10 前日計量(下)
瓜子たちが会場に到着してから二十分ほどが経過すると、壇上にスチット氏が現れて挨拶の言葉を語り始めた。
ただし、英語であったため、瓜子にはまったく聞き取れない。なおかつ、鞠山選手も黙ったままであったので、形式通りの挨拶であるようであった。
さらにその後には、ブラジル人と思しき人物が挨拶を引き継ぐ。これは、ブラジルでもっともメジャーなプロモーションである《V・G・C》の会長であるようだ。今回のイベントはあくまで《ビギニング》の主催であったが、ブラジル陣営はのきなみ《V・G・C》の所属選手であったため、共催に近い形式が取られているようであった。
この場には報道陣もいないため、会場は静まりかえっている。
前日計量の模様は動画で無料配信され、メインの選手は別室でインタビューを受けるのだ。報道陣は、そのインタビューが行われる別室に控えているはずであった。
ちなみに今回も、瓜子とユーリはインタビューを受ける手はずになっている。
《ビギニング》の王者である四名と、瓜子とユーリ、そしてその対戦相手である六名だけが、インタビューを受けるのだ。それはすなわち、メインカードに抜擢された六組でもあるわけであった。
(グヴェンドリン選手たちを差し置いてインタビューを受けるのは、ちょっと気が引けるけど……重要なのは、試合の内容だからな)
瓜子がそんな思いを噛みしめている間に、ついに計量が開始された。
計量は、試合と同じ順番で進められていく。最初の出番となったのは、グヴェンドリン選手に他ならなかった。
「まあ、グヴェンドリンならいい試合になると見込まれて、一番槍に抜擢されたんだろうだわよ。そうじゃなきゃ、ストロー級の試合が最初に組まれる理由がないんだわよ」
鞠山選手は、そんな風に言っていた。
やはり女子選手の試合でも重い階級のほうがもてはやされているため、盛り上げたいならバンタム級、前座扱いならアトム級にするのが必然、という論調であるのだろう。何にせよ、瓜子はグヴェンドリン選手の健闘を祈るばかりであった。
その次がフライ級の巾木選手、バンタム級のエイミー選手、《ビギニング》のアトム級の選手、同じくアトム級の横嶋選手、フライ級のヌール選手――これが、プレリミナルカードの六試合であった。
関係者だけが見守る場であるため、計量は粛々と進行されていく。
今のところ、計量に失敗した人間はいない。日本陣営もシンガポール陣営もブラジル陣営も、みんな堂々たる体躯をさらして計量合格の言葉を授かっていた。
「それじゃあ、デバンだねー」というジョンの号令で、瓜子とユーリも壇のそばまで歩を進めた。司会のアナウンスも英語であったため、こちらはジョンが頼りであるのだ。ここからは各一名ずつのセコンドしか付き添えないので、ジョンの他には立松だけが行動をともにしていた。
日本とシンガポールの陣営は右側に、ブラジルの陣営は左側に集結する。
そこで、瓜子は初めて《ビギニング》の王者たちを眼前に迎えることになった。
アトム級、ストロー級、フライ級、バンタム級――《ビギニング》に存在する四階級の王者たちである。もしも瓜子とユーリが《ビギニング》と正式契約を交わすなら、そこにたたずんでいる二名の王者が最初の目標となるわけであった。
(でもまあ、それより明日の試合だからな)
瓜子は熱い気合を胸に、自分の順番を待った。
メインカードの第一試合は、アトム級王者の一戦だ。
そして、その対戦相手は――なんと、ヴァーモス・ジムのベアトゥリス・ソウザ選手である。
《カノン A.G》の時代、雅を討ち倒すために準備された刺客のひとりだ。あれから二年以上の歳月を経て、彼女は《V・G・C》のトップファイターにのぼりつめたのだった。
(でも、こっちのバンタム級以外の王者にあてられるのは、どれも格下の選手だって話だったよな)
ともあれ、どちらの選手も危なげなく計量をパスしていた。
その次は――フライ級の王者である。やはりこちらでも、階級の重さと試合の順番はまちまちであった。
そしてその次の第三試合が、瓜子の出番である。
しかしまずは、青コーナー陣営となる相手選手からだ。瓜子は壇の下に控えたまま、そのさまをじっくり見守らせていただいた。
《V・G・C》のトップファイター、エズメラルダ・コルデイロ選手である。
ストロー級でありながら、身長は百七十五センチ。生粋のグラップラーでありながらインファイトを得意にするという、とにかく個性派のファイターだ。
瓜子もすでに、画像でエズメラルダ選手の姿は拝見している。しかしやっぱり肉眼で目にすると、その長身が際立っていた。
あまりに長身であるために、ひょろりとして見える。首も手足も細長くて、頭だけが小さい。印象としては、オリビア選手に近かった。
ただし、オリビア選手と同様に、エズメラルダ選手も立派な骨格をしている。ひょろ長く見えるのは、手足が長くて肩幅がせまいためであるのだ。その胴体は瓜子よりも分厚くて、手足は瓜子よりも太いはずであった。
エズメラルダ選手はくっきりとした褐色の肌で、ちりちりの短い髪を金色に染めている。目が大きく、やや目尻が下がっており、どこか取りすました面持ちであった。
司会役の指示に従って、エズメラルダ選手は『ブラックスター・ドージョー』のロゴが入った黒いウェアを脱ぎ捨てる。
その下に纏っていたのは、何の変哲もないハーフトップとショートスパッツで――瓜子が想像していたよりも、さらに分厚い肉体をしている。縦に長くて分厚い胴体というのは、オリビア選手よりも宇留間千花を思い出させるプロポーションであった。
「……なんだよ、ありゃ? あれで本当に、リミットまで絞ってるのか?」
と、立松がひそかにうろんげな声をあげる。
そして、エズメラルダ選手がデジタルの体重計に足を乗せ――その数値が発表された。
その数値は、118ポンドである。
英語の苦手な瓜子にも、「3ポンド、オーバー」の言葉が聞き取れた。
立松が、「おいおい」と苛立った声をあげる。
「3ポンドって言ったら、1キロ以上もオーバーしてんじゃねえか。あいつ、何を考えてやがるんだ?」
すました顔のまま体重計を下りたエズメラルダ選手は、何事もなかったかのようにウェアを着込み始める。そして、司会役の人物が語る言葉を、ジョンが通訳してくれた。
「オーバーしたスウジがオオきいから、ゴゴにニドメのケイリョウをオコナうかどうかはホンニンとキョウギするってイってるねー。まあ、サン、ヨジカンで3ポンドもオとすのはムズカしいから、トウゼンのタイショかなー」
「そ、それじゃあ、自分との試合はどうなるんすか?」
「それも、コッチとのキョウギシダイだねー。とにかく、ウリコもケイリョウだよー」
壇上からも、瓜子を呼ぶ声が聞こえてくる。
瓜子は心も定まらないまま、立松とともに階段をのぼることになった。
(ええと、体重超過に関しても、きっちりルールがあったはずだけど……自分がミスする可能性なんて想定してなかったから、覚えてないや)
それに、《アトミック・ガールズ》においても体重超過の試合というのはほとんど存在しなかったのだ。キックの時代には相手選手が何度か超過する事態もあったが、瓜子としては規定体重など守って当たり前という考えであったのだった。
そんな瓜子の本日のウェイトは、114.4ポンドである。
《ビギニング》の規定では115ポンド、52.2キロまではOKなので、300グラムほどのゆとりをもってのパスであった。
瓜子は釈然としないまま、ウェアを着込んで壇を下りる。
その後の六名はユーリを含めて、当然のように全員が計量をパスしていた。ユーリは鮮やかなローズピンクのトライアングルビキニを披露していたので、動画配信を目にする男性陣も心から満足したことだろう。
「では、ウリコ・イカリとセコンドの方々は、こちらにお願いいたします。インタビューの前に、まずは試合が成立するかどうかを協議しなければなりませんので」
女性スタッフの案内で、瓜子の陣営は別室に招かれることになった。
心配げな顔をするユーリに笑顔を返してから、瓜子は三名のセコンド陣とともに通路に出る。瓜子のセコンドを務めてくれるのは、立松、鞠山選手、蝉川日和という顔ぶれだ。
幸いというか何というか、その場にエズメラルダ選手の姿はなかった。
さほど待たされることもなく、男性のスタッフが入室してくる。その人物も、実に落ち着き払った立ち居振る舞いであった。
「エズメラルダ・コルデイロとの協議が終了しました。あちらは、キャッチウェイトにおける対戦を希望しています」
キャッチウェイトとは、規定体重と関係なく両陣営の合議で決めたウェイトで試合を行う形式のことである。
立松はいっそう苦い顔で、「ほう」と言い捨てた。
「3ポンドもオーバーした人間が、キャッチウェイトを希望するのか。盗人猛々しいとは、このことだな」
「はい。もちろん決定権は、そちらに存在いたします。この申し出を受諾されるのでしたら、エズメラルダ・コルデイロのファイトマネーの三十パーセントがそちらに加算され……受諾されない場合は、試合中止とさせていただきます
それが、《ビギニング》の大会規定であったのだ。
ファイトマネーの加算などは念頭になかったため、瓜子も失念していたようであった。
「キャッチウェイトにしても、3ポンドのオーバーってのは如何なもんかね。たしか、超過が許される重量に関しても規定があったはずだよな?」
「はい。キャッチウェイトが認められるのは、規定体重の3パーセントの超過までです。ストロー級の規定である115ポンドの3パーセントは3.45ポンドですので、今回はぎりぎり範囲内ということになります。また、本日の再計量は取りやめられましたが、明朝の計量で規定体重の8パーセント以上の超過がありましたら、たとえそちらがキャッチウェイトでの試合を承諾しても試合は不成立ということになります」
「ふふん。前日で3パーセント、当日で8パーセントなら、日本や北米の規約とおおよそ合致してるだわね」
と、鞠山選手が不敵なる面持ちで口をはさんだ。
「ファイトマネーの三十パーセントが相手選手に加算されるってのも、《アクセル・ファイト》と同一の規約だわね。……で、試合の勝敗に関して、規約はないんだわよ?」
「そちらに関しては、これからご説明いたします」
落ち着き払った面持ちのまま、男性スタッフはそのように応じた。
「試合の勝敗にまつわる特別規約に関しても、両陣営の合意が必要となります。規定の体重を守った選手が勝利した場合のみ戦績に加算され、体重超過した選手が勝利した場合は無効試合と見なされるというのが、特別規約の内容となりますが……そちらは特別規約の適用を希望されますか?」
「だとよ。お前さんは、どう考えてる?」
仏頂面の立松にうながされて、瓜子は「ええと」と考え込む。
「つまり、自分が勝てば戦績に数えられるけど、エズメラルダ選手が勝った場合は無効試合ってことっすか? ……いえ、そんなルールは希望しません。それじゃあ、こっちのやる気が削がれるだけですから」
「ふん。それ以前に、お前さんはキャッチウェイトでも試合をしたいってんだな?」
「押忍。弥生子さんやマリア選手やオリビア選手とは、フライ級でやりあってきたんすからね。それに比べたら、1キロぐらいはどうってことありません」
すると、立松ではなく男性スタッフがたしなめるように声をあげた。
「大会規定およびウリコ・イカリとの特別契約について、再確認させていただきます。試合が中止になればファイトマネーをお支払いすることもできませんが、ブラジル滞在の経費に関しては《ビギニング》が全額負担いたします。また、同じ額のファイトマネーで後日に別の試合をマッチメイクすることが、特別契約で約束されています」
「押忍。ありがとうございます。……でも、今日までの頑張りを無駄にしたくないんすよ」
「どうせお前さんは、そう言うだろうと思ってたぜ」
と、立松が苦い顔を苦笑に変じさせた。
「ただ、ひとつだけ言っておくぞ。1キロ以上もオーバーしてるってことは、コンディション不良で体重を落とせなかったか……あるいは、途中で減量をあきらめてコンディションの調整を優先したってことだ。調子が悪いか、絶好調な上に体重も重いかっていう、両極端な結果になるわけだな」
「そうだわね。なおかつ、エズメラルダの肌艶を見る限り、コンディションはまったく悪くないんだわよ。もしもあれで最低限のドライアウトまでこなしてたら、明日はさらにウェイトが増してるんだわよ」
「押忍。それでも要するに、普段のエズメラルダ選手より1キロちょっと重いってだけの話っすよね? それぐらいのハンデは、ぶち破ってみせます」
「さすが、ちびっこ怪獣だわね。あとの判断は、本人とチーフセコンドにゆだねるだわよ」
瓜子の心は、すでに固まっている。そして立松もそれがわかっているからこそ、苦笑を浮かべているのだろう。
かくして瓜子は、体重超過したエズメラルダ選手とキャッチウェイトで試合を行うことが、ここに決定されたのだった。




