09 前日計量(上)
プレスマン道場の一行がリオデジャネイロにやってきてから、三週間近い日々が過ぎ去って――ついに、前日計量であった。
明日はもう、試合の本番である。
最初の数日を時差ボケに苦しみながら過ごした瓜子は、何だかあっという間にこの日を迎えたような心地であった。
しかし、身体が復調したのちは、満足のいく稽古をつけることができた。
すべてはプレスマン道場のチームメイトと、協力者の鞠山選手およびドミンゴ氏と――そして、稽古をともにしたシンガポール陣営の面々のおかげであった。
「こちらこそ、ウリコたちのおかげで充実した稽古を積むことができた。心から感謝している。……だそうだわよ」
前日計量に出発する直前、鞠山選手がグヴェンドリン選手のそんな言葉を通訳してくれた。
七キロのドライアウトに成功したグヴェンドリン選手は、頬のそげた顔で勇猛に笑っている。瓜子がグヴェンドリン選手のこんな姿を目にするのは、およそ八ヶ月ぶり――それこそ、《アクセル・ジャパン》の前日計量以来である。その翌日の試合ではもう水分でリカバリーしていたため、常態の逞しい姿に戻っていたのだった。
九キロも水分を抜いたエイミー選手などは、さらにとてつもない迫力になっている。彼女は彫りの深い顔立ちであるため、目もともぐっと落ちくぼんで陰影が深くなり、魅々香選手を思い出させるような面相であった。
きっとそちらの両名は、身をよじるような思いで水分を渇望しているのだろう。もとより明日の試合に向けて熱情を燃やしているところに、そんな切羽詰まった情念までもが上乗せされて、別人のようなおっかなさであった。
いっぽう、そんな苦悶とも無縁なヌール選手は相変わらずの静謐な面持ちであり、ユーリなどはにこにこ笑っている。自分あたりはその中間ぐらいの顔をさらしているのだろうなと、瓜子はそのように判じていた。
現在は午前の十時であり、すべての関係者はホテルの前庭に集結している。
そこに、送迎のリムジンバスがやってきた。この立派な車が、瓜子たちを計量の会場まで運んでくれるのだ。
「にゅふふ。この後は、どんなご馳走でも食べ放題なのだものねぇ。ユーリはいつも、試合の直前にごほうびをいただくような心地であるのです」
エイミー選手たちの耳をはばかって、ユーリがこっそりそんな言葉を囁きかけてくる。まあ、日本語であればエイミー選手たちには理解できないのだが、鞠山選手が悪戯心を発揮すると筒抜けになってしまうことは、前回のシンガポール遠征の段階から判明していた。
ともあれ、リムジンバスは出発する。
五名の選手に十五名のトレーナー陣で、合計は二十名だ。今頃は各所のホテルに同じリムジンバスが到着し、総勢で百名近い人間が同じ場所を目指しているはずであった。
(あ、でも、ブラジルの選手なんかはホテル住まいってわけでもないのかな?)
ブラジル陣営がどのような待遇であるかは、まったくの謎である。ただ、日本でも地方の選手は前乗りで上京してくるわけであるし、ブラジルは日本よりも遥かに広大であるのだ。遠方の選手は何日か前からホテルに滞在して、コンディションを整えているのかもしれなかった。
「これまではおかしな事態に陥ることもなかったが、今日は敵陣に乗り込むようなもんだからな。絶対に、単独行動はするんじゃないぞ?」
前の席に座った立松が、怖い顔でそのように告げてくる。昨晩からもう何回も聞かされた台詞である。立松のそんな気遣いをありがたく思いながら、瓜子は「押忍」と答えてみせた。
しかしそれでも、やっぱり瓜子は想像が足りていなかったようである。
二十分ばかりもかけて、計量の会場に到着すると――そこには、思いも寄らない光景が待ち受けていたのだった。
「おー、こいつは大歓迎じゃねーか」
窓の外を眺めながら、サキが皮肉っぽいつぶやきをもらす。
そこには、大勢の人々が詰めかけており――そして、リムジンバスに盛大なブーイングをぶつけていたのだった。
「これは、想定を超える騒ぎだわね。やっぱり対抗戦っていうお題目が、現地のファンをいっそうエキサイトさせてるんだわよ」
鞠山選手のふてぶてしいつぶやきに、ドミンゴ氏が「そうですね」と相槌を打つ。
「たぶん、ぼうりょくをふるうにんげんはいないとおもいますが……いちおう、せんしゅをまもるべきでしょうね」
「言われなくても、そうさせていただきますよ。おい、俺たちが壁を作るから、お前さんたちは真ん中で大人しくしてるんだぞ?」
瓜子は、「押忍」と答えるしかなかった。
その間も、窓ごしに怒号のようなブーイングがぶつけられてくる。警備のスタッフが懸命にせきとめているが、今にも進路をふさがれてしまいそうな勢いであったため、リムジンバスも徐行で入場口を目指しているのだ。
集まっている人間のおおよそは、男性だ。平均的な年齢は若そうだが、年をくった人間もいないわけではない。さらに何名かは、男に負けない迫力でがなりたてている女性の姿も見受けられた。
いったいどれだけの人数が押しかけているのかは、見当もつかない。リムジンバスの窓から見える範囲は、黒い頭で埋め尽くされているのだ。少なく見積もっても、百名は突破しているのだろうと思われた。
なんというか――とてつもない熱気である。
この時点で、もう日本の試合会場の熱気を上回っているのではないだろうか。まさか、前日計量でこのような騒ぎに見舞われようとは、瓜子も想像できていなかった。
(計量でこれだったら、試合はどうなるんだろう)
そんな風に考えると、瓜子はふつふつと胸が熱くなってきた。
決して、悪い感情ではない。ここ数年はすっかり出番がなくなっていた、瓜子の反骨精神――外部からの圧力に対抗しようという気合が、胸の奥底からわきたってきたのだった。
そんな中、リムジンバスが動きを止める。
入場口は、目の前だ。ロータリーから歩道を横切って入場する造りであったため、歩く距離はほんの数メートルであろう。
その数メートルの道のりが、警備スタッフの壁で確保されている。
リムジンバスの昇降口から建物の入場口の間にはロープが張られており、警備スタッフがその生命線を死守しているのだ。どうやら《ビギニング》も、前日計量の会場がこういった騒乱に見舞われることを予測していたようであった。
「よし。シンガポールのお人らとも共同で陣形を組むからな。ジョンの誘導で、車を降りろ」
まずは立松とユニオンMMAのトレーナー陣が車を降りて、左右と前方に扇形の壁を作る。そこに選手の五名が降りて、背後からプレスマン陣営とテンプスフギト陣営が補強する格好であった。
車を降りたことで、ブーイングの圧力が倍増する。
トレーナー陣や警備スタッフの頭上から、槍の穂先のように何本もの腕が突き出されていた。そのいくつかは親指を下に向けて、サムズダウンのジェスチャーを見せているようである。
(本当にすごいな……この人たちは、そこまで試合に熱中してるんだ)
瓜子の胸中に生まれた熱も、上昇するいっぽうだ。
ただそれも、入場口をくぐったところでひとまず収まった。警備スタッフに背中を押されるようにして歩を進めると、すぐにブーイングの響きも遠ざかっていき、別世界のような静寂と清涼なる空気が瓜子たちの五体を包んできた。
「どうも、お疲れ様です。警備のほうは万全ですので、ご心配なくお過ごしください」
と、廊下の途中で見覚えのある女性が合流した。初日と翌日に面倒を見てくれた、《ビギニング》の女性スタッフだ。廊下を行き交う人間も、半分以上はアジア人らしい容貌をしていた。
「計量の開始まであと二十分ほどですので、会場のほうでお待ちください」
そうして案内されたのは、ちょっとした体育館のような空間であった。
そこでは何十名もの人間が、思い思いの姿でくつろいでいる。ただその空間はポールにプラスチックのチェーンを繋いだキューイングの器具で二つのスペースに分けられており、その片側にブラジル陣営、もう片側にシンガポール陣営と日本陣営が割り振られていた。さらに、そのチェーンに沿うようにして警備のスタッフがずらりと立ち並んでおり、両陣営の関係者が接触しないように目を光らせていた。
そして、会場の奥側には一メートルていどの高さを持つ壇があり、そちらの背後の壁は《ビギニング》のロゴマークで埋め尽くされている。体重計やビデオカメラやマイクの設備などが整えられていることから、そちらが計量の場であることが知れた。
「ふん。今日の会場はずいぶんとオープンだな。まるでアマチュアの大会じゃねえか」
鋭い眼差しで周囲を見回しながら、立松はそんなつぶやきをもらした。
瓜子も同じ気持ちであったが、ブラジルの陣営もあてがわれたスペースでのんびりくつろいでいるので、べつだん不安は感じなかった。
「どうも。みなさん、おひさしぶりです。けっきょく今日まで、顔をあわせる機会もありませんでしたね」
と、笑顔で近づいてきたのは、渋みがった容姿をした壮年の男性――ギガント鹿児島の会長、山岡氏である。そのかたわらには他なるトレーナーと巾木選手も控えていた。
「おう、お疲れさん。そっちも無事なようで何よりだよ」
まだいくぶん気を張った顔をしている立松に、山岡氏は「ええ」と屈託なく笑う。
「ホテルとジムの往復だけなら、何も危ないことはありませんでしたね。ジムの方々も実に淡白な対応でしたが、嫌がらせを受けることもありませんでした」
「こっちも、似たような感じだな。今日のお出迎えが、一番の難儀だったぜ」
「そうですね。まあ、本番前の肩慣らしにはちょうどいいでしょう。明日は万単位のブーイングを浴びるわけですからね」
やはり山岡氏は、何事にも動じない人柄であるようだ。
いっぽう巾木選手は、ずっと火のような目でヌール選手をにらみ据えている。彼女は三ヶ月前、シンガポール大会でヌール選手に惨敗した身であるのだ。
「巾木選手も、お疲れ様です。コンディションは、如何ですか?」
瓜子が場を取りなすために声をかけると、巾木選手は仏頂面で「ふん」と鼻を鳴らした。
「おはんに心配さるっ筋合いはなかど。自分の試合だけ心配してな」
「押忍。明日は、頑張りましょう」
そういえば、巾木選手もかなりのリカバリーに取り組んでいる身であったのだ。もともと不愛想なので大きな変化は見られないものの、やはり迫力は二割増しであった。
「ところで、横嶋選手は――うわあっ!」
と、瓜子はついつい大きな声をあげてしまった。
隣のユーリが、横から覆いかぶさるようにして抱きついてきたのである。突如として甘い香りと容赦のない怪力に包まれた瓜子は、二つの意味で息が詰まってしまった。
「ど、どうしたんすか、ユーリさん? お気分でも悪いんすか?」
「お、お気分が昇天しそうなので、うり坊ちゃんを支えにさせていただいたのです」
瓜子はわけもわからないまま、可能な範囲で視線を巡らせた。
すると――視界の端に、黒い人影が浮かび上がる。
ベリーニャ選手である。
黒いパーカーにスウェットのパンツという身なりをしたベリーニャ選手が、チェーンで区切られたブラジル陣営のスペースにたたずんで、こちらを見返していたのだ。
ベリーニャ選手はゆったりと微笑みながら一礼し、そしてそのまま立ち去っていった。
ユーリは「うにゃあ」と吐息をつきながら、瓜子の身をぐいぐいと締めあげてくる。
「いきなりベル様に遭遇するだなんて、サプライズが過ぎるのです。ユーリは息の根が止まってしまいそうなのです」
「自分もユーリさんに絞め殺されそうなんすけど……でも、どうしてベリーニャ選手がこんなところにいるんでしょう?」
すると、山岡氏が笑顔でこちらに向きなおってきた。
「この場には、出場選手とセコンドに登録した人間しか入場できません。ということは……答えは、ひとつですね」
「ああ。ベリーニャ選手は、アナ・クララ選手のセコンドについたってことだろう」
立松は、苦虫を嚙み潰したような顔になっている。
いっぽうユーリは瓜子の頭に頬ずりをしながら、「うにゃにゃあ」とおかしな声をあげた。
「では、明日はベル様にエプロンサイドから試合を見られてしまうということなのですねぇ……やっぱりユーリは、昇天してしまいそうですぅ」
それがユーリの、偽らざる本心であるらしい。
立松はまだ苦々しげな面持ちであったが、瓜子としてはユーリのいっそうの躍進を願うばかりであった。




