ACT.5 Big innings in Rio de janeiro 01 入場
そして、翌日――六月の第四土曜日、《ビギニング》ブラジル大会の当日である。
その日も瓜子は、快適な目覚めを授かることになった。十二時間の時差がもたらす時差ボケはこの三週間ですっかり解消して、心身ともに充足した状態にあった。
なおかつ、午前の九時過ぎには、エズメラルダ選手が当日の再計量をパスした旨が報告されている。ただその結果は、ぎりぎり規定の8パーセント以内であったとのことだ。
規定体重である52.2キロの8パーセントとは、おおよそ4キロていどとなる。つまりエズメラルダ選手は56キロていどの体重で、今日の試合に臨むわけであった。
「56キロって言ったら、まんまフライ級の数値じゃねえか。そんなに減量がきついってんなら、フライ級で活動しろって話だよ」
立松はそんな風にぼやいていたが、瓜子としては試合ができるだけで満足な心地である。たとえ経費を全額負担してもらえようとも、試合が中止になったらこの三週間の頑張りが台無しになってしまうのだ。それでユーリたちの活躍だけを見届けて日本に帰るなどという話になったら、虚しさで悶死しそうなところであった。
いっぽうユーリも、朝からにこにこと幸せそうな顔で笑っていた。ユーリもユーリで時差ボケの影響は小さくなかったが、稽古のほうは初日から順調であったし、長すぎる睡眠時間も最初の数日で解消されたのだ。その純白で豊満なる肢体からは、いつも以上の生命力と色香があふれかえっているように感じられた。
「にゅふふ。ついについに、この日が来てしまったねぇ。この幸せな一日を、どんなブレックファーストで幕開けさせてくれようかしらん」
「今さら念を押すまでもありませんけど、食べすぎにだけは気をつけてくださいね」
昨日の計量を無事に終えた後、ユーリはランチでもディナーでも恐るべき食欲を発揮させていた。水分で戻せるのは三キロのみであるはずであったが、二キロの肉までリカバリーさせそうな勢いであったのだ。しかしまあ、退院以降はそれが試合前の通例であったため、瓜子もあらためて心配する必要はなかった。
いっぽうグヴェンドリン選手やエイミー選手は計量の後もトレーナー陣の指示に従って、慎重に水分と栄養を補給していた。大幅なリカバリーに取り組む選手は、試合直前まで気を抜くことが許されないのだ。ここで調整にしくじると、脳や筋肉にまで適切な水分が行き届かず、コンディションを崩す危険が存在するのだという話であった。
「うちの道場には、そうまで大幅なリカバリーに取り組む選手はいなかったからな。だから俺たちも、そこまでシビアに知識をつける機会がなかった。あらためて、シンガポールのレベルの高さを思い知らされた心地だよ」
立松などはそのようにコメントしていたので、瓜子は「いえいえ」とフォローしておくことにした。
「もちろんシンガポールのお人たちはレベルが高いっすけど、稽古の指導に関してはプレスマンのほうが上だと思ってますよ。どうか今後も、ご指導お願いします」
「試合直前に、選手がトレーナーを気づかってどうするんだよ。まったく、しょうもないやつだな」
「などと言いながら、目尻の皺に喜びの思いがにじんでるんだわよ」
「おー。立松っつぁんは、イノシシハーレムの特別会員様だからなー」
「ごちゃごちゃうるせえぞ! とっとと出発の支度をしろ!」
というわけで、三組合同の陣営は、本日も同じリムジンバスに揺られることになった。
グヴェンドリン選手やエイミー選手は本日も気迫のこもった顔つきであるが、削げた頬にはすっかり本来の張りが戻っている。試合に対する意気込みは増幅させながら、リカバリーのほうは順調に完了しつつあるのだ。瓜子が見る限り、そちらもコンディションは万全であるように思えた。
(それもこれも、苦しい減量をやりとげたからこそだ。……エズメラルダ選手は、最後の一手でそれにしくじったってことだよな)
エズメラルダ選手は一キロも重い状態で、前日計量を終えた。瓜子にしてみても、たかが一キロ重いだけでパワーに大きな差が生まれるとは考えていなかったが――ただし、グヴェンドリン選手たちのおかげで、一キロを落とす過酷さは思い知ることができていた。
瓜子自身は、試合に向けて三キロのウェイトを落としている。一キロの肉と、二キロの水分だ。ただし、肉に関しては試合のひと月前からカロリー計算をして段階的に取り組んでいるため、さしたる苦労ではない。いっぽう水分に関しても、瓜子は十六歳の頃からキックのプロ選手として活動していたので、今さら苦にすることはなかった。
しかしそれは、ドライアウトで落とすのが二キロという数値であるためだ。
水分だけで七キロを落とすグヴェンドリン選手や九キロ以上を落とすエイミー選手は、瓜子と比較にならないぐらいの試練をやりとげている。彼女たちにしてみれば、最後の一キロを落とすのがどれほどの苦痛であることか――エズメラルダ選手は、その最後の試練を達成させないまま、今日の試合に臨むわけであった。
(まあ、調整に失敗して体重を落とせなかった可能性もあるけど……鞠山選手に言わせると、その可能性は低いって話だもんな)
もちろん現に体重を落とせていないのだから、調整に失敗していることは事実であるのだろう。ただし、最後の最後まで死力を振り絞って、それでも届かなかったのか。あるいは、このままではコンディションを保てなくなると見越して、苦しい減量を放棄したのか――鞠山選手は、後者であろうと見なしていたのだった。
立松いわく、世界最高峰の《アクセル・ファイト》にさえ、そういう選手は少なからず存在するらしい。規定を守るためにコンディションを崩して試合に負けるよりは、規定を破りながらもコンディションを保持して試合に勝つことを目指す――そんな見下げ果てた選手が、ぽつぽつと存在するというのだ。
それはひとえに、体重超過のペナルティが軽いために生まれた悪習であるらしい。
《アクセル・ファイト》においても《ビギニング》においても、罰則はファイトマネーの減額のみであるのだ。体重超過が規定の範囲内であれば、キャッチウェイトで試合を行うことができるわけであった。
もしもコンディションを崩していれば、試合で結果を残すことも難しいので、ファイトマネーを減額された上で黒星を重ねることになる。
しかし、減量をあきらめてコンディションを保ち、試合に勝つことができれば――ファイトマネーの減額と引き換えに、勝者としての名声をつかめるわけであった。契約内容によっては無効試合と見なされるパターンもあるようだが、何にせよ、多くの人間に自分の強さを見せつけることが可能なわけである。
「《アクセル・ファイト》も《ビギニング》も、人気選手に成り上がるほどファイトマネーの上乗せを期待できるわけだからな。長い目で見れば、体重超過しても勝てば得になるって寸法だ」
立松は昨日の帰り道、苦い顔でそのように語っていた。瓜子がキャッチウェイトの試合を承諾したことには文句もないようであったが、それでエズメラルダ選手に対する反感が消え去るわけではないようであった。
もちろん瓜子も、一抹以上の反感を抱いている。
何にせよ、エズメラルダ選手が規定体重を守らなかったことは事実であるのだ。それは、瓜子との試合をないがしろにしているのと同義であるように思えてならなかった。
(体重超過した選手に負けるって、本当に悔しいことなんだろうな。……まあ、あたしはどんな状況でも負けるつもりはないけどさ)
けっきょく瓜子にできるのは、全力で勝利を目指すことのみである。
であれば、相手のコンディションなど関係ない。エズメラルダ選手が絶好調であろうとも絶不調であろうとも、瓜子は死力を尽くすのみであった。
「さあ、会場が見えてきた。今日も気を抜くんじゃないぞ?」
立松の声で、瓜子は現実世界に引き戻される。
窓からは、大きな建造物の屋根が見えていた。本日の試合会場となる、ジェネラル・アリーナなる屋内競技場だ。何年か前のオリンピックでも体操競技の会場として使用されており、最大収容人数は一万五千名であるとのことであった。
しかし、そちらの会場は高い塀に囲われており、部外者の人影は見られない。開場の時間までは関係者しか会場に近づけないため、現地の熱狂的なファンたちも対戦相手にブーイングをぶつけることをあきらめたようであった。
(まあ、試合の開始まであと何時間もあるもんな。そうまでして、わざわざ入り待ちすることはないか)
きっとそのぶん試合の本番では、溜めに溜められたブーイングがぶつけられるのだろう。瓜子の胸には、またふつふつと熱い思いがわき始めていた。
そうして平和な道のりを辿り、リムジンバスは会場の出入り口に到着する。
そちらには《ビギニング》のスタッフが待ちかまえており、三組合同の陣営をまとめて控え室まで案内してくれた。
長大なる廊下にずらりとドアが並べられており、そこに出場選手の名前が記されたプレートが掛けられている。
本日は、すべての選手に個室が準備されているようだ。それに気づいたユーリがもじもじしていると、ジョンが笑顔でスタッフに呼びかけた。
「ユーリとウリコは、オナじヒカえシツのほうがオちツくんだよねー。ずっとイッショにいたら、ナニかまずいかなー?」
「え? 同じ道場の方々でしたら、べつだん問題はありませんが……ですが、少々手狭なのではないでしょうか?」
ジョンはにこにこと笑いながら、英語でユーリの名が記されたプレートのドアを引き開ける。
部屋の規模は、八帖ていどだ。調度が少ないため、実に広々として見えた。
「これなら、モンダイなさそうだねー。キョカをもらえたら、ここをイッショにツカわせていただくよー」
「……承知しました。スタッフに周知しておきます。椅子などが足りないようでしたら、ウリコ・イカリの控え室に準備されているものをお使いください」
スタッフは内心を覗かせることなく一礼し、シンガポール陣営の面々ともども立ち去っていった。
「ったく、わざわざ狭苦しい環境を選ぶなんざ、酔狂の極みだなー」
「ウン。でも、イチバンジュウヨウなのは、センシュのメンタルだからねー」
「わぁい。やっぱりジョン先生は、プレスマン道場のおかあさんなのですぅ」
かくして、総勢八名となるプレスマン陣営は同じ控え室で過ごすことになった。
しかしまずは、ルールミーティングだ。手持ちの荷物を置いたならば、すぐさま試合場を目指すことにした。
試合場では、設営が進められている。
八角形のケージはすでに完成されており、現在はその周囲にパイプ椅子が並べられている。あとは階段状のアリーナ席に四方を囲まれており――やはり、無人のアリーナ会場というのはいっそう広々としているように思えてならなかった。
「瓜子ちゃん、お疲れ様。そっちもコンディションはばっちりみたいだね」
と、朗らかな女性の声が投げかけられてくる。日本陣営のアトム級ファイター、横嶋選手である。
セミロングの髪を明るい色合いに染めた、細身で見目のいい女性だ。いくぶんしたたかな気性ではあったが、瓜子もそれほど苦手な相手ではなかった。
「押忍。お疲れ様です。今日は全勝めざして、頑張りましょう」
「ふふ。この前みたいに、わたしたちだけ勝ったほうが評価はあがりそうだけどね」
去りし日のシンガポール大会において、日本陣営は三勝しかできなかったのだ。その顔ぶれが、瓜子、ユーリ、横嶋選手であったわけであった。
「個人の評価より日本陣営の評価、ひいては《ビギニング》陣営の評価のほうが重要なんじゃないっすかね。横嶋選手だって、《ビギニング》との正式契約を目指してるんでしょう?」
「だからこそ、自分だけ勝ったほうが目立てるんじゃん。正直言って、《ビギニング》の王者四人だってどうなるかわかんないしね」
「押忍。どんな相手でも、楽勝なんてありえないでしょうからね。自分もまずは、自分の試合に集中します」
「ああ、瓜子ちゃんの相手は体重超過だったもんねぇ。ぎりぎり三ポンドの超過でキャッチウェイトを狙うなんて、やりかたがこすずるいよね」
「ほー。そーゆーこすずるさは、おめーも得意そうだけどなー」
サキが横から口をはさむと、横嶋選手はにこやかに笑いながらそちらに向きなおった。
「試合中にルールのぎりぎりを狙うってのはアリだけど、試合前のウェイト調整で小細工するなんてのは、わたしの流儀じゃないなぁ。あんな卑怯者がいい目を見るのは癪だから、なんとか瓜子ちゃんには豪快なKO勝ちを目指してほしいところだね」
「押忍。何にせよ、自分は全力で勝ちをもぎ取ってみせますよ」
「うん。期待してるねぇ」と、横嶋選手はすみやかに立ち去っていった。
その後ろ姿を眺めながら、鞠山選手が「ふふん」と鼻を鳴らす。
「まあ、あの娘っ子も品性はそこそこみたいだわね。体重超過した選手に痛い目を見てほしいってのは、全人類の共通認識なんだわよ」
「ああ。それでも地元の人間は、遠慮なくエズメラルダ選手を応援するんだろうけどな」
そう言って、立松はふてぶてしく笑った。
エズメラルダ選手に対する苦々しい気分も、闘志に昇華されたようだ。もちろん瓜子も、そのつもりであった。
「ま、こっちのやることに変わりはない。先月対戦したどこかの誰かさんより厄介なことはないだろうから、全力で叩き潰してやれ」
「押忍。どこかの誰かさんは、本当に強かったっすからね」
「いちいちやかましー連中だなー。アタシの厄介さを、この場で思い出させてやろうか?」
そうしてプレスマン陣営のメンバーで楽しく語らっていると、ユニオンMMAのメンバーも近づいてくる。
瓜子たちが死力を尽くす時間は、もう目の前に迫っていた。




