04 日星連合軍
「みんな元気そうで嬉しい。これから三週間よろしくお願いいたします。……だそうだわよ」
例によって、グヴェンドリン選手の英語を通訳してくれるのは鞠山選手の役割であった。
グヴェンドリン選手に出迎えられたプレスマン陣営の一行は、さらに歩を進めてシンガポールの陣営と合流する。そちらは三名の選手に九名のトレーナーという顔ぶれであった。
このたびのブラジル大会には《ビギニング》陣営として、シンガポールの選手が八名と日本の選手が四名参戦する。その内、シンガポールからは三名、日本からは二名が、同じ場所で最終調整に取り組むのだ。横嶋選手や巾木選手は、別なるジムで別なる選手たちとともに汗をかいているはずであった。
(こんな人たちと一緒に稽古できたら、心強い限りだよな)
そんな風に考えながら、瓜子は三名の女子選手を検分させていただいた。
瓜子がもっとも懇意にさせてもらっているのは、シンガポール大会でお世話になったグヴェンドリン選手だ。瓜子にとっては《アクセル・ジャパン》で雌雄を決した相手であるが、グヴェンドリン選手は何のわだかまりも抱かずに好意と厚意を向けてくれている。身長は百六十二センチで、ひとつ上のフライ級と見まごうほど逞しくて均整の取れた体格をした、とても誠実な人物であった。
そしてもう一名、バンタム級のエイミー選手にはユーリが大変お世話になっている。しかもこちらは『アクセル・ロード』と《ビギニング》日本大会でユーリと二度も対戦していながら、やはり純然たる厚意を抱いてくれていた。
グヴェンドリン選手よりも不愛想で、なかなか表情を崩すこともないが、誠実さではまったく負けていないだろう。身長は百六十八センチで、グヴェンドリン選手よりもひと回り大きな体格をしており、マレーの血が入っているために彫りが深い顔立ちで、沈着な立ち居振る舞いの裏側に熱いを思いを隠した人物であった。
最後の一名は初めて間近から対面するが、試合映像ではお馴染みのヌール選手である。かつての『アクセル・ロード』では鬼沢選手を下し、沙羅選手に敗北して、三月のシンガポール大会では巾木選手に勝利した、フライ級の強豪選手だ。
こちらはむしろグヴェンドリン選手よりもほっそりしているぐらいで、身長は百六十一センチ。生粋のマレー系で浅黒い肌をしており、ちょっと幼げな顔立ちで、鹿のように穏やかな眼差しをしている。かねがね瓜子は、このヌール選手にベリーニャ選手と似た雰囲気を感じていた。
「あんたとヌールは『アクセル・ロード』と《ビギニング》で二回顔をあわせてるんだわよ。何か挨拶はないんだわよ?」
ジョンがシンガポールのトレーナー陣と挨拶を交わしている間に、鞠山選手がユーリへと呼びかける。ユーリは純白の頭を引っかき回しながら、「うにゃあ」と声をあげた。
「顔をあわせたと言っても、ご挨拶をしたことはありませんので……でもでも、ヌール選手のグラウンドテクニックには前々からときめいておりましたぁ」
「そんな知性の欠片もない物言いは、通訳する気も失せるだわね」
そんな悪態をつきながら、鞠山選手は親切に通訳してくれる。
すると、ヌール選手は穏やかに光る目でユーリを見返しながら、それに答えた。
「自分こそ、あなたと稽古をご一緒できる日を楽しみにしていた、だそうだわよ。……ん? なんだわよ?」
ヌール選手がさらに言葉を重ねたため、鞠山選手が耳を傾ける。そしてその顔が、にんまりと満足げな笑みをたたえた。
「ヌールはエイミーたちからプレスマン陣営の評判を聞き及んでいたので、わたいとの稽古にも期待していたそうだわよ。愛想はないけど、愛くるしい娘っ子だわね」
「あはは。これでみなさん、柔術対策はばっちりですね」
「とはいえ、柔術系の選手を相手取るのはあんたたちとヌールだけなんだわよ。エイミーとグヴェンドリンが相手取るのは、柔術系でもルタ系でもない中立ジムのオールラウンダーなんだわよ」
「へえ。ブラジルにも、柔術系やルタ系じゃないジムなんてのもあるんすか」
「それは単に派閥の問題で、いまやルタ系でも柔術を学んでるし、柔術系でもムエタイを学んでるんだわよ。柔術もルタ・リーブリもMMAのためにトレーニングを積んでるんだから、それが自然な帰結なんだわよ。……ただ、あんたとピンク頭が相手取るのが、たまたま生粋のグラップラーってだけのことだわね」
「押忍。自分にとっても派閥なんてのは関係ないので、対戦相手の対策に集中します」
すると、ジョンの通訳を聞いていた立松がこちらを振り返ってきた。
「こっちで稽古のプランを立てるから、お前さんがたはウォームアップを始めてくれ。普段以上に入念に、くれぐれも怪我のないようにな」
瓜子は「押忍」と答えてから、ウォームアップを開始した。
ユーリ、サキ、蝉川日和、鞠山選手――さらには、ドミンゴ氏もそれに加わる。ドミンゴ氏は口頭ばかりでなく、実践でも鍛えてくれるのだという話であった。
シンガポール陣営も、稽古を再開させる。階級の異なる三名に何名かのトレーナー陣を加えて、寝技のサーキットに励むようだ。それを横目に、また鞠山選手が「ふふん」と鼻を鳴らした。
「おそらく今回のイベントは、《ビギニング》と《V・G・C》の運営陣の入念な協議でマッチメイクが決められたんだわよ。対抗戦がどちらかの惨敗で終わると看板に傷がつくから、戦績が半々になるように調整を施したわけだわね。……つまり、もっとも過酷な戦いに挑むのは、《ビギニング》でタイトルを持っていない四名なんだわよ」
今回のブラジル大会に出場する《ビギニング》の陣営は、三つのグループに分けることができる。すなわち、《ビギニング》の王者と、王者ならぬ選手と、そして日本人選手だ。その三つのグループから、各階級の四名ずつが出場するという編成なのである。
その中で、メインイベントだけは《ビギニング》と《V・G・C》の王者対決であるが、残る三名の王者には格下と見なされる選手がぶつけられ、王者ならぬ四名には格上と見なされる選手がぶつけられるらしい。
「ただし、そんな計算通りにいかないのが、試合ってもんなんだわよ。格下と見なされた選手は番付をひっくり返そうと虎視眈々なんだわから、けっきょく格上の選手も気は抜けないんだわよ。どんな結果になるのか、楽しみなところだわね」
「ほへー。じゃ、猪狩さんたち日本人選手はどういう扱いなんスか?」
「日本人選手は外国人選手との対戦経験が少ないから、おおよそ未知数あつかいだわね。まあ、相手の戦績を見る限り、強敵であることに間違いはないんだわよ」
「それなら、よかったッスねー。ブラジルくんだりまで来て格下の相手をぶつけられるなんて、なんかつまんないッスもん」
「おめーもたいがい、ドM気質だなー。ちっとはアタシを見習いやがれ」
「またまたー。サキさんだって、相手が強いほうが燃えるッスよねー? だから、猪狩さんのタイトルに挑戦したんでしょう?」
「うるせーなー。左足首の疼くような話を蒸し返すんじゃねーよ」
呑気に語らう鞠山選手たちの言葉を聞きながら、瓜子はウォームアップに集中した。まだいくらも身体を動かさない内から、心拍数が上がり気味であるように感じられたのだ。やはり瓜子の肉体は、稽古ではなく休息を求めている気配が濃厚であった。
いっぽうラッシュガードの姿になったユーリは、嬉々としてストレッチに励んでいる。その目はもともと眠たげにとろんとしているので、眠気に見舞われているかどうかも判然としない。ただその起伏の激しい肢体からは、いつも通りの生命力がみなぎっているように感じられてならなかった。
「……よし。ダメだこりゃ」
と、雑談しながら身体を動かしていたサキが、ふいに身を起こす。
「立松っつぁん。わりーけど、アタシはギブアップだ。今日の肉体労働は免除していただくことにするわ」
「うん? どうした? 時差ボケの影響か?」
「ああ。カラダが今は午前様だって見なして、まともに動かねーや。こんな状態でこの怪獣どもと取っ組み合ってたら、こっちがぶっ壊されちまうからなー」
「そうか。お前さんの潔さと判断力は、心強い限りだよ」
立松は真剣な面持ちでうなずき、瓜子たちを見回してきた。
「最初の内は、見極めが肝心だ。他に、調子の出ないやつはいるか?」
「ユーリは、万全なのですぅ」
「わたいもホテルで仮眠を取ったんで、今のところは問題なしだわね」
「あたしはちょっと眠てーッスけど、調子は悪くないッスよー」
そんな言葉を聞かされた瓜子はいくぶん迷ってから、正直に申告した。
「自分はちょっと、心拍数が上がってます。ウォームアップとは関係なしに、手足が熱いように感じるんすよね」
「そうか。ちょっと手を出してみろ」
瓜子の手を握った立松は、いっそう真剣な面持ちで「ああ」とうなずいた。
「確かにちょっと、体温も上がってるな。頭のほうは、どんな感じだ?」
「身体を動かしたら眠気は消えましたけど、まだちょっとぼんやりしてる感じっすね」
「そうか。ここで無理をしたら、故障しかねない。今日は外れて、サキと二人で軽く身体を動かしておけ。どうしても眠くなったら、四十分だけ仮眠しろ。……サキ、頼んだぞ」
ということで、瓜子とサキは輪から外れることになった。
瓜子としては無念の限りだが、こういう状況がありえることは事前に念入りに聞かされていたのだ。初日に無理をしてコンディションの調整に失敗することだけは、なんとしてでも回避しなければならないのだった。
「うり坊ちゃん、大丈夫? ずっとねむねむなお目々をしていたので、ユーリも心配していたのです」
と、おあずけをくらったゴールデンリトリバーのような面持ちで、ユーリが呼びかけてくる。瓜子は笑顔で、「押忍」と答えてみせた。
「明日のために、今日はおやすみをいただきます。ユーリさんも、無理しないでくださいね?」
「うみゅ。はしゃぎすぎないように気をつけるのです」
瓜子の笑顔に安心したのか、ユーリもやわらかな微笑みを取り戻す。
そうしてこちらのウォームアップが完了すると、スパーに励んでいたグヴェンドリン選手たちもインターバルの時間となった。そちらの三名は、誰もが万全のコンディションであるようだ。
「シンガポールのみなさんは、三日前から前乗りしてたんだとよ。さすが、気合が入ってるな」
そんな風に言ってから、立松は瓜子とサキを除く面々を見回した。
「ヌール選手とドミンゴさんはこっちにとっても初顔なんで、まずは全員で寝技のサーキットに取り組んでもらうことにした。蝉川もいったん外れて、タイムキーパーを受け持ってくれ。一ラウンド三分、インターバル三十秒で、合計五ラウンドのサーキットだ。膝立ちの姿勢からスタートで、ヒールホールドと膝十字は禁止。桃園さんは、くれぐれも無理のないようにな」
サーキットに参加するのは、ユーリ、鞠山選手、ドミンゴ氏と、シンガポール陣営の三名だ。こちらの陣営はヌール選手、あちらの陣営はドミンゴ氏を筆頭とする三名の実力を再確認するための小手調べである。瓜子とサキが抜けたために、全員が文句なしの寝技巧者であった。
ユーリはエイミー選手、鞠山選手はヌール選手、ドミンゴ氏はグヴェンドリン選手と向かい合う。ユニオンMMAのトレーナー陣も前回の滞在時には日本陣営のトレーニングに関与していなかったので、とても興味深そうにそのさまを見守っていた。
「それじゃあ、スタートッス」
蝉川日和の合図で、寝技のスパーが開始される。
ユーリはエイミー選手の鋭いタックルで、呆気なく上を取られてしまった。
しかし、ユーリの本領はここからだ。ユーリは機敏にフルガードのポジションを確保すると、すぐさまヒップエスケープで上を取り返した。
いっぽう鞠山選手は膝立ちでもぴょこんとサイドに移動してヌール選手に飛びつき、体重を浴びせて上を確保する。こちらは最初からサイドポジションで、有利に勝負を進めていった。
そして瓜子も初めて目にするドミンゴ氏は、グヴェンドリン選手の腕をつかむや自ら背後に倒れ込み、両足で胴体をくわえこむ。下にはなったがパウンドのないグラップリングでは有利にもなる、ガードポジションだ。
そうしてスパーの立ち上がりは三者三様であったものの、その後はプレスマン陣営が圧倒することになった。ユーリや鞠山選手はもちろん、ドミンゴ氏もそれを上回るほどの力量であったのだ。なおかつドミンゴ氏は無理にタップを奪おうとはせずに、下からグヴェンドリン選手を泳がせつつ、無言のままレッスンをしているような風情であった。
(さすが、鞠山選手のお師匠ってのは伊達じゃないな)
ドミンゴ氏は男性だが、身長や体重の数値はグヴェンドリン選手と大差ないだろう。そして、グヴェンドリン選手がどれだけのグラウンドテクニックを持っているかは、瓜子の身にも刻みつけられていたが――ドミンゴ氏との力量差は、明白であった。グヴェンドリン選手が正しく動けるように下から導きつつ、いざ優位なポジションが固まりそうになるとするりと逃げ出して、また次の指導に移行するのだ。シンガポールのトップファイターであるグヴェンドリン選手が、まるきり新弟子のような扱いであった。
そのかたわらで、ユーリと鞠山選手は思うさま躍動している。こちらは全力でスパーに取り組み、三十秒も経過する頃には最初のタップを奪っていた。
(でもやっぱり、ヌール選手もかなりの実力だな)
ヌール選手は、柔術ベースのグラップラーであるのだ。鞠山選手が相手では分が悪いものの、しっかりとした地力の感じられる動きであった。
少なくとも、合宿稽古でここまで鞠山選手に対抗できるのは、ユーリぐらいしか存在しないだろう。多賀崎選手や香田選手よりも、その動きは的確であるように見えたし――最初のタップを奪われて以降は、なかなか有利な展開を許さなかった。
(ヌール選手はきっと朝から稽古を始めていて、もともとスタミナも残り少ないんだろうしな。それを差し引いたら……弥生子さんや沙羅選手以上かもしれない)
瓜子は、身体が疼いてしまう。
すると、隣のサキがぺしんと頭を引っぱたいてきた。
「大人しくしてろよ、ちびタコ。明日になったら、好きなだけタップを奪われ放題だからなー」
「押忍。サキさんがいてくれたら、寂しくはないっすよ」
「アタシをハーレムに取り込もうとするんじゃねーよ」
と、今度は拳でぐりぐりとこめかみを圧迫されてしまう。
そんな中、ユーリたちはとても楽しそうに、ブラジル初日の稽古を堪能していたのだった。




