も同程度のリカバリーに臨んだようである。そして、骨格の逞しさにも優劣はないように思われた。
どちらも均整の取れた、素晴らしい体格だ。
身長はほんの少しだけグヴェンドリン選手がまさっているようだが、ほとんど誤差であろう。そして、おたがいオールラウンダーであるためか、筋肉のつき具合まで似通っているように感じられた。
(頑張ってください、グヴェンドリン選手)
瓜子はひそかに拳を握り込みながら、そのように念じた。
シンガポール陣営の王座を保持していない四選手には、いずれも格上の相手がぶつけられているという見込みであったのだ。なおかつ、ジョンが確認したところ、ブックメーカーなる賭け屋のオッズも相手選手に大きく傾いているとのことであった。
(でも、グヴェンドリン選手だって、あたしと対戦したときより、ずっと強くなってるはずだ)
瓜子が気合を入れて見守る中、試合開始のブザーが鳴らされた。
グヴェンドリン選手も相手選手も、勢いよく前進する。相手選手もまた、オフェンシブなオールラウンダーであったのだ。
相手選手が関節蹴りを繰り出すと、グヴェンドリン選手はサイドステップで回避しつつ、右フックをお返しする。
相手選手はそれを左腕でブロックしつつ、自らも右フックを射出した。
グヴェンドリン選手はダッキングでその攻撃をかわし、今度は左の拳でボディを狙う。相手選手はガードが間に合わず、レバーをまともに撃ち抜かれた。
相手選手は牽制のジャブを放ちつつ、後退しようとする。
それを追いかけて、グヴェンドリン選手は左ミドルを繰り出した。
今度は相手選手もレバーを守ったが、明らかに苦しげである。ブロックの上からでも、レバーのダメージが加算されたのだろうと思われた。
瓜子は何だか、奇妙な心地である。
日本人選手が外国人選手と対戦する場合、たいていはフィジカルで後れを取るものであるが――頑健なる骨格と筋肉を持つグヴェンドリン選手は、ブラジルの選手にもフィジカルで負けていないのだ。よって、レバーブローを命中させれば相応のダメージを与えられるし、それだけで試合を有利に進められるのだった。
(メイさんなんかはオーストラリアの生まれだけど、体格はあたしとほぼ一緒だからな。まあ、筋肉の質の違いで、フィジカルがすごいことに変わりはないけど……たいていは体格差があるから、一発でダメージを与えることは難しいんだ)
なおかつ、グヴェンドリン選手が相手と互角のフィジカルを発揮できているのは、過酷な減量の恩恵であろう。
相手選手もまだまだ元気であったが、明らかにガードの腕が下がっていた。
(レバーのダメージに意識を持っていかれてるんだ。チャンスですよ、グヴェンドリン選手)
グヴェンドリン選手は勢いのある左右のフックで、相手選手を追い詰めていく。
そして、要所にボディブローを織り交ぜた。攻撃を散らして、相手の穴を広げようとしているのだ。実に的確な試合運びであった。
相手選手はボディの守りを固めているため、顔面に何発かいい攻撃をもらっている。そのダメージも、着実に溜まっていった。
これではならじと判じたか、相手選手は強引に組みつこうとする、
しかしグヴェンドリン選手はつきあわず、両腕で相手選手を突き放した。グヴェンドリン選手も組み技は得意だが、打撃技で優勢である以上、相手につきあう必要はなかった。
そうして再び前進すると、今度は自分からタックルの動きを見せる。
相手選手が両腕で受け止めようとすると、がら空きになった顔面にまた右フックが撃ち込まれた。
相手選手は何歩かよろめいてから、やおら気合をみなぎらせる。
それを後押しするのは、客席からの大歓声だ。瓜子はもはや聞き流していたが、相手選手が苦境に陥ってからも、ずっと怒号のような歓声が響きわたっていたのである。
これだけの歓声を浴びていたら、誰でも奮起するに違いない。
相手選手はこれまでのダメージなど感じさせない鋭さで踏み込むと、勢いのある右フックを射出した。
しかしグヴェンドリン選手はまたダッキングして、その右フックを頭上にやりすごす。
そして、最初の攻防と同じタイミングで、レバーブローを叩き込んだ。
グヴェンドリン選手は、完全に相手の右フックの軌道とタイミングをつかんでいる。そうして右フックを出している相手は、急所のレバーががら空きになっていた。
二発目のレバーブローをクリーンヒットされた相手選手は、がくりと膝から崩れそうになる。
その下顎に、グヴェンドリン選手の右拳が叩きつけられた。
レバーブローと右アッパーのコンビネーションである。
相手選手は右フックを振り抜いた格好で、マットに倒れ伏した。
グヴェンドリン選手がその背中にのしかかろうとすると、レフェリーが横から割って入る。
そうしてレフェリーが、頭上で両腕を交差させると――大歓声が、ぷつりと断ち切られた。
モニターのスピーカーが故障したのではないかと思えるほどの唐突さで、すべての音声がかき消えたのだ。そんな中、試合終了を告げるブザーだけが厳かに鳴り響いた。
無音の中、グヴェンドリン選手の右腕が頭上に掲げられる。
瓜子たちは客席の分まで、拍手を送ったが――ぺちぺちと手を鳴らしながら、蝉川日和は「えー?」と首を傾げた。
「いくら身内びいきでも、相手選手の勝利をたたえるとか、そういう気持ちはわいてこないんスかー?」
「ほー。おめーはアコガレのイノシシ先輩様がぶざまに負けても、相手に拍手を送るのかよ?」
「え、あ、いや、それはだって……猪狩さんは、特別な相手ッスから……」
「じゃ、お牛様だったらどーなんだよ。頭に尻尾を生やした小生意気なジャリでもいいぞ」
「だ、だからみなさんは、チームメイトじゃないッスか。……あ、そうだ! たとえチームメイトが負けたとしても、健闘をたたえるために拍手ぐらいするッスよ! この客席の人たちだって、負けちゃったブラジルの選手に拍手を送ったっていいんじゃないッスか?」
「そいつは、おめーの価値観だろ。よそ様の庭にあがり込んで、手前の価値観を押しつけるんじゃねーよ」
サキの言葉を聞きながら、瓜子は何やら厳粛な気持ちだった。
確かに、試合が終了しても歓声のひとつもあがらないというのは、いささか異様に感じられる。あれほど応援していたのに、負けたブラジルの選手に対する敬意はないのかと、瓜子もそんな風に感じてしまうのだ。
しかしその答えが、この静寂である。
客席の人々は、そんな価値観で生きていないのだ。それは、残酷なまでの勝利主義であるのか――瓜子には、まだその正体が把握しきれなかった。
(でもとにかく、グヴェンドリン選手が勝てたんだ。それも、ノーダメージの一ラウンドKO勝利だ)
グヴェンドリン選手は左手で自分の顔を覆い隠し、逞しい肩を震わせていた。
そうしてセコンド陣が近づいていくと、顔を隠したまま抱きつく。チーフトレーナーは満面の笑みで、グヴェンドリン選手の頭にタオルをかぶせた。
その後は勝利者インタビューであったが、英語とポルトガル語であるため、瓜子には聞き取れない。
そしてそのインタビューの序盤では、ブーイングが蘇った。本日は、勝ってもブーイングがあげられるのだ。
ただそのブーイングに、これまでほどの勢いはなかった。
さらにインタビューの終了が告げられると、ついに歓声があげられたのだった。
「あー、やっとお祝いしてくれたッスねー。もー、ブラジル人が嫌いになっちゃいそうだったッスよー」
「ほほう。わたいのお師匠様を嫌うとは、なかなかの宣戦布告だわね」
「あ、いや、違うッスよー。ドミンゴさんは、いい人じゃないッスかー」
「それじゃあ、客席のブラジリアンはみんな悪人なんだわよ? サキの言う通り、郷に入っては郷に従えなんだわよ」
「そうだな。客席の反応に一喜一憂する必要はない。歓声を浴びようがブーイングを浴びようが、俺たちは勝ちを目指すだけだ」
立松はしかつめらしい面持ちで、そんな風に言っていた。
勝利者インタビューを終えたグヴェンドリン選手は、タオルで顔をぬぐいながら退場を始めている。その姿に、瓜子はうずうずしてしまった。
「あの、自分もグヴェンドリン選手を直接お祝いしたいんすけど……通路で待ち伏せしてたら、ご迷惑っすかね?」
「へん。それじゃーアタシが予知能力を披露してやんぜ。あのシンガポール女は、おめーに比べれば大した相手じゃなかったとかほざくだろーよ」
そんなサキの軽口を聞きながら、瓜子は控え室の外に出た。
当然のように、すべてのメンバーが後をついてくる。廊下に待機していたスタッフがぎょっとした様子で目を丸くしたが、事情を説明すると咎められることはなかった。
次の出番である巾木選手はすでに出陣したようで、他に人影はない。
そして通路の向こうから、グヴェンドリン選手の陣営が姿を現した。
グヴェンドリン選手はまだタオルをかぶったまま、うつむき加減に歩いている。
そこでチーフセコンドの男性が何事か声をかけると、グヴェンドリン選手はハッとした様子で顔を上げ――そして、瓜子のもとに駆け寄ってきた。
その逞しい腕が、瓜子の身を抱きすくめる。
このブラジルの地で初めて再会した折には、すんでのところで自制していたが――今は、自制もきかないようである。
そうしてグヴェンドリン選手は瓜子の身を抱きすくめながら、さきほどサキが口にした言葉を英語でそのまま繰り返したのだった。




