05 結束
「プレスマン陣営の力量には、心から感服させられた。……だそうだわよ」
汗だくの顔でにんまり笑いながら、鞠山選手がそのように通訳してくれた。
そんなコメントを発したのは、ヌール選手のトレーナーのひとりだ。とても柔和な面立ちをした壮年の男性で、どうやらこちらがヌール選手の所属するドージョー・テンプスフギトの道場主であるようであった。
「ユーリ選手や鞠山選手の実力は想像以上だったし、ドミンゴ氏に至っては達人の域に達しているように思える。ブラジルの地でドミンゴ氏のような熟練者に稽古をつけていただけるのは、光栄な限りだ。……だそうだわよ。まあ、至極順当な評価だわね」
「ドミンゴさんに関しては、俺も同様だよ。パワー抜きで桃園さんがこうまでやりこめられるのを見たのは、ほとんど初めてのことだからな」
立松はそのように語っていたし、ユーリはおひさまのように瞳を輝かせていた。ユーリは寝技の技量において鞠山選手とほぼ同格であり、ドミンゴ氏はそれを上回る実力であったのだ。そして何より驚かされるのは、ドミンゴ氏がユーリよりも小柄であることであった。
ドミンゴ氏は身長百六十センチていどで、体重も六十キロ以下だろう。つまり、バンタム級であるユーリやエイミー選手はもちろん、まだウェイトを落としきっていないグヴェンドリン選手とさほど変わらない体格であるのだ。それで彼は、パワーではなくテクニックでユーリや鞠山選手を圧倒できるのだった。
とはいえ、ドミンゴ氏は誰が相手であっても、むやみにタップを奪おうとしなかった。おおよそは自ら下になって、自由に相手を動かそうとするのだ。手足の短さを考えると、その技量は卯月選手をも上回っているのだろうと思われた。
グヴェンドリン選手やエイミー選手もそのトレーナー陣も、誰もが感服の眼差しでドミンゴ氏の笑顔を見守っている。もうひとつ特筆するべき点として、ドミンゴ氏は五十路を越える年齢でありながら、現役選手に負けないぐらいのスタミナを有していた。
「わたしも、シンガポールのみなさんのじつりょく、おどろきました。かのじょたちなら、ブラジルのきょうごうがあいてでも、いいしあい、できるでしょう」
日本語でそのように言ってから、ドミンゴ氏は英語でも同じ言葉を繰り返した。ドミンゴ氏もまた、鞠山選手と同様のトリリンガルであったのだ。
「それじゃあお次は、立ち技だな。猪狩とサキは明日からのお楽しみとして、それ以外の力量を体感していただくか」
立松の指示で、立ち技のサーキットに臨むメンバーが防具を装着する。ドミンゴ氏が外れて、蝉川日和が加わるのだ。立ち技限定のサーキットであれば、キック専門の蝉川日和でもお役に立てるはずであった。
その場において、ヌール選手だけはボディプロテクターを装着しなかった。ユーリは手加減できないので危険であると告げたのだが、それならば自力で安全を心がけると主張したのだ。
そうして、いざスパーを開始してみると――ヌール選手は宣言通り、安全策を取った。軽やかなステップワークおよび的確な前蹴りと関節蹴りで、ユーリを近づかせなかったのだ。もちろんユーリががむしゃらに突っ込めばその限りではなかったが、もちろん試合前の大事な時期にユーリがそのような真似に及ぶこともなかった。
そして、キック畑の蝉川日和も同様である。スパーにおける関節蹴りというのは怪我を招かないように加減をするのが鉄則であったが、ヌール選手はタイミングが秀逸であるため、真っ直ぐの突進を売りにする蝉川日和もまんまと動きを止められてしまった。
そんな中、鞠山選手だけは軽妙なるステップワークでヌール選手を翻弄することができた。ヌール選手もどちらかというと前後の動きを得意にしており、こうまでぴょこぴょこと動き回るアウトファイターには免疫がなかったらしい。自分の攻撃を当てることはできず、鞠山選手の重いローを何度となくくらうことになった。
「ハナコのジツリョクはホンモノだ、たとえコウシキのルールでもなかなかカちスジがミえないってイってるねー」
鞠山選手が語ると自画自賛になってしまうためか、このたびはジョンがそのように通訳してくれた。ヌール選手自身は静謐なる無表情であったが、トレーナー陣は大いに感銘を受けたようだ。
「どうやらヌール選手ってのは、エイミー選手やグヴェンドリン選手を総合力で上回るっていう評価みたいだからな。それを圧倒できるこっちの三人は、本当に大したもんだよ」
と、立松は日本語でこっそりそのように告げてきた。
「それで明日からはお前さんとサキも、同じぐらい感心されることになるだろう。だから今日は、しっかり休んでおくんだぞ」
「押忍。こんな稽古を見せつけられるだけで、心拍数は上がっちゃいますけどね」
しかし瓜子は、自制した。これだけ時間が経っても手足の熱っぽさがひかず、そしてじっとりとした倦怠感が五体にのしかかってきたのだ。瓜子にはあまり覚えのない感覚であったが、これは眠るべき時間に眠っていない気怠さなのだろうと思われた。
(あたしは普段から、夜ふかしすることもないもんなぁ)
瓜子の就寝時間はおおよそ午後の十一時半から午前0時あたりで、午前一時まで起きていることは年に数えるぐらいしかない。そうして規則正しい生活に身を置いているがゆえに、時差ボケの影響も顕著であるのかもしれなかった。
まあ、それはユーリも同様であるのだが、あちらは熱情が体内時計を圧倒してしまうのだろう。ドミンゴ氏にヌール選手という新たな寝技巧者と邂逅したユーリは、心から幸せそうな面持ちであった。
(あとは、もしかして……五月の試合が影響したりもしてるのかな)
八名も参じたプレスマン陣営の中で瓜子とサキだけが不調を訴えているというのは、何やら象徴的である。瓜子もサキも試合のダメージは引きずっていないはずだが、まだあの死力を振り絞った試合から三週間ていどしか経過していないのだ。普段の稽古では支障が出ないていどの疲労がどこかに残されていても、おかしくはないように思われた。
そうしてその日の稽古は、粛々と進められていき――気づけば、午後の六時である。
プレスマン陣営とともに、シンガポール陣営もそこで稽古を切り上げることになった。彼女たちは朝から稽古を始めていたし、まだ滞在四日目であるので、無理は控えようという方針であるようであった。
「シンガポールのみなさんも、夕食はホテルでとるそうだ。これから三週間のおつきあいなんだから、親睦を深めさせていただこう。……もちろん、眠くなったらすぐ寝室に向かってかまわんからな」
「押忍。でもまずは、カロリーの補給っすね」
正直に言って、瓜子は身体を動かしていないので、あまり食欲もない。しかしまた、体内時計を修正するのに規則正しい食事というのは必須であるのだ。多少は腹に入れておかないと、復調はいっそう遠ざかるはずだった。
そうしてみんなで更衣室に向かってみると、そちらには何名かの地元選手の姿があった。これから夜間の稽古に取り組む面々であろう。とりたてて敵意を向けられることはなく、中には「ハイ」と挨拶をしてくる者もあったが、それ以上の交流を求められることはなかった。ただ、ユーリの美貌と色香にこっそり驚嘆の表情を垣間見せるばかりである。
「おそらく、上から交流を禁止されてるんだわね。他の連中が親筋のヴァーモスとやりあうんだから、まあ当然の措置だわよ」
鞠山選手はそのように言っていたが、瓜子はべつだん気にならなかった。稽古相手はシンガポール陣営だけで十分であるし、おかしな嫌がらせさえ受けなければ文句を言う筋合いでもないだろう。瓜子とて、同じ立場であれば同じように振る舞うしかないのではないかと思われた。
(まあ、同じ立場っていうのは、ちょっと想像しにくいけど……たとえば、赤星道場と対抗戦を行う外国人選手を、出稽古で受け入れるようなもんだろうからな)
瓜子がぼんやりそのように考えているとグヴェンドリン選手が顔を寄せてきて、鞠山選手がその言葉を通訳してくれた。
「ウリコはとても疲れているように見える。自分も時差ボケから回復するのに二日はかかったので、無理をせずにコンディションを整えてほしい。……だそうだわよ」
「押忍。お気遣いありがとうございます」
瓜子が笑顔を返すと、グヴェンドリン選手もはにかむように笑ってくれた。
その後は全陣営が一丸となって、ホテルに帰還だ。
あたりはすっかり夜らしくなっているが、なかなか栄えた場所であるために大きな不安は生じない。往来の人々はじろじろとうろんげに目を向けてくるものの、このあたりではあまり見かけないアジア人がこれだけ群れ集っていたら注目を集めて然りであろう。これもまた逆の立場であれば、日本でも同様であるはずであった。
やがてホテルに到着したならば、手荷物を寝室に置いたのち、レストランで再集合する。
まだ六時半ていどであったので、レストランもそこまで混みあっていない。そして瓜子とユーリはまた鞠山選手を通訳につけられて、シンガポールの女子選手たちとテーブルを囲むことになった。
「あらためて、ウリコたちと再会できて嬉しい。ランズはすごく羨ましがっていた。……だそうだわよ」
「自分も、すごく嬉しいです。ランズ選手もお元気ですか?」
「ランズも来月本国で試合なので、過酷なトレーニングに励んでいる。あと、『トライ・アングル』のライブDVDは最高であったと伝えてほしいと伝言を頼まれていた。もちろん自分も、同じ気持ちだ。……だそうだわよ」
「わぁい。どうもありがとうございますですぅ」
ユーリがにっこり笑顔を返すと、グヴェンドリン選手も嬉しそうに微笑んだ。
エイミー選手やヌール選手が寡黙であるため、シンガポール陣営で口を開くのはもっぱらグヴェンドリン選手だ。エイミー選手はグヴェンドリン選手と同門であるので心配は無用であろうが、唯一違う道場の所属であるヌール選手はいささか気になるところであった。
「あの、もともとみなさんはヌール選手と交流があったんすか?」
「いや。《ビギニング》の試合会場で顔をあわせるぐらいで、交流らしい交流はなかった。エイミーは『アクセル・ロード』の合宿所でも稽古をともにしていたが、プライベートでは口をきく機会もなかったらしい。……だそうだわよ」
「そうっすか。自分たちも挨拶をさせていただくのは初めてなんで、仲良くしていただけたら嬉しいです」
鞠山選手がその言葉を通訳すると、ヌール選手は静謐な表情のまま低い声音で何かを語った。
「経費の問題から、自分はこのように早い時期からブラジルに滞在するべきか迷っていた。でも、こんなに優れた技術を持つ選手と稽古をともにすることができて、とても喜ばしく思っている。あなたとレッカーの試合も素晴らしかったので、立ち技のスパーリングを楽しみにしている。……だそうだわよ」
「押忍。自分も楽しみにしています。……鬼沢選手や沙羅選手とのおつきあいをお伝えするってのは、余計な話っすかね?」
「それを判断できるのは、本人だけだわね」
と、鞠山選手は流暢な英語で何かをまくしたてた。
ヌール選手は無表情のままであったが、訥々と何か答えてくれる。
「自分と対戦した当時のイツキ・オニザワはまだまだ粗さが目立っていたが、実力の片鱗は感じていた。彼女が日本で活躍していると聞いて、喜ばしく思っている。……シャラ・カモノハシは、掛け値なしに強かった。彼女がMMAから遠ざかっていると聞いて、とても残念に思っている。……だそうだわよ」
「はい。そういう話は、グヴェンドリン選手たちがお伝えしてくれたんすかね?」
「どうやら、そのようだわね。ヌールは清貧の生活に身を置いているから、わざわざ日本からアトミックのDVDを取り寄せたりはしないだろうだわよ」
ヌール選手はファイターとして生きながら、家族を養っているという話であったのだ。裕福な育ちの多いシンガポールのファイターの中で、彼女は少数派であった。
(まあそれは、あたしの知る限りではって話だけどさ)
少なくとも、『アクセル・ロード』に選出された八名の中で、裕福ならぬ育ちであったのはヌール選手ただひとりであった。それが彼女に、独特の雰囲気を与えているのかもしれなかった。
「ヌール選手は、寝技がお上手ですよねぇ。どうか明日からもよろしくお願いいたしますぅ」
ユーリが笑顔でそのように告げて、鞠山選手がそれを訳すと、ヌール選手はリスか何かのように小首を傾げた。
「自分はあなたから一本も取ることができなかった。そちらにはハナコ・マリヤマとドミンゴ・エステベスがそろっているのだから、自分などは何の役にも立てないのではないかと思う。……だそうだわよ」
「そんなことないですよぉ。やっぱり柔術っていうのは、どこでお稽古したかでスタイルが変わってくるみたいですからねぇ。ヌール選手は鞠山選手やドミンゴ先生と違うスタイルなので、とても刺激的ですぅ」
「そう言うあなたこそ、柔術の技に織り込んだレスリングの技術が素晴らしいように思う。プレスマン道場にはレスリングの熟練者がいるようで、とても羨ましい。しかもあなたは立ち技の技術も独特なので、唯一無二のスタイルを築いているように感じられる。あなたの試合はとてもエキサイティングで、自分は見るたびに心を震わせている。……だそうだわよ」
鞠山選手は皮肉っぽく口の端っこを上げ、ユーリは気恥ずかしそうに「うにゃあ」と頭を抱え込む。そして、グヴェンドリン選手が楽しそうに口を開いた。
「ヌールがこんなに語るのを初めて聞いた。でも、自分と同じ気持ちを抱いていることを知って、嬉しく思っている。ウリコがどのような評価になるかも楽しみだ。……だそうだわよ」
「あはは。自分も嬉しいし、楽しいです。同じ目的のために頑張るチームメイトとして、みなさんは理想的ですね」
瓜子がそのように答えると、エイミー選手が引き締まった面持ちのまま発言した。
「自分もユーリやウリコやヌールと同じ場所で最終調整に取り組めることを、心から得難く思っている。自分たちは運営陣から当て馬と見なされているので、何としてでも結果を出そうというつもりでいる。……だそうだわよ」
「当て馬っすか。スチットさんだったら、そうまで選手をないがしろにすることはないように思うんすけど……」
瓜子がひかえめに反論して、鞠山選手がそれを通訳すると、エイミー選手は同じような表情のまま目もとを和ませた。
「自分が言っているのは、対戦相手の候補を挙げた《V・G・C》の運営陣のことだ。彼らはこちらの王者三名に花を持たせる代わりに、それ以外の四名は全員打ち倒そうという目論見でいる。しかしおそらくスチット代表は、日本陣営を含む十二名が全勝することを期待しているのだろうと思う。……だそうだわよ」
「あはは。全勝ってのは、すごい意気込みですね。でも、自分もそのつもりっすよ」
「ああ。自分も、心強く思っている。……だそうだわよ」
エイミー選手の言葉に、グヴェンドリン選手も力強くうなずく。そんな彼女たちの熱情が、瓜子にはとても心地好かった。
しかし、食事を進めていくと、どんどんまぶたが重くなってくる。胃腸に血液を持っていかれて、何度目かの睡魔が舞い降りてきたようだ。
そして、隣のユーリがガシャンと皿を鳴らした。
瓜子が振り返ると、ユーリは料理を口に運びながら、うとうとと船を漕いでいる。稽古中は元気いっぱいであったユーリも、ついに限界がやってきたようであった。
「二人は、とても眠そうだ。食べ終わったら、すぐ寝室に向かってほしい。……だそうだわよ」
「押忍。……せっかくみなさんと再会できたのに、どうもすみません」
「何も謝罪の必要はない。これから三週間も同じホテルで過ごせることを、心から楽しみにしている。……だそうだわよ」
瓜子が眠気をこらえて視線を巡らせると、グヴェンドリン選手はにこやかな表情で、エイミー選手は目もとだけで微笑み、ヌール選手は静謐な無表情であった。




