06 吉報
翌日から、ダー・ピカ・アカデミーにおける本格的なトレーニングが開始された。
とはいえ、瓜子はまだまだ本調子ではない。稽古の初日は午後の七時過ぎにぐっすり寝入って、十時間ばかりも睡眠を取ることになったのだが、瓜子の体内時計にはまだ小さからぬ混乱が見られたのだった。
具体的には、食欲があまりわかず、日中にもふとした瞬間に睡魔がやってくる。そして、心拍数が上がり気味であり、ちょっとした稽古ですぐにスタミナが尽きてしまった。
「十二時間も時差があったら、それが普通だよ。焦る必要はないから、絶対に無理だけはするんじゃないぞ」
立松のそんな言葉を信じて、瓜子は二日目の稽古も慣らし運転で乗り越えることになった。
いっぽう、ユーリのほうはというと――稽古中に関しては、完璧すぎるぐらい完璧である。グラップリングのスパーではシンガポール陣営を圧倒して、ドミンゴ氏からも嬉々としてレッスンを受けている。今回は寝技を中心にした稽古内容であったため、ユーリはまさしく水を得た魚であった。
ただし、そんなユーリも夕食をたいらげた後は、瓜子よりも早く寝入ることになった。そうしてその日は、きっかり十二時間も眠ることになったのである。
そうして翌朝に起床すると、もう元気いっぱいになっている。あれこれ特異な体質をしたユーリは、時差ボケのあらわれ方もあまり普通ではないようであった。
プレスマン陣営の他なる六名は、それほど変調に見舞われている様子もない。まあ、立松とジョンはそうまで身体を動かしているわけではないし、サキや蝉川日和は寝技の稽古に参加していないため、体力にゆとりがあるのだろう。ただひとり、鞠山選手だけはすべてのスパーに参加しながら、まったく常と変わらない力感あふるる姿を見せていた。
「まあ、時差ボケってのは個人差が大きい上に、わたいは海外遠征に手馴れてるんだわよ。わたいの偉大さに恐れ入る必要はないから、あんたはじっくり調整に取り組むんだわよ」
鞠山選手は、そんな言葉で瓜子を励ましてくれた。
そうして迎えた、稽古の四日目――現地の日付で、六月の第一水曜日である。
午後の十時に就寝した瓜子は、午前の六時に目が覚めた。
睡眠時間は、八時間ジャストだ。今日は朝から倦怠感を覚えることもなく、きわめて快適な目覚めであった。
そしてその身は、ユーリの手足にしっかり捕獲されている。こちらのホテルに滞在してから、瓜子とユーリは毎日同じベッドで就寝しているのだ。
ユーリは昨晩も瓜子より早く寝入っていたが、まったく目覚める気配もない。なおかつ、ジムのオープンは午前の九時からであったため、このような時間に無理に起こす必要はなかった。
(でも、二度寝する気分じゃないな)
せっかく快適に目覚めたならば、このコンディションを維持したいところである。そのように思案した瓜子は、申し訳なさをこらえながらユーリに声をかけることにした。
「ユーリさん。ちょっといったん、自分だけ解放していただけますか?」
ユーリは「にゅー」と不満げな声をあげながら、いっそうの怪力で瓜子の身を締めあげてくる。あばらが軋むのを感じながら、瓜子はさらに声をあげた。
「本当にすみません。ユーリさんはまだ寝てていいですから、お願いします」
するとユーリのまぶたがしぶしぶのように持ち上げられて、色の淡い瞳が瓜子の顔を見返してくる。たちまちそこには、幸せそうな光があふれかえった。
「わぁい、うり坊ちゃんだぁ……うり坊ちゃん、だいしゅき……」
「ありがとうございます。とりあえず、起きていいっすか?」
「うにゃあ……もう朝なのだねぇ……ユーリのわがままボディは、まだまだ眠りを欲しているのですけれども……」
「ユーリさんは、寝てていいっすよ。昨日も十二時間は眠って、絶好調だったんすからね」
「むにぃ……うり坊ちゃんの温もりなくして、安楽な眠りなどは期待できないのでぃす……」
などと言いながら、ユーリは瓜子を解放したのちも瞬く間に寝入ってしまった。
やはりユーリには、睡眠が必要であるのだろう。鞠山選手の言う通り、時差ボケには個人差があるのだ。瓜子とユーリでは、解消の方法に多少の差異が生じるのだろうと思われた。
瓜子はしばらく隣のベッドに腰をかけてユーリの安らかな寝顔を見守っていたが、これでは埒が明かないと思い直して、十五分ほどで腰をあげる。そうしてユーリのやわらかな髪を撫でると、ユーリは眠ったまま「にゅふふ」と幸せそうな笑い声をこぼした。
存分に心を満たされた瓜子はベッドサイドテーブルに書き置きを残して、部屋を出る。
時間が時間であったので他の部屋は素通りして、エレベーターで一階に向かった。ひとりで屋外に出ることは禁止されていたので、とりあえずラウンジでくつろぐことにしたのだ。
するとそこには、見慣れた姿がふたつ並んでいた。
鞠山選手と、ドミンゴ氏である。二人はテーブルに向かい合って座り、モーニングティーを楽しんでいた。
「おはようございます。ずいぶんお早いですね」
「それはこっちの台詞だわね。今日は時差ボケが早起きという形で発露したんだわよ?」
「どうでしょう? 快適な目覚めだったんで、このまま稽古を開始したいなって思ったんすけど」
「あと三時間で、体調がどう変化するかだわね。まあ、くつろぎながら様子を見るだわよ」
鞠山選手が腰をずらしてくれたので、瓜子はその空いたスペースに腰を下ろすことにした。
ドミンゴ氏とのつきあいもこれで四日目であるため、その柔和な容姿にもずいぶん見慣れてきた。ただ、これまでは瓜子のほうが不調であったため、あまりプライベートで言葉を交わす機会はなかった。
「ドミンゴさんも、お疲れ様です。今さらですけど、こんな長期間にわたっておつきあいくださり、ありがとうございます」
「とんでもないです。ウリコ、ユーリ、さいのうのかたまりなので、わたし、とてもたのしいです」
と、ドミンゴ氏はにこりと笑った。
平たい顔の輪郭と口の大きさは鞠山選手に似ているが、ドミンゴ氏は目も鼻も大きいので印象はまったく違っている。ただ、人好きのする人物であることに間違いはなかった。
「でも、ウリコ、しあいをひゃくとするなら、まださんじゅうぐらいのしあがりですね。しあいのとうじつまでに、ベストコンディション、めざしましょう」
「ふふん。試合が百なら、その前日でもせいぜい八十ていどだわね。うり坊は、試合で底力を発揮するタイプなんだわよ。それでもって、ちびっこ怪獣タイムを発動させたら、百が二百に跳ねあがるだわね」
「はい。あのしゅうちゅうりょく、きょういてきです。あのしゅうちゅうりょく、じゆうにつかえたら、ウリコ、むてきです」
「幸か不幸か、任意で発動はできないっていう話だわね。まあ、それもブラフでないとは言いきれないだわけど」
「やだなぁ。今さら鞠山選手に嘘なんてつかないっすよ」
瓜子はとても穏やかな心持ちで、そのように答えた。
瓜子の心がこんなにも穏やかであるのは、きっとその場の空気に感化されてのことであろう。いつも賑やかな鞠山選手が、いつになく安らかなたたずまいなのである。いつでも眠たげな目つきやにんまりと笑う口もとなどはそのままに、鞠山選手は心からくつろいでいる様子であった。
(鞠山選手は、敬愛するお師匠さんと数年ぶりに再会できたんだもんな)
親子のように――とまでは思わないが、二人は確かに家族のような空気をつくりあげている。そしてそれは、いつでも芝居がかった言動である鞠山選手としては、きわめて珍しい姿であったのだった。
(あんまりお邪魔しちゃったら、悪いかな。でも……あたしももうちょっと、この空気にひたっていたいな)
瓜子がそのように考えていると、思わぬ第三者によってその場の空気は塗り替えられることになった。
ひょろりとした身体にTシャツとジャージのボトムだけを着込んだ、ジョンである。ドミンゴ氏に負けないぐらい柔和な光をたたえた目が、瓜子の姿をとらえて明るく輝いた。
「オハヨー。ウリコも、もうオきてたんだねー。ちょっとおジャマしてもいいかなー?」
「押忍。おはようございます。ジョン先生も、早いお目覚めでしたね」
「ウン。ボクもようやく、ジサぼけがオサマったかなー。……それより、ウリコにハナシがあるんだよねー」
鞠山選手とドミンゴ氏にも笑顔で頭を下げてから、ジョンは瓜子の向かいに腰を下ろした。
「さっきノートパソコンのチェックをしてみたら、シューイチからメールがトドいてたんだよー。やっと《アクセル・ファイト》とのハナシがまとまったんだってさー」
修市とは、篠江会長のファーストネームである。
安らかな気分であった瓜子は、一気に背筋をのばすことになった。
「ア、《アクセル・ファイト》との話っていうと……メイさんの正式契約に関してですか?」
二週間と少し前にハンブルク大会を終えてから、《アクセル・ファイト》とは水面下で契約交渉の話が進められているという話であったのだ。しかし、瓜子たちが日本を発つ段に至っても交渉はまとまらず、瓜子としては唯一の心残りとなっていたのだった。
「ウン。シューイチは、けっこうツヨキでファイトマネーをコウショウしてたらしくてさー。メイは《アクセル・ファイト》でサンシアイレンゾクKOショウリだったし、ウリコとユーリは《ビギニング》でダイカツヤクしてるからねー。あんまりアツカいがヒクいようだったら、《ビギニング》にクラガえするぞーってシュチョウしてたみたいだよー」
「ええ? でも、メイさんはお金に困ってませんし、目的はあくまで《アクセル・ファイト》の王者になることだったでしょう? ……ていうか、それでけっきょくどうなったんすか?」
「ウン。とりあえず、モクテキのガクにタっしたってさー。……キノウヅけで、セイシキケイヤクがムスばれたみたいだよー」
瓜子は瞬時硬直してから、ソファの上で脱力することになった。
そうして、胸の内側がどんどん熱くなっていき――その熱が、目もとにまでのぼってくる。それを懸命にこらえながら、瓜子は笑ってみせた。
「ついに、《アクセル・ファイト》との正式契約が決まったんすね。まあ、メイさんの実力を考えれば、当然の話っすけど……二週間も音沙汰がなかったから、ちょっと心配だったっすよ」
「ウン。メイはファイトマネーにムカンシンだったけど、シューイチとしてはジツリョクにミアったガクをヨウキュウするべきだっていうホウシンだったからねー。もちろんファイトマネーのコウショウにシッパイしても、メイのイコウをソンチョウしてケイヤクしただろうけど、セイコウしたんならベストのケッカだねー」
そう言って、ジョンはにこりと微笑んだ。
「それで、メイからウリコにデンゴンがあるってよー」
「え? メ、メイさんが、なんて言ってたんすか?」
「ウン。……おたがいガンバろう、だってさー」
そんな当たり前の言葉を聞かされただけで、瓜子の涙腺は決壊してしまった。
こらえにこらえていたものが、まぶたの裏側からあふれかえる。それを止める手立ては、もはや存在しなかった。
「ふん。電話もパソコンもあるのに、わざわざ伝言にする意味が謎だわね」
そんな風に言いながら、鞠山選手は丸っこい拳で瓜子の肩をぐりぐりと圧迫してくる。
それはユーリやサキともまた異なる、鞠山選手らしい力加減であり――それがまた、瓜子にたくさんの涙をこぼさせたのだった。




